影菅の日2018

影菅



 台風が来るんだって。
 窓越しに、空の向こうを見あげて菅原はにわかにそう言った。抑揚のないその声に、影山は雑誌に落としていた視線を持ち上げてかれを見た。顔を窓に傾けた菅原の、まるい、ふっくらとした頬の輪郭が、淡い藍色にふちどられている。それでようやく、互いに向かいあってからずい分と時間が経っていたことに気がついた。机の上の時計は午後の六時を差そうとしていた。
「暗くなってきましたね」
 雑誌を膝もとに置いて、菅原の視線の先を追う。かれのへやに入った時にはまだ明るかった空は、いつの間にか厚い雲がひろがり、電線の交わっている向こう側は濃い灰色に染まっていた。
 うん、と菅原は頷いて、
「ことしは台風が多かったなあ」
 浅く、息を吐いた。
 たしかに、ことしは台風の頻発した夏だった。影山たちの暮らすまちには特に大きな被害はなかったが、西日本を中心にひどい水害が幾度も起こった。ふだんニュースに疎い影山さえ、報道を耳にするたびにその被害の大きさに目をまるくしたものだった。
「今回の台風が、最後だったらいいっすね」
 細く開けた窓のすき間から風が滑りこみ、影山の前髪をさらう。額に感じる風のつめたさに、思わず目をほそめた。あんなに暑かった夏が嘘のように、空気は日ごとに冷えていき、すでに秋の気配があちこちに漂っている。
 夏が終わる。
 木々の鳴る音が遠くのほうからきこえ、次第につよくなっていく風が窓硝子を揺らした。雲はひろがりつづけ、やがて完全に空を覆い尽くしてしまう。そろそろ雨が落ちてきそうな様子に、窓を閉めたほうがよいのではとくちにしかけたが、じゅうたんの上にぺたりと坐った菅原に動く気配はなく、言葉をかけるタイミングを逸してしまった。
 しばらくふたりで、ぼうっと空を見あげていた。
 夏休みが終わり、日常が戻っても、ひたすらにボールを繋ぐ日々になに一つ変わりはなかった。菅原の白い肌が、かすかに日に焼けた。夏のあいだに散髪をしたおかげで、影山の髪の毛がわずかに短くなった。変化など、そのていどだった。
「影山」
 横顔を影山に晒したまま、菅原がくちを開いた。はい、と律儀に返事をすると、ふいに視線が絡まった。影の落ちた表情は、時間とともにゆっくりと、そのたしかさを失くしていく。夜の色がかれの輪郭を溶かしていくのを、影山は目をほそめて見つめた。
「ちょっと、こっちゃ来」
 ひょいひょいと手のひらを動かす菅原の言われるままに身を寄せると、とうとつに手首を引っ張られた。わっ、と声を上げる間もなく、体が菅原の腕の中に閉じこめられてしまう。額に鎖骨のかたちを触覚する。ぎゅうと頭を抱えられ、すがわらさん、と発した声はくぐもって、影山の内側にじん、と響いた。
 つむじに菅原の鼻先が押し当てられるのを感じた。
「……汗臭いんで、ちょっと、」
 抵抗するにも憚られて、腕の中におさまった態でなんとかそれだけを言う。菅原はふふっと笑って、
「ちょっとな」
 と、言った。
 髪の毛の感触をたしかめるように、菅原は影山の頭を撫でた。その手のひらの温度に心臓が軋む。かれに触れられると、いつも、影山の体のどこかがせつなく痛んだ。けっしてつよいちからなどではないのに、まるで締めつけられるようなその感触に影山はうろたえ、どうしてよいのだかわからなくなる。菅原のシャツの裾を掴み、額を鎖骨に押しつけて、すがわらさん、と、ちいさな声でかれをよんだ。
「うん?」
 頭上に降ってくる声はあくまで優しかった。
「窓、閉めませんか」
 雨降りそうですし、風もつよくなってきたし。台風、来るんでしょう? ――影山の提案に、けれど菅原は「うーん」と洩らすばかりで、とりあう様子はない。
 首を捻り、わずかなすき間から菅原を見あげる。かれはまた、顔を窓のほうに向けていた。へやはすっかりと暗くなり、薄墨色に染められたそこで、菅原の輪郭もまたおぼろに滲んでいた。
「あ、」
 菅原の唇が動いた。「雨だ」。
 ぱた、ぱた、と音がして、それはやがて大粒のしずくに変わり窓を叩きはじめる。風に舞った雨粒が、菅原の前髪と、影山の額に落ちる。
「濡れちゃいますよ」
 すでにカーテンの裾に染みができているのを、薄闇のなかにみとめる。うん、と菅原は言い、それでもなお動こうとはしない。
「じゅうたんとか、ベッドも」
「うん」
「……菅原さんの、髪も」
 指を伸ばして、毛先についた水滴を払う。菅原のまなじりがすうと下がる気配がした。
 一瞬、目の端を閃光が走った。遠くの空で雷が鳴り、ひときわつよい風が窓にぶつかる。
「夏が終わるな」
 耳に落ちた菅原の声に、心臓がまた、ちくりと痛んだ。あまりにも頼りのない、せつなげな声だった。
「ことし最後の嵐だ」
 視界は夜闇に包まれて、たしかなのは触れあっている肌の温度だけだった。
 シャツの裾を握っていた手を離し、菅原の指を探す。あたたかいそれを探りあてると、そのまま指先を触れあわせ、しずかに絡めた。やわく握れば握りかえしてくれるかれの反応が愛しかった。
 ごめんな、と、菅原は影山の髪に鼻を埋めて言った。
「もうすこし、このままでいよう」
 菅原の言葉に頷くことで返答をし、絡めた指にわずかにちからをこめた。
 空を雷の音が駆け抜け、雨脚は、やがてつよいものとなってかれらの世界を覆い尽くす。

(初出:2018年9月2日)

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月は満ちた

柄丑



「んむ、」
 丑嶋の行動はいつも唐突で、柄崎をたやすく混乱させる。コンビニの駐車場、買ってきたアイスコーヒーを両手に持ち、丑嶋の運転するハマーの助手席に乗りこんだ瞬間だった。一瞬、顔にかげが差した、と思ったときには、丑嶋のうすい唇が柄崎のそれに押しつけられていた。
「しゃ、ちょ」
 白木蓮の咲き始めた、まだ淡い春のま昼間。コンビニの駐車場には煙草を吹かすサラリーマンや買い食いをする学生の集団がまばらに見えていた。スモークガラスでもなんでもない窓硝子越しに、こちらの様子はきっと丸見えなはずで、だれよりも警戒心のつよい丑嶋がとつぜんにくちづけをしたことに柄崎は驚きを隠せなかった。
 ――なんで?
 くちづけは一瞬で、丑嶋の顔はすぐに離れていった。翳りの溶けた顔を早い春の、やわらかな日ざしが撫でる。丑嶋はフロントガラスのほうを向きなおり、すましている。表情はまるで変わっていない。
 へ、なんで? 当然浮かんだ疑問を、だが驚きでくちに出せないまま、柄崎は無言でアイスコーヒーを丑嶋に手渡した。ガラ、と、プラスチックの容器の中で氷が回転し、ちいさな音を鳴らす。
 何事もなかったかのようにストローにくちをつけ、中身を吸い上げる丑嶋を見て、ぐ、と唾を飲んだ。くちづけられたせいで、気分が高揚している。上下するのどぼとけが色っぽく、今すぐ嚙みついてしまいたいと思う。そんなことをしたらどうなるだろう、と、熱を帯びた頭で柄崎は思考する。思考すればすぐにでも実行したくなり、体を前傾させて丑嶋に顔を近づけた。切れ長の目が柄崎を見た。
「なに」
 いつもの、なにも変わらない平坦な声。ストローをくわえているせいで少しくぐもっている。
「あの、も、」
 もし、よかったら。ホテル。行きません?
 切れ切れに言う柄崎を、丑嶋はしばらく見つめていたが、すぐに視線を外して、
「なんで」
 と、言った。
「え!」
「つーか仕事中だろが」
「だ、だって!」
「なに」
 じゃあなんで、いまキスしたんすか! 顔をまっ赤にさせている柄崎は車の外にも聞こえてしまいそうな声で叫んだ。ウルセーよ。丑嶋は舌打ちをして、アイスコーヒーの容器をドリンクホルダーに置き、エンジンをかけた。燃料の燃える音が振動となって柄崎の尻から背中にかけて上ってくる。
 ハマーを発進させ、コンビニの駐車場を出るとあっという間に太い国道に乗った。あとはこのまま真っすぐ取り立て先の現場に向かうだけだ。
 ――社長の考えてることがわかんねー。
 まだ熱を残してじんじんする皮ふを持て余しながら、頭を抱えたい気持ちで柄崎もアイスコーヒーを一口飲んだ。コンビニのコーヒーにしてはマシな味がする。勢いよく半分飲んで、膝のあいだに容器を握った手を落ちつけた。
「……社長、ずるいっすよ、そーゆーのは」
 ひとり言のように、言う。道路を擦るタイヤの音に紛れて、丑嶋の耳に届いたかはわからない。柄崎は、だが、つづけた。「そーゆー、ふい打ちみたいなのは」。
 どうしたらいいのかわからなくなる。でも、どうもしなくていいのかもしれない。ただ丑嶋のしたいように、求められるままに、与えればよいのかもしれない。とつぜんのくちづけも、かれがそうしたいのだったら、いくらでも体を差しだせばよい。いや、むしろ、それが柄崎の望みでもあるのだから。
「知ってる」
 にわかに丑嶋の声がして、柄崎はハッとして顔を上げた。前方を睨みながら、丑嶋はステアリングを握っている。目をまるくさせている柄崎には、丑嶋の言葉の意味がつかめなかった。つかめなかったが、火照った体はじょじょにさめて、やがて心地のよい温度に変わり柄崎をあたためていった。
「……はい」
 こくん、と頷く自分は子どものようだったのではないか。そのさまを丑嶋に見られるのはひどく恥ずかしかったが、車内に逃げ場はない。ふたりきり、シートに並んで振動に揺られている。この車の窓硝子の向こうから、俺たちはどんなふうに見えてるんだろう。さっき、コンビニの駐車場でくちづけられたとき、もしも誰かに見られていたとして、俺はこの人の恋人なのだからなんの問題もない気持ちになっていた。
「好きっす。社長」
 俯きながら言う。丑嶋から言葉は返ってこなかったが、柄崎は満足だった。
 体も心もすべて、渡すことをゆるされている――そのことが柄崎をひたひたと満たしていた。

(初出:2022年2月18日)
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世界をかえるつもりはない

最終軸ばじとら(ふゆ)
誰もしなず、ころさず、ころされず、大人になった世界線。

世界をかえるつもりはない / yuko ando



 どこにいても正しくない気がした。だからってオレを選ばなくていいだろうよって、オレの言い分を聞いたならそう言いそうだけれど、オレの選択肢にはオマエしかいなかったのだ。それはたぶん、最初っから。
 場地の尖った顎が夜の中に輪郭を描いていた。目の前にある顔はガキのころからあまり変わっていなくて、オレをひどく安心させる。
 狭い部屋の空気はふたりぶんのアルコールの摂取量と比例して濃く濁っていた。缶ビールと酎ハイを交互に飲んで、したたかに酔うとそのまんま、リビングの床に転がって眠る。バカでのんきな大学生みたいだ。
 実際に場地は大学生だったけれどオレは一応社会人で、こんなことをしている場合ではないのかもしれない。場地とは同級で、今年二十七歳。アラサー。ペットショップで働いている。年下の上司がいて、コイツがまあ口うるさい。でも、なんだかんだで今の日々は楽しい。
 あんなに飲んだわりに頭はすっきりしていて、完全に覚醒していた。場地の長い髪の毛が視界の中でうねっている。さわれそうだった。
 手を、伸ばしてみた。場地の頬に触れようとした指が、宙で止まった。
 夜の闇の中でも、場地の痩せた頬やつんと上を向いた鼻はよく見えた。闇に目が慣れるくらいにオレは場地を見つめていたのだった。
 伸ばした手を引いて、床に下ろした。オレの手も、指も、オレのものなのにそんな気がしなかった。オレは場地にさわりたかったのに、手と指がそれをさせなかった。行動は意思に反した。自覚すると背筋がゾッとした。
 仰向けになって眠る場地に、ほんの少しだけ身を寄せる。カーペットの表面を体が擦る。安物のカーペットはざらざらとしていてけっして寝心地のよいものではなく、そもそも直接この上に寝転がることは推奨されていないのだろう。
 場地の顔に先ほどよりも数センチ近づいて、近づいたぶんだけ呼吸の音や体温が濃く感じられた。触れようと思えば触れられる距離にいて、でもそれをオレの手や指がゆるさない。だからオレにはなにもできない。
 頬をカーペットに押しつけて横顔を見つめる。ふいに心細さに襲われる。どこにいても正しくないと感じていた、ガキのころからある焦燥が、また。だからってなんでオレ? へらへらと笑う場地を思い浮かべる。場地は笑いながらオレの頭を乱暴に撫でる。――ぜんぶオレの妄想で、願望で、だからこんなにもせつなくて胸が苦しい。どこにいればよいのかわからない、場地の隣なら安心できる、そう思った。単純に、そう思ったのだ。
「なあ場地。……さわってもいい?」
 つぶやきはたやすく溶けてしまう。はなから届けるつもりのない声だから、どうでもよかった。
 目を閉じた。場地の世界を壊すことはできないと思った。オレ自身の世界も、そうだ。なにもしない、なにもできない、なにもかえられない。
 夜はいつも世界を押し潰そうと躍起になる。今夜もどこかで誰かの世界が壊れたり壊されたり、新しくうまれたり、しているんだろう。かえられるだけの力がない、それは絶望のようにも希望のようにも思えた。不思議と涙は出なかった。
 こんなにせつなくて苦しいのに、少しも涙は出なかった。

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ちゅっちゅしてるとらふゆ(書きかけ)/22軸
※ほんとうに書きかけです。



―――

 ふいに赤い舌が見えて、かと思ったらくちびるをぺろりと舐められた。生ぬるくてかすかに苦い、唾液の味がした(苦いのは、たばこのせいだとすぐにわかった)。わ。驚いて身を引こうとしたけれどいつのまにか腰を掴まれ、身動きを封じられていた。腰を引き寄せられて、ちゅ、ちゅ、と続け様にくちづけられる。くちびるのすきまからもれる息が熱い。
「ちょっ、こら、一虎くんっ」
「んー?」
 一虎くんはオレの声など聞こえていないかのようにあむあむと耳たぶを甘噛みする。耳もとでしゃべられると空気の振動が直に伝って、脳の奥らへんがじんと疼いた。ばか、しゃべるな! いっそう叫びたい気持ちで、でも震えは快感に直接結びつく。意思とは無関係にきもちいい、と感じてしまう従順さがただ酷だった。オレは体をぎゅうっと縮めて、一虎くんにされるがままの玩具に成り果ててしまう。
 なにがスイッチになったのかは知らないけれど、一虎くんはすっかり発情してオレの体のあちらこちらを触り、くちびるを額や鼻のあたまや頬に擦りつけてくる。べつにアルコールが入っているわけでもない。酔っているわけじゃない。だのに積極的すぎる一虎くんに、オレは怯んだ。
「かずとらく、ぅんっ」
 オレの口をキスで塞ぐ。てのひらが下腹部をさ迷い、やがてパーカーの裾を捲り上げた。腹の上に乗せていたてのひらがすきまから滑りこんできて、腹筋をなぞる。背筋がぞわりと粟立った。
 ひ。オレは悲鳴に近い声をあげて、両腕で顔を覆う。
「っ、こ、わいぃ」
 一虎くんがいつも漂わせているいい匂いが、熱を帯びてすっかり火照った吐息が、崖っぷちにじりじりと追いつめていくようで怖かった。拒絶するつもりはなかったが、無意識のうちに嫌々と首をふっていた。性急だった一虎くんの動きが止まる。ちふゆ。小さな声で、名前を呼ぶ。オレは腕のすきまからそっと視線を向けた。眉尻を下げて、困ったような表情で、一虎くんはオレを見つめていた。赤く染まった頬が彼をいつもより幼く見せた。
「ご、ごめん、」
 身を引いて、床の上にぺたんと座りこむ。普段ではあまり見ないしおらしい姿が、なんだかかわいそうだった。オレは顔を隠していた腕を下ろすと、力なく膝に落ちた一虎くんの手に触れた。
「……こっちこそ、ごめん」
 ちょっと、びっくりして。言い訳みたいにオレが言うと、一虎くんは気まずそうに視線を泳がせた。
「オレとすんの、怖い?」
 えっ? とオレは問い返した。一虎くんは言葉を探しつつ、続けた。
「オレにさわられんの、やっぱ、気持ち悪ぃ?」
「そっ、そんなこと、ない」
 一虎くんの問いかけに首をふる一方で、よろこびが水のように湧き上がってくるのを感じた。かわいい人だ、と思った。オレの表情や挙動のいちいちに反応して不安がる一虎くんが、どうしようもなくかわいかった。そんなふうに思うオレの性癖は歪んでるのかもしれない。すなおに告白したら気味悪く思われて引かれるかも。
 心のうちを悟られることに怯えながらも、一虎くんの頬を撫でた。頭を抱くと、遠慮がちに腕が伸びてくる。一虎くんの腕はオレよりも長くてしなやかで、うつくしいそれがオレの首に巻きついて絡まるのは心地好かった。
「オレ、アンタのことがすきですよ」
 
―――

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ふゆとら(22軸)



 あたたかな体温に包まれて深く眠り、目覚める朝はいつだって幸福に満ちている。こんなおとなになることを少年の自分は想像していなかっただろうと、千冬は浅く息をはく。
 すくなくとも、彼とこうして体を寄せ合う関係になる、なんてことは。
 少しでも身動ぎをすると背中に張りついている一虎を起こしてしまいそうで、完全に目がさめても背後から彼に抱かれたまま、千冬はベッドの中でおとなしくしている。寝巻き越しに感じる肌の温度や湿っぽさ、耳もとをなぜる穏やかな呼吸は、一虎が生きて、今ここにいることの証明だった。
 胸の前に無防備に落ちている手に、そっと触れた。手の甲を指さきでなぞり、輪郭をたしかめる。あたたかくて、人の手のかたちをしている。おとなの、男の、手だった。
 これ、オレのだ。ふと、千冬は思った。この人は、オレのものだ。
 ちふゆ。耳朶に、生ぬるい息がかかった。注がれた声は、小さなどうぶつの類が甘えるようなやわらかさをはらんでいた。千冬は首を捻って、そちらに視線を向けた。一虎の瞼はまだほとんど降りていて、長いまつ毛が細やかに震えていた。
 一瞬、さっきのは寝言かと思ったのだが、触れていた手が動いて千冬の指に絡まってきたので、彼が目を覚ましたことを知った。
「おはようございます」
 体を反転させて、一虎のほうに向いた。一虎は空いているほうの手で目を擦り、額にかかった長い前髪をかき上げた。「眠ぃ」とひとこと、もらす。千冬はくすくすと笑った。
「べつに、まだ寝ていていいんスよ」
 休みなんだし、なんの予定もないし。そう続けると、一虎は千冬の肩を引き寄せて、強い力で抱きしめてきた。鼻先が固い鎖骨に当たり、一瞬にして一虎の匂いに包まれる。少し湿った、肌の匂い。無意識のうちに、千冬の体の奥が疼く。
「……一虎くんて、いい匂いしますよね」
 にわかに噴き出した欲求を悟られないように、ゆっくりとした調子で言った。
「香水のせいじゃねぇの」
 一虎もまたのんびりと返した。千冬は首をふった。一虎のくびすじに頬を押しつけて、思いきり息を吸う。
「じゃなくて、一虎くんそのものの匂い。いい匂い」
 一虎はくつくつと笑って、「オマエ、変態かよ」と言った。おかしそうに、愉快そうに、自分相手に言葉を交わしてくれることが千冬にはうれしくて、こちらも力をこめて一虎の体を抱きしめた。
「千冬はなんか、埃っぽい匂いする」
 千冬の髪の毛に鼻を埋めて、一虎は言った。
「ええ……、なんスかその悪口」
「外干しした布団の匂い」
 すんすん、と鼻を動かした。太陽の匂いがする。一虎はそう、静かに続けた。
「それっていい匂いなんスか」
 どうだろ、わかんねぇけど、と一虎は言った。「でも、オレはすき」
 一虎の腕の中で、一虎の声を聞いているうちに、頬が熱を帯びてゆく。ゆっくりと上昇する体温に、彼は気づいているだろうか。気づいていたとしたら、なにを思うだろうか。不安になると同時に、わずかな期待が芽生えていることに千冬は呆れた。
「してぇの?」
「えっ」
 唐突に、一虎が耳もとに囁いた。くの字に曲げていた千冬の膝のあいだに足を入れ、するすると絡ませてくる。ズボンのすきまから脛をなぜた、足のつまさきがつめたかった。
「しても、いいけど」
 視線が絡まる。一虎の瞳は透きとおっていて、かすかに潤んでいるように見えた。
 すう、と視線を逸らして、千冬は再び一虎の胸もとに顔を沈めた。んん、と、あいまいな声をもらし、額を鎖骨に擦りつける。
 店であつかっている仔猫が似たような動きを、母猫にたいしてしていた。その姿を思いだして、気恥ずかしさにいっそう顔を上げられなくなった。
 このままでいい。――ちがう、このままがいい。千冬は思った。口には出せなかったが、膝を割ってきた一虎の足に、自らの足を絡めて、数回深い呼吸をした。
 一虎の匂いをかぐ。あたたかい体温に包まれる。幼いころには想像もできなかった未来を、ふたりで生きている。ふたりで、朝を迎える。そうして、やがて夜がおりてくる。そのくりかえしの毎日を、これからもずっと続けてゆく。
 すき、を声に乗せることはできなかった。腕いっぱいで一虎を抱きしめて、まるでそれしかできないどうぶつのように。

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ドラマイ



 できるだけ日陰をえらんで歩いた。数メートル離れた斜め前方に、猫背気味の堅の後ろ姿があった。いつもどおりの静かな背中で、肩を怒らせているわけでもなく、傍から見れば機嫌を損ねているとは思われない。そのことが万次郎をひどくさみしい気もちにさせた。
 長身の堅の影は長い。足を踏み出すたび、右に、左に、揺れる。彼が好んで日なたを歩いているわけではないことを、万次郎は知っていた。自分と一直線に並びたくないのだ、と。そう思うと苛立った。けれど万次郎は唇を引き結び、文句を飲みこむ。
 喧嘩なんて名づけられないくらいの、他愛のない悪戯の応酬だった。万次郎にとってはじゃれあいとおなじで、だからふと堅の表情がかげったとき、万次郎は咄嗟に、やりすぎた、と口もとを抑えた。むっつりと黙ってしまった堅は顔を背けて、やがて万次郎に背中を向けた。「ちょっと、ケンチン!」と万次郎は叫んだ。声をかけても立ち止まらない堅に腹が立ったけれど、勝手に離れていかれるのもいやで、彼の背中を追って歩き始めた。ビーチサンダルのうすっぺらいソールが砂利を踏んで、乾いた音を立てた。
 くだらないやりとりがこんな事態を招いてしまったことを、万次郎は後悔した。いつものように肩を並べて歩きたいのに、堅は立ち止まらないし歩調も緩めない。
 ――ああ、
 万次郎は顔を上げた。いつも、なんだかだるそうに歩いていたのは、オレの歩幅に合わせてくれていたから? 身長差もあって、ふたりの歩幅にはそれなりの差がある。堅の一歩は万次郎の二歩で、けれどそれを気づかせないほど、万次郎の歩幅やスピードに合わせて堅は歩いていた。
 だからいっしょに歩けてたのかな、オレが気づかなかっただけで。ケンチンは優しいから。
 並んで歩けないことが、万次郎の胸を締めつけた。待って、と追いかけるのは悔しくて、けれどなにも言わないでいれば距離はどんどん離れていってしまう。
 勝手に、離れていくなよ。
 ふと、前方で揺れていた影の動きが止まる。万次郎は足もとに落としていた視線を上げた。堅が振り返って、万次郎を見ていた。切長の目をこちらに向けて、マイキー、と、いつもの声音で呼んだ。
「遅ぇよ、早くこっち来い」
 堅はぶっきらぼうに言って、右手を差し出した。ケンチンがさっさと歩いていったんじゃん、と文句を言いたかったけれど、なにもかもを後回しにして万次郎は堅に駆け寄った。ぎゅうと握りしめた手は大きく、あたたかかった。

(2023.08.28)
 ――離れていくのはどちらだろうか

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ドラマイ



 ケンチンに触りたい、と思った。それで、すなおにそう言った。「いつもベタベタ触ってんじゃねーか」とケンチンは言った。ちょっとだけ笑って。そうだけど、とオレは言った。そう、それはそう、だけど。でもちがう。そうじゃなくって。
 容赦なく注ぐ日ざしは背中に熱くって、なにもかもを焼き尽くそうとしてるみたいだった。真夏の昼下がり。暑い暑いと言うオレのために、ケンチンはコンビニに寄ってアイスを買ってくれた。わずかな日陰を求めてコンビニの裏手にまわり、車止めに尻を乗せてアイスの封を切った。冷気が鼻先を掠めた。みず色をしたいかにもつめたそうな氷菓に齧りつく。「冷て」、とオレが笑うと、ケンチンもアイスを齧って「冷てー」と言った。中学に上がって、はじめての夏だった。日陰といっても蒸された空気はしつっこく肌にまとわりついた。隣に座ったケンチンはしゃりしゃりと音を立ててアイスを齧っている。その横顔を見ていると、ふいに体のおくが、むずっ、とした。むずっ?――そんな感触ははじめてのもので、でも、すぐに欲求が追いついて、噴き出した違和感を覆ってしまった。ケンチンに触りたい。なぜか、そのとき、そう思ったのだった。
 車止めに置かれたケンチンの左手に、指を伸ばした。触れる。しっとりと汗の滲んだ皮ふがあった。皮ふはうすくて、骨のかたちが伝わってくる。はじめて、ケンチンそのものに触れた気がした。しばらく手の甲をなぞっていると、頭の上のほうから「くすぐってぇよ」というケンチンの声が聞こえて目をあげる。逆光の中にケンチンの顔があって、表情は見えなかった。構わず、指の腹で湿っぽい皮ふを撫でた。ケンチンはされるがまま、もうなにも言わなかった。
 蒸れた空気のせいで呼吸が苦しかった。でもほんとうにそれだけのせいなのか、ガキんちょのオレにはまだよくわからなかった。


(2023.08.16)

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ドラマイ



 抱きしめると、すっかりと腕の中におさまってしまうちいさな体だった。背中を包むように抱いて、万次郎の底に潜む熱を感じれば、ただでさえ蒸した部屋が温度を増す。
 堅の肌にも汗は滲み、熱気がしつこくまとわりついた。万次郎の背中も湿り気を帯びてひどく熱い。こんなに汗だくになってくっついて、でも、なにもしてない。堅はその不思議を思った。大人が、店にやって来る連中が嬢とするようなことは、オレらは一切、やってない。帰りたくない、とごねるマイキーを部屋に泊まらせているだけ。ベッドに転がったマイキーの背中を、抱いているだけ。それだけのこと。なのに、期待をしてしまう自分にうんざりした。
 けんちん、と濡れた声が万次郎のくちびるから転がった。部屋にしみてゆく甘い声に、堅は耐えきれず喉を鳴らした。万次郎の顔は見えない。照明を控えたうす暗く湿度の高い部屋で、ぴたりと体を合わせて、万次郎の髪のきんいろさえも曖昧に滲んでいた。
「……なんも、しねぇから」
 堅はそう言った。なにも、しない。ただ抱きしめていたいだけだから、と。ふっと息を洩らして、万次郎が笑った。
「べつに、なんかしてもいいよ」
 明瞭な声に、堅は一瞬、怯んだ。それから、われに返ったように「あほう」と言って、万次郎のくせっ毛に手を差し入れた。
 あつい、と思った。あつくて、ひどくあつくて、このまま溶けちまいそうだ。<br> 万次郎を抱く腕に力をこめる。うなじに、唇を押しつける。汗をかいて湿った皮ふがあった。思いきり息を吸い、かれの匂いを肺に送りこんだ。

(2023.08.09)

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大人みつゆず



 アルコールが入るとまなじりが赤くなる、色白の肌にほんのりと朱がさすその瞬間が好きだと気づいたのは、ふたりきりで飲みに行って何回めのことだろう。考えようとして柚葉は、そんなの忘れた、と思考をアルコールで飲み下した。喉を滑り落ちていくカクテルは妙に甘ったるい。
 佇まいはちいさいが清潔で小洒落たバーの、カウンター席に並んで座った。互いの肩同士がふれあいそうなほど近い距離にあって、けれどそれを気にするほど、三ツ谷と柚葉の関係は遠くなかった。近いものでもなかったけれど。
「つぎ、なんか飲む?」
 三ツ谷は頬杖をついて、視線をこちらに向けた。うす赤く染まったまなじりを見とめて、かれがわずかにでも酔っていることを知る。
 男ともだち同士の酒の席ではわからないけれど、かれが柚葉の前でべろべろになるまで飲むことはなかった。少なくともこれまでそんな三ツ谷の姿を見たことはない。もっと飲んで酔っ払いなよ、と、飲みに行くたびに柚葉は思う。いっそう前後不覚になるくらい、肩を貸さないと立って歩けないくらい。アタシがタクシー呼んでやらないと、家に帰れないくらいに。
 三ツ谷の問いかけに、うーん、と言いながら視線をワイングラスが並ぶ中空に向けた。カウンターの向こうでは初老のマスターがグラスを拭いている。店内はうす暗く、客はほかにいなかった。グラスの中で氷が溶けて、涼やかな音が鳴る。
「アンタは? まだ飲む?」
 三ツ谷の手もとに置かれた、からになったグラスを見やる。質問に質問で返してしまった、と、すこしだけ後悔した。けれどそれも一瞬のことだった。
「どーすっかな」
 言いながら、三ツ谷がスツールに座りなおした。そのときわずかに、肩がふれた。それはほんとうに一瞬の、瞬き一回にも満たないほどの短い時間のことだった。
 けれど、互いに目を合わせる理由にするにはじゅうぶんで、視線と視線が絡み、どちらかともなく口角が持ち上がって、「ごめん」と、声が重なった。
 柚葉は細く息を洩らした。ため息のような、ほほ笑みのような、あいまいな吐息。
 今夜もまた、お互いに、べろべろに酔うことはないと知っていた。てきとうなとこでお開きにして、三ツ谷がタクシーを呼んで、相乗りしてそれぞれの家に帰る。三ツ谷はアタシを、先に下ろす。そういう男だ、コイツは。
「たまには裏切っていいのに」
 柚葉はつぶやいた。それは三ツ谷にも届いているはずだった。けれど、かれはなにも言わなかった。

(2023.09.10)
――いつか、きれいに裏切ってね。

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