Ⅲ.

 狭いソファで抱き合って横になり、マイキーが眠りに落ちていくのを見ていた。やがて瞼が完全に黒目を隠し、浅かった呼吸が一定のリズムに変わる。
 頬に残った涙の痕を、オレは指の腹でなぞった。
 感情が爆発したみたいにマイキーは泣いた。どれほど大きな闇を抱え、自分の中で殺しつづけてきたのかわからない。が、涙を流すことですこしでも心が癒やされるのなら、いくらシャツがびしょびしょに濡れようと構わない。抱きしめて、背中をとん、とん、と叩くと、ガキが甘えるみたいにオレのシャツの胸もとをきつく握った。
 窓の向こうでは風が鳴りつづけて、しきりに窓硝子を揺らしていた。
 オレはマイキーの顔に顔を近づけて、呼吸と呼吸がふれる、というところで身をひいた。
 ここでキスをしても、深い眠りの中にいるマイキーは起きてはこないだろう。でも、できなかった。朝起きて、そのときに向き合ってくちづけたいと思った。
「おやすみ、マイキー」
 オレはリモコンを操作して照明を消した。暗くなった部屋に、風の吹き荒れる音だけが響いた。
 
 次の日から、マイキーはオレの店に居ついた。と言っても、オレとイヌピーが働いている時間はほとんどずっと休憩室のソファにいて、寝たり、スマホや置きっぱなしにされている雑誌のバックナンバーを見たりして過ごしているようだった。
 ときどき、客のすくない時間になると店舗のほうにやって来てバイクを眺めた。
 油に塗れた手を動かしながら、バイクとバイクのあいまを歩くマイキーを、オレは見ていた。
「これ、全部売りモン?」
 つやつやに磨かれたバイクのシートを撫でて、マイキーは聞いた。オレはこめかみに滲んだ汗を拭った。
「売りモンもあるし、こっちにはメンテ中の客のモンもあるし」
 そうなんだ、とマイキーはオレを見つめた。
「ケンチン、つなぎ似合うね」
「そうか?」
「むかしさあ、」マイキーはシートを撫でながら懐かしそうに笑った。「中坊のころとかさ、オレら金なかったし、でも先輩らのお古のバイクもらって、きれーにメンテして乗ってたよな」
 油くさいつなぎ着てさ、と。
 そうだな、とオレは頷いた。マイキーの兄である真一郎くんの存在も大きかったが、オレらは当時からバイクいじりが好きだった。いつかはその手の店を持って、一生バイクをいじって暮らすんだろうな、なんて話をしたこともあった。
「ケンチンは、ちゃんと夢を叶えたんだな」
 十六時を過ぎ、西に傾きはじめた日差しがやわらかなひかりを床に撒いていた。オレは椅子から立ち上がると、ポケットに手をつっこんで立つマイキーに歩み寄った。はちみつ色のひかりを顔じゅうに浴びたマイキーの、短いまつ毛。鼻筋、なだらかな頬の曲線、唇。そんなちいさな一つひとつが揃ってやっと、マイキーという人間を構成していることに、驚く。
「オマエも、」
 マイキーがオレの目を覗く。まっ黒な瞳、まっすぐなまなざし。
「オマエも、オレらといっしょにバイク屋やればいいよ」
 バイク、まだ大好きだろ? バイク屋はいいぞ。いろんなバイクをたくさん見られるし、メンテの技術も身につくし。金にはなんねーけど、やり甲斐はちゃんとある。
 オレの勝手な将来設計を、マイキーは、でも黙って聞いていた。
 ほんのすこし、さみしそうなほほ笑みを西日の中に浮かべながら。
 
 
 
 ケンチンの店を訪れて、三日めの朝がきた。
 目を覚ますとケンチンはもう起きて、キッチンで朝食を作っていた。きょうは定休日と聞いていたのに、早起きだな、と思う。
 結局、オレがここ――ケンチンの店――にいるあいだ、ケンチンもいっしょに休憩室で寝泊まりすることになった。部外者のオレを、まさか一人で店に放置するわけにもいかないから。提案したのはイヌピーだった。ケンチンもイヌピーも、ふたりがオレのことを危険人物とは思っていないとわかっているけど、その理屈は理解できた。それに、ケンチンと朝も夜もずっといっしょにいられるなら正直なんでもよかった。ソファで寝ることになったケンチンには悪いけど、ふたりで暮らしているみたいで、なんだか幸せだった。
 朝、昼、夜と、ケンチンはキッチンに立って、なにかしら食事をつくってくれた。野菜や肉を買ってくるようになって、今まで飲み物しか入っていなかった冷蔵庫の中がとつぜん潤った。イヌピーも、出勤ついでにコンビニでいろいろなものを買ってきてくれた。牛乳とか、くだものとか。
 イヌピーもケンチンも、オレにとてもやさしかった。
 オレはふたりになにも返せないのに、ふたりはオレにたくさんのものをくれた。食べ物も、飲み物も、寝る場所も、やさしさも。
「ケンチン、ありがと」
 少し焦げたトーストを齧って、向かいのソファに座ったケンチンにオレは言った。ケンチンは不思議そうに首を傾げた。
「なにが」
「いろいろ、よくしてくれて」
 そう言うと、ケンチンは笑って、
「らしくねえな」
 と、言った。
「そお?」
「オマエはずっと、オレらのわがまま総長でいてくれよ」
「そんなむかしの話……」オレは笑った。「今さらまた、そんなんでいいのかな?」
「そういうのさ、もうどうでもよくね? オマエはオマエで、けっきょくなんも変わってねぇよ」
 そうなのかな、とトーストを噛みしめる。バターとはちみつが、口の中でじゅわっと溶けあった。
 誰かと向かいあって朝食を食べる、なんて、もうオレには無縁だと思っていた。ガキのころ――まだエマが生きていたころ――は、じいちゃんとエマとオレ、家族揃って朝メシを食べていた。エマがつくってくれた味噌汁や目玉焼きを食べて、他愛のない話をして、そのうちケンチンが迎えにきてエマはそわそわしはじめて、オレは給食のために学校に行く。そんな日常、そんな生活がたしかに、あった。
 そんなたいせつなものたちを、オレはいつのまにか失ってしまって、気がつけば一人になっていた。
 バターとはちみつでべとべとになった指を舐めて、俯く。失くしたものがあまりにもおおきくて、ぽっかりと暗い心の空洞がひどく寒かった。
「……どうした」
 ケンチンが心配そうにオレの顔を覗きこんで、オレはううん、と首をふる。「なんでもない」。
 ケンチンは無表情で、トーストの最後のひとかけらを口に入れ、飲みこむ。それから突然両手を伸ばして、オレの頬を挟んだ。む、と喉の奥から声がもれる。オレはまっすぐにケンチンを見て、ケンチンもオレをまっすぐに見た。視線が絡まって、しばらくのあいだ、沈黙があった。「オマエさ」と、ケンチンが口を開いた。
「そうやっていっつも、″なんでもない、なんでもない〟ばっか言って、なんでもなくねぇくせに強がんな、バカ」
「……バカ?」
 ずいぶん懐かしい言葉だった。バカ。ケンチンの言葉を、甘いチョコレートを口の中で転がすように、反芻させる。
 いまはもう、誰もオレを叱らない。
 巨大組織のトップに立ったオレのことを、誰も止めないし、止められない。それがオレをいっそう不安にさせて、一人にさせた。
 バカ、とケンチンは言った――オレを、叱ってくれた。
「うん」
 オレは頷いて、ケンチンの両手を自分の手で包んだ。
「ケンチンはやさしいな」
 ケンチンはいつも、オレの欲しいものをくれた。いつも、オレの求めている言葉をくれた。
 ありがとう、とオレは言って、ケンチンの右手の人差し指にキスをした。ちゅ、と軽いリップ音を立てる。トーストの、こうばしい匂いのする指だった。――あ、うまそう。ふいにそう思って、思ったときには指を口に含んでいた。ケンチンが驚いたのがわかったけど、構わず口の中でケンチンの指を転がして、やわく噛んだ。
 マイキー、と、ケンチンが掠れた声でオレを呼ぶ。目を上げて、ケンチンを見つめた。顔が赤くなっている。かわいい、と思った。オレは気をよくして、指を根元まで深く咥えた。
「おいこら、マイキー、」
「んぅ」
 舌全体を使って指を弄び、ケンチンが止めるのも無視して咥内でころころと転がす。
「バカ、ふざけてんじゃねーよ」
 離れようとしたケンチンの手を、きつく握った。引き寄せて、より深く指を咥えこむ。喉奥に届くくらいに深く、ふかく。
「マイキー」
 ケンチンの顔に、困惑の色が広がっていた。悪いなあ、とオレは思った。この期に及んで、またケンチンを困らせてる。でもオレの口は、一方的にケンチンを欲していた。それはほとんど、暴力に近い感覚だった。オレはまた、ケンチンに拳を振り上げているのだろうか。オレの愛撫で、ケンチンの表情がすこしずつ変わっていくのが見えた。それがひどく、うれしい。



 マイキーの口の中は生あたたかくて、ふれる舌はやわらかだった。舐められ、吸われ、転がされて、指さきはどんどんと痺れていく。マイキーの体温はむかしと変わらずに高めらしいということがわかった。まるで自分が、体温計にでもなった気分だった。
 困惑しながら、マイキーが指をねぶる姿を見つめたまま、なにもできずにいた。深く咥えこまれてしまえば、引き抜こうとしてマイキーの喉を傷つけそうな気がして。――いや、それは言い訳か。オレは漫然と、咥内に招き入れられた指に快楽をおぼえていたのだ。気持ちがいい、と思った。もっと舐めて、吸って、転がしてくれ、と。でもそれが、ひどく罪深い欲求であることを知っていたから、オレはマイキーの肩に空いている左手をそっと置いた。
「やめてくれ」
 それが拒絶と捉えられたくはなかったが、そう言うほかなかった。マイキーのおおきな黒目が動き、オレを見つめた。
「もうやめろ、マイキー」
 強い口調で言うと、マイキーはようやくオレの手を解放した。ゆっくりとした動きで指を口から抜く。唾液にまみれて、てらてらとひかっている。バイクばかりいじっている、油の滲んで無骨な、節張った男の指。こんなものうまくもなんともないだろうに。
「……ごめん」
 マイキーは目を俯けて言った。弱々しい声だった。「ごめんね、ケンチン」。
 でも、とつづける。
「オレのこと、抱いたっていいんだよ」
 朝のひかりで満たされた部屋に、ふたりの呼吸の音だけが響いた。どちらも、とてもゆっくりで、深い。していることをたしかめるような、そんな呼吸だった。
「……なんで」
「だってオレ、ケンチンになんにも返してやれないから」
 いじけたガキみたいな口調で、マイキーは言った。「ケンチンはオレに、いっぱいいろんなものをくれるのに」。
 オレはマイキーの両手を手のひらに包み、指と指とを絡めてぎゅ、と握りしめた。マイキーは応えるように力なく握りかえしてきて、オレはそれだけで十分だった。
「これだけでいい」
「え?」
 怪訝に目を上げてみせるマイキーの額に、オレは額をこつん、と当てる。
「オレの手ぇ、握りかえしてくれるだけでいいから」
 マイキーの呼吸が頬にふれた。ぬるくて、バターとはちみつの甘い香りがした。
「……他になにもいらねぇ」
 うん、とマイキーは頷いた。すこし不安そうで、オレは咄嗟に、その体を抱きしめた。肉の削げたうすい体だった。マイキーはもう、自分の拳一つで誰かとタイマンを張ったりしないのだと、それでわかった。
 巨大な組織の上に立つということは、自分を失くしていくことなのだろうか。――マイキーの体を抱きしめながら、オレはそう思った。
 マイキーはマイキーのかたちをすこしずつ失っていっているようだった。それが、オレにはひどく恐ろしかった。
 マイキーの手がオレの背中に回される。骨の感触がわかる、細い手のひらに細い指。肩甲骨を撫でて、背骨を上下にさする。抱きあうと、互いに互いの体温を分け合っているようだった。
 いとおしかった。ほんとうはマイキーを、自分のものにしたかった。抱きしめて、抱いて、聞いたことのない声を出させて、そうしてオレのものにしてしまいたかった。むかし、マイキーが、「ケンチンはオレのもん」と言っていたように、マイキーはオレのものなのだと、大声で叫びたかった。
 オマエはオレのもので、オレの側にいて、もうあっちの世界には戻るな、と。
 でもそれが残酷な言葉であることも知っていたから、ただつよく抱きしめるしかできない。
 マイキーの肩口に鼻を押しつけて、深く息を吸う。マイキーの匂い。バターとはちみつと、すこし焦げたトーストの混じった、マイキーの匂い。
「ケンチン」
 オレの耳朶を指さきでいじりながら、マイキーは呟いた。ン、と応えると、すこしの沈黙を置いて、「オレさあ」と言った。
「オレ、そろそろ帰ろうと思ってる」
 ドクン、と、心臓が激しい音を立ててふるえた。
「帰るって……、また、梵天にか?」
「それ以外どこがあんだよ」
 マイキーは自嘲した。「ほかに帰るとこなんてねぇもん」と。
「そんなことねぇだろ。ここにいりゃいい」
 ここ、と、オレは部屋全体を顎でしゃくった。マイキーは「うん」とも「ううん」とも取れない曖昧な返事をして、それからオレの目を見つめた。
「オレはここにはいられない」
 オレやイヌピーへの遠慮などではない、とすぐにわかった。マイキーは、自分がいかに危険な存在であるかをちゃんと知っていた。マイキーと関係を深くすればするほど、オレの身が危険にさらされる。
 もうオレと関わらないほうがいい、とマイキーはつづけた。
「さんざん世話になってごめんだけど、でもやっぱりオレは、ここにいるべきじゃないってわかった」
 マイキーの見せた笑顔は痛々しかった。やめてくれ、とオレは思った。そんなかなしいことを言うなって、バカ。
「だからさ、帰るよ」
 ケンチンは、ちゃんとこっちで幸せになって――。マイキーはほほ笑んだ。やさしくてやわらかくて、痛々しい笑みで。そうして、オレの背中をつよく抱きしめ、ゆっくりと離れた。
 オレは言葉を失ったまま、目を伏せていた。ソファの、中綿が飛び出ている縫い目のほころびを見た。結局また、オレはコイツを手離してしまうのか。また、離れていってしまうのか。
「ああ、いっこだけ」
 ふいにマイキーが口を開き、オレは顔を上げる。
「いっこだけさ、お願いがあんだけど」
 なに、とオレは言った。マイキーはにっこりと笑った。
「あのメンテ中のバブで、ケンチンとツーリングしてぇな」
 店の片隅に置いている、客から下取りした古いバブ。マイキーがウチに来た初日に、そういえば見せたっけ。
 マイキーがバブで走っていた日々が一瞬にして蘇った。独特の排気音を響かせて、夜道を駆け抜ける姿がすげぇカッコよかったんだ。
 オレはすぐに、「わかった」と頷いた。
「爆速で直す」
「やった」
 じゃあオレも手伝う! と、マイキーは嬉しそうに笑った。