2024年の投稿[19件]
日研
押しつけられた唇は甘酸っぱいレモン味では全然なくって、あれは都市伝説だったんだなあと妙に冴えた頭で翔陽はおもった。
唇に触れているのは研磨の唇で、それは湿っていて柔く、かすかに汗の匂いがした。不快さは感じず、むしろはじめての感触と温度に、心地好ささえおぼえた。
金色の髪の毛が流れて頬を滑る。顔が離れる。研磨はいつもと変わらない表情でこちらを見ていた。大きな目が翔陽を捕まえる。まるで、離さないよとでもいうような力強いまなざしで。
「けんま、」
翔陽が口を開くのと同じタイミングで、背後から「研磨!」と呼ぶ声がした。研磨越しに視線を送ると、黒尾が右手を大きく挙げていた。研磨は、しかしふり返らずにじっと翔陽を見つめている。それがあんまり強い視線だったので、先ほどの唐突なキスのことなど忘れてしまいそうになる。あれ、おれたち今、きっ、キス……したよな? 研磨の唇とおれの唇が、くっついた、よな? くるくると思考が回るにつれ、頭は次第に混乱してくる。
「研磨、呼んでる、黒尾さん、」
「うん。いい」
「いいって、……」
とまどう翔陽に追い打ちをかけるように、研磨は目を細めて言った。
「翔陽、ファーストキス? だよね?」
「へぁっ?!」
図星をつかれて顔をまっ赤にさせると、研磨はくすくすと笑った。いたずらを成功させたこどもみたいな、無邪気な笑いかただった。研磨もこんなふうに笑うことがあるのかと、翔陽ははじめて知った。
まだ顔を合わせて間もないから、知らないところなんてたくさんあってあたりまえなのだけれど、今まで見てきた研磨からは想像ができないほど愛くるしい笑顔に、いっとき、見惚れた。
「けっ、研磨もだろ……っ!」
ん、と喉を鳴らして研磨は首を傾げた。そのようすに、翔陽は不安になる。
「まさかちがうとか?!」
「んー……、どうでしょうね」
「けっ、研磨サン……!」
勘弁してくれよ、と項垂れる翔陽を見て、研磨はまたくすくすと笑う。からかわれていることはわかっていたけれど、認めてしまうととても、とても悔しい。
夕日がふたりの輪郭をあたためていた。五月の夕暮れ、日は少しずつ永くなって、足もとに生えた草からも初夏の匂いが立ち始めている。
練習試合で目いっぱいかいた汗はすっかり引いたはずだのに、翔陽のくびすじにはまたじんわりと汗が滲み始めていた。首から頭の先まで、まっ赤になっていることを想像すると、恥ずかしさで逃げ出したくなる。でもそれを、研磨のまなざしがゆるさない。
すう、と息を吸った。なにかを言いたくて、でも言葉は喉のあたりに絡まって出てこない。そうしているうちにふたたび「研磨ぁ!」と呼ぶ黒尾の声が聞こえて、研磨はようやく声のするほうを見やった。
今、行くから。黒尾に向かって返事をする。とても小さな声だったので、黒尾にその声が届いたかどうかはわからない。
研磨はあらためて翔陽を見た。
「またね、翔陽」
ひらひらと右手を振って、研磨はゆっくりと踵を返した。呼び止める隙も与えず――それは翔陽が言葉を詰まらせていたせいもあるけれど――研磨はチームメイトの集団へと歩いていく。
夕日が研磨の影を細長く伸ばした。顔に触れた影はかすかにあたたかみを感じたけれど、影にも体温ってあるんだろうか。
先ほどまでの出来事はあまりにも一瞬で、きっと誰にも見られていない、知られていないだろう。近づいてきた研磨の顔、触れた唇のぬるさ、湿っぽさを、知っているのはたぶん、おれだけ。「どうでしょうね」なんてずるいことを言ってたけど、たぶん、いや絶対に研磨だってファーストキスだ。そう思うと赤く染まった顔がますます熱を帯びた。
両手で頬を挟んで、ぎゅ、と目を閉じる。熱はてのひらを伝って、全身に運ばれる。
初夏の夕がたの風が、さわさわと髪の毛を揺らした。遠ざかっていく研磨の影を追いかけたくて、でもぐっと堪えた。またね、と彼は言った。そう言ったから、だからまた、何度でも会える。
「日向ぁ、帰んぞー」
「あ、はいっ!」
田中の声が響いて、翔陽は顔を上げた。夕日に背中を向けて、翔陽もまたチームメイトの輪の中へと戻っていく。
畳む
#日研
押しつけられた唇は甘酸っぱいレモン味では全然なくって、あれは都市伝説だったんだなあと妙に冴えた頭で翔陽はおもった。
唇に触れているのは研磨の唇で、それは湿っていて柔く、かすかに汗の匂いがした。不快さは感じず、むしろはじめての感触と温度に、心地好ささえおぼえた。
金色の髪の毛が流れて頬を滑る。顔が離れる。研磨はいつもと変わらない表情でこちらを見ていた。大きな目が翔陽を捕まえる。まるで、離さないよとでもいうような力強いまなざしで。
「けんま、」
翔陽が口を開くのと同じタイミングで、背後から「研磨!」と呼ぶ声がした。研磨越しに視線を送ると、黒尾が右手を大きく挙げていた。研磨は、しかしふり返らずにじっと翔陽を見つめている。それがあんまり強い視線だったので、先ほどの唐突なキスのことなど忘れてしまいそうになる。あれ、おれたち今、きっ、キス……したよな? 研磨の唇とおれの唇が、くっついた、よな? くるくると思考が回るにつれ、頭は次第に混乱してくる。
「研磨、呼んでる、黒尾さん、」
「うん。いい」
「いいって、……」
とまどう翔陽に追い打ちをかけるように、研磨は目を細めて言った。
「翔陽、ファーストキス? だよね?」
「へぁっ?!」
図星をつかれて顔をまっ赤にさせると、研磨はくすくすと笑った。いたずらを成功させたこどもみたいな、無邪気な笑いかただった。研磨もこんなふうに笑うことがあるのかと、翔陽ははじめて知った。
まだ顔を合わせて間もないから、知らないところなんてたくさんあってあたりまえなのだけれど、今まで見てきた研磨からは想像ができないほど愛くるしい笑顔に、いっとき、見惚れた。
「けっ、研磨もだろ……っ!」
ん、と喉を鳴らして研磨は首を傾げた。そのようすに、翔陽は不安になる。
「まさかちがうとか?!」
「んー……、どうでしょうね」
「けっ、研磨サン……!」
勘弁してくれよ、と項垂れる翔陽を見て、研磨はまたくすくすと笑う。からかわれていることはわかっていたけれど、認めてしまうととても、とても悔しい。
夕日がふたりの輪郭をあたためていた。五月の夕暮れ、日は少しずつ永くなって、足もとに生えた草からも初夏の匂いが立ち始めている。
練習試合で目いっぱいかいた汗はすっかり引いたはずだのに、翔陽のくびすじにはまたじんわりと汗が滲み始めていた。首から頭の先まで、まっ赤になっていることを想像すると、恥ずかしさで逃げ出したくなる。でもそれを、研磨のまなざしがゆるさない。
すう、と息を吸った。なにかを言いたくて、でも言葉は喉のあたりに絡まって出てこない。そうしているうちにふたたび「研磨ぁ!」と呼ぶ黒尾の声が聞こえて、研磨はようやく声のするほうを見やった。
今、行くから。黒尾に向かって返事をする。とても小さな声だったので、黒尾にその声が届いたかどうかはわからない。
研磨はあらためて翔陽を見た。
「またね、翔陽」
ひらひらと右手を振って、研磨はゆっくりと踵を返した。呼び止める隙も与えず――それは翔陽が言葉を詰まらせていたせいもあるけれど――研磨はチームメイトの集団へと歩いていく。
夕日が研磨の影を細長く伸ばした。顔に触れた影はかすかにあたたかみを感じたけれど、影にも体温ってあるんだろうか。
先ほどまでの出来事はあまりにも一瞬で、きっと誰にも見られていない、知られていないだろう。近づいてきた研磨の顔、触れた唇のぬるさ、湿っぽさを、知っているのはたぶん、おれだけ。「どうでしょうね」なんてずるいことを言ってたけど、たぶん、いや絶対に研磨だってファーストキスだ。そう思うと赤く染まった顔がますます熱を帯びた。
両手で頬を挟んで、ぎゅ、と目を閉じる。熱はてのひらを伝って、全身に運ばれる。
初夏の夕がたの風が、さわさわと髪の毛を揺らした。遠ざかっていく研磨の影を追いかけたくて、でもぐっと堪えた。またね、と彼は言った。そう言ったから、だからまた、何度でも会える。
「日向ぁ、帰んぞー」
「あ、はいっ!」
田中の声が響いて、翔陽は顔を上げた。夕日に背中を向けて、翔陽もまたチームメイトの輪の中へと戻っていく。
畳む
#日研
#文字書きワードパレット
#5.フィエスタ(振り向く・緑・休息)/カクイザ(最終軸・おとな)
桜の樹の幹に寄りかかって眠るイザナを見つけたのは、正午を過ぎたばかりのころだった。ゆるやかな曲線を描いた葉影の群れが、イザナの褐色の頬に落ちている。風の吹くたびに枝が揺れて、葉擦れの音がささやかに聞こえる。
樹の根本に腰を下ろし、片膝をあげた状態でイザナは目を閉じている。おだやかな寝顔に、鶴蝶はアポイントを取っていた客が彼を待っていることなど忘れて、イザナの側にしゃがみこんだ。眠っているイザナを起こしてしまうのは憚られた。このところ出張続きでまとまった休みが取れていないイザナにとっては、今が貴重の休息の時間なのだろう。
彼が休みにくい立場にいることも、泊まりの出張の時以外は毎日一度は現場にやって来て、園で遊ぶ子どもたちのようすを見ることを日課にしていることも、鶴蝶は当然知っていた。最後にイザナが休みを取ったのは、いつだったろう。頭の中でカレンダーをめくってみたが、三週間前に半日だけ仕事を抜けた記憶までしか辿れなかった。
こども園の裏庭はあそぶもののないただの原っぱで、太い桜の樹が一本、庭の中央に植っている。ぐるりを囲むのは野生のつつじだ。緑の原っぱ、と子どもたちが呼ぶここは立ち入りは自由なのだがさして面白くもないのか、まるで人気がなかった。遠くに園庭であそぶ子どもたちの声が響いてくるだけの、静かな場所。イザナは、ときおりひとりでここを訪れていた。それを知っているのは法人幹部の中でも鶴蝶だけだった。
黙って寝顔を見つめていると、閉じられた瞼がかすかに動いた。そろそろと長いまつ毛が持ち上がり、鶴蝶の顔に焦点があう。
「……悪い、起こしたか」
鶴蝶は謝ったが、イザナは大きなあくびをするだけだった。第一声が文句じゃないなんて珍しいな、と思った矢先に、イザナは、
「ヘンな夢、見た」
と、つぶやいた。ひとりごとのようだったが、まなざしはまっすぐに鶴蝶に向けられていた。
「ゆめ?」
「そう。オレが、なんかの拍子に死んでさ」
「縁起でもねぇな」
物騒なことばに、鶴蝶は眉間に皺を寄せる。イザナはその眉間に人差し指を突きつけて、ぐい、と押した。
「まあ聞けって。そんで、あー、天に召されるんだなって思ったときに、声がしてさ。ふり向いたら、オマエがいたんだ」
「オレ?」
「そう。なんでオマエがいるんだろうって思ったんだけど、なんかさ、うれしかったよ」
「……そ、うか」
うれしかった、なんて、イザナらしくもないことばだ。特に鶴蝶にたいして向けるのはいつも、意地悪ばかりだったから。鶴蝶は狼狽えつつも、彼の発したことばがじんわりと胸をあたためるのを感じた。
「変な夢だったな。起きたら起きたで、目の前にオマエがいるしよぉ」
イザナの手が伸びて、あ、と思ったときには頬に触れていた。
「……オマエを呼び止められて、よかった」
「なんだ、そりゃ。そう簡単に三途の川なんか渡って堪るかよ」
鶴蝶はふふ、とわらう。頬を撫でるイザナの手は寝起きらしく体温が高い。やわらかくて、あたたかかった。
ところで、とイザナは言った。
「オマエ、なんの用だ? オレの貴重な眠りを妨げやがって」
ああ、とそこでようやく、鶴蝶は用件を思い出した。
「アポ取ってた客が来てる。探しに来たんだ」
「はあ? ばかかオマエ、はやく言えよ!」
「すまん、起こしたら悪いと思って――」
「結局起こしてんだろーが、ばぁか!」
慌てて立ち上がったイザナのスラックスから、千切れた下草がはらはらと落ちた。去り際に鶴蝶の頭を平手で叩く。少しも痛くないのは手加減をしているからだ。今日のイザナは機嫌がよいようだった。それとも万が一にも園の子どもに見られたときのために、取り繕っているのか。
園内で、法人の理事長でありながらイザナは子どもたちから人気が高い。優しくてイケメン、というところが特に女子に人気の理由の一つだ。
肩を怒らせて園に戻っていく後ろ姿を見つめ、鶴蝶は叩かれた頭をてのひらで撫でた。夢の中で死んだらしいイザナは、でも現実世界ではちゃんと生きて、こうしてオレの頭を叩いたり悪態をついたり、している。
川を渡りかけたイザナを呼んだのが、オレであったことがうれしい。うれしかった、とイザナは言ったが、オレのほうが、何倍もうれしかった。他の誰でもないオレが、イザナの手を取れたこと。
たかが夢じゃないか、と思うと自嘲の笑みが浮かぶ。それでも、イザナの生きている世界はまだこんなにも美しくて、これから先もきっとずっとそうだ。
視線を上げた先にある青空がとても眩しく輝いていた。この空をイザナにもずっと、見ていてほしいと鶴蝶は願うのだった。
畳む
#カクイザ
#5.フィエスタ(振り向く・緑・休息)/カクイザ(最終軸・おとな)
桜の樹の幹に寄りかかって眠るイザナを見つけたのは、正午を過ぎたばかりのころだった。ゆるやかな曲線を描いた葉影の群れが、イザナの褐色の頬に落ちている。風の吹くたびに枝が揺れて、葉擦れの音がささやかに聞こえる。
樹の根本に腰を下ろし、片膝をあげた状態でイザナは目を閉じている。おだやかな寝顔に、鶴蝶はアポイントを取っていた客が彼を待っていることなど忘れて、イザナの側にしゃがみこんだ。眠っているイザナを起こしてしまうのは憚られた。このところ出張続きでまとまった休みが取れていないイザナにとっては、今が貴重の休息の時間なのだろう。
彼が休みにくい立場にいることも、泊まりの出張の時以外は毎日一度は現場にやって来て、園で遊ぶ子どもたちのようすを見ることを日課にしていることも、鶴蝶は当然知っていた。最後にイザナが休みを取ったのは、いつだったろう。頭の中でカレンダーをめくってみたが、三週間前に半日だけ仕事を抜けた記憶までしか辿れなかった。
こども園の裏庭はあそぶもののないただの原っぱで、太い桜の樹が一本、庭の中央に植っている。ぐるりを囲むのは野生のつつじだ。緑の原っぱ、と子どもたちが呼ぶここは立ち入りは自由なのだがさして面白くもないのか、まるで人気がなかった。遠くに園庭であそぶ子どもたちの声が響いてくるだけの、静かな場所。イザナは、ときおりひとりでここを訪れていた。それを知っているのは法人幹部の中でも鶴蝶だけだった。
黙って寝顔を見つめていると、閉じられた瞼がかすかに動いた。そろそろと長いまつ毛が持ち上がり、鶴蝶の顔に焦点があう。
「……悪い、起こしたか」
鶴蝶は謝ったが、イザナは大きなあくびをするだけだった。第一声が文句じゃないなんて珍しいな、と思った矢先に、イザナは、
「ヘンな夢、見た」
と、つぶやいた。ひとりごとのようだったが、まなざしはまっすぐに鶴蝶に向けられていた。
「ゆめ?」
「そう。オレが、なんかの拍子に死んでさ」
「縁起でもねぇな」
物騒なことばに、鶴蝶は眉間に皺を寄せる。イザナはその眉間に人差し指を突きつけて、ぐい、と押した。
「まあ聞けって。そんで、あー、天に召されるんだなって思ったときに、声がしてさ。ふり向いたら、オマエがいたんだ」
「オレ?」
「そう。なんでオマエがいるんだろうって思ったんだけど、なんかさ、うれしかったよ」
「……そ、うか」
うれしかった、なんて、イザナらしくもないことばだ。特に鶴蝶にたいして向けるのはいつも、意地悪ばかりだったから。鶴蝶は狼狽えつつも、彼の発したことばがじんわりと胸をあたためるのを感じた。
「変な夢だったな。起きたら起きたで、目の前にオマエがいるしよぉ」
イザナの手が伸びて、あ、と思ったときには頬に触れていた。
「……オマエを呼び止められて、よかった」
「なんだ、そりゃ。そう簡単に三途の川なんか渡って堪るかよ」
鶴蝶はふふ、とわらう。頬を撫でるイザナの手は寝起きらしく体温が高い。やわらかくて、あたたかかった。
ところで、とイザナは言った。
「オマエ、なんの用だ? オレの貴重な眠りを妨げやがって」
ああ、とそこでようやく、鶴蝶は用件を思い出した。
「アポ取ってた客が来てる。探しに来たんだ」
「はあ? ばかかオマエ、はやく言えよ!」
「すまん、起こしたら悪いと思って――」
「結局起こしてんだろーが、ばぁか!」
慌てて立ち上がったイザナのスラックスから、千切れた下草がはらはらと落ちた。去り際に鶴蝶の頭を平手で叩く。少しも痛くないのは手加減をしているからだ。今日のイザナは機嫌がよいようだった。それとも万が一にも園の子どもに見られたときのために、取り繕っているのか。
園内で、法人の理事長でありながらイザナは子どもたちから人気が高い。優しくてイケメン、というところが特に女子に人気の理由の一つだ。
肩を怒らせて園に戻っていく後ろ姿を見つめ、鶴蝶は叩かれた頭をてのひらで撫でた。夢の中で死んだらしいイザナは、でも現実世界ではちゃんと生きて、こうしてオレの頭を叩いたり悪態をついたり、している。
川を渡りかけたイザナを呼んだのが、オレであったことがうれしい。うれしかった、とイザナは言ったが、オレのほうが、何倍もうれしかった。他の誰でもないオレが、イザナの手を取れたこと。
たかが夢じゃないか、と思うと自嘲の笑みが浮かぶ。それでも、イザナの生きている世界はまだこんなにも美しくて、これから先もきっとずっとそうだ。
視線を上げた先にある青空がとても眩しく輝いていた。この空をイザナにもずっと、見ていてほしいと鶴蝶は願うのだった。
畳む
#カクイザ
#文字書きワードパレット
#4.アコルダール(足音・耳・一目惚れ)/ドラマイ(最終軸・中3)
※東卍解散後、捏造
校舎の側に植えられた桜の樹が、窓に向かって枝を伸ばしていた。ふかみどり色の葉が揺れるたび、窓にもたれかかった万次郎の顔に淡い影が落ちる。放課後の、ひとけのなくなってきた廊下の窓辺で彼を待つのはきらいじゃあなかった。彼は必ずここに来ると決まっているから、安心していられた。来ない、ということはあり得なかった。いつも。
彼とは登下校も一緒で、学校にいるあいだも一緒で、放課後も一緒――というとなんだか恋人みたいだなと万次郎は思い、ひっそりとわらう。でもそれくらいオレはケンチンのことがすきなんだ。恋人じゃねぇけど、恋人みたいだと思ってうれしくなるくらいには。
廊下の先から足音が聞こえてきて顔を上げる。視線が彼の姿を捉えた瞬間、万次郎の頬が自然と緩んだ。
「おかえり」
と万次郎が言うのに堅は不思議そうな顔をこしらえて、けれどすぐに「ただいま」とかえした。
「悪ぃ、遅くなった」
進路指導、というものが自分たちの人生に関わってくるなんて、暴走族をやっていたころには微塵も想像できなかった。教師に将来を「指導」される、なんて、とんでもなく野暮だし無粋だ。堅も万次郎もそう思っていてずっとスルーしていたのだけれど、三年生も半ばを過ぎた今、とうとう呼び出しを食らってしまった。今日は堅の番だった。
「どうだった?」
肩を並べて歩きながら、万次郎は問うた。あくびまじりに、さほど興味のなさそうに。堅もつられてあくびをした。
「進学しねぇでバイク屋で働くっつった」
「ん」
そおかあ、と万次郎は天を仰ぐ。
「進学しろってうるせーうるせー。よけーなお世話だっつーの」
「ケンチンはガッコよりバイク屋のがぜったい似合うよ」
「オマエは?」
「オレー? まだわかんねーなー」
進路指導の意味ねぇじゃん、と堅はわらった。
「先のことはわかんねぇよ」
「ま、そうだよな」
でもさぁ、と万次郎は斜め上にある堅の横顔を見た。左耳のピアスが、傾きはじめた日の光を受けてささやかに瞬いた。広い夜空にひとつっきり浮かぶ、星のようだった。
「でもさぁ、オレはずっとケンチンのそばにいるよ」
それは確信であり、また希求でもあった。そうでありたいと万次郎が心から願ってやまないことだった。
「今も、これからも、大人んなっても、ずっと一緒にいる」
言いきってから、
「なんか……、そんな気がする」と付け足した。軽く顔を俯けて。
耳がやけにあたたかくて、万次郎は上履きのつまさきを見つめた。なんか、これ、告白してるみてぇ、と急激に恥ずかしくなった。べつに恋人でもねぇのに、こんなこと言って。
開け放たれた窓から風が滑りこんで、ふたりの制服のシャツを撫でた。さらりと乾いた風は夏の盛りに比べてずい分と涼しいものになり、季節が終わる気配をはらんでいた。
「そうなると、いいな」
堅の声は素朴にあかるく、万次郎はほっとする。そうして、すきだな、と思う。つくづく。一目惚れだったから、コイツには。はじめて出会ったときに、もう恋をしていた。
「そうするから、オレが」
ぼそりとつぶやく。その言葉は堅の耳には届かなかったようだった。昇降口に向かって歩くリズムは安定していて、万次郎の歩幅に合わせているせいでいつもよりわずかにゆっくりだ。
斜めにさす光があかね色に染まりはじめていた。ほんのりと朱を帯びた堅の輪郭を見、万次郎は視線を前に向けた。未来のことは知っている。でも、どうなるかなんてほんとうはわからない。愛してるよケンチン。ずっとだいすきだからね。それだけがたしかなことで、隣を歩む彼がいつかの未来にも消えないでいてくれ、と、万次郎は誰にでもなく自分に希う。
24.0824
畳む
#4.アコルダール(足音・耳・一目惚れ)/ドラマイ(最終軸・中3)
※東卍解散後、捏造
校舎の側に植えられた桜の樹が、窓に向かって枝を伸ばしていた。ふかみどり色の葉が揺れるたび、窓にもたれかかった万次郎の顔に淡い影が落ちる。放課後の、ひとけのなくなってきた廊下の窓辺で彼を待つのはきらいじゃあなかった。彼は必ずここに来ると決まっているから、安心していられた。来ない、ということはあり得なかった。いつも。
彼とは登下校も一緒で、学校にいるあいだも一緒で、放課後も一緒――というとなんだか恋人みたいだなと万次郎は思い、ひっそりとわらう。でもそれくらいオレはケンチンのことがすきなんだ。恋人じゃねぇけど、恋人みたいだと思ってうれしくなるくらいには。
廊下の先から足音が聞こえてきて顔を上げる。視線が彼の姿を捉えた瞬間、万次郎の頬が自然と緩んだ。
「おかえり」
と万次郎が言うのに堅は不思議そうな顔をこしらえて、けれどすぐに「ただいま」とかえした。
「悪ぃ、遅くなった」
進路指導、というものが自分たちの人生に関わってくるなんて、暴走族をやっていたころには微塵も想像できなかった。教師に将来を「指導」される、なんて、とんでもなく野暮だし無粋だ。堅も万次郎もそう思っていてずっとスルーしていたのだけれど、三年生も半ばを過ぎた今、とうとう呼び出しを食らってしまった。今日は堅の番だった。
「どうだった?」
肩を並べて歩きながら、万次郎は問うた。あくびまじりに、さほど興味のなさそうに。堅もつられてあくびをした。
「進学しねぇでバイク屋で働くっつった」
「ん」
そおかあ、と万次郎は天を仰ぐ。
「進学しろってうるせーうるせー。よけーなお世話だっつーの」
「ケンチンはガッコよりバイク屋のがぜったい似合うよ」
「オマエは?」
「オレー? まだわかんねーなー」
進路指導の意味ねぇじゃん、と堅はわらった。
「先のことはわかんねぇよ」
「ま、そうだよな」
でもさぁ、と万次郎は斜め上にある堅の横顔を見た。左耳のピアスが、傾きはじめた日の光を受けてささやかに瞬いた。広い夜空にひとつっきり浮かぶ、星のようだった。
「でもさぁ、オレはずっとケンチンのそばにいるよ」
それは確信であり、また希求でもあった。そうでありたいと万次郎が心から願ってやまないことだった。
「今も、これからも、大人んなっても、ずっと一緒にいる」
言いきってから、
「なんか……、そんな気がする」と付け足した。軽く顔を俯けて。
耳がやけにあたたかくて、万次郎は上履きのつまさきを見つめた。なんか、これ、告白してるみてぇ、と急激に恥ずかしくなった。べつに恋人でもねぇのに、こんなこと言って。
開け放たれた窓から風が滑りこんで、ふたりの制服のシャツを撫でた。さらりと乾いた風は夏の盛りに比べてずい分と涼しいものになり、季節が終わる気配をはらんでいた。
「そうなると、いいな」
堅の声は素朴にあかるく、万次郎はほっとする。そうして、すきだな、と思う。つくづく。一目惚れだったから、コイツには。はじめて出会ったときに、もう恋をしていた。
「そうするから、オレが」
ぼそりとつぶやく。その言葉は堅の耳には届かなかったようだった。昇降口に向かって歩くリズムは安定していて、万次郎の歩幅に合わせているせいでいつもよりわずかにゆっくりだ。
斜めにさす光があかね色に染まりはじめていた。ほんのりと朱を帯びた堅の輪郭を見、万次郎は視線を前に向けた。未来のことは知っている。でも、どうなるかなんてほんとうはわからない。愛してるよケンチン。ずっとだいすきだからね。それだけがたしかなことで、隣を歩む彼がいつかの未来にも消えないでいてくれ、と、万次郎は誰にでもなく自分に希う。
24.0824
畳む
#文字書きワードパレット
#3.ヤロ・プペン(別れ・香り・声)/マイキー(14軸)
※死・流血表現があります。
死の際に、最後まで残るのは声なのだと誰かが言っていた。誰だったっけ? ――さあ、忘れてしまった。
血の匂いが充満した部屋はひっそりと夜に沈んでいた。足もとに転がった人間の輪郭があいまいにぼやけて、それはオレの視界が歪んでいるせいだ。死んでいく直前に男が叫んだ、おそらく大事にしていたのだろう彼の家族の名前をこころの裡で反芻させた。させたが、それは一瞬のことに過ぎなかった。すぐに忘れてしまって、最初の一文字さえも思いだせない。
銃口を床に向けて両腕から力を抜いた。かなしくなるくらいになにも感じなかった。かなしいという感情がすこしも湧かないことがたまらなく、苦しい。
Yシャツの裾で、血のべっとりとついた手を拭った。できるだけ横柄に、なんでもないふうに見えるように。誰にたいしてのポーズなのかはわからない。でもずっと誰かに見られている気がして、冷淡であることを見せつけたくて、そうした。誰のために?
かなしみの感情が欠落した代わりのように、苦しいと思うことがこのところは増えた気がする。
誰のことも信じられなくなって苦しい。かつてたしかに信じていた者どもを殺さずにいられなくなったことが苦しい。
ため息をつく。結局は自分のために苦しんでいることが、それ自体が、オレをいっそう苦しませた。けれどすべて罰なのだろう。罪に与えられるべき正当な罰。罰に報いるための行いを、だからオレはしなければならない。
右手をゆっくりとした動作で持ち上げる。銃口をこめかみに押しつけて、ひとさし指を引き金にかけた。鉄の硬さとつめたさを感じた。ふ、とオレは口もとを歪めた。自嘲。
こんなときさえすこしもかなしくなかった。
鼓膜を叩く声があった。声は高かったり低かったり、どちらでもなかったりして、幾重にも重なりオレの意識にふれる。マイキー、と声が名前のかたちをなぞる。マイキー。マイキー! 誰が呼んでいるのか、わからない。わからなくてよかった。だって今こんなにも苦しくて、苦しくて、もうすべて終わりにしようとこころに決めて銃口を自らに突きつけて。
記憶のみなもを波立たせて、声たちは風のように吹いて去っていった。
死の際に、最後まで残るのは声なのだと誰かが言っていた。だから、オレはいよいよこれが最後なのだと知った。
手足の先がつめたくなっていく。破裂音。硝煙の、嘘みたいに甘い香り。誰にも「さようなら」を言わせなかったから、オレだけが言うわけにはいかない。償いのつもりで、でも、ほんとうはちゃんと別れの挨拶をしたかった。
全身が崩れていく。バラバラになる。四肢が捥げて、思考と体が、一切の機能を止める。
ああ。こぼしたつもりの声はどこにも届かずオレのうちがわだけにうっそりと響いた。
ああ、やっと終わりだ。やっと、これで終わるんだ。
「うれしいな、」
死の際に、最後まで残るのが声なのだとして、オレの声はいったい誰に残せたんだろう。誰か、一瞬でも思いだしてくれたかな。憎んでくれても構わなくて、ソイツの記憶にすこしでも存在していられていたら。……ちょっと、都合がよすぎるかな。わがままかな。ごめんね。
24.0824
畳む
#3.ヤロ・プペン(別れ・香り・声)/マイキー(14軸)
※死・流血表現があります。
死の際に、最後まで残るのは声なのだと誰かが言っていた。誰だったっけ? ――さあ、忘れてしまった。
血の匂いが充満した部屋はひっそりと夜に沈んでいた。足もとに転がった人間の輪郭があいまいにぼやけて、それはオレの視界が歪んでいるせいだ。死んでいく直前に男が叫んだ、おそらく大事にしていたのだろう彼の家族の名前をこころの裡で反芻させた。させたが、それは一瞬のことに過ぎなかった。すぐに忘れてしまって、最初の一文字さえも思いだせない。
銃口を床に向けて両腕から力を抜いた。かなしくなるくらいになにも感じなかった。かなしいという感情がすこしも湧かないことがたまらなく、苦しい。
Yシャツの裾で、血のべっとりとついた手を拭った。できるだけ横柄に、なんでもないふうに見えるように。誰にたいしてのポーズなのかはわからない。でもずっと誰かに見られている気がして、冷淡であることを見せつけたくて、そうした。誰のために?
かなしみの感情が欠落した代わりのように、苦しいと思うことがこのところは増えた気がする。
誰のことも信じられなくなって苦しい。かつてたしかに信じていた者どもを殺さずにいられなくなったことが苦しい。
ため息をつく。結局は自分のために苦しんでいることが、それ自体が、オレをいっそう苦しませた。けれどすべて罰なのだろう。罪に与えられるべき正当な罰。罰に報いるための行いを、だからオレはしなければならない。
右手をゆっくりとした動作で持ち上げる。銃口をこめかみに押しつけて、ひとさし指を引き金にかけた。鉄の硬さとつめたさを感じた。ふ、とオレは口もとを歪めた。自嘲。
こんなときさえすこしもかなしくなかった。
鼓膜を叩く声があった。声は高かったり低かったり、どちらでもなかったりして、幾重にも重なりオレの意識にふれる。マイキー、と声が名前のかたちをなぞる。マイキー。マイキー! 誰が呼んでいるのか、わからない。わからなくてよかった。だって今こんなにも苦しくて、苦しくて、もうすべて終わりにしようとこころに決めて銃口を自らに突きつけて。
記憶のみなもを波立たせて、声たちは風のように吹いて去っていった。
死の際に、最後まで残るのは声なのだと誰かが言っていた。だから、オレはいよいよこれが最後なのだと知った。
手足の先がつめたくなっていく。破裂音。硝煙の、嘘みたいに甘い香り。誰にも「さようなら」を言わせなかったから、オレだけが言うわけにはいかない。償いのつもりで、でも、ほんとうはちゃんと別れの挨拶をしたかった。
全身が崩れていく。バラバラになる。四肢が捥げて、思考と体が、一切の機能を止める。
ああ。こぼしたつもりの声はどこにも届かずオレのうちがわだけにうっそりと響いた。
ああ、やっと終わりだ。やっと、これで終わるんだ。
「うれしいな、」
死の際に、最後まで残るのが声なのだとして、オレの声はいったい誰に残せたんだろう。誰か、一瞬でも思いだしてくれたかな。憎んでくれても構わなくて、ソイツの記憶にすこしでも存在していられていたら。……ちょっと、都合がよすぎるかな。わがままかな。ごめんね。
24.0824
畳む
#文字書きワードパレット
#2 アルプヤルナ(甘い・突風・飲み込む)/ふゆとら(9軸)
朝が来るたび絶望している自分がいる。幾つ夜を乗り越えても、絶望せずに起きられる朝はもう一生訪れないのだろう。そう思うといっそう体と頭が重たくなった。すべては自分が選んで、自分が決めて、進んできた道のはずだった。それなのに、オマエの選択はまちがいだったと、敬愛するあの人に言われている気がして呼吸がしにくかった。毎日。
寝返りをうって、カーテンのすきまからこぼれる朝日から身を逃した。それでも時間と共に部屋はあかるくなっていく。眩しさに目をほそめるが、頭はすぐに覚醒する。なにもかもがオレを裏切る。体も、心も。
「はよ」
コーヒーを飲んでいた一虎くんが、こちらを見て薄くほほ笑んだ。ずいぶんとひさしぶりに顔を合わせた気がする。生活を共にしていても活動時間を共有しているわけではないから、なんだか不思議な心地だった。
「飲む? コーヒー」
問いかけて、オレが頷く前にケトルに水を足しはじめる。ああ、はい。ツーテンポほど遅れて、もはやなんの意味も持たない返事をした。こちらに背中を向けた一虎くんの、うなじがやけに白くてまぶしかった。窓の向こうで、ごうごうと風が唸っているのを聞いた。
「今日、風つよいよ」
「……そうみたいっスね」
「外出て、吹っ飛ばされんなよ」
冗談めかして、一虎くんは言った。カウンターキッチンに立って、オレに白いうなじを見せたまま。
ソファに腰を下ろして、たばこに火をつける。煙をひと口吸ったところでインスタントコーヒーの入ったマグカップが顔の近くに差し出された。斜め上方に一虎くんの顔があった。
「どうも」
マグカップを受け取ると、一虎くんは黙ってオレの隣に座った。彼ひとり分の重みで、ソファが軋んだ。
「顔色悪ぃな」
大丈夫かよ、と無遠慮にオレの顔を覗きこむ。
「ひさしぶりにオマエの顔見たけど」
「オレも、一虎くんと会うの結構久々な気がする」
オレはコーヒーを啜って、わらった。右手の指に挟んだたばこが、ひとすじの煙を天井へと伸ばした。
「会わねぇもんな、オレら。なんだかんだ」
「っスね」
「いっしょにくらしてんのに」
どこか甘ったるさを孕んだ一虎くんの声にオレは気づかないふりをして、味の濃いコーヒーを口に含んだ。
一虎くんがなにを期待しているのかは知らない。けれど、オレには差し出せるものなど一つもなかった。だからなのかときおり、一虎くんが見せる甘さにオレは苛立つのだ。
彼の持つ人間味のようなもの、その生々しい肉っぽさ。
「こんなこと言うのはおかしいかも、だけど」
リビングの窓から、日ざしがさんさんと注いだ。一虎くんの伸ばした足の先にひかりが落ちて、輪郭を淡くふちどる。
「オマエがオレをおぼえていてくれて、正直、うれしかったよ」
ひとりごとのような一虎くんの声が、鈴のピアスの奏でる音に絡んで耳もとを漂った。
迎えに来てくれて、ありがとな。一虎くんは静かにそう続けた。
「……忘れるワケ、ないじゃねっスか」
たばこのフィルターを噛んで、顔を伏せた。前髪が額に垂れて鬱陶しかったけれど、表情を見られたくなかったから、都合がよかった。一虎くんにはオレのなにも知られたくなかった。知らないでいてほしかった。それは彼を守ることにも繋がっているはずだった。オレがどんな顔をしているかなど。
余計な情報を知れば知るほど、彼が組織に狙われる危険は強まる。この件に引きずり込んだ張本人のオレが、今さらなにをしたって手遅れだということは分かっていた。けれど、わずかにでも致命傷を避けることができるのなら、できることはしたかったのだ。
「オレ、たぶん一生アンタを忘れませんよ」
両手でカップを包んで、口もとを緩めた。一虎くんがわずかに頷いた。
「一生、死ぬまで忘れませんから」
そのほうが、アンタだってラクでしょう?――喉まで出かかった言葉を、咄嗟に飲み込んだ。隣に座る一虎くんの横顔が、さみしげに歪んだのを目の端に留めたから。彼がひどくかわいそうないきものに思えたから。
ため息とともに吐き出された煙で、目の前が濁る。
「……もう、出ます」
吸いかけのたばこを一虎くんに渡して、オレは立ち上がった。ソファの背もたれに体を預けた一虎くんが、「ん」と、か細い声で返事をした。そうしてたばこをそのうすい唇に持っていき、やわく咥えた。
――残酷なのかな。
マンションのエレベーターで、重力に体を潰されながら思った。言ったとおり、一虎くんの存在をオレは生涯かけても忘れることができないだろう。ほんとうは、とっとと忘れてしまいたかったのに、そうさせてはくれなかった彼を、オレは憎んでいる。心から。
自動ドアを抜けた途端、突風が吹いてスーツの裾をはためかせた。言いたくて、とうとう言えなかった言葉たちが風に蹴散らされていく。記憶も、こんなふうに消し飛ばしてくれたらよかったのに。
つぎに訪れた風は頬をやわらかく滑って、一歩を踏み出そうとするオレを躊躇わせた。けれど、もう歩みを止めるわけにはいかなかった。
畳む
#2 アルプヤルナ(甘い・突風・飲み込む)/ふゆとら(9軸)
朝が来るたび絶望している自分がいる。幾つ夜を乗り越えても、絶望せずに起きられる朝はもう一生訪れないのだろう。そう思うといっそう体と頭が重たくなった。すべては自分が選んで、自分が決めて、進んできた道のはずだった。それなのに、オマエの選択はまちがいだったと、敬愛するあの人に言われている気がして呼吸がしにくかった。毎日。
寝返りをうって、カーテンのすきまからこぼれる朝日から身を逃した。それでも時間と共に部屋はあかるくなっていく。眩しさに目をほそめるが、頭はすぐに覚醒する。なにもかもがオレを裏切る。体も、心も。
「はよ」
コーヒーを飲んでいた一虎くんが、こちらを見て薄くほほ笑んだ。ずいぶんとひさしぶりに顔を合わせた気がする。生活を共にしていても活動時間を共有しているわけではないから、なんだか不思議な心地だった。
「飲む? コーヒー」
問いかけて、オレが頷く前にケトルに水を足しはじめる。ああ、はい。ツーテンポほど遅れて、もはやなんの意味も持たない返事をした。こちらに背中を向けた一虎くんの、うなじがやけに白くてまぶしかった。窓の向こうで、ごうごうと風が唸っているのを聞いた。
「今日、風つよいよ」
「……そうみたいっスね」
「外出て、吹っ飛ばされんなよ」
冗談めかして、一虎くんは言った。カウンターキッチンに立って、オレに白いうなじを見せたまま。
ソファに腰を下ろして、たばこに火をつける。煙をひと口吸ったところでインスタントコーヒーの入ったマグカップが顔の近くに差し出された。斜め上方に一虎くんの顔があった。
「どうも」
マグカップを受け取ると、一虎くんは黙ってオレの隣に座った。彼ひとり分の重みで、ソファが軋んだ。
「顔色悪ぃな」
大丈夫かよ、と無遠慮にオレの顔を覗きこむ。
「ひさしぶりにオマエの顔見たけど」
「オレも、一虎くんと会うの結構久々な気がする」
オレはコーヒーを啜って、わらった。右手の指に挟んだたばこが、ひとすじの煙を天井へと伸ばした。
「会わねぇもんな、オレら。なんだかんだ」
「っスね」
「いっしょにくらしてんのに」
どこか甘ったるさを孕んだ一虎くんの声にオレは気づかないふりをして、味の濃いコーヒーを口に含んだ。
一虎くんがなにを期待しているのかは知らない。けれど、オレには差し出せるものなど一つもなかった。だからなのかときおり、一虎くんが見せる甘さにオレは苛立つのだ。
彼の持つ人間味のようなもの、その生々しい肉っぽさ。
「こんなこと言うのはおかしいかも、だけど」
リビングの窓から、日ざしがさんさんと注いだ。一虎くんの伸ばした足の先にひかりが落ちて、輪郭を淡くふちどる。
「オマエがオレをおぼえていてくれて、正直、うれしかったよ」
ひとりごとのような一虎くんの声が、鈴のピアスの奏でる音に絡んで耳もとを漂った。
迎えに来てくれて、ありがとな。一虎くんは静かにそう続けた。
「……忘れるワケ、ないじゃねっスか」
たばこのフィルターを噛んで、顔を伏せた。前髪が額に垂れて鬱陶しかったけれど、表情を見られたくなかったから、都合がよかった。一虎くんにはオレのなにも知られたくなかった。知らないでいてほしかった。それは彼を守ることにも繋がっているはずだった。オレがどんな顔をしているかなど。
余計な情報を知れば知るほど、彼が組織に狙われる危険は強まる。この件に引きずり込んだ張本人のオレが、今さらなにをしたって手遅れだということは分かっていた。けれど、わずかにでも致命傷を避けることができるのなら、できることはしたかったのだ。
「オレ、たぶん一生アンタを忘れませんよ」
両手でカップを包んで、口もとを緩めた。一虎くんがわずかに頷いた。
「一生、死ぬまで忘れませんから」
そのほうが、アンタだってラクでしょう?――喉まで出かかった言葉を、咄嗟に飲み込んだ。隣に座る一虎くんの横顔が、さみしげに歪んだのを目の端に留めたから。彼がひどくかわいそうないきものに思えたから。
ため息とともに吐き出された煙で、目の前が濁る。
「……もう、出ます」
吸いかけのたばこを一虎くんに渡して、オレは立ち上がった。ソファの背もたれに体を預けた一虎くんが、「ん」と、か細い声で返事をした。そうしてたばこをそのうすい唇に持っていき、やわく咥えた。
――残酷なのかな。
マンションのエレベーターで、重力に体を潰されながら思った。言ったとおり、一虎くんの存在をオレは生涯かけても忘れることができないだろう。ほんとうは、とっとと忘れてしまいたかったのに、そうさせてはくれなかった彼を、オレは憎んでいる。心から。
自動ドアを抜けた途端、突風が吹いてスーツの裾をはためかせた。言いたくて、とうとう言えなかった言葉たちが風に蹴散らされていく。記憶も、こんなふうに消し飛ばしてくれたらよかったのに。
つぎに訪れた風は頬をやわらかく滑って、一歩を踏み出そうとするオレを躊躇わせた。けれど、もう歩みを止めるわけにはいかなかった。
畳む
#文字書きワードパレット
とにかく手を、ゆびを、動かさないとだめだなと思ったので、cp理解と書く練習のためにお題をお借りしてなにかしら書いていく企画をします。ひとりで。1から順番にやってゆきます。できれば毎日(ま、毎日‥?)短文なり短歌なりSSなりテクストなりなんでもいいから、小説に満たないものものを。書いているうちになにかわかるかもしれないと期待します。
(お題(画像を含めて)は 文字書きワードパレット(X@Wisteria_Saki) 様よりお借りしました)
#1.プリンシピオ(走る・明け方・神様)/ふゆとら(9軸)
それは神様のいたずらだと誰かに言われたなら、そうかと信じてしまいそうな再会だった。
十年ぶりに千冬の顔を見たとき、殺されるのだろうなと咄嗟に思った。そして同時に、千冬の記憶の底に十年ものあいだ、オレが沈んでいたことがとてもとてもかなしかった。
「お久しぶりです、一虎くん」
いかにも高級そうな黒塗りの外車の運転席で、千冬はうすくほほ笑んでオレの名前を口にした。ムショの中ではナンバリングされていたから、名前で呼ばれるのはひどくひさしぶりのことだった。
千冬は、オレには「羽宮一虎」という名前があったことを思いださせてくれた。
よく晴れた空が眩しい日のことだった。冬のはじまる気配を伴わせた風が鼻先を掠めた。懐かしい匂いが漂って、オレはあのとき泣くべきだったのかもしれなかった。
人を殴ったあとの手は痛いし、返り血に汚れて不快だ。昔はそんなことちっとも思わずにいられたのに、不思議だった。
足もとに転がっている男たちを跨いで、路地を歩いていく。怒声が消えた道は暗く、血の臭いで満ちていた。左右を古びたビルに囲まれたゴミだらけの路地裏、こんな場所で屯ろしている末端のチンピラも東卍の一部なのかと思うと吐き気がした。
夜じゅう東京の街を駆け回り、東京卍會を追いつめるための有益な情報を探す。それがオレに与えられた仕事だった。千冬からそう依頼された。千冬はオレを雇っているつもりなのかもしれないし、利用しているだけかもしれない。ビジネス・パートナー? なんでもいい、かつての東卍を取り戻せるなら。千冬がそれを願うのならば。
千冬の望むことはすべて叶えたかった。なぜかそう、つよく思ったのだった。目的が一致しただけでオレらのあいだには特別な感情など存在しないはずだった。なのにどうして。
電信柱から枝のように伸びた電線が幾筋も、空を横切っていた。視線の先でビルの群れが赤く燃えている。夜明けだ。火をつけたばかりのたばこを足もとに落として踏み潰す。焔はまたたくまに消えた。
次第に明るくなってゆく街を、マンションに向かって歩く足が、気づいたら早足になり、いつのまにか走りだしていた。朝が来てしまう前に帰りたかった。千冬の帰りはいつも明け方だから、帰ってきたときには顔を見て、「おかえり」を言いたかった。千冬はそんなものを少しも望んじゃいないだろうけれど。どうせ一緒にいるのなら、オレの自己満足にもちょっとはつきあってもらってもいいのではないかと思う。
口の端からこぼれた息が頬に当たった。吐き出される自らの息のあたたかさに、オレは思わず安心してしまう。
24.0818
畳む
とにかく手を、ゆびを、動かさないとだめだなと思ったので、cp理解と書く練習のためにお題をお借りしてなにかしら書いていく企画をします。ひとりで。1から順番にやってゆきます。できれば毎日(ま、毎日‥?)短文なり短歌なりSSなりテクストなりなんでもいいから、小説に満たないものものを。書いているうちになにかわかるかもしれないと期待します。
(お題(画像を含めて)は 文字書きワードパレット(X@Wisteria_Saki) 様よりお借りしました)
#1.プリンシピオ(走る・明け方・神様)/ふゆとら(9軸)
それは神様のいたずらだと誰かに言われたなら、そうかと信じてしまいそうな再会だった。
十年ぶりに千冬の顔を見たとき、殺されるのだろうなと咄嗟に思った。そして同時に、千冬の記憶の底に十年ものあいだ、オレが沈んでいたことがとてもとてもかなしかった。
「お久しぶりです、一虎くん」
いかにも高級そうな黒塗りの外車の運転席で、千冬はうすくほほ笑んでオレの名前を口にした。ムショの中ではナンバリングされていたから、名前で呼ばれるのはひどくひさしぶりのことだった。
千冬は、オレには「羽宮一虎」という名前があったことを思いださせてくれた。
よく晴れた空が眩しい日のことだった。冬のはじまる気配を伴わせた風が鼻先を掠めた。懐かしい匂いが漂って、オレはあのとき泣くべきだったのかもしれなかった。
人を殴ったあとの手は痛いし、返り血に汚れて不快だ。昔はそんなことちっとも思わずにいられたのに、不思議だった。
足もとに転がっている男たちを跨いで、路地を歩いていく。怒声が消えた道は暗く、血の臭いで満ちていた。左右を古びたビルに囲まれたゴミだらけの路地裏、こんな場所で屯ろしている末端のチンピラも東卍の一部なのかと思うと吐き気がした。
夜じゅう東京の街を駆け回り、東京卍會を追いつめるための有益な情報を探す。それがオレに与えられた仕事だった。千冬からそう依頼された。千冬はオレを雇っているつもりなのかもしれないし、利用しているだけかもしれない。ビジネス・パートナー? なんでもいい、かつての東卍を取り戻せるなら。千冬がそれを願うのならば。
千冬の望むことはすべて叶えたかった。なぜかそう、つよく思ったのだった。目的が一致しただけでオレらのあいだには特別な感情など存在しないはずだった。なのにどうして。
電信柱から枝のように伸びた電線が幾筋も、空を横切っていた。視線の先でビルの群れが赤く燃えている。夜明けだ。火をつけたばかりのたばこを足もとに落として踏み潰す。焔はまたたくまに消えた。
次第に明るくなってゆく街を、マンションに向かって歩く足が、気づいたら早足になり、いつのまにか走りだしていた。朝が来てしまう前に帰りたかった。千冬の帰りはいつも明け方だから、帰ってきたときには顔を見て、「おかえり」を言いたかった。千冬はそんなものを少しも望んじゃいないだろうけれど。どうせ一緒にいるのなら、オレの自己満足にもちょっとはつきあってもらってもいいのではないかと思う。
口の端からこぼれた息が頬に当たった。吐き出される自らの息のあたたかさに、オレは思わず安心してしまう。
24.0818
畳む
号泣する準備はできていた
日向と影山/ひなかげ
号泣する準備はできていた / ekuni kaori
影山の目がすき。あいつの目がおれを見つめるときに、体がビッて緊張する感じ、あの痛くて気持ちいい感じが、なんかすき。おれってマゾなのかな? だとしたらすげーいやだけど。でも。
最初はただの口の悪ぃ怖ぇーやつだと思ってたし、鋭い視線はおれを威嚇するものでしかなかったけれど、だんだんと、ゆっくりゆっくり時間をかけてだけど、敵を睨む目じゃなくなっていった。
まっすぐにおれを見るそれは、おれを信じてくれている目だった。おれに、ここにいていいって言ってくれている優しい目だった。そう、影山はたしかに優しい目をしていた。
「……なんだよ」
不機嫌そうな声も顔もいつもどおり絶好調な影山くんの目を、おれは見つめている。まだ誰もいない体育館は静かで、ときどき、風が樹の枝を揺らす音が聞こえるくらい。
しん、と静まっているコートの上に向かい合って、おれは影山から目を逸らせなかった。
影山が、今すぐにでも思いっきりボールを打ちたがっていることは知っていた。でもおれが見つめるから、影山もおれを見つめ返す。睨んでいるように思えるし、たぶん実際に、本人は睨んでるつもりなんだと思う。中三ではじめて会ったとき、高校に来て再開したとき。切長の目が怖かった。その目はおれを威嚇して、拒絶していた。隣にいることさえもゆるさなかった。今はちがう。おれの勘違いでなければ。
「影山の目がすきだ」
おれが言うと、影山は露骨にいやそうな顔をした。
「急になに言ってんだ」
「急じゃない。ずっと思ってた」
あ? 影山の低い声が耳の奥に届く。
「キモいからやめろ」
「やめない」
そうして、両手を影山の頬へ伸ばす。思いがけず、それはむにむにとやわらかかった。
男の頬っぺたを触るなんてはじめての経験で、でもおれはどうしてかこいつにそうしたいと思った。おれの両手に頬を挟まれて、影山は目をまんまるにさせた。暴言を吐かれて、すぐにぶん殴られる覚悟をしていたのに、影山は意外にもまんまるの目でおれを見ているだけだった。
「いいの? 影山」
そんなふうにおとなしくしてたら、おれ、おまえにちゅーしちゃうかもよ。
ちゅーなんておとなだけがするものだと思っていた。でも今、もうちょっと頑張ってつま先立ちになって首を伸ばせば、もしかしたら、影山とちゅーできちゃうかもしれない。呆気なくおとなの階段のぼっちゃうかもしれない。
おとなになるって、こんなにかんたんでいいの?
「おい」
影山がゆっくりと口をひらく。「なんの真似だボゲ」
離れろ、と影山は平たい調子で言う。でも、自分からは動かなかった。殴りつけたりもしなかった。だから、ゆるされてるのかなと思ってしまう。こいつはおれに勘違いばかりさせるから、困る。
「ごめん」
手を離した。つま先立ちの不安定な姿勢をなおして、踵を床に下ろす。
「オメー、次やったらコロスからな」
うん、とおれは頷いて、ごめんともういちど、言った。もちろんころされたくはないけれど、殴られたり突き放されたりするよりは、ましな気がした。やっぱりおれってマゾなのかもしれない。
影山はシューズを鳴らして、後ずさってゆく。手に持っていたボールが床に叩きつけられ、影山の手に戻る。タンッ、タンッ、と気落ちのいい音が響く。
「さっさとやんぞ。昼休み終わっちまうだろが」
「……うん!」
おれは前を向く。影山に視線を投げる。見つめる。影山がおれを見つめ返す。そこにいろと視線が言っている。えらそうに。でも、悪い気はしない。
ボールは影山の手から離れて、天へとのぼる。バシンっと鋭い音とともに、てのひらがその球体を押し出した。
畳む
#ひなかげ
日向と影山/ひなかげ
号泣する準備はできていた / ekuni kaori
影山の目がすき。あいつの目がおれを見つめるときに、体がビッて緊張する感じ、あの痛くて気持ちいい感じが、なんかすき。おれってマゾなのかな? だとしたらすげーいやだけど。でも。
最初はただの口の悪ぃ怖ぇーやつだと思ってたし、鋭い視線はおれを威嚇するものでしかなかったけれど、だんだんと、ゆっくりゆっくり時間をかけてだけど、敵を睨む目じゃなくなっていった。
まっすぐにおれを見るそれは、おれを信じてくれている目だった。おれに、ここにいていいって言ってくれている優しい目だった。そう、影山はたしかに優しい目をしていた。
「……なんだよ」
不機嫌そうな声も顔もいつもどおり絶好調な影山くんの目を、おれは見つめている。まだ誰もいない体育館は静かで、ときどき、風が樹の枝を揺らす音が聞こえるくらい。
しん、と静まっているコートの上に向かい合って、おれは影山から目を逸らせなかった。
影山が、今すぐにでも思いっきりボールを打ちたがっていることは知っていた。でもおれが見つめるから、影山もおれを見つめ返す。睨んでいるように思えるし、たぶん実際に、本人は睨んでるつもりなんだと思う。中三ではじめて会ったとき、高校に来て再開したとき。切長の目が怖かった。その目はおれを威嚇して、拒絶していた。隣にいることさえもゆるさなかった。今はちがう。おれの勘違いでなければ。
「影山の目がすきだ」
おれが言うと、影山は露骨にいやそうな顔をした。
「急になに言ってんだ」
「急じゃない。ずっと思ってた」
あ? 影山の低い声が耳の奥に届く。
「キモいからやめろ」
「やめない」
そうして、両手を影山の頬へ伸ばす。思いがけず、それはむにむにとやわらかかった。
男の頬っぺたを触るなんてはじめての経験で、でもおれはどうしてかこいつにそうしたいと思った。おれの両手に頬を挟まれて、影山は目をまんまるにさせた。暴言を吐かれて、すぐにぶん殴られる覚悟をしていたのに、影山は意外にもまんまるの目でおれを見ているだけだった。
「いいの? 影山」
そんなふうにおとなしくしてたら、おれ、おまえにちゅーしちゃうかもよ。
ちゅーなんておとなだけがするものだと思っていた。でも今、もうちょっと頑張ってつま先立ちになって首を伸ばせば、もしかしたら、影山とちゅーできちゃうかもしれない。呆気なくおとなの階段のぼっちゃうかもしれない。
おとなになるって、こんなにかんたんでいいの?
「おい」
影山がゆっくりと口をひらく。「なんの真似だボゲ」
離れろ、と影山は平たい調子で言う。でも、自分からは動かなかった。殴りつけたりもしなかった。だから、ゆるされてるのかなと思ってしまう。こいつはおれに勘違いばかりさせるから、困る。
「ごめん」
手を離した。つま先立ちの不安定な姿勢をなおして、踵を床に下ろす。
「オメー、次やったらコロスからな」
うん、とおれは頷いて、ごめんともういちど、言った。もちろんころされたくはないけれど、殴られたり突き放されたりするよりは、ましな気がした。やっぱりおれってマゾなのかもしれない。
影山はシューズを鳴らして、後ずさってゆく。手に持っていたボールが床に叩きつけられ、影山の手に戻る。タンッ、タンッ、と気落ちのいい音が響く。
「さっさとやんぞ。昼休み終わっちまうだろが」
「……うん!」
おれは前を向く。影山に視線を投げる。見つめる。影山がおれを見つめ返す。そこにいろと視線が言っている。えらそうに。でも、悪い気はしない。
ボールは影山の手から離れて、天へとのぼる。バシンっと鋭い音とともに、てのひらがその球体を押し出した。
畳む
#ひなかげ
影菅の日2018
影菅
台風が来るんだって。
窓越しに、空の向こうを見あげて菅原はにわかにそう言った。抑揚のないその声に、影山は雑誌に落としていた視線を持ち上げてかれを見た。顔を窓に傾けた菅原の、まるい、ふっくらとした頬の輪郭が、淡い藍色にふちどられている。それでようやく、互いに向かいあってからずい分と時間が経っていたことに気がついた。机の上の時計は午後の六時を差そうとしていた。
「暗くなってきましたね」
雑誌を膝もとに置いて、菅原の視線の先を追う。かれのへやに入った時にはまだ明るかった空は、いつの間にか厚い雲がひろがり、電線の交わっている向こう側は濃い灰色に染まっていた。
うん、と菅原は頷いて、
「ことしは台風が多かったなあ」
浅く、息を吐いた。
たしかに、ことしは台風の頻発した夏だった。影山たちの暮らすまちには特に大きな被害はなかったが、西日本を中心にひどい水害が幾度も起こった。ふだんニュースに疎い影山さえ、報道を耳にするたびにその被害の大きさに目をまるくしたものだった。
「今回の台風が、最後だったらいいっすね」
細く開けた窓のすき間から風が滑りこみ、影山の前髪をさらう。額に感じる風のつめたさに、思わず目をほそめた。あんなに暑かった夏が嘘のように、空気は日ごとに冷えていき、すでに秋の気配があちこちに漂っている。
夏が終わる。
木々の鳴る音が遠くのほうからきこえ、次第につよくなっていく風が窓硝子を揺らした。雲はひろがりつづけ、やがて完全に空を覆い尽くしてしまう。そろそろ雨が落ちてきそうな様子に、窓を閉めたほうがよいのではとくちにしかけたが、じゅうたんの上にぺたりと坐った菅原に動く気配はなく、言葉をかけるタイミングを逸してしまった。
しばらくふたりで、ぼうっと空を見あげていた。
夏休みが終わり、日常が戻っても、ひたすらにボールを繋ぐ日々になに一つ変わりはなかった。菅原の白い肌が、かすかに日に焼けた。夏のあいだに散髪をしたおかげで、影山の髪の毛がわずかに短くなった。変化など、そのていどだった。
「影山」
横顔を影山に晒したまま、菅原がくちを開いた。はい、と律儀に返事をすると、ふいに視線が絡まった。影の落ちた表情は、時間とともにゆっくりと、そのたしかさを失くしていく。夜の色がかれの輪郭を溶かしていくのを、影山は目をほそめて見つめた。
「ちょっと、こっちゃ来」
ひょいひょいと手のひらを動かす菅原の言われるままに身を寄せると、とうとつに手首を引っ張られた。わっ、と声を上げる間もなく、体が菅原の腕の中に閉じこめられてしまう。額に鎖骨のかたちを触覚する。ぎゅうと頭を抱えられ、すがわらさん、と発した声はくぐもって、影山の内側にじん、と響いた。
つむじに菅原の鼻先が押し当てられるのを感じた。
「……汗臭いんで、ちょっと、」
抵抗するにも憚られて、腕の中におさまった態でなんとかそれだけを言う。菅原はふふっと笑って、
「ちょっとな」
と、言った。
髪の毛の感触をたしかめるように、菅原は影山の頭を撫でた。その手のひらの温度に心臓が軋む。かれに触れられると、いつも、影山の体のどこかがせつなく痛んだ。けっしてつよいちからなどではないのに、まるで締めつけられるようなその感触に影山はうろたえ、どうしてよいのだかわからなくなる。菅原のシャツの裾を掴み、額を鎖骨に押しつけて、すがわらさん、と、ちいさな声でかれをよんだ。
「うん?」
頭上に降ってくる声はあくまで優しかった。
「窓、閉めませんか」
雨降りそうですし、風もつよくなってきたし。台風、来るんでしょう? ――影山の提案に、けれど菅原は「うーん」と洩らすばかりで、とりあう様子はない。
首を捻り、わずかなすき間から菅原を見あげる。かれはまた、顔を窓のほうに向けていた。へやはすっかりと暗くなり、薄墨色に染められたそこで、菅原の輪郭もまたおぼろに滲んでいた。
「あ、」
菅原の唇が動いた。「雨だ」。
ぱた、ぱた、と音がして、それはやがて大粒のしずくに変わり窓を叩きはじめる。風に舞った雨粒が、菅原の前髪と、影山の額に落ちる。
「濡れちゃいますよ」
すでにカーテンの裾に染みができているのを、薄闇のなかにみとめる。うん、と菅原は言い、それでもなお動こうとはしない。
「じゅうたんとか、ベッドも」
「うん」
「……菅原さんの、髪も」
指を伸ばして、毛先についた水滴を払う。菅原のまなじりがすうと下がる気配がした。
一瞬、目の端を閃光が走った。遠くの空で雷が鳴り、ひときわつよい風が窓にぶつかる。
「夏が終わるな」
耳に落ちた菅原の声に、心臓がまた、ちくりと痛んだ。あまりにも頼りのない、せつなげな声だった。
「ことし最後の嵐だ」
視界は夜闇に包まれて、たしかなのは触れあっている肌の温度だけだった。
シャツの裾を握っていた手を離し、菅原の指を探す。あたたかいそれを探りあてると、そのまま指先を触れあわせ、しずかに絡めた。やわく握れば握りかえしてくれるかれの反応が愛しかった。
ごめんな、と、菅原は影山の髪に鼻を埋めて言った。
「もうすこし、このままでいよう」
菅原の言葉に頷くことで返答をし、絡めた指にわずかにちからをこめた。
空を雷の音が駆け抜け、雨脚は、やがてつよいものとなってかれらの世界を覆い尽くす。
(初出:2018年9月2日)
畳む
#影菅
影菅
台風が来るんだって。
窓越しに、空の向こうを見あげて菅原はにわかにそう言った。抑揚のないその声に、影山は雑誌に落としていた視線を持ち上げてかれを見た。顔を窓に傾けた菅原の、まるい、ふっくらとした頬の輪郭が、淡い藍色にふちどられている。それでようやく、互いに向かいあってからずい分と時間が経っていたことに気がついた。机の上の時計は午後の六時を差そうとしていた。
「暗くなってきましたね」
雑誌を膝もとに置いて、菅原の視線の先を追う。かれのへやに入った時にはまだ明るかった空は、いつの間にか厚い雲がひろがり、電線の交わっている向こう側は濃い灰色に染まっていた。
うん、と菅原は頷いて、
「ことしは台風が多かったなあ」
浅く、息を吐いた。
たしかに、ことしは台風の頻発した夏だった。影山たちの暮らすまちには特に大きな被害はなかったが、西日本を中心にひどい水害が幾度も起こった。ふだんニュースに疎い影山さえ、報道を耳にするたびにその被害の大きさに目をまるくしたものだった。
「今回の台風が、最後だったらいいっすね」
細く開けた窓のすき間から風が滑りこみ、影山の前髪をさらう。額に感じる風のつめたさに、思わず目をほそめた。あんなに暑かった夏が嘘のように、空気は日ごとに冷えていき、すでに秋の気配があちこちに漂っている。
夏が終わる。
木々の鳴る音が遠くのほうからきこえ、次第につよくなっていく風が窓硝子を揺らした。雲はひろがりつづけ、やがて完全に空を覆い尽くしてしまう。そろそろ雨が落ちてきそうな様子に、窓を閉めたほうがよいのではとくちにしかけたが、じゅうたんの上にぺたりと坐った菅原に動く気配はなく、言葉をかけるタイミングを逸してしまった。
しばらくふたりで、ぼうっと空を見あげていた。
夏休みが終わり、日常が戻っても、ひたすらにボールを繋ぐ日々になに一つ変わりはなかった。菅原の白い肌が、かすかに日に焼けた。夏のあいだに散髪をしたおかげで、影山の髪の毛がわずかに短くなった。変化など、そのていどだった。
「影山」
横顔を影山に晒したまま、菅原がくちを開いた。はい、と律儀に返事をすると、ふいに視線が絡まった。影の落ちた表情は、時間とともにゆっくりと、そのたしかさを失くしていく。夜の色がかれの輪郭を溶かしていくのを、影山は目をほそめて見つめた。
「ちょっと、こっちゃ来」
ひょいひょいと手のひらを動かす菅原の言われるままに身を寄せると、とうとつに手首を引っ張られた。わっ、と声を上げる間もなく、体が菅原の腕の中に閉じこめられてしまう。額に鎖骨のかたちを触覚する。ぎゅうと頭を抱えられ、すがわらさん、と発した声はくぐもって、影山の内側にじん、と響いた。
つむじに菅原の鼻先が押し当てられるのを感じた。
「……汗臭いんで、ちょっと、」
抵抗するにも憚られて、腕の中におさまった態でなんとかそれだけを言う。菅原はふふっと笑って、
「ちょっとな」
と、言った。
髪の毛の感触をたしかめるように、菅原は影山の頭を撫でた。その手のひらの温度に心臓が軋む。かれに触れられると、いつも、影山の体のどこかがせつなく痛んだ。けっしてつよいちからなどではないのに、まるで締めつけられるようなその感触に影山はうろたえ、どうしてよいのだかわからなくなる。菅原のシャツの裾を掴み、額を鎖骨に押しつけて、すがわらさん、と、ちいさな声でかれをよんだ。
「うん?」
頭上に降ってくる声はあくまで優しかった。
「窓、閉めませんか」
雨降りそうですし、風もつよくなってきたし。台風、来るんでしょう? ――影山の提案に、けれど菅原は「うーん」と洩らすばかりで、とりあう様子はない。
首を捻り、わずかなすき間から菅原を見あげる。かれはまた、顔を窓のほうに向けていた。へやはすっかりと暗くなり、薄墨色に染められたそこで、菅原の輪郭もまたおぼろに滲んでいた。
「あ、」
菅原の唇が動いた。「雨だ」。
ぱた、ぱた、と音がして、それはやがて大粒のしずくに変わり窓を叩きはじめる。風に舞った雨粒が、菅原の前髪と、影山の額に落ちる。
「濡れちゃいますよ」
すでにカーテンの裾に染みができているのを、薄闇のなかにみとめる。うん、と菅原は言い、それでもなお動こうとはしない。
「じゅうたんとか、ベッドも」
「うん」
「……菅原さんの、髪も」
指を伸ばして、毛先についた水滴を払う。菅原のまなじりがすうと下がる気配がした。
一瞬、目の端を閃光が走った。遠くの空で雷が鳴り、ひときわつよい風が窓にぶつかる。
「夏が終わるな」
耳に落ちた菅原の声に、心臓がまた、ちくりと痛んだ。あまりにも頼りのない、せつなげな声だった。
「ことし最後の嵐だ」
視界は夜闇に包まれて、たしかなのは触れあっている肌の温度だけだった。
シャツの裾を握っていた手を離し、菅原の指を探す。あたたかいそれを探りあてると、そのまま指先を触れあわせ、しずかに絡めた。やわく握れば握りかえしてくれるかれの反応が愛しかった。
ごめんな、と、菅原は影山の髪に鼻を埋めて言った。
「もうすこし、このままでいよう」
菅原の言葉に頷くことで返答をし、絡めた指にわずかにちからをこめた。
空を雷の音が駆け抜け、雨脚は、やがてつよいものとなってかれらの世界を覆い尽くす。
(初出:2018年9月2日)
畳む
#影菅
月は満ちた
柄丑
「んむ、」
丑嶋の行動はいつも唐突で、柄崎をたやすく混乱させる。コンビニの駐車場、買ってきたアイスコーヒーを両手に持ち、丑嶋の運転するハマーの助手席に乗りこんだ瞬間だった。一瞬、顔にかげが差した、と思ったときには、丑嶋のうすい唇が柄崎のそれに押しつけられていた。
「しゃ、ちょ」
白木蓮の咲き始めた、まだ淡い春のま昼間。コンビニの駐車場には煙草を吹かすサラリーマンや買い食いをする学生の集団がまばらに見えていた。スモークガラスでもなんでもない窓硝子越しに、こちらの様子はきっと丸見えなはずで、だれよりも警戒心のつよい丑嶋がとつぜんにくちづけをしたことに柄崎は驚きを隠せなかった。
――なんで?
くちづけは一瞬で、丑嶋の顔はすぐに離れていった。翳りの溶けた顔を早い春の、やわらかな日ざしが撫でる。丑嶋はフロントガラスのほうを向きなおり、すましている。表情はまるで変わっていない。
へ、なんで? 当然浮かんだ疑問を、だが驚きでくちに出せないまま、柄崎は無言でアイスコーヒーを丑嶋に手渡した。ガラ、と、プラスチックの容器の中で氷が回転し、ちいさな音を鳴らす。
何事もなかったかのようにストローにくちをつけ、中身を吸い上げる丑嶋を見て、ぐ、と唾を飲んだ。くちづけられたせいで、気分が高揚している。上下するのどぼとけが色っぽく、今すぐ嚙みついてしまいたいと思う。そんなことをしたらどうなるだろう、と、熱を帯びた頭で柄崎は思考する。思考すればすぐにでも実行したくなり、体を前傾させて丑嶋に顔を近づけた。切れ長の目が柄崎を見た。
「なに」
いつもの、なにも変わらない平坦な声。ストローをくわえているせいで少しくぐもっている。
「あの、も、」
もし、よかったら。ホテル。行きません?
切れ切れに言う柄崎を、丑嶋はしばらく見つめていたが、すぐに視線を外して、
「なんで」
と、言った。
「え!」
「つーか仕事中だろが」
「だ、だって!」
「なに」
じゃあなんで、いまキスしたんすか! 顔をまっ赤にさせている柄崎は車の外にも聞こえてしまいそうな声で叫んだ。ウルセーよ。丑嶋は舌打ちをして、アイスコーヒーの容器をドリンクホルダーに置き、エンジンをかけた。燃料の燃える音が振動となって柄崎の尻から背中にかけて上ってくる。
ハマーを発進させ、コンビニの駐車場を出るとあっという間に太い国道に乗った。あとはこのまま真っすぐ取り立て先の現場に向かうだけだ。
――社長の考えてることがわかんねー。
まだ熱を残してじんじんする皮ふを持て余しながら、頭を抱えたい気持ちで柄崎もアイスコーヒーを一口飲んだ。コンビニのコーヒーにしてはマシな味がする。勢いよく半分飲んで、膝のあいだに容器を握った手を落ちつけた。
「……社長、ずるいっすよ、そーゆーのは」
ひとり言のように、言う。道路を擦るタイヤの音に紛れて、丑嶋の耳に届いたかはわからない。柄崎は、だが、つづけた。「そーゆー、ふい打ちみたいなのは」。
どうしたらいいのかわからなくなる。でも、どうもしなくていいのかもしれない。ただ丑嶋のしたいように、求められるままに、与えればよいのかもしれない。とつぜんのくちづけも、かれがそうしたいのだったら、いくらでも体を差しだせばよい。いや、むしろ、それが柄崎の望みでもあるのだから。
「知ってる」
にわかに丑嶋の声がして、柄崎はハッとして顔を上げた。前方を睨みながら、丑嶋はステアリングを握っている。目をまるくさせている柄崎には、丑嶋の言葉の意味がつかめなかった。つかめなかったが、火照った体はじょじょにさめて、やがて心地のよい温度に変わり柄崎をあたためていった。
「……はい」
こくん、と頷く自分は子どものようだったのではないか。そのさまを丑嶋に見られるのはひどく恥ずかしかったが、車内に逃げ場はない。ふたりきり、シートに並んで振動に揺られている。この車の窓硝子の向こうから、俺たちはどんなふうに見えてるんだろう。さっき、コンビニの駐車場でくちづけられたとき、もしも誰かに見られていたとして、俺はこの人の恋人なのだからなんの問題もない気持ちになっていた。
「好きっす。社長」
俯きながら言う。丑嶋から言葉は返ってこなかったが、柄崎は満足だった。
体も心もすべて、渡すことをゆるされている――そのことが柄崎をひたひたと満たしていた。
(初出:2022年2月18日)
畳む
#柄丑
柄丑
「んむ、」
丑嶋の行動はいつも唐突で、柄崎をたやすく混乱させる。コンビニの駐車場、買ってきたアイスコーヒーを両手に持ち、丑嶋の運転するハマーの助手席に乗りこんだ瞬間だった。一瞬、顔にかげが差した、と思ったときには、丑嶋のうすい唇が柄崎のそれに押しつけられていた。
「しゃ、ちょ」
白木蓮の咲き始めた、まだ淡い春のま昼間。コンビニの駐車場には煙草を吹かすサラリーマンや買い食いをする学生の集団がまばらに見えていた。スモークガラスでもなんでもない窓硝子越しに、こちらの様子はきっと丸見えなはずで、だれよりも警戒心のつよい丑嶋がとつぜんにくちづけをしたことに柄崎は驚きを隠せなかった。
――なんで?
くちづけは一瞬で、丑嶋の顔はすぐに離れていった。翳りの溶けた顔を早い春の、やわらかな日ざしが撫でる。丑嶋はフロントガラスのほうを向きなおり、すましている。表情はまるで変わっていない。
へ、なんで? 当然浮かんだ疑問を、だが驚きでくちに出せないまま、柄崎は無言でアイスコーヒーを丑嶋に手渡した。ガラ、と、プラスチックの容器の中で氷が回転し、ちいさな音を鳴らす。
何事もなかったかのようにストローにくちをつけ、中身を吸い上げる丑嶋を見て、ぐ、と唾を飲んだ。くちづけられたせいで、気分が高揚している。上下するのどぼとけが色っぽく、今すぐ嚙みついてしまいたいと思う。そんなことをしたらどうなるだろう、と、熱を帯びた頭で柄崎は思考する。思考すればすぐにでも実行したくなり、体を前傾させて丑嶋に顔を近づけた。切れ長の目が柄崎を見た。
「なに」
いつもの、なにも変わらない平坦な声。ストローをくわえているせいで少しくぐもっている。
「あの、も、」
もし、よかったら。ホテル。行きません?
切れ切れに言う柄崎を、丑嶋はしばらく見つめていたが、すぐに視線を外して、
「なんで」
と、言った。
「え!」
「つーか仕事中だろが」
「だ、だって!」
「なに」
じゃあなんで、いまキスしたんすか! 顔をまっ赤にさせている柄崎は車の外にも聞こえてしまいそうな声で叫んだ。ウルセーよ。丑嶋は舌打ちをして、アイスコーヒーの容器をドリンクホルダーに置き、エンジンをかけた。燃料の燃える音が振動となって柄崎の尻から背中にかけて上ってくる。
ハマーを発進させ、コンビニの駐車場を出るとあっという間に太い国道に乗った。あとはこのまま真っすぐ取り立て先の現場に向かうだけだ。
――社長の考えてることがわかんねー。
まだ熱を残してじんじんする皮ふを持て余しながら、頭を抱えたい気持ちで柄崎もアイスコーヒーを一口飲んだ。コンビニのコーヒーにしてはマシな味がする。勢いよく半分飲んで、膝のあいだに容器を握った手を落ちつけた。
「……社長、ずるいっすよ、そーゆーのは」
ひとり言のように、言う。道路を擦るタイヤの音に紛れて、丑嶋の耳に届いたかはわからない。柄崎は、だが、つづけた。「そーゆー、ふい打ちみたいなのは」。
どうしたらいいのかわからなくなる。でも、どうもしなくていいのかもしれない。ただ丑嶋のしたいように、求められるままに、与えればよいのかもしれない。とつぜんのくちづけも、かれがそうしたいのだったら、いくらでも体を差しだせばよい。いや、むしろ、それが柄崎の望みでもあるのだから。
「知ってる」
にわかに丑嶋の声がして、柄崎はハッとして顔を上げた。前方を睨みながら、丑嶋はステアリングを握っている。目をまるくさせている柄崎には、丑嶋の言葉の意味がつかめなかった。つかめなかったが、火照った体はじょじょにさめて、やがて心地のよい温度に変わり柄崎をあたためていった。
「……はい」
こくん、と頷く自分は子どものようだったのではないか。そのさまを丑嶋に見られるのはひどく恥ずかしかったが、車内に逃げ場はない。ふたりきり、シートに並んで振動に揺られている。この車の窓硝子の向こうから、俺たちはどんなふうに見えてるんだろう。さっき、コンビニの駐車場でくちづけられたとき、もしも誰かに見られていたとして、俺はこの人の恋人なのだからなんの問題もない気持ちになっていた。
「好きっす。社長」
俯きながら言う。丑嶋から言葉は返ってこなかったが、柄崎は満足だった。
体も心もすべて、渡すことをゆるされている――そのことが柄崎をひたひたと満たしていた。
(初出:2022年2月18日)
畳む
#柄丑
世界をかえるつもりはない
最終軸ばじとら(ふゆ)
誰もしなず、ころさず、ころされず、大人になった世界線。
世界をかえるつもりはない / yuko ando
どこにいても正しくない気がした。だからってオレを選ばなくていいだろうよって、オレの言い分を聞いたならそう言いそうだけれど、オレの選択肢にはオマエしかいなかったのだ。それはたぶん、最初っから。
場地の尖った顎が夜の中に輪郭を描いていた。目の前にある顔はガキのころからあまり変わっていなくて、オレをひどく安心させる。
狭い部屋の空気はふたりぶんのアルコールの摂取量と比例して濃く濁っていた。缶ビールと酎ハイを交互に飲んで、したたかに酔うとそのまんま、リビングの床に転がって眠る。バカでのんきな大学生みたいだ。
実際に場地は大学生だったけれどオレは一応社会人で、こんなことをしている場合ではないのかもしれない。場地とは同級で、今年二十七歳。アラサー。ペットショップで働いている。年下の上司がいて、コイツがまあ口うるさい。でも、なんだかんだで今の日々は楽しい。
あんなに飲んだわりに頭はすっきりしていて、完全に覚醒していた。場地の長い髪の毛が視界の中でうねっている。さわれそうだった。
手を、伸ばしてみた。場地の頬に触れようとした指が、宙で止まった。
夜の闇の中でも、場地の痩せた頬やつんと上を向いた鼻はよく見えた。闇に目が慣れるくらいにオレは場地を見つめていたのだった。
伸ばした手を引いて、床に下ろした。オレの手も、指も、オレのものなのにそんな気がしなかった。オレは場地にさわりたかったのに、手と指がそれをさせなかった。行動は意思に反した。自覚すると背筋がゾッとした。
仰向けになって眠る場地に、ほんの少しだけ身を寄せる。カーペットの表面を体が擦る。安物のカーペットはざらざらとしていてけっして寝心地のよいものではなく、そもそも直接この上に寝転がることは推奨されていないのだろう。
場地の顔に先ほどよりも数センチ近づいて、近づいたぶんだけ呼吸の音や体温が濃く感じられた。触れようと思えば触れられる距離にいて、でもそれをオレの手や指がゆるさない。だからオレにはなにもできない。
頬をカーペットに押しつけて横顔を見つめる。ふいに心細さに襲われる。どこにいても正しくないと感じていた、ガキのころからある焦燥が、また。だからってなんでオレ? へらへらと笑う場地を思い浮かべる。場地は笑いながらオレの頭を乱暴に撫でる。――ぜんぶオレの妄想で、願望で、だからこんなにもせつなくて胸が苦しい。どこにいればよいのかわからない、場地の隣なら安心できる、そう思った。単純に、そう思ったのだ。
「なあ場地。……さわってもいい?」
つぶやきはたやすく溶けてしまう。はなから届けるつもりのない声だから、どうでもよかった。
目を閉じた。場地の世界を壊すことはできないと思った。オレ自身の世界も、そうだ。なにもしない、なにもできない、なにもかえられない。
夜はいつも世界を押し潰そうと躍起になる。今夜もどこかで誰かの世界が壊れたり壊されたり、新しくうまれたり、しているんだろう。かえられるだけの力がない、それは絶望のようにも希望のようにも思えた。不思議と涙は出なかった。
こんなにせつなくて苦しいのに、少しも涙は出なかった。
畳む
最終軸ばじとら(ふゆ)
誰もしなず、ころさず、ころされず、大人になった世界線。
世界をかえるつもりはない / yuko ando
どこにいても正しくない気がした。だからってオレを選ばなくていいだろうよって、オレの言い分を聞いたならそう言いそうだけれど、オレの選択肢にはオマエしかいなかったのだ。それはたぶん、最初っから。
場地の尖った顎が夜の中に輪郭を描いていた。目の前にある顔はガキのころからあまり変わっていなくて、オレをひどく安心させる。
狭い部屋の空気はふたりぶんのアルコールの摂取量と比例して濃く濁っていた。缶ビールと酎ハイを交互に飲んで、したたかに酔うとそのまんま、リビングの床に転がって眠る。バカでのんきな大学生みたいだ。
実際に場地は大学生だったけれどオレは一応社会人で、こんなことをしている場合ではないのかもしれない。場地とは同級で、今年二十七歳。アラサー。ペットショップで働いている。年下の上司がいて、コイツがまあ口うるさい。でも、なんだかんだで今の日々は楽しい。
あんなに飲んだわりに頭はすっきりしていて、完全に覚醒していた。場地の長い髪の毛が視界の中でうねっている。さわれそうだった。
手を、伸ばしてみた。場地の頬に触れようとした指が、宙で止まった。
夜の闇の中でも、場地の痩せた頬やつんと上を向いた鼻はよく見えた。闇に目が慣れるくらいにオレは場地を見つめていたのだった。
伸ばした手を引いて、床に下ろした。オレの手も、指も、オレのものなのにそんな気がしなかった。オレは場地にさわりたかったのに、手と指がそれをさせなかった。行動は意思に反した。自覚すると背筋がゾッとした。
仰向けになって眠る場地に、ほんの少しだけ身を寄せる。カーペットの表面を体が擦る。安物のカーペットはざらざらとしていてけっして寝心地のよいものではなく、そもそも直接この上に寝転がることは推奨されていないのだろう。
場地の顔に先ほどよりも数センチ近づいて、近づいたぶんだけ呼吸の音や体温が濃く感じられた。触れようと思えば触れられる距離にいて、でもそれをオレの手や指がゆるさない。だからオレにはなにもできない。
頬をカーペットに押しつけて横顔を見つめる。ふいに心細さに襲われる。どこにいても正しくないと感じていた、ガキのころからある焦燥が、また。だからってなんでオレ? へらへらと笑う場地を思い浮かべる。場地は笑いながらオレの頭を乱暴に撫でる。――ぜんぶオレの妄想で、願望で、だからこんなにもせつなくて胸が苦しい。どこにいればよいのかわからない、場地の隣なら安心できる、そう思った。単純に、そう思ったのだ。
「なあ場地。……さわってもいい?」
つぶやきはたやすく溶けてしまう。はなから届けるつもりのない声だから、どうでもよかった。
目を閉じた。場地の世界を壊すことはできないと思った。オレ自身の世界も、そうだ。なにもしない、なにもできない、なにもかえられない。
夜はいつも世界を押し潰そうと躍起になる。今夜もどこかで誰かの世界が壊れたり壊されたり、新しくうまれたり、しているんだろう。かえられるだけの力がない、それは絶望のようにも希望のようにも思えた。不思議と涙は出なかった。
こんなにせつなくて苦しいのに、少しも涙は出なかった。
畳む
ちゅっちゅしてるとらふゆ(書きかけ)/22軸
※ほんとうに書きかけです。
―――
ふいに赤い舌が見えて、かと思ったらくちびるをぺろりと舐められた。生ぬるくてかすかに苦い、唾液の味がした(苦いのは、たばこのせいだとすぐにわかった)。わ。驚いて身を引こうとしたけれどいつのまにか腰を掴まれ、身動きを封じられていた。腰を引き寄せられて、ちゅ、ちゅ、と続け様にくちづけられる。くちびるのすきまからもれる息が熱い。
「ちょっ、こら、一虎くんっ」
「んー?」
一虎くんはオレの声など聞こえていないかのようにあむあむと耳たぶを甘噛みする。耳もとでしゃべられると空気の振動が直に伝って、脳の奥らへんがじんと疼いた。ばか、しゃべるな! いっそう叫びたい気持ちで、でも震えは快感に直接結びつく。意思とは無関係にきもちいい、と感じてしまう従順さがただ酷だった。オレは体をぎゅうっと縮めて、一虎くんにされるがままの玩具に成り果ててしまう。
なにがスイッチになったのかは知らないけれど、一虎くんはすっかり発情してオレの体のあちらこちらを触り、くちびるを額や鼻のあたまや頬に擦りつけてくる。べつにアルコールが入っているわけでもない。酔っているわけじゃない。だのに積極的すぎる一虎くんに、オレは怯んだ。
「かずとらく、ぅんっ」
オレの口をキスで塞ぐ。てのひらが下腹部をさ迷い、やがてパーカーの裾を捲り上げた。腹の上に乗せていたてのひらがすきまから滑りこんできて、腹筋をなぞる。背筋がぞわりと粟立った。
ひ。オレは悲鳴に近い声をあげて、両腕で顔を覆う。
「っ、こ、わいぃ」
一虎くんがいつも漂わせているいい匂いが、熱を帯びてすっかり火照った吐息が、崖っぷちにじりじりと追いつめていくようで怖かった。拒絶するつもりはなかったが、無意識のうちに嫌々と首をふっていた。性急だった一虎くんの動きが止まる。ちふゆ。小さな声で、名前を呼ぶ。オレは腕のすきまからそっと視線を向けた。眉尻を下げて、困ったような表情で、一虎くんはオレを見つめていた。赤く染まった頬が彼をいつもより幼く見せた。
「ご、ごめん、」
身を引いて、床の上にぺたんと座りこむ。普段ではあまり見ないしおらしい姿が、なんだかかわいそうだった。オレは顔を隠していた腕を下ろすと、力なく膝に落ちた一虎くんの手に触れた。
「……こっちこそ、ごめん」
ちょっと、びっくりして。言い訳みたいにオレが言うと、一虎くんは気まずそうに視線を泳がせた。
「オレとすんの、怖い?」
えっ? とオレは問い返した。一虎くんは言葉を探しつつ、続けた。
「オレにさわられんの、やっぱ、気持ち悪ぃ?」
「そっ、そんなこと、ない」
一虎くんの問いかけに首をふる一方で、よろこびが水のように湧き上がってくるのを感じた。かわいい人だ、と思った。オレの表情や挙動のいちいちに反応して不安がる一虎くんが、どうしようもなくかわいかった。そんなふうに思うオレの性癖は歪んでるのかもしれない。すなおに告白したら気味悪く思われて引かれるかも。
心のうちを悟られることに怯えながらも、一虎くんの頬を撫でた。頭を抱くと、遠慮がちに腕が伸びてくる。一虎くんの腕はオレよりも長くてしなやかで、うつくしいそれがオレの首に巻きついて絡まるのは心地好かった。
「オレ、アンタのことがすきですよ」
―――
畳む
※ほんとうに書きかけです。
―――
ふいに赤い舌が見えて、かと思ったらくちびるをぺろりと舐められた。生ぬるくてかすかに苦い、唾液の味がした(苦いのは、たばこのせいだとすぐにわかった)。わ。驚いて身を引こうとしたけれどいつのまにか腰を掴まれ、身動きを封じられていた。腰を引き寄せられて、ちゅ、ちゅ、と続け様にくちづけられる。くちびるのすきまからもれる息が熱い。
「ちょっ、こら、一虎くんっ」
「んー?」
一虎くんはオレの声など聞こえていないかのようにあむあむと耳たぶを甘噛みする。耳もとでしゃべられると空気の振動が直に伝って、脳の奥らへんがじんと疼いた。ばか、しゃべるな! いっそう叫びたい気持ちで、でも震えは快感に直接結びつく。意思とは無関係にきもちいい、と感じてしまう従順さがただ酷だった。オレは体をぎゅうっと縮めて、一虎くんにされるがままの玩具に成り果ててしまう。
なにがスイッチになったのかは知らないけれど、一虎くんはすっかり発情してオレの体のあちらこちらを触り、くちびるを額や鼻のあたまや頬に擦りつけてくる。べつにアルコールが入っているわけでもない。酔っているわけじゃない。だのに積極的すぎる一虎くんに、オレは怯んだ。
「かずとらく、ぅんっ」
オレの口をキスで塞ぐ。てのひらが下腹部をさ迷い、やがてパーカーの裾を捲り上げた。腹の上に乗せていたてのひらがすきまから滑りこんできて、腹筋をなぞる。背筋がぞわりと粟立った。
ひ。オレは悲鳴に近い声をあげて、両腕で顔を覆う。
「っ、こ、わいぃ」
一虎くんがいつも漂わせているいい匂いが、熱を帯びてすっかり火照った吐息が、崖っぷちにじりじりと追いつめていくようで怖かった。拒絶するつもりはなかったが、無意識のうちに嫌々と首をふっていた。性急だった一虎くんの動きが止まる。ちふゆ。小さな声で、名前を呼ぶ。オレは腕のすきまからそっと視線を向けた。眉尻を下げて、困ったような表情で、一虎くんはオレを見つめていた。赤く染まった頬が彼をいつもより幼く見せた。
「ご、ごめん、」
身を引いて、床の上にぺたんと座りこむ。普段ではあまり見ないしおらしい姿が、なんだかかわいそうだった。オレは顔を隠していた腕を下ろすと、力なく膝に落ちた一虎くんの手に触れた。
「……こっちこそ、ごめん」
ちょっと、びっくりして。言い訳みたいにオレが言うと、一虎くんは気まずそうに視線を泳がせた。
「オレとすんの、怖い?」
えっ? とオレは問い返した。一虎くんは言葉を探しつつ、続けた。
「オレにさわられんの、やっぱ、気持ち悪ぃ?」
「そっ、そんなこと、ない」
一虎くんの問いかけに首をふる一方で、よろこびが水のように湧き上がってくるのを感じた。かわいい人だ、と思った。オレの表情や挙動のいちいちに反応して不安がる一虎くんが、どうしようもなくかわいかった。そんなふうに思うオレの性癖は歪んでるのかもしれない。すなおに告白したら気味悪く思われて引かれるかも。
心のうちを悟られることに怯えながらも、一虎くんの頬を撫でた。頭を抱くと、遠慮がちに腕が伸びてくる。一虎くんの腕はオレよりも長くてしなやかで、うつくしいそれがオレの首に巻きついて絡まるのは心地好かった。
「オレ、アンタのことがすきですよ」
―――
畳む
ふゆとら(22軸)
あたたかな体温に包まれて深く眠り、目覚める朝はいつだって幸福に満ちている。こんなおとなになることを少年の自分は想像していなかっただろうと、千冬は浅く息をはく。
すくなくとも、彼とこうして体を寄せ合う関係になる、なんてことは。
少しでも身動ぎをすると背中に張りついている一虎を起こしてしまいそうで、完全に目がさめても背後から彼に抱かれたまま、千冬はベッドの中でおとなしくしている。寝巻き越しに感じる肌の温度や湿っぽさ、耳もとをなぜる穏やかな呼吸は、一虎が生きて、今ここにいることの証明だった。
胸の前に無防備に落ちている手に、そっと触れた。手の甲を指さきでなぞり、輪郭をたしかめる。あたたかくて、人の手のかたちをしている。おとなの、男の、手だった。
これ、オレのだ。ふと、千冬は思った。この人は、オレのものだ。
ちふゆ。耳朶に、生ぬるい息がかかった。注がれた声は、小さなどうぶつの類が甘えるようなやわらかさをはらんでいた。千冬は首を捻って、そちらに視線を向けた。一虎の瞼はまだほとんど降りていて、長いまつ毛が細やかに震えていた。
一瞬、さっきのは寝言かと思ったのだが、触れていた手が動いて千冬の指に絡まってきたので、彼が目を覚ましたことを知った。
「おはようございます」
体を反転させて、一虎のほうに向いた。一虎は空いているほうの手で目を擦り、額にかかった長い前髪をかき上げた。「眠ぃ」とひとこと、もらす。千冬はくすくすと笑った。
「べつに、まだ寝ていていいんスよ」
休みなんだし、なんの予定もないし。そう続けると、一虎は千冬の肩を引き寄せて、強い力で抱きしめてきた。鼻先が固い鎖骨に当たり、一瞬にして一虎の匂いに包まれる。少し湿った、肌の匂い。無意識のうちに、千冬の体の奥が疼く。
「……一虎くんて、いい匂いしますよね」
にわかに噴き出した欲求を悟られないように、ゆっくりとした調子で言った。
「香水のせいじゃねぇの」
一虎もまたのんびりと返した。千冬は首をふった。一虎のくびすじに頬を押しつけて、思いきり息を吸う。
「じゃなくて、一虎くんそのものの匂い。いい匂い」
一虎はくつくつと笑って、「オマエ、変態かよ」と言った。おかしそうに、愉快そうに、自分相手に言葉を交わしてくれることが千冬にはうれしくて、こちらも力をこめて一虎の体を抱きしめた。
「千冬はなんか、埃っぽい匂いする」
千冬の髪の毛に鼻を埋めて、一虎は言った。
「ええ……、なんスかその悪口」
「外干しした布団の匂い」
すんすん、と鼻を動かした。太陽の匂いがする。一虎はそう、静かに続けた。
「それっていい匂いなんスか」
どうだろ、わかんねぇけど、と一虎は言った。「でも、オレはすき」
一虎の腕の中で、一虎の声を聞いているうちに、頬が熱を帯びてゆく。ゆっくりと上昇する体温に、彼は気づいているだろうか。気づいていたとしたら、なにを思うだろうか。不安になると同時に、わずかな期待が芽生えていることに千冬は呆れた。
「してぇの?」
「えっ」
唐突に、一虎が耳もとに囁いた。くの字に曲げていた千冬の膝のあいだに足を入れ、するすると絡ませてくる。ズボンのすきまから脛をなぜた、足のつまさきがつめたかった。
「しても、いいけど」
視線が絡まる。一虎の瞳は透きとおっていて、かすかに潤んでいるように見えた。
すう、と視線を逸らして、千冬は再び一虎の胸もとに顔を沈めた。んん、と、あいまいな声をもらし、額を鎖骨に擦りつける。
店であつかっている仔猫が似たような動きを、母猫にたいしてしていた。その姿を思いだして、気恥ずかしさにいっそう顔を上げられなくなった。
このままでいい。――ちがう、このままがいい。千冬は思った。口には出せなかったが、膝を割ってきた一虎の足に、自らの足を絡めて、数回深い呼吸をした。
一虎の匂いをかぐ。あたたかい体温に包まれる。幼いころには想像もできなかった未来を、ふたりで生きている。ふたりで、朝を迎える。そうして、やがて夜がおりてくる。そのくりかえしの毎日を、これからもずっと続けてゆく。
すき、を声に乗せることはできなかった。腕いっぱいで一虎を抱きしめて、まるでそれしかできないどうぶつのように。
畳む
あたたかな体温に包まれて深く眠り、目覚める朝はいつだって幸福に満ちている。こんなおとなになることを少年の自分は想像していなかっただろうと、千冬は浅く息をはく。
すくなくとも、彼とこうして体を寄せ合う関係になる、なんてことは。
少しでも身動ぎをすると背中に張りついている一虎を起こしてしまいそうで、完全に目がさめても背後から彼に抱かれたまま、千冬はベッドの中でおとなしくしている。寝巻き越しに感じる肌の温度や湿っぽさ、耳もとをなぜる穏やかな呼吸は、一虎が生きて、今ここにいることの証明だった。
胸の前に無防備に落ちている手に、そっと触れた。手の甲を指さきでなぞり、輪郭をたしかめる。あたたかくて、人の手のかたちをしている。おとなの、男の、手だった。
これ、オレのだ。ふと、千冬は思った。この人は、オレのものだ。
ちふゆ。耳朶に、生ぬるい息がかかった。注がれた声は、小さなどうぶつの類が甘えるようなやわらかさをはらんでいた。千冬は首を捻って、そちらに視線を向けた。一虎の瞼はまだほとんど降りていて、長いまつ毛が細やかに震えていた。
一瞬、さっきのは寝言かと思ったのだが、触れていた手が動いて千冬の指に絡まってきたので、彼が目を覚ましたことを知った。
「おはようございます」
体を反転させて、一虎のほうに向いた。一虎は空いているほうの手で目を擦り、額にかかった長い前髪をかき上げた。「眠ぃ」とひとこと、もらす。千冬はくすくすと笑った。
「べつに、まだ寝ていていいんスよ」
休みなんだし、なんの予定もないし。そう続けると、一虎は千冬の肩を引き寄せて、強い力で抱きしめてきた。鼻先が固い鎖骨に当たり、一瞬にして一虎の匂いに包まれる。少し湿った、肌の匂い。無意識のうちに、千冬の体の奥が疼く。
「……一虎くんて、いい匂いしますよね」
にわかに噴き出した欲求を悟られないように、ゆっくりとした調子で言った。
「香水のせいじゃねぇの」
一虎もまたのんびりと返した。千冬は首をふった。一虎のくびすじに頬を押しつけて、思いきり息を吸う。
「じゃなくて、一虎くんそのものの匂い。いい匂い」
一虎はくつくつと笑って、「オマエ、変態かよ」と言った。おかしそうに、愉快そうに、自分相手に言葉を交わしてくれることが千冬にはうれしくて、こちらも力をこめて一虎の体を抱きしめた。
「千冬はなんか、埃っぽい匂いする」
千冬の髪の毛に鼻を埋めて、一虎は言った。
「ええ……、なんスかその悪口」
「外干しした布団の匂い」
すんすん、と鼻を動かした。太陽の匂いがする。一虎はそう、静かに続けた。
「それっていい匂いなんスか」
どうだろ、わかんねぇけど、と一虎は言った。「でも、オレはすき」
一虎の腕の中で、一虎の声を聞いているうちに、頬が熱を帯びてゆく。ゆっくりと上昇する体温に、彼は気づいているだろうか。気づいていたとしたら、なにを思うだろうか。不安になると同時に、わずかな期待が芽生えていることに千冬は呆れた。
「してぇの?」
「えっ」
唐突に、一虎が耳もとに囁いた。くの字に曲げていた千冬の膝のあいだに足を入れ、するすると絡ませてくる。ズボンのすきまから脛をなぜた、足のつまさきがつめたかった。
「しても、いいけど」
視線が絡まる。一虎の瞳は透きとおっていて、かすかに潤んでいるように見えた。
すう、と視線を逸らして、千冬は再び一虎の胸もとに顔を沈めた。んん、と、あいまいな声をもらし、額を鎖骨に擦りつける。
店であつかっている仔猫が似たような動きを、母猫にたいしてしていた。その姿を思いだして、気恥ずかしさにいっそう顔を上げられなくなった。
このままでいい。――ちがう、このままがいい。千冬は思った。口には出せなかったが、膝を割ってきた一虎の足に、自らの足を絡めて、数回深い呼吸をした。
一虎の匂いをかぐ。あたたかい体温に包まれる。幼いころには想像もできなかった未来を、ふたりで生きている。ふたりで、朝を迎える。そうして、やがて夜がおりてくる。そのくりかえしの毎日を、これからもずっと続けてゆく。
すき、を声に乗せることはできなかった。腕いっぱいで一虎を抱きしめて、まるでそれしかできないどうぶつのように。
畳む
ドラマイ
できるだけ日陰をえらんで歩いた。数メートル離れた斜め前方に、猫背気味の堅の後ろ姿があった。いつもどおりの静かな背中で、肩を怒らせているわけでもなく、傍から見れば機嫌を損ねているとは思われない。そのことが万次郎をひどくさみしい気もちにさせた。
長身の堅の影は長い。足を踏み出すたび、右に、左に、揺れる。彼が好んで日なたを歩いているわけではないことを、万次郎は知っていた。自分と一直線に並びたくないのだ、と。そう思うと苛立った。けれど万次郎は唇を引き結び、文句を飲みこむ。
喧嘩なんて名づけられないくらいの、他愛のない悪戯の応酬だった。万次郎にとってはじゃれあいとおなじで、だからふと堅の表情がかげったとき、万次郎は咄嗟に、やりすぎた、と口もとを抑えた。むっつりと黙ってしまった堅は顔を背けて、やがて万次郎に背中を向けた。「ちょっと、ケンチン!」と万次郎は叫んだ。声をかけても立ち止まらない堅に腹が立ったけれど、勝手に離れていかれるのもいやで、彼の背中を追って歩き始めた。ビーチサンダルのうすっぺらいソールが砂利を踏んで、乾いた音を立てた。
くだらないやりとりがこんな事態を招いてしまったことを、万次郎は後悔した。いつものように肩を並べて歩きたいのに、堅は立ち止まらないし歩調も緩めない。
――ああ、
万次郎は顔を上げた。いつも、なんだかだるそうに歩いていたのは、オレの歩幅に合わせてくれていたから? 身長差もあって、ふたりの歩幅にはそれなりの差がある。堅の一歩は万次郎の二歩で、けれどそれを気づかせないほど、万次郎の歩幅やスピードに合わせて堅は歩いていた。
だからいっしょに歩けてたのかな、オレが気づかなかっただけで。ケンチンは優しいから。
並んで歩けないことが、万次郎の胸を締めつけた。待って、と追いかけるのは悔しくて、けれどなにも言わないでいれば距離はどんどん離れていってしまう。
勝手に、離れていくなよ。
ふと、前方で揺れていた影の動きが止まる。万次郎は足もとに落としていた視線を上げた。堅が振り返って、万次郎を見ていた。切長の目をこちらに向けて、マイキー、と、いつもの声音で呼んだ。
「遅ぇよ、早くこっち来い」
堅はぶっきらぼうに言って、右手を差し出した。ケンチンがさっさと歩いていったんじゃん、と文句を言いたかったけれど、なにもかもを後回しにして万次郎は堅に駆け寄った。ぎゅうと握りしめた手は大きく、あたたかかった。
(2023.08.28)
――離れていくのはどちらだろうか
畳む
できるだけ日陰をえらんで歩いた。数メートル離れた斜め前方に、猫背気味の堅の後ろ姿があった。いつもどおりの静かな背中で、肩を怒らせているわけでもなく、傍から見れば機嫌を損ねているとは思われない。そのことが万次郎をひどくさみしい気もちにさせた。
長身の堅の影は長い。足を踏み出すたび、右に、左に、揺れる。彼が好んで日なたを歩いているわけではないことを、万次郎は知っていた。自分と一直線に並びたくないのだ、と。そう思うと苛立った。けれど万次郎は唇を引き結び、文句を飲みこむ。
喧嘩なんて名づけられないくらいの、他愛のない悪戯の応酬だった。万次郎にとってはじゃれあいとおなじで、だからふと堅の表情がかげったとき、万次郎は咄嗟に、やりすぎた、と口もとを抑えた。むっつりと黙ってしまった堅は顔を背けて、やがて万次郎に背中を向けた。「ちょっと、ケンチン!」と万次郎は叫んだ。声をかけても立ち止まらない堅に腹が立ったけれど、勝手に離れていかれるのもいやで、彼の背中を追って歩き始めた。ビーチサンダルのうすっぺらいソールが砂利を踏んで、乾いた音を立てた。
くだらないやりとりがこんな事態を招いてしまったことを、万次郎は後悔した。いつものように肩を並べて歩きたいのに、堅は立ち止まらないし歩調も緩めない。
――ああ、
万次郎は顔を上げた。いつも、なんだかだるそうに歩いていたのは、オレの歩幅に合わせてくれていたから? 身長差もあって、ふたりの歩幅にはそれなりの差がある。堅の一歩は万次郎の二歩で、けれどそれを気づかせないほど、万次郎の歩幅やスピードに合わせて堅は歩いていた。
だからいっしょに歩けてたのかな、オレが気づかなかっただけで。ケンチンは優しいから。
並んで歩けないことが、万次郎の胸を締めつけた。待って、と追いかけるのは悔しくて、けれどなにも言わないでいれば距離はどんどん離れていってしまう。
勝手に、離れていくなよ。
ふと、前方で揺れていた影の動きが止まる。万次郎は足もとに落としていた視線を上げた。堅が振り返って、万次郎を見ていた。切長の目をこちらに向けて、マイキー、と、いつもの声音で呼んだ。
「遅ぇよ、早くこっち来い」
堅はぶっきらぼうに言って、右手を差し出した。ケンチンがさっさと歩いていったんじゃん、と文句を言いたかったけれど、なにもかもを後回しにして万次郎は堅に駆け寄った。ぎゅうと握りしめた手は大きく、あたたかかった。
(2023.08.28)
――離れていくのはどちらだろうか
畳む
ドラマイ
ケンチンに触りたい、と思った。それで、すなおにそう言った。「いつもベタベタ触ってんじゃねーか」とケンチンは言った。ちょっとだけ笑って。そうだけど、とオレは言った。そう、それはそう、だけど。でもちがう。そうじゃなくって。
容赦なく注ぐ日ざしは背中に熱くって、なにもかもを焼き尽くそうとしてるみたいだった。真夏の昼下がり。暑い暑いと言うオレのために、ケンチンはコンビニに寄ってアイスを買ってくれた。わずかな日陰を求めてコンビニの裏手にまわり、車止めに尻を乗せてアイスの封を切った。冷気が鼻先を掠めた。みず色をしたいかにもつめたそうな氷菓に齧りつく。「冷て」、とオレが笑うと、ケンチンもアイスを齧って「冷てー」と言った。中学に上がって、はじめての夏だった。日陰といっても蒸された空気はしつっこく肌にまとわりついた。隣に座ったケンチンはしゃりしゃりと音を立ててアイスを齧っている。その横顔を見ていると、ふいに体のおくが、むずっ、とした。むずっ?――そんな感触ははじめてのもので、でも、すぐに欲求が追いついて、噴き出した違和感を覆ってしまった。ケンチンに触りたい。なぜか、そのとき、そう思ったのだった。
車止めに置かれたケンチンの左手に、指を伸ばした。触れる。しっとりと汗の滲んだ皮ふがあった。皮ふはうすくて、骨のかたちが伝わってくる。はじめて、ケンチンそのものに触れた気がした。しばらく手の甲をなぞっていると、頭の上のほうから「くすぐってぇよ」というケンチンの声が聞こえて目をあげる。逆光の中にケンチンの顔があって、表情は見えなかった。構わず、指の腹で湿っぽい皮ふを撫でた。ケンチンはされるがまま、もうなにも言わなかった。
蒸れた空気のせいで呼吸が苦しかった。でもほんとうにそれだけのせいなのか、ガキんちょのオレにはまだよくわからなかった。
(2023.08.16)
畳む
ケンチンに触りたい、と思った。それで、すなおにそう言った。「いつもベタベタ触ってんじゃねーか」とケンチンは言った。ちょっとだけ笑って。そうだけど、とオレは言った。そう、それはそう、だけど。でもちがう。そうじゃなくって。
容赦なく注ぐ日ざしは背中に熱くって、なにもかもを焼き尽くそうとしてるみたいだった。真夏の昼下がり。暑い暑いと言うオレのために、ケンチンはコンビニに寄ってアイスを買ってくれた。わずかな日陰を求めてコンビニの裏手にまわり、車止めに尻を乗せてアイスの封を切った。冷気が鼻先を掠めた。みず色をしたいかにもつめたそうな氷菓に齧りつく。「冷て」、とオレが笑うと、ケンチンもアイスを齧って「冷てー」と言った。中学に上がって、はじめての夏だった。日陰といっても蒸された空気はしつっこく肌にまとわりついた。隣に座ったケンチンはしゃりしゃりと音を立ててアイスを齧っている。その横顔を見ていると、ふいに体のおくが、むずっ、とした。むずっ?――そんな感触ははじめてのもので、でも、すぐに欲求が追いついて、噴き出した違和感を覆ってしまった。ケンチンに触りたい。なぜか、そのとき、そう思ったのだった。
車止めに置かれたケンチンの左手に、指を伸ばした。触れる。しっとりと汗の滲んだ皮ふがあった。皮ふはうすくて、骨のかたちが伝わってくる。はじめて、ケンチンそのものに触れた気がした。しばらく手の甲をなぞっていると、頭の上のほうから「くすぐってぇよ」というケンチンの声が聞こえて目をあげる。逆光の中にケンチンの顔があって、表情は見えなかった。構わず、指の腹で湿っぽい皮ふを撫でた。ケンチンはされるがまま、もうなにも言わなかった。
蒸れた空気のせいで呼吸が苦しかった。でもほんとうにそれだけのせいなのか、ガキんちょのオレにはまだよくわからなかった。
(2023.08.16)
畳む
ドラマイ
抱きしめると、すっかりと腕の中におさまってしまうちいさな体だった。背中を包むように抱いて、万次郎の底に潜む熱を感じれば、ただでさえ蒸した部屋が温度を増す。
堅の肌にも汗は滲み、熱気がしつこくまとわりついた。万次郎の背中も湿り気を帯びてひどく熱い。こんなに汗だくになってくっついて、でも、なにもしてない。堅はその不思議を思った。大人が、店にやって来る連中が嬢とするようなことは、オレらは一切、やってない。帰りたくない、とごねるマイキーを部屋に泊まらせているだけ。ベッドに転がったマイキーの背中を、抱いているだけ。それだけのこと。なのに、期待をしてしまう自分にうんざりした。
けんちん、と濡れた声が万次郎のくちびるから転がった。部屋にしみてゆく甘い声に、堅は耐えきれず喉を鳴らした。万次郎の顔は見えない。照明を控えたうす暗く湿度の高い部屋で、ぴたりと体を合わせて、万次郎の髪のきんいろさえも曖昧に滲んでいた。
「……なんも、しねぇから」
堅はそう言った。なにも、しない。ただ抱きしめていたいだけだから、と。ふっと息を洩らして、万次郎が笑った。
「べつに、なんかしてもいいよ」
明瞭な声に、堅は一瞬、怯んだ。それから、われに返ったように「あほう」と言って、万次郎のくせっ毛に手を差し入れた。
あつい、と思った。あつくて、ひどくあつくて、このまま溶けちまいそうだ。<br> 万次郎を抱く腕に力をこめる。うなじに、唇を押しつける。汗をかいて湿った皮ふがあった。思いきり息を吸い、かれの匂いを肺に送りこんだ。
(2023.08.09)
畳む
抱きしめると、すっかりと腕の中におさまってしまうちいさな体だった。背中を包むように抱いて、万次郎の底に潜む熱を感じれば、ただでさえ蒸した部屋が温度を増す。
堅の肌にも汗は滲み、熱気がしつこくまとわりついた。万次郎の背中も湿り気を帯びてひどく熱い。こんなに汗だくになってくっついて、でも、なにもしてない。堅はその不思議を思った。大人が、店にやって来る連中が嬢とするようなことは、オレらは一切、やってない。帰りたくない、とごねるマイキーを部屋に泊まらせているだけ。ベッドに転がったマイキーの背中を、抱いているだけ。それだけのこと。なのに、期待をしてしまう自分にうんざりした。
けんちん、と濡れた声が万次郎のくちびるから転がった。部屋にしみてゆく甘い声に、堅は耐えきれず喉を鳴らした。万次郎の顔は見えない。照明を控えたうす暗く湿度の高い部屋で、ぴたりと体を合わせて、万次郎の髪のきんいろさえも曖昧に滲んでいた。
「……なんも、しねぇから」
堅はそう言った。なにも、しない。ただ抱きしめていたいだけだから、と。ふっと息を洩らして、万次郎が笑った。
「べつに、なんかしてもいいよ」
明瞭な声に、堅は一瞬、怯んだ。それから、われに返ったように「あほう」と言って、万次郎のくせっ毛に手を差し入れた。
あつい、と思った。あつくて、ひどくあつくて、このまま溶けちまいそうだ。<br> 万次郎を抱く腕に力をこめる。うなじに、唇を押しつける。汗をかいて湿った皮ふがあった。思いきり息を吸い、かれの匂いを肺に送りこんだ。
(2023.08.09)
畳む
大人みつゆず
アルコールが入るとまなじりが赤くなる、色白の肌にほんのりと朱がさすその瞬間が好きだと気づいたのは、ふたりきりで飲みに行って何回めのことだろう。考えようとして柚葉は、そんなの忘れた、と思考をアルコールで飲み下した。喉を滑り落ちていくカクテルは妙に甘ったるい。
佇まいはちいさいが清潔で小洒落たバーの、カウンター席に並んで座った。互いの肩同士がふれあいそうなほど近い距離にあって、けれどそれを気にするほど、三ツ谷と柚葉の関係は遠くなかった。近いものでもなかったけれど。
「つぎ、なんか飲む?」
三ツ谷は頬杖をついて、視線をこちらに向けた。うす赤く染まったまなじりを見とめて、かれがわずかにでも酔っていることを知る。
男ともだち同士の酒の席ではわからないけれど、かれが柚葉の前でべろべろになるまで飲むことはなかった。少なくともこれまでそんな三ツ谷の姿を見たことはない。もっと飲んで酔っ払いなよ、と、飲みに行くたびに柚葉は思う。いっそう前後不覚になるくらい、肩を貸さないと立って歩けないくらい。アタシがタクシー呼んでやらないと、家に帰れないくらいに。
三ツ谷の問いかけに、うーん、と言いながら視線をワイングラスが並ぶ中空に向けた。カウンターの向こうでは初老のマスターがグラスを拭いている。店内はうす暗く、客はほかにいなかった。グラスの中で氷が溶けて、涼やかな音が鳴る。
「アンタは? まだ飲む?」
三ツ谷の手もとに置かれた、からになったグラスを見やる。質問に質問で返してしまった、と、すこしだけ後悔した。けれどそれも一瞬のことだった。
「どーすっかな」
言いながら、三ツ谷がスツールに座りなおした。そのときわずかに、肩がふれた。それはほんとうに一瞬の、瞬き一回にも満たないほどの短い時間のことだった。
けれど、互いに目を合わせる理由にするにはじゅうぶんで、視線と視線が絡み、どちらかともなく口角が持ち上がって、「ごめん」と、声が重なった。
柚葉は細く息を洩らした。ため息のような、ほほ笑みのような、あいまいな吐息。
今夜もまた、お互いに、べろべろに酔うことはないと知っていた。てきとうなとこでお開きにして、三ツ谷がタクシーを呼んで、相乗りしてそれぞれの家に帰る。三ツ谷はアタシを、先に下ろす。そういう男だ、コイツは。
「たまには裏切っていいのに」
柚葉はつぶやいた。それは三ツ谷にも届いているはずだった。けれど、かれはなにも言わなかった。
(2023.09.10)
――いつか、きれいに裏切ってね。
畳む
アルコールが入るとまなじりが赤くなる、色白の肌にほんのりと朱がさすその瞬間が好きだと気づいたのは、ふたりきりで飲みに行って何回めのことだろう。考えようとして柚葉は、そんなの忘れた、と思考をアルコールで飲み下した。喉を滑り落ちていくカクテルは妙に甘ったるい。
佇まいはちいさいが清潔で小洒落たバーの、カウンター席に並んで座った。互いの肩同士がふれあいそうなほど近い距離にあって、けれどそれを気にするほど、三ツ谷と柚葉の関係は遠くなかった。近いものでもなかったけれど。
「つぎ、なんか飲む?」
三ツ谷は頬杖をついて、視線をこちらに向けた。うす赤く染まったまなじりを見とめて、かれがわずかにでも酔っていることを知る。
男ともだち同士の酒の席ではわからないけれど、かれが柚葉の前でべろべろになるまで飲むことはなかった。少なくともこれまでそんな三ツ谷の姿を見たことはない。もっと飲んで酔っ払いなよ、と、飲みに行くたびに柚葉は思う。いっそう前後不覚になるくらい、肩を貸さないと立って歩けないくらい。アタシがタクシー呼んでやらないと、家に帰れないくらいに。
三ツ谷の問いかけに、うーん、と言いながら視線をワイングラスが並ぶ中空に向けた。カウンターの向こうでは初老のマスターがグラスを拭いている。店内はうす暗く、客はほかにいなかった。グラスの中で氷が溶けて、涼やかな音が鳴る。
「アンタは? まだ飲む?」
三ツ谷の手もとに置かれた、からになったグラスを見やる。質問に質問で返してしまった、と、すこしだけ後悔した。けれどそれも一瞬のことだった。
「どーすっかな」
言いながら、三ツ谷がスツールに座りなおした。そのときわずかに、肩がふれた。それはほんとうに一瞬の、瞬き一回にも満たないほどの短い時間のことだった。
けれど、互いに目を合わせる理由にするにはじゅうぶんで、視線と視線が絡み、どちらかともなく口角が持ち上がって、「ごめん」と、声が重なった。
柚葉は細く息を洩らした。ため息のような、ほほ笑みのような、あいまいな吐息。
今夜もまた、お互いに、べろべろに酔うことはないと知っていた。てきとうなとこでお開きにして、三ツ谷がタクシーを呼んで、相乗りしてそれぞれの家に帰る。三ツ谷はアタシを、先に下ろす。そういう男だ、コイツは。
「たまには裏切っていいのに」
柚葉はつぶやいた。それは三ツ谷にも届いているはずだった。けれど、かれはなにも言わなかった。
(2023.09.10)
――いつか、きれいに裏切ってね。
畳む
文章練習場所です。1000字程度の短いおはなし(文章)を置いています。CP雑多、左右非固定のものがおおいかもです。
※年齢制限のあるものについてはパスワードをもうけています。
パスワード→xxx
※年齢制限のあるものについてはパスワードをもうけています。
パスワード→xxx
キスはいつも、イザナから、だった。目の前にふっと淡い影が落ち、あ。と思った次の瞬間には唇を掠め取られている。ふにふにと柔らかく、かすかに湿ったイザナの唇はその時々によってつめたかったりあたたかかったりするのだけれど、今朝のそれはいつもより少しばかりひんやりとして、鶴蝶は身を寄せてくるイザナの肩に手を置き「寒いか」と訊ねた。秋のはじまりの朝日が、カーテンのすきまから淡く落ちていた。寝起き特有の掠れ声に、イザナは「なんで?」と返す。長いまつげにふちどられた大きな目をよりまるく大きくさせたイザナに、だってオマエの唇がつめたいとすなおに言えば、彼は数回、瞬きをした。ぱちりぱちりとまぶたが開閉するたび、銀色の長いまつげが光を弾く。
ベッドにはすでに鶴蝶ひとりぶんのぬくもりしかなかった。朝に弱いイザナが先に起きているなんてめずらしく、鶴蝶は夢とうつつの間をたゆたいながらイザナの腰に腕を回す。スプリングが軋んで、イザナがベッドに体重を預けたのがわかった。そのままシーツに頬をくっつけて横になる。
ベッドに寝そべった状態で真っすぐ見つめられると、その距離の近さや微かに感じ取れる体温に、今さらながらどぎまぎしてしまう。イザナのまなざしは揺らぎなく、鶴蝶を真っすぐに見つめていた。
「オマエのはあったかかったけど」
「オレの?」
手が伸びてきて、頬を両のてのひらで包みこまれる。そのゆびさきはやはりつめたくて、鶴蝶はイザナの手の上に自らの手を重ねた。
ゆびを絡め、手を繋いで見つめあうと、まるでふつうの恋人どうしだ。鶴蝶は頬に熱が宿るのを感じた。イザナとはそういう関係ではあったけれど――少なくとも鶴蝶はそう信じていたかったけれど――、はっきりと自覚をすれば嬉しさで胸がくすぐったい。イザナは口もとをゆるめて、
「ほっぺたもあったけぇ。オマエ、どこもかしこもあったけぇのな」
毛布の中に体を滑りこませ、鶴蝶の胸もとに顔を沈める。長い足が鶴蝶の足に絡まって、逃げようとする動きを封じる。イザナの体は静かに冷えていて、鶴蝶はふいにかわいそうに思った。オレの体温を分けてやりたいと思い、抱きしめてみる。「あったけぇ」。イザナは鶴蝶の体に腕を回して、くすくすと笑った。細長いゆびが鶴蝶の背骨をなぞった。
「ここはあっためてくんねぇのかよ」
「ここって?」
顔を上げて、イザナは自身の唇を指差した。途端、鶴蝶の顔がぼっと朱色に染まった。
「オマエ、な……」
「今さらなに照れてやがんだぁ?」
ヘンなやつだなと言いながらイザナは首を伸ばし、鶴蝶の唇に唇を重ねた。つめたい、と最初は思った唇が少しずつぬくもってゆく。
触れたそこから自分の熱がイザナに伝わっているのが、恥ずかしくてたまらない。イザナに触れられるとたやすく熱を帯びてしまう体――それを知っていてイザナはいつもいたずらばかり仕掛けてくる。でも、そんな彼をとても愛おしいと思うのだった。
「……まだ、寒いか?」
うすい背中を上下にさすりながら問うと、イザナは小さく笑った。答えはなかった。代わりのように、鶴蝶の鎖骨に頬を擦り寄せてつぶやく。
「もう寒くねぇ」
パジャマの布地越しにくぐもった声が聞こえた。身を寄せあって暖をとる自分たちは、ほんとうにただのどうぶつみたいだと鶴蝶は思った。
畳む
#カクイザ
(あたたかくしてね)