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日研



 押しつけられた唇は甘酸っぱいレモン味では全然なくって、あれは都市伝説だったんだなあと妙に冴えた頭で翔陽はおもった。
 唇に触れているのは研磨の唇で、それは湿っていて柔く、かすかに汗の匂いがした。不快さは感じず、むしろはじめての感触と温度に、心地好ささえおぼえた。
 金色の髪の毛が流れて頬を滑る。顔が離れる。研磨はいつもと変わらない表情でこちらを見ていた。大きな目が翔陽を捕まえる。まるで、離さないよとでもいうような力強いまなざしで。
「けんま、」
 翔陽が口を開くのと同じタイミングで、背後から「研磨!」と呼ぶ声がした。研磨越しに視線を送ると、黒尾が右手を大きく挙げていた。研磨は、しかしふり返らずにじっと翔陽を見つめている。それがあんまり強い視線だったので、先ほどの唐突なキスのことなど忘れてしまいそうになる。あれ、おれたち今、きっ、キス……したよな? 研磨の唇とおれの唇が、くっついた、よな? くるくると思考が回るにつれ、頭は次第に混乱してくる。
「研磨、呼んでる、黒尾さん、」
「うん。いい」
「いいって、……」
 とまどう翔陽に追い打ちをかけるように、研磨は目を細めて言った。
「翔陽、ファーストキス? だよね?」
「へぁっ?!」
 図星をつかれて顔をまっ赤にさせると、研磨はくすくすと笑った。いたずらを成功させたこどもみたいな、無邪気な笑いかただった。研磨もこんなふうに笑うことがあるのかと、翔陽ははじめて知った。
 まだ顔を合わせて間もないから、知らないところなんてたくさんあってあたりまえなのだけれど、今まで見てきた研磨からは想像ができないほど愛くるしい笑顔に、いっとき、見惚れた。
「けっ、研磨もだろ……っ!」
 ん、と喉を鳴らして研磨は首を傾げた。そのようすに、翔陽は不安になる。
「まさかちがうとか?!」
「んー……、どうでしょうね」
「けっ、研磨サン……!」
 勘弁してくれよ、と項垂れる翔陽を見て、研磨はまたくすくすと笑う。からかわれていることはわかっていたけれど、認めてしまうととても、とても悔しい。
 夕日がふたりの輪郭をあたためていた。五月の夕暮れ、日は少しずつ永くなって、足もとに生えた草からも初夏の匂いが立ち始めている。
 練習試合で目いっぱいかいた汗はすっかり引いたはずだのに、翔陽のくびすじにはまたじんわりと汗が滲み始めていた。首から頭の先まで、まっ赤になっていることを想像すると、恥ずかしさで逃げ出したくなる。でもそれを、研磨のまなざしがゆるさない。
 すう、と息を吸った。なにかを言いたくて、でも言葉は喉のあたりに絡まって出てこない。そうしているうちにふたたび「研磨ぁ!」と呼ぶ黒尾の声が聞こえて、研磨はようやく声のするほうを見やった。
 今、行くから。黒尾に向かって返事をする。とても小さな声だったので、黒尾にその声が届いたかどうかはわからない。
 研磨はあらためて翔陽を見た。
「またね、翔陽」
 ひらひらと右手を振って、研磨はゆっくりと踵を返した。呼び止める隙も与えず――それは翔陽が言葉を詰まらせていたせいもあるけれど――研磨はチームメイトの集団へと歩いていく。
 夕日が研磨の影を細長く伸ばした。顔に触れた影はかすかにあたたかみを感じたけれど、影にも体温ってあるんだろうか。
 先ほどまでの出来事はあまりにも一瞬で、きっと誰にも見られていない、知られていないだろう。近づいてきた研磨の顔、触れた唇のぬるさ、湿っぽさを、知っているのはたぶん、おれだけ。「どうでしょうね」なんてずるいことを言ってたけど、たぶん、いや絶対に研磨だってファーストキスだ。そう思うと赤く染まった顔がますます熱を帯びた。
 両手で頬を挟んで、ぎゅ、と目を閉じる。熱はてのひらを伝って、全身に運ばれる。
 初夏の夕がたの風が、さわさわと髪の毛を揺らした。遠ざかっていく研磨の影を追いかけたくて、でもぐっと堪えた。またね、と彼は言った。そう言ったから、だからまた、何度でも会える。
「日向ぁ、帰んぞー」
「あ、はいっ!」
 田中の声が響いて、翔陽は顔を上げた。夕日に背中を向けて、翔陽もまたチームメイトの輪の中へと戻っていく。

畳む


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