ふゆとら(22軸)



 あたたかな体温に包まれて深く眠り、目覚める朝はいつだって幸福に満ちている。こんなおとなになることを少年の自分は想像していなかっただろうと、千冬は浅く息をはく。
 すくなくとも、彼とこうして体を寄せ合う関係になる、なんてことは。
 少しでも身動ぎをすると背中に張りついている一虎を起こしてしまいそうで、完全に目がさめても背後から彼に抱かれたまま、千冬はベッドの中でおとなしくしている。寝巻き越しに感じる肌の温度や湿っぽさ、耳もとをなぜる穏やかな呼吸は、一虎が生きて、今ここにいることの証明だった。
 胸の前に無防備に落ちている手に、そっと触れた。手の甲を指さきでなぞり、輪郭をたしかめる。あたたかくて、人の手のかたちをしている。おとなの、男の、手だった。
 これ、オレのだ。ふと、千冬は思った。この人は、オレのものだ。
 ちふゆ。耳朶に、生ぬるい息がかかった。注がれた声は、小さなどうぶつの類が甘えるようなやわらかさをはらんでいた。千冬は首を捻って、そちらに視線を向けた。一虎の瞼はまだほとんど降りていて、長いまつ毛が細やかに震えていた。
 一瞬、さっきのは寝言かと思ったのだが、触れていた手が動いて千冬の指に絡まってきたので、彼が目を覚ましたことを知った。
「おはようございます」
 体を反転させて、一虎のほうに向いた。一虎は空いているほうの手で目を擦り、額にかかった長い前髪をかき上げた。「眠ぃ」とひとこと、もらす。千冬はくすくすと笑った。
「べつに、まだ寝ていていいんスよ」
 休みなんだし、なんの予定もないし。そう続けると、一虎は千冬の肩を引き寄せて、強い力で抱きしめてきた。鼻先が固い鎖骨に当たり、一瞬にして一虎の匂いに包まれる。少し湿った、肌の匂い。無意識のうちに、千冬の体の奥が疼く。
「……一虎くんて、いい匂いしますよね」
 にわかに噴き出した欲求を悟られないように、ゆっくりとした調子で言った。
「香水のせいじゃねぇの」
 一虎もまたのんびりと返した。千冬は首をふった。一虎のくびすじに頬を押しつけて、思いきり息を吸う。
「じゃなくて、一虎くんそのものの匂い。いい匂い」
 一虎はくつくつと笑って、「オマエ、変態かよ」と言った。おかしそうに、愉快そうに、自分相手に言葉を交わしてくれることが千冬にはうれしくて、こちらも力をこめて一虎の体を抱きしめた。
「千冬はなんか、埃っぽい匂いする」
 千冬の髪の毛に鼻を埋めて、一虎は言った。
「ええ……、なんスかその悪口」
「外干しした布団の匂い」
 すんすん、と鼻を動かした。太陽の匂いがする。一虎はそう、静かに続けた。
「それっていい匂いなんスか」
 どうだろ、わかんねぇけど、と一虎は言った。「でも、オレはすき」
 一虎の腕の中で、一虎の声を聞いているうちに、頬が熱を帯びてゆく。ゆっくりと上昇する体温に、彼は気づいているだろうか。気づいていたとしたら、なにを思うだろうか。不安になると同時に、わずかな期待が芽生えていることに千冬は呆れた。
「してぇの?」
「えっ」
 唐突に、一虎が耳もとに囁いた。くの字に曲げていた千冬の膝のあいだに足を入れ、するすると絡ませてくる。ズボンのすきまから脛をなぜた、足のつまさきがつめたかった。
「しても、いいけど」
 視線が絡まる。一虎の瞳は透きとおっていて、かすかに潤んでいるように見えた。
 すう、と視線を逸らして、千冬は再び一虎の胸もとに顔を沈めた。んん、と、あいまいな声をもらし、額を鎖骨に擦りつける。
 店であつかっている仔猫が似たような動きを、母猫にたいしてしていた。その姿を思いだして、気恥ずかしさにいっそう顔を上げられなくなった。
 このままでいい。――ちがう、このままがいい。千冬は思った。口には出せなかったが、膝を割ってきた一虎の足に、自らの足を絡めて、数回深い呼吸をした。
 一虎の匂いをかぐ。あたたかい体温に包まれる。幼いころには想像もできなかった未来を、ふたりで生きている。ふたりで、朝を迎える。そうして、やがて夜がおりてくる。そのくりかえしの毎日を、これからもずっと続けてゆく。
 すき、を声に乗せることはできなかった。腕いっぱいで一虎を抱きしめて、まるでそれしかできないどうぶつのように。

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