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ハイキュー!!ゴミ捨て場の決戦

昨日、ハイキュー!!ゴミ捨て場の決戦を観てきました。感想をたたみます。
だいぶん原作から遠ざかっていたし、こんな状態で観てもよいものかしら‥と躊躇していたらいつのまにか時間が経ってしまっていた。
劇場で観ることができてほんとうによかったです。



開始即号泣でした。泣くところじゃないところで泣いてたんでかなり感極まっていたのだと思います。泣くっていうか咽び泣きだった。平日でお客さんが少なくてよかった。お化粧なんてちいとも意味がなかったです。
なんてきらっきらな純度10000%の青春なんだろう。青くて瑞々しくてなんにも混りっけなくただただ「バレーボールが大すき」の気持ちを追いかけているかれらがほんとうにまぶしくてうつくしかったです。かれらの真っすぐなまなざしや言葉にかつて心から救われてたことを鮮明に思いだした。そしてなにかを「ただ、すき」でいることがこんなにも見ている人のこころを動かすってこと。すき!と向き合う気持ちを思いださせてくれてほんとうにありがとうだった。

昔読んで・観ていたときは黒尾さん、しょうじきあんまり意識してなかったのですけど、今もうめろめろになっていてウケます。えっ いい男だな‥?
ひょうひょうとしながらも周りを鼓舞していく姿が純粋にとっても恰好よかったし、そうそうクロってこういう男でしたね! 今までの認識はなんだったんだ?
子どものころの研磨との交流がとってもいとおしかったです。高校生になるまでにふたりが紡いで築いて積み重ねてきた時間のことを思うと胸がつまりました。「土曜日空いてる?!」って訊く時の意を決した、勇気を出した黒尾さんの表情と声がなんだかたまらなかったです。高校生になった今でこそなんでも話し合えて言い合える仲だけど、こんなふうに緊張感を持って向き合ってた時期もあったんだよね。人間関係ってそうやってつくってゆくのだし、友だちになってゆくのだよね。

木兎さんの「俺たちがどのくらい強くなったか 見て」、の言葉と声にまんまとやられました。
引きたいせりふが多すぎて脳みそがパンクしそうです。ハイキュー!!作品内で交わされるキャラクタ同士の会話や、ことば選び、どれもふかく胸に刺さって未だにずっと抜けないんです。
ハイキュー!!で出てくるせりふって読み手(わたし)が、「言って欲しかった」言葉が多いなって思います。それは原作を読んでいた当時のわたしの置かれていた環境や状態によるものも多分にあるのでしょうけど、「誰かに言って欲しかった」ことばをかけて、背中をそっと押してくれたのがハイキュー!!なんでした。あと一歩ってところで戸惑っていたわたしに大丈夫!って笑ってくれたのが日向でしたし、影山でしたし、菅原さんでしたし、ハイキュー!!に登場したキャラクタみんなでした。

映画を観て、これはみんなの人生の物語だって思いました。一瞬のきらきらは過ぎ去ってしまう儚いものだけれど、確かにそこに「あった」。あったんだよなあ。ほんとうに、そこに「あった」んだよ。十代の頃のぜんぶ、またたきしたら消えちゃうくらいのものなんだ。でも「あった」事実は、ちゃんと残る。大人になっても「あった」青春はずっとだし、大人になるまでの道をふり返った時に続いているのは青春から地続きの「今」なんです。

終盤、研磨の目線で描かれる長いながいラリーのシーンはほんとうに鳥肌でした。すごすぎる。スクリーンで観られてよかったって思った瞬間の一つです。

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細かいところを引いてゆくといくら書いても終わらないのでこのへんにします。
一回じゃとても足りない‥ もっと浴びたい。たぶんもう一回観に行って、またたくさん泣いてくると思います。
みんなに出会えてよかったです。ほんとうに、ありがとうです。

#ハイキュー!!
甫木元空監督「はだかのゆめ」を観てきました。
抒情詩のような、長めのミュージックビデオのような、そんな空気をまとった映画でした。ぜんぶで60分ちょっとの長さがちょうどよかった。
たいせつな人を残して死んでしまうことへの恐怖や後悔や、かなしみの感情と、でも一年に一度の会いにくる約束。日本の文化って残された者のためにあるんだなって思った。ゆめでもいいから会いたいよ、と思う人、わたしにもいる。畳む


#映画 #鑑賞記録
須藤蓮監督作品「逆光」を観ました。以下、かんたんな感想です。(いろいろ見当違いなことを言ってるかもしれません)(あらすじ以上、ネタバレ未満)

こんなふうに言うとチープだけど、晃の吉岡への思慕はまちがいなく恋だったのでしょう。三島由紀夫の『反貞女大学』からいくつかの文が引用されていて、「マイノリティ(性的な)であり社会と衝突をする恋愛は、真実の恋愛である(大意)」の部分が、この映画の副題(?)である「傷つけられたい」に結ばれるのかもしれない。
傷つくことでやっと、ほんとうの恋であり愛であると証明できるなんて、とてもさみしいことだけど。でもそういう考え方はわたしが大衆側にいて、少数派を「悲劇的な」存在にしたいだけなのかもしれない。それはとても愚かしいな、ともおもう。
1970年代という時代をわたしは生きていないから、知らなくて、ぜんぶ伝え聞いたことしかわからない。でも現代だから描けた作品なんだろうな、ということはなんとなくわかる。
そしてみーこのうたう、森田童子の「みんな夢でありました」が心地好いこと。耳の奥でずーっと流れてる。畳む


#映画 #鑑賞記録
青山真治監督作品「月の砂漠」を観ました。
以下、感じたことや考えたこと。ネタバレはないとおもいます。

物語の舞台である2000年初頭って、わたしは小学生だった。インターネットが世の中に普及し始めて、わがやにもパソコンがやってきてころだった。わたしもそれではじめてインターネットにさわった。インターネットがイコール世界だった時代。パソコンの蓋を開ければ世界と繋がれることが新鮮でおもしろくて、熱中していたことを憶えている。当時あんなにインターネットにふれていなければ、今もこうしてサイト運営などしていなかったと思う。
IT企業が時代の大波をかぶって崩壊してゆくさまは、諸行無常、といった感じがあった。そして会社と同時に家族も壊れてゆく。家族を繋げていたのは「お金」という名の「安定」で、きれいごとだけじゃきっとやっていけなかった。でも主人公はそれを否定する。「家」はただの建物だと言い、たいせつなのはその中にある家族で、人なのだと、失ったものたちへの思いを募らせていく。
お金を稼いで裕福になる人がいるいっぽうで、それらに食い物にされて貧しくなってしまう人たちがいる。今の世の中もそうで、構造は当時となにも変わらない。お金がすべてとは言えないけれど、お金で解決できることやお金によって維持できるなにかはぜったいに存在していて、その事実があんまり、むなしい。
「月の砂漠」というタイトル通り、遠目からでうつくしいと思っていたものにふれたら、それはただの砂の地だった。ざらざらとした乾いた砂の感触が手に残るよう。畳む


#映画 #鑑賞記録