影菅の日2018

影菅



 台風が来るんだって。
 窓越しに、空の向こうを見あげて菅原はにわかにそう言った。抑揚のないその声に、影山は雑誌に落としていた視線を持ち上げてかれを見た。顔を窓に傾けた菅原の、まるい、ふっくらとした頬の輪郭が、淡い藍色にふちどられている。それでようやく、互いに向かいあってからずい分と時間が経っていたことに気がついた。机の上の時計は午後の六時を差そうとしていた。
「暗くなってきましたね」
 雑誌を膝もとに置いて、菅原の視線の先を追う。かれのへやに入った時にはまだ明るかった空は、いつの間にか厚い雲がひろがり、電線の交わっている向こう側は濃い灰色に染まっていた。
 うん、と菅原は頷いて、
「ことしは台風が多かったなあ」
 浅く、息を吐いた。
 たしかに、ことしは台風の頻発した夏だった。影山たちの暮らすまちには特に大きな被害はなかったが、西日本を中心にひどい水害が幾度も起こった。ふだんニュースに疎い影山さえ、報道を耳にするたびにその被害の大きさに目をまるくしたものだった。
「今回の台風が、最後だったらいいっすね」
 細く開けた窓のすき間から風が滑りこみ、影山の前髪をさらう。額に感じる風のつめたさに、思わず目をほそめた。あんなに暑かった夏が嘘のように、空気は日ごとに冷えていき、すでに秋の気配があちこちに漂っている。
 夏が終わる。
 木々の鳴る音が遠くのほうからきこえ、次第につよくなっていく風が窓硝子を揺らした。雲はひろがりつづけ、やがて完全に空を覆い尽くしてしまう。そろそろ雨が落ちてきそうな様子に、窓を閉めたほうがよいのではとくちにしかけたが、じゅうたんの上にぺたりと坐った菅原に動く気配はなく、言葉をかけるタイミングを逸してしまった。
 しばらくふたりで、ぼうっと空を見あげていた。
 夏休みが終わり、日常が戻っても、ひたすらにボールを繋ぐ日々になに一つ変わりはなかった。菅原の白い肌が、かすかに日に焼けた。夏のあいだに散髪をしたおかげで、影山の髪の毛がわずかに短くなった。変化など、そのていどだった。
「影山」
 横顔を影山に晒したまま、菅原がくちを開いた。はい、と律儀に返事をすると、ふいに視線が絡まった。影の落ちた表情は、時間とともにゆっくりと、そのたしかさを失くしていく。夜の色がかれの輪郭を溶かしていくのを、影山は目をほそめて見つめた。
「ちょっと、こっちゃ来」
 ひょいひょいと手のひらを動かす菅原の言われるままに身を寄せると、とうとつに手首を引っ張られた。わっ、と声を上げる間もなく、体が菅原の腕の中に閉じこめられてしまう。額に鎖骨のかたちを触覚する。ぎゅうと頭を抱えられ、すがわらさん、と発した声はくぐもって、影山の内側にじん、と響いた。
 つむじに菅原の鼻先が押し当てられるのを感じた。
「……汗臭いんで、ちょっと、」
 抵抗するにも憚られて、腕の中におさまった態でなんとかそれだけを言う。菅原はふふっと笑って、
「ちょっとな」
 と、言った。
 髪の毛の感触をたしかめるように、菅原は影山の頭を撫でた。その手のひらの温度に心臓が軋む。かれに触れられると、いつも、影山の体のどこかがせつなく痛んだ。けっしてつよいちからなどではないのに、まるで締めつけられるようなその感触に影山はうろたえ、どうしてよいのだかわからなくなる。菅原のシャツの裾を掴み、額を鎖骨に押しつけて、すがわらさん、と、ちいさな声でかれをよんだ。
「うん?」
 頭上に降ってくる声はあくまで優しかった。
「窓、閉めませんか」
 雨降りそうですし、風もつよくなってきたし。台風、来るんでしょう? ――影山の提案に、けれど菅原は「うーん」と洩らすばかりで、とりあう様子はない。
 首を捻り、わずかなすき間から菅原を見あげる。かれはまた、顔を窓のほうに向けていた。へやはすっかりと暗くなり、薄墨色に染められたそこで、菅原の輪郭もまたおぼろに滲んでいた。
「あ、」
 菅原の唇が動いた。「雨だ」。
 ぱた、ぱた、と音がして、それはやがて大粒のしずくに変わり窓を叩きはじめる。風に舞った雨粒が、菅原の前髪と、影山の額に落ちる。
「濡れちゃいますよ」
 すでにカーテンの裾に染みができているのを、薄闇のなかにみとめる。うん、と菅原は言い、それでもなお動こうとはしない。
「じゅうたんとか、ベッドも」
「うん」
「……菅原さんの、髪も」
 指を伸ばして、毛先についた水滴を払う。菅原のまなじりがすうと下がる気配がした。
 一瞬、目の端を閃光が走った。遠くの空で雷が鳴り、ひときわつよい風が窓にぶつかる。
「夏が終わるな」
 耳に落ちた菅原の声に、心臓がまた、ちくりと痛んだ。あまりにも頼りのない、せつなげな声だった。
「ことし最後の嵐だ」
 視界は夜闇に包まれて、たしかなのは触れあっている肌の温度だけだった。
 シャツの裾を握っていた手を離し、菅原の指を探す。あたたかいそれを探りあてると、そのまま指先を触れあわせ、しずかに絡めた。やわく握れば握りかえしてくれるかれの反応が愛しかった。
 ごめんな、と、菅原は影山の髪に鼻を埋めて言った。
「もうすこし、このままでいよう」
 菅原の言葉に頷くことで返答をし、絡めた指にわずかにちからをこめた。
 空を雷の音が駆け抜け、雨脚は、やがてつよいものとなってかれらの世界を覆い尽くす。

(初出:2018年9月2日)

畳む
月は満ちた

柄丑



「んむ、」
 丑嶋の行動はいつも唐突で、柄崎をたやすく混乱させる。コンビニの駐車場、買ってきたアイスコーヒーを両手に持ち、丑嶋の運転するハマーの助手席に乗りこんだ瞬間だった。一瞬、顔にかげが差した、と思ったときには、丑嶋のうすい唇が柄崎のそれに押しつけられていた。
「しゃ、ちょ」
 白木蓮の咲き始めた、まだ淡い春のま昼間。コンビニの駐車場には煙草を吹かすサラリーマンや買い食いをする学生の集団がまばらに見えていた。スモークガラスでもなんでもない窓硝子越しに、こちらの様子はきっと丸見えなはずで、だれよりも警戒心のつよい丑嶋がとつぜんにくちづけをしたことに柄崎は驚きを隠せなかった。
 ――なんで?
 くちづけは一瞬で、丑嶋の顔はすぐに離れていった。翳りの溶けた顔を早い春の、やわらかな日ざしが撫でる。丑嶋はフロントガラスのほうを向きなおり、すましている。表情はまるで変わっていない。
 へ、なんで? 当然浮かんだ疑問を、だが驚きでくちに出せないまま、柄崎は無言でアイスコーヒーを丑嶋に手渡した。ガラ、と、プラスチックの容器の中で氷が回転し、ちいさな音を鳴らす。
 何事もなかったかのようにストローにくちをつけ、中身を吸い上げる丑嶋を見て、ぐ、と唾を飲んだ。くちづけられたせいで、気分が高揚している。上下するのどぼとけが色っぽく、今すぐ嚙みついてしまいたいと思う。そんなことをしたらどうなるだろう、と、熱を帯びた頭で柄崎は思考する。思考すればすぐにでも実行したくなり、体を前傾させて丑嶋に顔を近づけた。切れ長の目が柄崎を見た。
「なに」
 いつもの、なにも変わらない平坦な声。ストローをくわえているせいで少しくぐもっている。
「あの、も、」
 もし、よかったら。ホテル。行きません?
 切れ切れに言う柄崎を、丑嶋はしばらく見つめていたが、すぐに視線を外して、
「なんで」
 と、言った。
「え!」
「つーか仕事中だろが」
「だ、だって!」
「なに」
 じゃあなんで、いまキスしたんすか! 顔をまっ赤にさせている柄崎は車の外にも聞こえてしまいそうな声で叫んだ。ウルセーよ。丑嶋は舌打ちをして、アイスコーヒーの容器をドリンクホルダーに置き、エンジンをかけた。燃料の燃える音が振動となって柄崎の尻から背中にかけて上ってくる。
 ハマーを発進させ、コンビニの駐車場を出るとあっという間に太い国道に乗った。あとはこのまま真っすぐ取り立て先の現場に向かうだけだ。
 ――社長の考えてることがわかんねー。
 まだ熱を残してじんじんする皮ふを持て余しながら、頭を抱えたい気持ちで柄崎もアイスコーヒーを一口飲んだ。コンビニのコーヒーにしてはマシな味がする。勢いよく半分飲んで、膝のあいだに容器を握った手を落ちつけた。
「……社長、ずるいっすよ、そーゆーのは」
 ひとり言のように、言う。道路を擦るタイヤの音に紛れて、丑嶋の耳に届いたかはわからない。柄崎は、だが、つづけた。「そーゆー、ふい打ちみたいなのは」。
 どうしたらいいのかわからなくなる。でも、どうもしなくていいのかもしれない。ただ丑嶋のしたいように、求められるままに、与えればよいのかもしれない。とつぜんのくちづけも、かれがそうしたいのだったら、いくらでも体を差しだせばよい。いや、むしろ、それが柄崎の望みでもあるのだから。
「知ってる」
 にわかに丑嶋の声がして、柄崎はハッとして顔を上げた。前方を睨みながら、丑嶋はステアリングを握っている。目をまるくさせている柄崎には、丑嶋の言葉の意味がつかめなかった。つかめなかったが、火照った体はじょじょにさめて、やがて心地のよい温度に変わり柄崎をあたためていった。
「……はい」
 こくん、と頷く自分は子どものようだったのではないか。そのさまを丑嶋に見られるのはひどく恥ずかしかったが、車内に逃げ場はない。ふたりきり、シートに並んで振動に揺られている。この車の窓硝子の向こうから、俺たちはどんなふうに見えてるんだろう。さっき、コンビニの駐車場でくちづけられたとき、もしも誰かに見られていたとして、俺はこの人の恋人なのだからなんの問題もない気持ちになっていた。
「好きっす。社長」
 俯きながら言う。丑嶋から言葉は返ってこなかったが、柄崎は満足だった。
 体も心もすべて、渡すことをゆるされている――そのことが柄崎をひたひたと満たしていた。

(初出:2022年2月18日)
畳む
世界をかえるつもりはない

最終軸ばじとら(ふゆ)
誰もしなず、ころさず、ころされず、大人になった世界線。

世界をかえるつもりはない / yuko ando



 どこにいても正しくない気がした。だからってオレを選ばなくていいだろうよって、オレの言い分を聞いたならそう言いそうだけれど、オレの選択肢にはオマエしかいなかったのだ。それはたぶん、最初っから。
 場地の尖った顎が夜の中に輪郭を描いていた。目の前にある顔はガキのころからあまり変わっていなくて、オレをひどく安心させる。
 狭い部屋の空気はふたりぶんのアルコールの摂取量と比例して濃く濁っていた。缶ビールと酎ハイを交互に飲んで、したたかに酔うとそのまんま、リビングの床に転がって眠る。バカでのんきな大学生みたいだ。
 実際に場地は大学生だったけれどオレは一応社会人で、こんなことをしている場合ではないのかもしれない。場地とは同級で、今年二十七歳。アラサー。ペットショップで働いている。年下の上司がいて、コイツがまあ口うるさい。でも、なんだかんだで今の日々は楽しい。
 あんなに飲んだわりに頭はすっきりしていて、完全に覚醒していた。場地の長い髪の毛が視界の中でうねっている。さわれそうだった。
 手を、伸ばしてみた。場地の頬に触れようとした指が、宙で止まった。
 夜の闇の中でも、場地の痩せた頬やつんと上を向いた鼻はよく見えた。闇に目が慣れるくらいにオレは場地を見つめていたのだった。
 伸ばした手を引いて、床に下ろした。オレの手も、指も、オレのものなのにそんな気がしなかった。オレは場地にさわりたかったのに、手と指がそれをさせなかった。行動は意思に反した。自覚すると背筋がゾッとした。
 仰向けになって眠る場地に、ほんの少しだけ身を寄せる。カーペットの表面を体が擦る。安物のカーペットはざらざらとしていてけっして寝心地のよいものではなく、そもそも直接この上に寝転がることは推奨されていないのだろう。
 場地の顔に先ほどよりも数センチ近づいて、近づいたぶんだけ呼吸の音や体温が濃く感じられた。触れようと思えば触れられる距離にいて、でもそれをオレの手や指がゆるさない。だからオレにはなにもできない。
 頬をカーペットに押しつけて横顔を見つめる。ふいに心細さに襲われる。どこにいても正しくないと感じていた、ガキのころからある焦燥が、また。だからってなんでオレ? へらへらと笑う場地を思い浮かべる。場地は笑いながらオレの頭を乱暴に撫でる。――ぜんぶオレの妄想で、願望で、だからこんなにもせつなくて胸が苦しい。どこにいればよいのかわからない、場地の隣なら安心できる、そう思った。単純に、そう思ったのだ。
「なあ場地。……さわってもいい?」
 つぶやきはたやすく溶けてしまう。はなから届けるつもりのない声だから、どうでもよかった。
 目を閉じた。場地の世界を壊すことはできないと思った。オレ自身の世界も、そうだ。なにもしない、なにもできない、なにもかえられない。
 夜はいつも世界を押し潰そうと躍起になる。今夜もどこかで誰かの世界が壊れたり壊されたり、新しくうまれたり、しているんだろう。かえられるだけの力がない、それは絶望のようにも希望のようにも思えた。不思議と涙は出なかった。
 こんなにせつなくて苦しいのに、少しも涙は出なかった。

畳む

hashtag

  • ハッシュタグは見つかりませんでした。(または、まだ集計されていません。)

backnumber