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日研
押しつけられた唇は甘酸っぱいレモン味では全然なくって、あれは都市伝説だったんだなあと妙に冴えた頭で翔陽はおもった。
唇に触れているのは研磨の唇で、それは湿っていて柔く、かすかに汗の匂いがした。不快さは感じず、むしろはじめての感触と温度に、心地好ささえおぼえた。
金色の髪の毛が流れて頬を滑る。顔が離れる。研磨はいつもと変わらない表情でこちらを見ていた。大きな目が翔陽を捕まえる。まるで、離さないよとでもいうような力強いまなざしで。
「けんま、」
翔陽が口を開くのと同じタイミングで、背後から「研磨!」と呼ぶ声がした。研磨越しに視線を送ると、黒尾が右手を大きく挙げていた。研磨は、しかしふり返らずにじっと翔陽を見つめている。それがあんまり強い視線だったので、先ほどの唐突なキスのことなど忘れてしまいそうになる。あれ、おれたち今、きっ、キス……したよな? 研磨の唇とおれの唇が、くっついた、よな? くるくると思考が回るにつれ、頭は次第に混乱してくる。
「研磨、呼んでる、黒尾さん、」
「うん。いい」
「いいって、……」
とまどう翔陽に追い打ちをかけるように、研磨は目を細めて言った。
「翔陽、ファーストキス? だよね?」
「へぁっ?!」
図星をつかれて顔をまっ赤にさせると、研磨はくすくすと笑った。いたずらを成功させたこどもみたいな、無邪気な笑いかただった。研磨もこんなふうに笑うことがあるのかと、翔陽ははじめて知った。
まだ顔を合わせて間もないから、知らないところなんてたくさんあってあたりまえなのだけれど、今まで見てきた研磨からは想像ができないほど愛くるしい笑顔に、いっとき、見惚れた。
「けっ、研磨もだろ……っ!」
ん、と喉を鳴らして研磨は首を傾げた。そのようすに、翔陽は不安になる。
「まさかちがうとか?!」
「んー……、どうでしょうね」
「けっ、研磨サン……!」
勘弁してくれよ、と項垂れる翔陽を見て、研磨はまたくすくすと笑う。からかわれていることはわかっていたけれど、認めてしまうととても、とても悔しい。
夕日がふたりの輪郭をあたためていた。五月の夕暮れ、日は少しずつ永くなって、足もとに生えた草からも初夏の匂いが立ち始めている。
練習試合で目いっぱいかいた汗はすっかり引いたはずだのに、翔陽のくびすじにはまたじんわりと汗が滲み始めていた。首から頭の先まで、まっ赤になっていることを想像すると、恥ずかしさで逃げ出したくなる。でもそれを、研磨のまなざしがゆるさない。
すう、と息を吸った。なにかを言いたくて、でも言葉は喉のあたりに絡まって出てこない。そうしているうちにふたたび「研磨ぁ!」と呼ぶ黒尾の声が聞こえて、研磨はようやく声のするほうを見やった。
今、行くから。黒尾に向かって返事をする。とても小さな声だったので、黒尾にその声が届いたかどうかはわからない。
研磨はあらためて翔陽を見た。
「またね、翔陽」
ひらひらと右手を振って、研磨はゆっくりと踵を返した。呼び止める隙も与えず――それは翔陽が言葉を詰まらせていたせいもあるけれど――研磨はチームメイトの集団へと歩いていく。
夕日が研磨の影を細長く伸ばした。顔に触れた影はかすかにあたたかみを感じたけれど、影にも体温ってあるんだろうか。
先ほどまでの出来事はあまりにも一瞬で、きっと誰にも見られていない、知られていないだろう。近づいてきた研磨の顔、触れた唇のぬるさ、湿っぽさを、知っているのはたぶん、おれだけ。「どうでしょうね」なんてずるいことを言ってたけど、たぶん、いや絶対に研磨だってファーストキスだ。そう思うと赤く染まった顔がますます熱を帯びた。
両手で頬を挟んで、ぎゅ、と目を閉じる。熱はてのひらを伝って、全身に運ばれる。
初夏の夕がたの風が、さわさわと髪の毛を揺らした。遠ざかっていく研磨の影を追いかけたくて、でもぐっと堪えた。またね、と彼は言った。そう言ったから、だからまた、何度でも会える。
「日向ぁ、帰んぞー」
「あ、はいっ!」
田中の声が響いて、翔陽は顔を上げた。夕日に背中を向けて、翔陽もまたチームメイトの輪の中へと戻っていく。
畳む
#日研
押しつけられた唇は甘酸っぱいレモン味では全然なくって、あれは都市伝説だったんだなあと妙に冴えた頭で翔陽はおもった。
唇に触れているのは研磨の唇で、それは湿っていて柔く、かすかに汗の匂いがした。不快さは感じず、むしろはじめての感触と温度に、心地好ささえおぼえた。
金色の髪の毛が流れて頬を滑る。顔が離れる。研磨はいつもと変わらない表情でこちらを見ていた。大きな目が翔陽を捕まえる。まるで、離さないよとでもいうような力強いまなざしで。
「けんま、」
翔陽が口を開くのと同じタイミングで、背後から「研磨!」と呼ぶ声がした。研磨越しに視線を送ると、黒尾が右手を大きく挙げていた。研磨は、しかしふり返らずにじっと翔陽を見つめている。それがあんまり強い視線だったので、先ほどの唐突なキスのことなど忘れてしまいそうになる。あれ、おれたち今、きっ、キス……したよな? 研磨の唇とおれの唇が、くっついた、よな? くるくると思考が回るにつれ、頭は次第に混乱してくる。
「研磨、呼んでる、黒尾さん、」
「うん。いい」
「いいって、……」
とまどう翔陽に追い打ちをかけるように、研磨は目を細めて言った。
「翔陽、ファーストキス? だよね?」
「へぁっ?!」
図星をつかれて顔をまっ赤にさせると、研磨はくすくすと笑った。いたずらを成功させたこどもみたいな、無邪気な笑いかただった。研磨もこんなふうに笑うことがあるのかと、翔陽ははじめて知った。
まだ顔を合わせて間もないから、知らないところなんてたくさんあってあたりまえなのだけれど、今まで見てきた研磨からは想像ができないほど愛くるしい笑顔に、いっとき、見惚れた。
「けっ、研磨もだろ……っ!」
ん、と喉を鳴らして研磨は首を傾げた。そのようすに、翔陽は不安になる。
「まさかちがうとか?!」
「んー……、どうでしょうね」
「けっ、研磨サン……!」
勘弁してくれよ、と項垂れる翔陽を見て、研磨はまたくすくすと笑う。からかわれていることはわかっていたけれど、認めてしまうととても、とても悔しい。
夕日がふたりの輪郭をあたためていた。五月の夕暮れ、日は少しずつ永くなって、足もとに生えた草からも初夏の匂いが立ち始めている。
練習試合で目いっぱいかいた汗はすっかり引いたはずだのに、翔陽のくびすじにはまたじんわりと汗が滲み始めていた。首から頭の先まで、まっ赤になっていることを想像すると、恥ずかしさで逃げ出したくなる。でもそれを、研磨のまなざしがゆるさない。
すう、と息を吸った。なにかを言いたくて、でも言葉は喉のあたりに絡まって出てこない。そうしているうちにふたたび「研磨ぁ!」と呼ぶ黒尾の声が聞こえて、研磨はようやく声のするほうを見やった。
今、行くから。黒尾に向かって返事をする。とても小さな声だったので、黒尾にその声が届いたかどうかはわからない。
研磨はあらためて翔陽を見た。
「またね、翔陽」
ひらひらと右手を振って、研磨はゆっくりと踵を返した。呼び止める隙も与えず――それは翔陽が言葉を詰まらせていたせいもあるけれど――研磨はチームメイトの集団へと歩いていく。
夕日が研磨の影を細長く伸ばした。顔に触れた影はかすかにあたたかみを感じたけれど、影にも体温ってあるんだろうか。
先ほどまでの出来事はあまりにも一瞬で、きっと誰にも見られていない、知られていないだろう。近づいてきた研磨の顔、触れた唇のぬるさ、湿っぽさを、知っているのはたぶん、おれだけ。「どうでしょうね」なんてずるいことを言ってたけど、たぶん、いや絶対に研磨だってファーストキスだ。そう思うと赤く染まった顔がますます熱を帯びた。
両手で頬を挟んで、ぎゅ、と目を閉じる。熱はてのひらを伝って、全身に運ばれる。
初夏の夕がたの風が、さわさわと髪の毛を揺らした。遠ざかっていく研磨の影を追いかけたくて、でもぐっと堪えた。またね、と彼は言った。そう言ったから、だからまた、何度でも会える。
「日向ぁ、帰んぞー」
「あ、はいっ!」
田中の声が響いて、翔陽は顔を上げた。夕日に背中を向けて、翔陽もまたチームメイトの輪の中へと戻っていく。
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#日研
#文字書きワードパレット
#5.フィエスタ(振り向く・緑・休息)/カクイザ(最終軸・おとな)
桜の樹の幹に寄りかかって眠るイザナを見つけたのは、正午を過ぎたばかりのころだった。ゆるやかな曲線を描いた葉影の群れが、イザナの褐色の頬に落ちている。風の吹くたびに枝が揺れて、葉擦れの音がささやかに聞こえる。
樹の根本に腰を下ろし、片膝をあげた状態でイザナは目を閉じている。おだやかな寝顔に、鶴蝶はアポイントを取っていた客が彼を待っていることなど忘れて、イザナの側にしゃがみこんだ。眠っているイザナを起こしてしまうのは憚られた。このところ出張続きでまとまった休みが取れていないイザナにとっては、今が貴重の休息の時間なのだろう。
彼が休みにくい立場にいることも、泊まりの出張の時以外は毎日一度は現場にやって来て、園で遊ぶ子どもたちのようすを見ることを日課にしていることも、鶴蝶は当然知っていた。最後にイザナが休みを取ったのは、いつだったろう。頭の中でカレンダーをめくってみたが、三週間前に半日だけ仕事を抜けた記憶までしか辿れなかった。
こども園の裏庭はあそぶもののないただの原っぱで、太い桜の樹が一本、庭の中央に植っている。ぐるりを囲むのは野生のつつじだ。緑の原っぱ、と子どもたちが呼ぶここは立ち入りは自由なのだがさして面白くもないのか、まるで人気がなかった。遠くに園庭であそぶ子どもたちの声が響いてくるだけの、静かな場所。イザナは、ときおりひとりでここを訪れていた。それを知っているのは法人幹部の中でも鶴蝶だけだった。
黙って寝顔を見つめていると、閉じられた瞼がかすかに動いた。そろそろと長いまつ毛が持ち上がり、鶴蝶の顔に焦点があう。
「……悪い、起こしたか」
鶴蝶は謝ったが、イザナは大きなあくびをするだけだった。第一声が文句じゃないなんて珍しいな、と思った矢先に、イザナは、
「ヘンな夢、見た」
と、つぶやいた。ひとりごとのようだったが、まなざしはまっすぐに鶴蝶に向けられていた。
「ゆめ?」
「そう。オレが、なんかの拍子に死んでさ」
「縁起でもねぇな」
物騒なことばに、鶴蝶は眉間に皺を寄せる。イザナはその眉間に人差し指を突きつけて、ぐい、と押した。
「まあ聞けって。そんで、あー、天に召されるんだなって思ったときに、声がしてさ。ふり向いたら、オマエがいたんだ」
「オレ?」
「そう。なんでオマエがいるんだろうって思ったんだけど、なんかさ、うれしかったよ」
「……そ、うか」
うれしかった、なんて、イザナらしくもないことばだ。特に鶴蝶にたいして向けるのはいつも、意地悪ばかりだったから。鶴蝶は狼狽えつつも、彼の発したことばがじんわりと胸をあたためるのを感じた。
「変な夢だったな。起きたら起きたで、目の前にオマエがいるしよぉ」
イザナの手が伸びて、あ、と思ったときには頬に触れていた。
「……オマエを呼び止められて、よかった」
「なんだ、そりゃ。そう簡単に三途の川なんか渡って堪るかよ」
鶴蝶はふふ、とわらう。頬を撫でるイザナの手は寝起きらしく体温が高い。やわらかくて、あたたかかった。
ところで、とイザナは言った。
「オマエ、なんの用だ? オレの貴重な眠りを妨げやがって」
ああ、とそこでようやく、鶴蝶は用件を思い出した。
「アポ取ってた客が来てる。探しに来たんだ」
「はあ? ばかかオマエ、はやく言えよ!」
「すまん、起こしたら悪いと思って――」
「結局起こしてんだろーが、ばぁか!」
慌てて立ち上がったイザナのスラックスから、千切れた下草がはらはらと落ちた。去り際に鶴蝶の頭を平手で叩く。少しも痛くないのは手加減をしているからだ。今日のイザナは機嫌がよいようだった。それとも万が一にも園の子どもに見られたときのために、取り繕っているのか。
園内で、法人の理事長でありながらイザナは子どもたちから人気が高い。優しくてイケメン、というところが特に女子に人気の理由の一つだ。
肩を怒らせて園に戻っていく後ろ姿を見つめ、鶴蝶は叩かれた頭をてのひらで撫でた。夢の中で死んだらしいイザナは、でも現実世界ではちゃんと生きて、こうしてオレの頭を叩いたり悪態をついたり、している。
川を渡りかけたイザナを呼んだのが、オレであったことがうれしい。うれしかった、とイザナは言ったが、オレのほうが、何倍もうれしかった。他の誰でもないオレが、イザナの手を取れたこと。
たかが夢じゃないか、と思うと自嘲の笑みが浮かぶ。それでも、イザナの生きている世界はまだこんなにも美しくて、これから先もきっとずっとそうだ。
視線を上げた先にある青空がとても眩しく輝いていた。この空をイザナにもずっと、見ていてほしいと鶴蝶は願うのだった。
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#カクイザ
#5.フィエスタ(振り向く・緑・休息)/カクイザ(最終軸・おとな)
桜の樹の幹に寄りかかって眠るイザナを見つけたのは、正午を過ぎたばかりのころだった。ゆるやかな曲線を描いた葉影の群れが、イザナの褐色の頬に落ちている。風の吹くたびに枝が揺れて、葉擦れの音がささやかに聞こえる。
樹の根本に腰を下ろし、片膝をあげた状態でイザナは目を閉じている。おだやかな寝顔に、鶴蝶はアポイントを取っていた客が彼を待っていることなど忘れて、イザナの側にしゃがみこんだ。眠っているイザナを起こしてしまうのは憚られた。このところ出張続きでまとまった休みが取れていないイザナにとっては、今が貴重の休息の時間なのだろう。
彼が休みにくい立場にいることも、泊まりの出張の時以外は毎日一度は現場にやって来て、園で遊ぶ子どもたちのようすを見ることを日課にしていることも、鶴蝶は当然知っていた。最後にイザナが休みを取ったのは、いつだったろう。頭の中でカレンダーをめくってみたが、三週間前に半日だけ仕事を抜けた記憶までしか辿れなかった。
こども園の裏庭はあそぶもののないただの原っぱで、太い桜の樹が一本、庭の中央に植っている。ぐるりを囲むのは野生のつつじだ。緑の原っぱ、と子どもたちが呼ぶここは立ち入りは自由なのだがさして面白くもないのか、まるで人気がなかった。遠くに園庭であそぶ子どもたちの声が響いてくるだけの、静かな場所。イザナは、ときおりひとりでここを訪れていた。それを知っているのは法人幹部の中でも鶴蝶だけだった。
黙って寝顔を見つめていると、閉じられた瞼がかすかに動いた。そろそろと長いまつ毛が持ち上がり、鶴蝶の顔に焦点があう。
「……悪い、起こしたか」
鶴蝶は謝ったが、イザナは大きなあくびをするだけだった。第一声が文句じゃないなんて珍しいな、と思った矢先に、イザナは、
「ヘンな夢、見た」
と、つぶやいた。ひとりごとのようだったが、まなざしはまっすぐに鶴蝶に向けられていた。
「ゆめ?」
「そう。オレが、なんかの拍子に死んでさ」
「縁起でもねぇな」
物騒なことばに、鶴蝶は眉間に皺を寄せる。イザナはその眉間に人差し指を突きつけて、ぐい、と押した。
「まあ聞けって。そんで、あー、天に召されるんだなって思ったときに、声がしてさ。ふり向いたら、オマエがいたんだ」
「オレ?」
「そう。なんでオマエがいるんだろうって思ったんだけど、なんかさ、うれしかったよ」
「……そ、うか」
うれしかった、なんて、イザナらしくもないことばだ。特に鶴蝶にたいして向けるのはいつも、意地悪ばかりだったから。鶴蝶は狼狽えつつも、彼の発したことばがじんわりと胸をあたためるのを感じた。
「変な夢だったな。起きたら起きたで、目の前にオマエがいるしよぉ」
イザナの手が伸びて、あ、と思ったときには頬に触れていた。
「……オマエを呼び止められて、よかった」
「なんだ、そりゃ。そう簡単に三途の川なんか渡って堪るかよ」
鶴蝶はふふ、とわらう。頬を撫でるイザナの手は寝起きらしく体温が高い。やわらかくて、あたたかかった。
ところで、とイザナは言った。
「オマエ、なんの用だ? オレの貴重な眠りを妨げやがって」
ああ、とそこでようやく、鶴蝶は用件を思い出した。
「アポ取ってた客が来てる。探しに来たんだ」
「はあ? ばかかオマエ、はやく言えよ!」
「すまん、起こしたら悪いと思って――」
「結局起こしてんだろーが、ばぁか!」
慌てて立ち上がったイザナのスラックスから、千切れた下草がはらはらと落ちた。去り際に鶴蝶の頭を平手で叩く。少しも痛くないのは手加減をしているからだ。今日のイザナは機嫌がよいようだった。それとも万が一にも園の子どもに見られたときのために、取り繕っているのか。
園内で、法人の理事長でありながらイザナは子どもたちから人気が高い。優しくてイケメン、というところが特に女子に人気の理由の一つだ。
肩を怒らせて園に戻っていく後ろ姿を見つめ、鶴蝶は叩かれた頭をてのひらで撫でた。夢の中で死んだらしいイザナは、でも現実世界ではちゃんと生きて、こうしてオレの頭を叩いたり悪態をついたり、している。
川を渡りかけたイザナを呼んだのが、オレであったことがうれしい。うれしかった、とイザナは言ったが、オレのほうが、何倍もうれしかった。他の誰でもないオレが、イザナの手を取れたこと。
たかが夢じゃないか、と思うと自嘲の笑みが浮かぶ。それでも、イザナの生きている世界はまだこんなにも美しくて、これから先もきっとずっとそうだ。
視線を上げた先にある青空がとても眩しく輝いていた。この空をイザナにもずっと、見ていてほしいと鶴蝶は願うのだった。
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#カクイザ
#文字書きワードパレット
#3.ヤロ・プペン(別れ・香り・声)/マイキー(14軸)
※死・流血表現があります。
死の際に、最後まで残るのは声なのだと誰かが言っていた。誰だったっけ? ――さあ、忘れてしまった。
血の匂いが充満した部屋はひっそりと夜に沈んでいた。足もとに転がった人間の輪郭があいまいにぼやけて、それはオレの視界が歪んでいるせいだ。死んでいく直前に男が叫んだ、おそらく大事にしていたのだろう彼の家族の名前をこころの裡で反芻させた。させたが、それは一瞬のことに過ぎなかった。すぐに忘れてしまって、最初の一文字さえも思いだせない。
銃口を床に向けて両腕から力を抜いた。かなしくなるくらいになにも感じなかった。かなしいという感情がすこしも湧かないことがたまらなく、苦しい。
Yシャツの裾で、血のべっとりとついた手を拭った。できるだけ横柄に、なんでもないふうに見えるように。誰にたいしてのポーズなのかはわからない。でもずっと誰かに見られている気がして、冷淡であることを見せつけたくて、そうした。誰のために?
かなしみの感情が欠落した代わりのように、苦しいと思うことがこのところは増えた気がする。
誰のことも信じられなくなって苦しい。かつてたしかに信じていた者どもを殺さずにいられなくなったことが苦しい。
ため息をつく。結局は自分のために苦しんでいることが、それ自体が、オレをいっそう苦しませた。けれどすべて罰なのだろう。罪に与えられるべき正当な罰。罰に報いるための行いを、だからオレはしなければならない。
右手をゆっくりとした動作で持ち上げる。銃口をこめかみに押しつけて、ひとさし指を引き金にかけた。鉄の硬さとつめたさを感じた。ふ、とオレは口もとを歪めた。自嘲。
こんなときさえすこしもかなしくなかった。
鼓膜を叩く声があった。声は高かったり低かったり、どちらでもなかったりして、幾重にも重なりオレの意識にふれる。マイキー、と声が名前のかたちをなぞる。マイキー。マイキー! 誰が呼んでいるのか、わからない。わからなくてよかった。だって今こんなにも苦しくて、苦しくて、もうすべて終わりにしようとこころに決めて銃口を自らに突きつけて。
記憶のみなもを波立たせて、声たちは風のように吹いて去っていった。
死の際に、最後まで残るのは声なのだと誰かが言っていた。だから、オレはいよいよこれが最後なのだと知った。
手足の先がつめたくなっていく。破裂音。硝煙の、嘘みたいに甘い香り。誰にも「さようなら」を言わせなかったから、オレだけが言うわけにはいかない。償いのつもりで、でも、ほんとうはちゃんと別れの挨拶をしたかった。
全身が崩れていく。バラバラになる。四肢が捥げて、思考と体が、一切の機能を止める。
ああ。こぼしたつもりの声はどこにも届かずオレのうちがわだけにうっそりと響いた。
ああ、やっと終わりだ。やっと、これで終わるんだ。
「うれしいな、」
死の際に、最後まで残るのが声なのだとして、オレの声はいったい誰に残せたんだろう。誰か、一瞬でも思いだしてくれたかな。憎んでくれても構わなくて、ソイツの記憶にすこしでも存在していられていたら。……ちょっと、都合がよすぎるかな。わがままかな。ごめんね。
24.0824
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#3.ヤロ・プペン(別れ・香り・声)/マイキー(14軸)
※死・流血表現があります。
死の際に、最後まで残るのは声なのだと誰かが言っていた。誰だったっけ? ――さあ、忘れてしまった。
血の匂いが充満した部屋はひっそりと夜に沈んでいた。足もとに転がった人間の輪郭があいまいにぼやけて、それはオレの視界が歪んでいるせいだ。死んでいく直前に男が叫んだ、おそらく大事にしていたのだろう彼の家族の名前をこころの裡で反芻させた。させたが、それは一瞬のことに過ぎなかった。すぐに忘れてしまって、最初の一文字さえも思いだせない。
銃口を床に向けて両腕から力を抜いた。かなしくなるくらいになにも感じなかった。かなしいという感情がすこしも湧かないことがたまらなく、苦しい。
Yシャツの裾で、血のべっとりとついた手を拭った。できるだけ横柄に、なんでもないふうに見えるように。誰にたいしてのポーズなのかはわからない。でもずっと誰かに見られている気がして、冷淡であることを見せつけたくて、そうした。誰のために?
かなしみの感情が欠落した代わりのように、苦しいと思うことがこのところは増えた気がする。
誰のことも信じられなくなって苦しい。かつてたしかに信じていた者どもを殺さずにいられなくなったことが苦しい。
ため息をつく。結局は自分のために苦しんでいることが、それ自体が、オレをいっそう苦しませた。けれどすべて罰なのだろう。罪に与えられるべき正当な罰。罰に報いるための行いを、だからオレはしなければならない。
右手をゆっくりとした動作で持ち上げる。銃口をこめかみに押しつけて、ひとさし指を引き金にかけた。鉄の硬さとつめたさを感じた。ふ、とオレは口もとを歪めた。自嘲。
こんなときさえすこしもかなしくなかった。
鼓膜を叩く声があった。声は高かったり低かったり、どちらでもなかったりして、幾重にも重なりオレの意識にふれる。マイキー、と声が名前のかたちをなぞる。マイキー。マイキー! 誰が呼んでいるのか、わからない。わからなくてよかった。だって今こんなにも苦しくて、苦しくて、もうすべて終わりにしようとこころに決めて銃口を自らに突きつけて。
記憶のみなもを波立たせて、声たちは風のように吹いて去っていった。
死の際に、最後まで残るのは声なのだと誰かが言っていた。だから、オレはいよいよこれが最後なのだと知った。
手足の先がつめたくなっていく。破裂音。硝煙の、嘘みたいに甘い香り。誰にも「さようなら」を言わせなかったから、オレだけが言うわけにはいかない。償いのつもりで、でも、ほんとうはちゃんと別れの挨拶をしたかった。
全身が崩れていく。バラバラになる。四肢が捥げて、思考と体が、一切の機能を止める。
ああ。こぼしたつもりの声はどこにも届かずオレのうちがわだけにうっそりと響いた。
ああ、やっと終わりだ。やっと、これで終わるんだ。
「うれしいな、」
死の際に、最後まで残るのが声なのだとして、オレの声はいったい誰に残せたんだろう。誰か、一瞬でも思いだしてくれたかな。憎んでくれても構わなくて、ソイツの記憶にすこしでも存在していられていたら。……ちょっと、都合がよすぎるかな。わがままかな。ごめんね。
24.0824
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号泣する準備はできていた
日向と影山/ひなかげ
号泣する準備はできていた / ekuni kaori
影山の目がすき。あいつの目がおれを見つめるときに、体がビッて緊張する感じ、あの痛くて気持ちいい感じが、なんかすき。おれってマゾなのかな? だとしたらすげーいやだけど。でも。
最初はただの口の悪ぃ怖ぇーやつだと思ってたし、鋭い視線はおれを威嚇するものでしかなかったけれど、だんだんと、ゆっくりゆっくり時間をかけてだけど、敵を睨む目じゃなくなっていった。
まっすぐにおれを見るそれは、おれを信じてくれている目だった。おれに、ここにいていいって言ってくれている優しい目だった。そう、影山はたしかに優しい目をしていた。
「……なんだよ」
不機嫌そうな声も顔もいつもどおり絶好調な影山くんの目を、おれは見つめている。まだ誰もいない体育館は静かで、ときどき、風が樹の枝を揺らす音が聞こえるくらい。
しん、と静まっているコートの上に向かい合って、おれは影山から目を逸らせなかった。
影山が、今すぐにでも思いっきりボールを打ちたがっていることは知っていた。でもおれが見つめるから、影山もおれを見つめ返す。睨んでいるように思えるし、たぶん実際に、本人は睨んでるつもりなんだと思う。中三ではじめて会ったとき、高校に来て再開したとき。切長の目が怖かった。その目はおれを威嚇して、拒絶していた。隣にいることさえもゆるさなかった。今はちがう。おれの勘違いでなければ。
「影山の目がすきだ」
おれが言うと、影山は露骨にいやそうな顔をした。
「急になに言ってんだ」
「急じゃない。ずっと思ってた」
あ? 影山の低い声が耳の奥に届く。
「キモいからやめろ」
「やめない」
そうして、両手を影山の頬へ伸ばす。思いがけず、それはむにむにとやわらかかった。
男の頬っぺたを触るなんてはじめての経験で、でもおれはどうしてかこいつにそうしたいと思った。おれの両手に頬を挟まれて、影山は目をまんまるにさせた。暴言を吐かれて、すぐにぶん殴られる覚悟をしていたのに、影山は意外にもまんまるの目でおれを見ているだけだった。
「いいの? 影山」
そんなふうにおとなしくしてたら、おれ、おまえにちゅーしちゃうかもよ。
ちゅーなんておとなだけがするものだと思っていた。でも今、もうちょっと頑張ってつま先立ちになって首を伸ばせば、もしかしたら、影山とちゅーできちゃうかもしれない。呆気なくおとなの階段のぼっちゃうかもしれない。
おとなになるって、こんなにかんたんでいいの?
「おい」
影山がゆっくりと口をひらく。「なんの真似だボゲ」
離れろ、と影山は平たい調子で言う。でも、自分からは動かなかった。殴りつけたりもしなかった。だから、ゆるされてるのかなと思ってしまう。こいつはおれに勘違いばかりさせるから、困る。
「ごめん」
手を離した。つま先立ちの不安定な姿勢をなおして、踵を床に下ろす。
「オメー、次やったらコロスからな」
うん、とおれは頷いて、ごめんともういちど、言った。もちろんころされたくはないけれど、殴られたり突き放されたりするよりは、ましな気がした。やっぱりおれってマゾなのかもしれない。
影山はシューズを鳴らして、後ずさってゆく。手に持っていたボールが床に叩きつけられ、影山の手に戻る。タンッ、タンッ、と気落ちのいい音が響く。
「さっさとやんぞ。昼休み終わっちまうだろが」
「……うん!」
おれは前を向く。影山に視線を投げる。見つめる。影山がおれを見つめ返す。そこにいろと視線が言っている。えらそうに。でも、悪い気はしない。
ボールは影山の手から離れて、天へとのぼる。バシンっと鋭い音とともに、てのひらがその球体を押し出した。
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#ひなかげ
日向と影山/ひなかげ
号泣する準備はできていた / ekuni kaori
影山の目がすき。あいつの目がおれを見つめるときに、体がビッて緊張する感じ、あの痛くて気持ちいい感じが、なんかすき。おれってマゾなのかな? だとしたらすげーいやだけど。でも。
最初はただの口の悪ぃ怖ぇーやつだと思ってたし、鋭い視線はおれを威嚇するものでしかなかったけれど、だんだんと、ゆっくりゆっくり時間をかけてだけど、敵を睨む目じゃなくなっていった。
まっすぐにおれを見るそれは、おれを信じてくれている目だった。おれに、ここにいていいって言ってくれている優しい目だった。そう、影山はたしかに優しい目をしていた。
「……なんだよ」
不機嫌そうな声も顔もいつもどおり絶好調な影山くんの目を、おれは見つめている。まだ誰もいない体育館は静かで、ときどき、風が樹の枝を揺らす音が聞こえるくらい。
しん、と静まっているコートの上に向かい合って、おれは影山から目を逸らせなかった。
影山が、今すぐにでも思いっきりボールを打ちたがっていることは知っていた。でもおれが見つめるから、影山もおれを見つめ返す。睨んでいるように思えるし、たぶん実際に、本人は睨んでるつもりなんだと思う。中三ではじめて会ったとき、高校に来て再開したとき。切長の目が怖かった。その目はおれを威嚇して、拒絶していた。隣にいることさえもゆるさなかった。今はちがう。おれの勘違いでなければ。
「影山の目がすきだ」
おれが言うと、影山は露骨にいやそうな顔をした。
「急になに言ってんだ」
「急じゃない。ずっと思ってた」
あ? 影山の低い声が耳の奥に届く。
「キモいからやめろ」
「やめない」
そうして、両手を影山の頬へ伸ばす。思いがけず、それはむにむにとやわらかかった。
男の頬っぺたを触るなんてはじめての経験で、でもおれはどうしてかこいつにそうしたいと思った。おれの両手に頬を挟まれて、影山は目をまんまるにさせた。暴言を吐かれて、すぐにぶん殴られる覚悟をしていたのに、影山は意外にもまんまるの目でおれを見ているだけだった。
「いいの? 影山」
そんなふうにおとなしくしてたら、おれ、おまえにちゅーしちゃうかもよ。
ちゅーなんておとなだけがするものだと思っていた。でも今、もうちょっと頑張ってつま先立ちになって首を伸ばせば、もしかしたら、影山とちゅーできちゃうかもしれない。呆気なくおとなの階段のぼっちゃうかもしれない。
おとなになるって、こんなにかんたんでいいの?
「おい」
影山がゆっくりと口をひらく。「なんの真似だボゲ」
離れろ、と影山は平たい調子で言う。でも、自分からは動かなかった。殴りつけたりもしなかった。だから、ゆるされてるのかなと思ってしまう。こいつはおれに勘違いばかりさせるから、困る。
「ごめん」
手を離した。つま先立ちの不安定な姿勢をなおして、踵を床に下ろす。
「オメー、次やったらコロスからな」
うん、とおれは頷いて、ごめんともういちど、言った。もちろんころされたくはないけれど、殴られたり突き放されたりするよりは、ましな気がした。やっぱりおれってマゾなのかもしれない。
影山はシューズを鳴らして、後ずさってゆく。手に持っていたボールが床に叩きつけられ、影山の手に戻る。タンッ、タンッ、と気落ちのいい音が響く。
「さっさとやんぞ。昼休み終わっちまうだろが」
「……うん!」
おれは前を向く。影山に視線を投げる。見つめる。影山がおれを見つめ返す。そこにいろと視線が言っている。えらそうに。でも、悪い気はしない。
ボールは影山の手から離れて、天へとのぼる。バシンっと鋭い音とともに、てのひらがその球体を押し出した。
畳む
#ひなかげ
影菅の日2018
影菅
台風が来るんだって。
窓越しに、空の向こうを見あげて菅原はにわかにそう言った。抑揚のないその声に、影山は雑誌に落としていた視線を持ち上げてかれを見た。顔を窓に傾けた菅原の、まるい、ふっくらとした頬の輪郭が、淡い藍色にふちどられている。それでようやく、互いに向かいあってからずい分と時間が経っていたことに気がついた。机の上の時計は午後の六時を差そうとしていた。
「暗くなってきましたね」
雑誌を膝もとに置いて、菅原の視線の先を追う。かれのへやに入った時にはまだ明るかった空は、いつの間にか厚い雲がひろがり、電線の交わっている向こう側は濃い灰色に染まっていた。
うん、と菅原は頷いて、
「ことしは台風が多かったなあ」
浅く、息を吐いた。
たしかに、ことしは台風の頻発した夏だった。影山たちの暮らすまちには特に大きな被害はなかったが、西日本を中心にひどい水害が幾度も起こった。ふだんニュースに疎い影山さえ、報道を耳にするたびにその被害の大きさに目をまるくしたものだった。
「今回の台風が、最後だったらいいっすね」
細く開けた窓のすき間から風が滑りこみ、影山の前髪をさらう。額に感じる風のつめたさに、思わず目をほそめた。あんなに暑かった夏が嘘のように、空気は日ごとに冷えていき、すでに秋の気配があちこちに漂っている。
夏が終わる。
木々の鳴る音が遠くのほうからきこえ、次第につよくなっていく風が窓硝子を揺らした。雲はひろがりつづけ、やがて完全に空を覆い尽くしてしまう。そろそろ雨が落ちてきそうな様子に、窓を閉めたほうがよいのではとくちにしかけたが、じゅうたんの上にぺたりと坐った菅原に動く気配はなく、言葉をかけるタイミングを逸してしまった。
しばらくふたりで、ぼうっと空を見あげていた。
夏休みが終わり、日常が戻っても、ひたすらにボールを繋ぐ日々になに一つ変わりはなかった。菅原の白い肌が、かすかに日に焼けた。夏のあいだに散髪をしたおかげで、影山の髪の毛がわずかに短くなった。変化など、そのていどだった。
「影山」
横顔を影山に晒したまま、菅原がくちを開いた。はい、と律儀に返事をすると、ふいに視線が絡まった。影の落ちた表情は、時間とともにゆっくりと、そのたしかさを失くしていく。夜の色がかれの輪郭を溶かしていくのを、影山は目をほそめて見つめた。
「ちょっと、こっちゃ来」
ひょいひょいと手のひらを動かす菅原の言われるままに身を寄せると、とうとつに手首を引っ張られた。わっ、と声を上げる間もなく、体が菅原の腕の中に閉じこめられてしまう。額に鎖骨のかたちを触覚する。ぎゅうと頭を抱えられ、すがわらさん、と発した声はくぐもって、影山の内側にじん、と響いた。
つむじに菅原の鼻先が押し当てられるのを感じた。
「……汗臭いんで、ちょっと、」
抵抗するにも憚られて、腕の中におさまった態でなんとかそれだけを言う。菅原はふふっと笑って、
「ちょっとな」
と、言った。
髪の毛の感触をたしかめるように、菅原は影山の頭を撫でた。その手のひらの温度に心臓が軋む。かれに触れられると、いつも、影山の体のどこかがせつなく痛んだ。けっしてつよいちからなどではないのに、まるで締めつけられるようなその感触に影山はうろたえ、どうしてよいのだかわからなくなる。菅原のシャツの裾を掴み、額を鎖骨に押しつけて、すがわらさん、と、ちいさな声でかれをよんだ。
「うん?」
頭上に降ってくる声はあくまで優しかった。
「窓、閉めませんか」
雨降りそうですし、風もつよくなってきたし。台風、来るんでしょう? ――影山の提案に、けれど菅原は「うーん」と洩らすばかりで、とりあう様子はない。
首を捻り、わずかなすき間から菅原を見あげる。かれはまた、顔を窓のほうに向けていた。へやはすっかりと暗くなり、薄墨色に染められたそこで、菅原の輪郭もまたおぼろに滲んでいた。
「あ、」
菅原の唇が動いた。「雨だ」。
ぱた、ぱた、と音がして、それはやがて大粒のしずくに変わり窓を叩きはじめる。風に舞った雨粒が、菅原の前髪と、影山の額に落ちる。
「濡れちゃいますよ」
すでにカーテンの裾に染みができているのを、薄闇のなかにみとめる。うん、と菅原は言い、それでもなお動こうとはしない。
「じゅうたんとか、ベッドも」
「うん」
「……菅原さんの、髪も」
指を伸ばして、毛先についた水滴を払う。菅原のまなじりがすうと下がる気配がした。
一瞬、目の端を閃光が走った。遠くの空で雷が鳴り、ひときわつよい風が窓にぶつかる。
「夏が終わるな」
耳に落ちた菅原の声に、心臓がまた、ちくりと痛んだ。あまりにも頼りのない、せつなげな声だった。
「ことし最後の嵐だ」
視界は夜闇に包まれて、たしかなのは触れあっている肌の温度だけだった。
シャツの裾を握っていた手を離し、菅原の指を探す。あたたかいそれを探りあてると、そのまま指先を触れあわせ、しずかに絡めた。やわく握れば握りかえしてくれるかれの反応が愛しかった。
ごめんな、と、菅原は影山の髪に鼻を埋めて言った。
「もうすこし、このままでいよう」
菅原の言葉に頷くことで返答をし、絡めた指にわずかにちからをこめた。
空を雷の音が駆け抜け、雨脚は、やがてつよいものとなってかれらの世界を覆い尽くす。
(初出:2018年9月2日)
畳む
#影菅
影菅
台風が来るんだって。
窓越しに、空の向こうを見あげて菅原はにわかにそう言った。抑揚のないその声に、影山は雑誌に落としていた視線を持ち上げてかれを見た。顔を窓に傾けた菅原の、まるい、ふっくらとした頬の輪郭が、淡い藍色にふちどられている。それでようやく、互いに向かいあってからずい分と時間が経っていたことに気がついた。机の上の時計は午後の六時を差そうとしていた。
「暗くなってきましたね」
雑誌を膝もとに置いて、菅原の視線の先を追う。かれのへやに入った時にはまだ明るかった空は、いつの間にか厚い雲がひろがり、電線の交わっている向こう側は濃い灰色に染まっていた。
うん、と菅原は頷いて、
「ことしは台風が多かったなあ」
浅く、息を吐いた。
たしかに、ことしは台風の頻発した夏だった。影山たちの暮らすまちには特に大きな被害はなかったが、西日本を中心にひどい水害が幾度も起こった。ふだんニュースに疎い影山さえ、報道を耳にするたびにその被害の大きさに目をまるくしたものだった。
「今回の台風が、最後だったらいいっすね」
細く開けた窓のすき間から風が滑りこみ、影山の前髪をさらう。額に感じる風のつめたさに、思わず目をほそめた。あんなに暑かった夏が嘘のように、空気は日ごとに冷えていき、すでに秋の気配があちこちに漂っている。
夏が終わる。
木々の鳴る音が遠くのほうからきこえ、次第につよくなっていく風が窓硝子を揺らした。雲はひろがりつづけ、やがて完全に空を覆い尽くしてしまう。そろそろ雨が落ちてきそうな様子に、窓を閉めたほうがよいのではとくちにしかけたが、じゅうたんの上にぺたりと坐った菅原に動く気配はなく、言葉をかけるタイミングを逸してしまった。
しばらくふたりで、ぼうっと空を見あげていた。
夏休みが終わり、日常が戻っても、ひたすらにボールを繋ぐ日々になに一つ変わりはなかった。菅原の白い肌が、かすかに日に焼けた。夏のあいだに散髪をしたおかげで、影山の髪の毛がわずかに短くなった。変化など、そのていどだった。
「影山」
横顔を影山に晒したまま、菅原がくちを開いた。はい、と律儀に返事をすると、ふいに視線が絡まった。影の落ちた表情は、時間とともにゆっくりと、そのたしかさを失くしていく。夜の色がかれの輪郭を溶かしていくのを、影山は目をほそめて見つめた。
「ちょっと、こっちゃ来」
ひょいひょいと手のひらを動かす菅原の言われるままに身を寄せると、とうとつに手首を引っ張られた。わっ、と声を上げる間もなく、体が菅原の腕の中に閉じこめられてしまう。額に鎖骨のかたちを触覚する。ぎゅうと頭を抱えられ、すがわらさん、と発した声はくぐもって、影山の内側にじん、と響いた。
つむじに菅原の鼻先が押し当てられるのを感じた。
「……汗臭いんで、ちょっと、」
抵抗するにも憚られて、腕の中におさまった態でなんとかそれだけを言う。菅原はふふっと笑って、
「ちょっとな」
と、言った。
髪の毛の感触をたしかめるように、菅原は影山の頭を撫でた。その手のひらの温度に心臓が軋む。かれに触れられると、いつも、影山の体のどこかがせつなく痛んだ。けっしてつよいちからなどではないのに、まるで締めつけられるようなその感触に影山はうろたえ、どうしてよいのだかわからなくなる。菅原のシャツの裾を掴み、額を鎖骨に押しつけて、すがわらさん、と、ちいさな声でかれをよんだ。
「うん?」
頭上に降ってくる声はあくまで優しかった。
「窓、閉めませんか」
雨降りそうですし、風もつよくなってきたし。台風、来るんでしょう? ――影山の提案に、けれど菅原は「うーん」と洩らすばかりで、とりあう様子はない。
首を捻り、わずかなすき間から菅原を見あげる。かれはまた、顔を窓のほうに向けていた。へやはすっかりと暗くなり、薄墨色に染められたそこで、菅原の輪郭もまたおぼろに滲んでいた。
「あ、」
菅原の唇が動いた。「雨だ」。
ぱた、ぱた、と音がして、それはやがて大粒のしずくに変わり窓を叩きはじめる。風に舞った雨粒が、菅原の前髪と、影山の額に落ちる。
「濡れちゃいますよ」
すでにカーテンの裾に染みができているのを、薄闇のなかにみとめる。うん、と菅原は言い、それでもなお動こうとはしない。
「じゅうたんとか、ベッドも」
「うん」
「……菅原さんの、髪も」
指を伸ばして、毛先についた水滴を払う。菅原のまなじりがすうと下がる気配がした。
一瞬、目の端を閃光が走った。遠くの空で雷が鳴り、ひときわつよい風が窓にぶつかる。
「夏が終わるな」
耳に落ちた菅原の声に、心臓がまた、ちくりと痛んだ。あまりにも頼りのない、せつなげな声だった。
「ことし最後の嵐だ」
視界は夜闇に包まれて、たしかなのは触れあっている肌の温度だけだった。
シャツの裾を握っていた手を離し、菅原の指を探す。あたたかいそれを探りあてると、そのまま指先を触れあわせ、しずかに絡めた。やわく握れば握りかえしてくれるかれの反応が愛しかった。
ごめんな、と、菅原は影山の髪に鼻を埋めて言った。
「もうすこし、このままでいよう」
菅原の言葉に頷くことで返答をし、絡めた指にわずかにちからをこめた。
空を雷の音が駆け抜け、雨脚は、やがてつよいものとなってかれらの世界を覆い尽くす。
(初出:2018年9月2日)
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#影菅
月は満ちた
柄丑
「んむ、」
丑嶋の行動はいつも唐突で、柄崎をたやすく混乱させる。コンビニの駐車場、買ってきたアイスコーヒーを両手に持ち、丑嶋の運転するハマーの助手席に乗りこんだ瞬間だった。一瞬、顔にかげが差した、と思ったときには、丑嶋のうすい唇が柄崎のそれに押しつけられていた。
「しゃ、ちょ」
白木蓮の咲き始めた、まだ淡い春のま昼間。コンビニの駐車場には煙草を吹かすサラリーマンや買い食いをする学生の集団がまばらに見えていた。スモークガラスでもなんでもない窓硝子越しに、こちらの様子はきっと丸見えなはずで、だれよりも警戒心のつよい丑嶋がとつぜんにくちづけをしたことに柄崎は驚きを隠せなかった。
――なんで?
くちづけは一瞬で、丑嶋の顔はすぐに離れていった。翳りの溶けた顔を早い春の、やわらかな日ざしが撫でる。丑嶋はフロントガラスのほうを向きなおり、すましている。表情はまるで変わっていない。
へ、なんで? 当然浮かんだ疑問を、だが驚きでくちに出せないまま、柄崎は無言でアイスコーヒーを丑嶋に手渡した。ガラ、と、プラスチックの容器の中で氷が回転し、ちいさな音を鳴らす。
何事もなかったかのようにストローにくちをつけ、中身を吸い上げる丑嶋を見て、ぐ、と唾を飲んだ。くちづけられたせいで、気分が高揚している。上下するのどぼとけが色っぽく、今すぐ嚙みついてしまいたいと思う。そんなことをしたらどうなるだろう、と、熱を帯びた頭で柄崎は思考する。思考すればすぐにでも実行したくなり、体を前傾させて丑嶋に顔を近づけた。切れ長の目が柄崎を見た。
「なに」
いつもの、なにも変わらない平坦な声。ストローをくわえているせいで少しくぐもっている。
「あの、も、」
もし、よかったら。ホテル。行きません?
切れ切れに言う柄崎を、丑嶋はしばらく見つめていたが、すぐに視線を外して、
「なんで」
と、言った。
「え!」
「つーか仕事中だろが」
「だ、だって!」
「なに」
じゃあなんで、いまキスしたんすか! 顔をまっ赤にさせている柄崎は車の外にも聞こえてしまいそうな声で叫んだ。ウルセーよ。丑嶋は舌打ちをして、アイスコーヒーの容器をドリンクホルダーに置き、エンジンをかけた。燃料の燃える音が振動となって柄崎の尻から背中にかけて上ってくる。
ハマーを発進させ、コンビニの駐車場を出るとあっという間に太い国道に乗った。あとはこのまま真っすぐ取り立て先の現場に向かうだけだ。
――社長の考えてることがわかんねー。
まだ熱を残してじんじんする皮ふを持て余しながら、頭を抱えたい気持ちで柄崎もアイスコーヒーを一口飲んだ。コンビニのコーヒーにしてはマシな味がする。勢いよく半分飲んで、膝のあいだに容器を握った手を落ちつけた。
「……社長、ずるいっすよ、そーゆーのは」
ひとり言のように、言う。道路を擦るタイヤの音に紛れて、丑嶋の耳に届いたかはわからない。柄崎は、だが、つづけた。「そーゆー、ふい打ちみたいなのは」。
どうしたらいいのかわからなくなる。でも、どうもしなくていいのかもしれない。ただ丑嶋のしたいように、求められるままに、与えればよいのかもしれない。とつぜんのくちづけも、かれがそうしたいのだったら、いくらでも体を差しだせばよい。いや、むしろ、それが柄崎の望みでもあるのだから。
「知ってる」
にわかに丑嶋の声がして、柄崎はハッとして顔を上げた。前方を睨みながら、丑嶋はステアリングを握っている。目をまるくさせている柄崎には、丑嶋の言葉の意味がつかめなかった。つかめなかったが、火照った体はじょじょにさめて、やがて心地のよい温度に変わり柄崎をあたためていった。
「……はい」
こくん、と頷く自分は子どものようだったのではないか。そのさまを丑嶋に見られるのはひどく恥ずかしかったが、車内に逃げ場はない。ふたりきり、シートに並んで振動に揺られている。この車の窓硝子の向こうから、俺たちはどんなふうに見えてるんだろう。さっき、コンビニの駐車場でくちづけられたとき、もしも誰かに見られていたとして、俺はこの人の恋人なのだからなんの問題もない気持ちになっていた。
「好きっす。社長」
俯きながら言う。丑嶋から言葉は返ってこなかったが、柄崎は満足だった。
体も心もすべて、渡すことをゆるされている――そのことが柄崎をひたひたと満たしていた。
(初出:2022年2月18日)
畳む
#柄丑
柄丑
「んむ、」
丑嶋の行動はいつも唐突で、柄崎をたやすく混乱させる。コンビニの駐車場、買ってきたアイスコーヒーを両手に持ち、丑嶋の運転するハマーの助手席に乗りこんだ瞬間だった。一瞬、顔にかげが差した、と思ったときには、丑嶋のうすい唇が柄崎のそれに押しつけられていた。
「しゃ、ちょ」
白木蓮の咲き始めた、まだ淡い春のま昼間。コンビニの駐車場には煙草を吹かすサラリーマンや買い食いをする学生の集団がまばらに見えていた。スモークガラスでもなんでもない窓硝子越しに、こちらの様子はきっと丸見えなはずで、だれよりも警戒心のつよい丑嶋がとつぜんにくちづけをしたことに柄崎は驚きを隠せなかった。
――なんで?
くちづけは一瞬で、丑嶋の顔はすぐに離れていった。翳りの溶けた顔を早い春の、やわらかな日ざしが撫でる。丑嶋はフロントガラスのほうを向きなおり、すましている。表情はまるで変わっていない。
へ、なんで? 当然浮かんだ疑問を、だが驚きでくちに出せないまま、柄崎は無言でアイスコーヒーを丑嶋に手渡した。ガラ、と、プラスチックの容器の中で氷が回転し、ちいさな音を鳴らす。
何事もなかったかのようにストローにくちをつけ、中身を吸い上げる丑嶋を見て、ぐ、と唾を飲んだ。くちづけられたせいで、気分が高揚している。上下するのどぼとけが色っぽく、今すぐ嚙みついてしまいたいと思う。そんなことをしたらどうなるだろう、と、熱を帯びた頭で柄崎は思考する。思考すればすぐにでも実行したくなり、体を前傾させて丑嶋に顔を近づけた。切れ長の目が柄崎を見た。
「なに」
いつもの、なにも変わらない平坦な声。ストローをくわえているせいで少しくぐもっている。
「あの、も、」
もし、よかったら。ホテル。行きません?
切れ切れに言う柄崎を、丑嶋はしばらく見つめていたが、すぐに視線を外して、
「なんで」
と、言った。
「え!」
「つーか仕事中だろが」
「だ、だって!」
「なに」
じゃあなんで、いまキスしたんすか! 顔をまっ赤にさせている柄崎は車の外にも聞こえてしまいそうな声で叫んだ。ウルセーよ。丑嶋は舌打ちをして、アイスコーヒーの容器をドリンクホルダーに置き、エンジンをかけた。燃料の燃える音が振動となって柄崎の尻から背中にかけて上ってくる。
ハマーを発進させ、コンビニの駐車場を出るとあっという間に太い国道に乗った。あとはこのまま真っすぐ取り立て先の現場に向かうだけだ。
――社長の考えてることがわかんねー。
まだ熱を残してじんじんする皮ふを持て余しながら、頭を抱えたい気持ちで柄崎もアイスコーヒーを一口飲んだ。コンビニのコーヒーにしてはマシな味がする。勢いよく半分飲んで、膝のあいだに容器を握った手を落ちつけた。
「……社長、ずるいっすよ、そーゆーのは」
ひとり言のように、言う。道路を擦るタイヤの音に紛れて、丑嶋の耳に届いたかはわからない。柄崎は、だが、つづけた。「そーゆー、ふい打ちみたいなのは」。
どうしたらいいのかわからなくなる。でも、どうもしなくていいのかもしれない。ただ丑嶋のしたいように、求められるままに、与えればよいのかもしれない。とつぜんのくちづけも、かれがそうしたいのだったら、いくらでも体を差しだせばよい。いや、むしろ、それが柄崎の望みでもあるのだから。
「知ってる」
にわかに丑嶋の声がして、柄崎はハッとして顔を上げた。前方を睨みながら、丑嶋はステアリングを握っている。目をまるくさせている柄崎には、丑嶋の言葉の意味がつかめなかった。つかめなかったが、火照った体はじょじょにさめて、やがて心地のよい温度に変わり柄崎をあたためていった。
「……はい」
こくん、と頷く自分は子どものようだったのではないか。そのさまを丑嶋に見られるのはひどく恥ずかしかったが、車内に逃げ場はない。ふたりきり、シートに並んで振動に揺られている。この車の窓硝子の向こうから、俺たちはどんなふうに見えてるんだろう。さっき、コンビニの駐車場でくちづけられたとき、もしも誰かに見られていたとして、俺はこの人の恋人なのだからなんの問題もない気持ちになっていた。
「好きっす。社長」
俯きながら言う。丑嶋から言葉は返ってこなかったが、柄崎は満足だった。
体も心もすべて、渡すことをゆるされている――そのことが柄崎をひたひたと満たしていた。
(初出:2022年2月18日)
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#柄丑
世界をかえるつもりはない
最終軸ばじとら(ふゆ)
誰もしなず、ころさず、ころされず、大人になった世界線。
世界をかえるつもりはない / yuko ando
どこにいても正しくない気がした。だからってオレを選ばなくていいだろうよって、オレの言い分を聞いたならそう言いそうだけれど、オレの選択肢にはオマエしかいなかったのだ。それはたぶん、最初っから。
場地の尖った顎が夜の中に輪郭を描いていた。目の前にある顔はガキのころからあまり変わっていなくて、オレをひどく安心させる。
狭い部屋の空気はふたりぶんのアルコールの摂取量と比例して濃く濁っていた。缶ビールと酎ハイを交互に飲んで、したたかに酔うとそのまんま、リビングの床に転がって眠る。バカでのんきな大学生みたいだ。
実際に場地は大学生だったけれどオレは一応社会人で、こんなことをしている場合ではないのかもしれない。場地とは同級で、今年二十七歳。アラサー。ペットショップで働いている。年下の上司がいて、コイツがまあ口うるさい。でも、なんだかんだで今の日々は楽しい。
あんなに飲んだわりに頭はすっきりしていて、完全に覚醒していた。場地の長い髪の毛が視界の中でうねっている。さわれそうだった。
手を、伸ばしてみた。場地の頬に触れようとした指が、宙で止まった。
夜の闇の中でも、場地の痩せた頬やつんと上を向いた鼻はよく見えた。闇に目が慣れるくらいにオレは場地を見つめていたのだった。
伸ばした手を引いて、床に下ろした。オレの手も、指も、オレのものなのにそんな気がしなかった。オレは場地にさわりたかったのに、手と指がそれをさせなかった。行動は意思に反した。自覚すると背筋がゾッとした。
仰向けになって眠る場地に、ほんの少しだけ身を寄せる。カーペットの表面を体が擦る。安物のカーペットはざらざらとしていてけっして寝心地のよいものではなく、そもそも直接この上に寝転がることは推奨されていないのだろう。
場地の顔に先ほどよりも数センチ近づいて、近づいたぶんだけ呼吸の音や体温が濃く感じられた。触れようと思えば触れられる距離にいて、でもそれをオレの手や指がゆるさない。だからオレにはなにもできない。
頬をカーペットに押しつけて横顔を見つめる。ふいに心細さに襲われる。どこにいても正しくないと感じていた、ガキのころからある焦燥が、また。だからってなんでオレ? へらへらと笑う場地を思い浮かべる。場地は笑いながらオレの頭を乱暴に撫でる。――ぜんぶオレの妄想で、願望で、だからこんなにもせつなくて胸が苦しい。どこにいればよいのかわからない、場地の隣なら安心できる、そう思った。単純に、そう思ったのだ。
「なあ場地。……さわってもいい?」
つぶやきはたやすく溶けてしまう。はなから届けるつもりのない声だから、どうでもよかった。
目を閉じた。場地の世界を壊すことはできないと思った。オレ自身の世界も、そうだ。なにもしない、なにもできない、なにもかえられない。
夜はいつも世界を押し潰そうと躍起になる。今夜もどこかで誰かの世界が壊れたり壊されたり、新しくうまれたり、しているんだろう。かえられるだけの力がない、それは絶望のようにも希望のようにも思えた。不思議と涙は出なかった。
こんなにせつなくて苦しいのに、少しも涙は出なかった。
畳む
最終軸ばじとら(ふゆ)
誰もしなず、ころさず、ころされず、大人になった世界線。
世界をかえるつもりはない / yuko ando
どこにいても正しくない気がした。だからってオレを選ばなくていいだろうよって、オレの言い分を聞いたならそう言いそうだけれど、オレの選択肢にはオマエしかいなかったのだ。それはたぶん、最初っから。
場地の尖った顎が夜の中に輪郭を描いていた。目の前にある顔はガキのころからあまり変わっていなくて、オレをひどく安心させる。
狭い部屋の空気はふたりぶんのアルコールの摂取量と比例して濃く濁っていた。缶ビールと酎ハイを交互に飲んで、したたかに酔うとそのまんま、リビングの床に転がって眠る。バカでのんきな大学生みたいだ。
実際に場地は大学生だったけれどオレは一応社会人で、こんなことをしている場合ではないのかもしれない。場地とは同級で、今年二十七歳。アラサー。ペットショップで働いている。年下の上司がいて、コイツがまあ口うるさい。でも、なんだかんだで今の日々は楽しい。
あんなに飲んだわりに頭はすっきりしていて、完全に覚醒していた。場地の長い髪の毛が視界の中でうねっている。さわれそうだった。
手を、伸ばしてみた。場地の頬に触れようとした指が、宙で止まった。
夜の闇の中でも、場地の痩せた頬やつんと上を向いた鼻はよく見えた。闇に目が慣れるくらいにオレは場地を見つめていたのだった。
伸ばした手を引いて、床に下ろした。オレの手も、指も、オレのものなのにそんな気がしなかった。オレは場地にさわりたかったのに、手と指がそれをさせなかった。行動は意思に反した。自覚すると背筋がゾッとした。
仰向けになって眠る場地に、ほんの少しだけ身を寄せる。カーペットの表面を体が擦る。安物のカーペットはざらざらとしていてけっして寝心地のよいものではなく、そもそも直接この上に寝転がることは推奨されていないのだろう。
場地の顔に先ほどよりも数センチ近づいて、近づいたぶんだけ呼吸の音や体温が濃く感じられた。触れようと思えば触れられる距離にいて、でもそれをオレの手や指がゆるさない。だからオレにはなにもできない。
頬をカーペットに押しつけて横顔を見つめる。ふいに心細さに襲われる。どこにいても正しくないと感じていた、ガキのころからある焦燥が、また。だからってなんでオレ? へらへらと笑う場地を思い浮かべる。場地は笑いながらオレの頭を乱暴に撫でる。――ぜんぶオレの妄想で、願望で、だからこんなにもせつなくて胸が苦しい。どこにいればよいのかわからない、場地の隣なら安心できる、そう思った。単純に、そう思ったのだ。
「なあ場地。……さわってもいい?」
つぶやきはたやすく溶けてしまう。はなから届けるつもりのない声だから、どうでもよかった。
目を閉じた。場地の世界を壊すことはできないと思った。オレ自身の世界も、そうだ。なにもしない、なにもできない、なにもかえられない。
夜はいつも世界を押し潰そうと躍起になる。今夜もどこかで誰かの世界が壊れたり壊されたり、新しくうまれたり、しているんだろう。かえられるだけの力がない、それは絶望のようにも希望のようにも思えた。不思議と涙は出なかった。
こんなにせつなくて苦しいのに、少しも涙は出なかった。
畳む
キスはいつも、イザナから、だった。目の前にふっと淡い影が落ち、あ。と思った次の瞬間には唇を掠め取られている。ふにふにと柔らかく、かすかに湿ったイザナの唇はその時々によってつめたかったりあたたかかったりするのだけれど、今朝のそれはいつもより少しばかりひんやりとして、鶴蝶は身を寄せてくるイザナの肩に手を置き「寒いか」と訊ねた。秋のはじまりの朝日が、カーテンのすきまから淡く落ちていた。寝起き特有の掠れ声に、イザナは「なんで?」と返す。長いまつげにふちどられた大きな目をよりまるく大きくさせたイザナに、だってオマエの唇がつめたいとすなおに言えば、彼は数回、瞬きをした。ぱちりぱちりとまぶたが開閉するたび、銀色の長いまつげが光を弾く。
ベッドにはすでに鶴蝶ひとりぶんのぬくもりしかなかった。朝に弱いイザナが先に起きているなんてめずらしく、鶴蝶は夢とうつつの間をたゆたいながらイザナの腰に腕を回す。スプリングが軋んで、イザナがベッドに体重を預けたのがわかった。そのままシーツに頬をくっつけて横になる。
ベッドに寝そべった状態で真っすぐ見つめられると、その距離の近さや微かに感じ取れる体温に、今さらながらどぎまぎしてしまう。イザナのまなざしは揺らぎなく、鶴蝶を真っすぐに見つめていた。
「オマエのはあったかかったけど」
「オレの?」
手が伸びてきて、頬を両のてのひらで包みこまれる。そのゆびさきはやはりつめたくて、鶴蝶はイザナの手の上に自らの手を重ねた。
ゆびを絡め、手を繋いで見つめあうと、まるでふつうの恋人どうしだ。鶴蝶は頬に熱が宿るのを感じた。イザナとはそういう関係ではあったけれど――少なくとも鶴蝶はそう信じていたかったけれど――、はっきりと自覚をすれば嬉しさで胸がくすぐったい。イザナは口もとをゆるめて、
「ほっぺたもあったけぇ。オマエ、どこもかしこもあったけぇのな」
毛布の中に体を滑りこませ、鶴蝶の胸もとに顔を沈める。長い足が鶴蝶の足に絡まって、逃げようとする動きを封じる。イザナの体は静かに冷えていて、鶴蝶はふいにかわいそうに思った。オレの体温を分けてやりたいと思い、抱きしめてみる。「あったけぇ」。イザナは鶴蝶の体に腕を回して、くすくすと笑った。細長いゆびが鶴蝶の背骨をなぞった。
「ここはあっためてくんねぇのかよ」
「ここって?」
顔を上げて、イザナは自身の唇を指差した。途端、鶴蝶の顔がぼっと朱色に染まった。
「オマエ、な……」
「今さらなに照れてやがんだぁ?」
ヘンなやつだなと言いながらイザナは首を伸ばし、鶴蝶の唇に唇を重ねた。つめたい、と最初は思った唇が少しずつぬくもってゆく。
触れたそこから自分の熱がイザナに伝わっているのが、恥ずかしくてたまらない。イザナに触れられるとたやすく熱を帯びてしまう体――それを知っていてイザナはいつもいたずらばかり仕掛けてくる。でも、そんな彼をとても愛おしいと思うのだった。
「……まだ、寒いか?」
うすい背中を上下にさすりながら問うと、イザナは小さく笑った。答えはなかった。代わりのように、鶴蝶の鎖骨に頬を擦り寄せてつぶやく。
「もう寒くねぇ」
パジャマの布地越しにくぐもった声が聞こえた。身を寄せあって暖をとる自分たちは、ほんとうにただのどうぶつみたいだと鶴蝶は思った。
畳む
#カクイザ
(あたたかくしてね)