Ⅱ.

 レジを締めて、本日の営業も無事に終えた。夜も深まってきた二十二時過ぎ。
 家に帰るイヌピーを店先で見送ってからシャッターを下ろし、裏口から店に戻る。
「悪ぃ、待たせた」
 店舗の隅にパイプ椅子を置いて座り、一日じゅうバイクと働くオレらの姿を眺めていたマイキーは、入ってきたオレの顔を見て口もとをゆるめた。
「退屈だったろ」
 ううん、とマイキーは首をふった。「バイク見てたし」。
 マイキーの目は少し疲れているように見えた。まっ黒な瞳を覗きこむと、空洞のようなそこにオレの顔が映りこむ。マイキーは不思議そうにオレを見つめ返した。
「ちょっと、疲れたか?」
 問うと、マイキーは苦笑した。店の蛍光灯のもとで、目の下の隈がより濃く際立っている。
 店が終わったら銭湯に行こう、なんて、軽々しく口にしてしまったことを後悔した。心のどこかで、アイツはむかしのアイツのままだと思いこんでいた。むかしと同じ――なんてことはない。十二年の年月は多少なりオレを変え、同時に、コイツのことも変えていた。
 梵天の首領であるマイキーを、人目のあるところには連れて行くことはできない。
「……銭湯はやめにして、シャワーして飯食って、きょうはさっさと寝るか」
 マイキーは従順に頷いた。こくん、とこうべを垂れた時、刈り上げられた襟足の隙間から、梵天の証の刺青が見えた。

 休憩室の隣に設置したシャワールームは、大人が一人入ればいっぱいになるくらいには狭い。据え付けのシャワー、リンスインシャンプーとボディソープはタイルの床に直置きされている。男二人でやっている店だ。掃除はしているから清潔だが、いかんせん華やかさもなにもない。
「狭くて悪ぃけど、ここ使ってくれ」
 脱衣所で、タオルと、寝巻きにできそうなオレの着替えをマイキーに渡した。あー、下着か……、と一人ぼやくオレに、マイキーは、「あした、コンビニで適当に買う」と言った。
 さすがに下着をイヌピーに買ってきてもらうのも忍びなく、オレはマイキーの提案に同意した。コンビニくらいなら、マスクでもして出かければ大丈夫だろう。
「ほんと、お忍びで遊びに来た殿様みてぇだな」
 喉の奥で笑う。お忍びで城下町に遊びに来た殿様。イヌピーの言った喩えはたしかにその通りで、マイキーはいま、つかの間の自由の中にいる。
 梵天でどういう生活をしているのかはわからないが、少なくともコイツが、幸せじゃないことは明白だった。
 ここにいることを選んだマイキーに、オレは、なにをしてやれるんだろう。
「じゃ、ごゆっくりどーぞ」
 ふざけて言うと、マイキーはちいさく笑った。きのうに比べたら笑顔が増えたな、と思った。そんな些細なことが、でもオレを安心させた。
 脱衣所を出て、休憩室に入った。三月の終わりは、まだまだ肌寒い。風呂上がりにはなにか、あたたかいものを食わせたかった。冷凍庫を開けるとイヌピーが買ってきた冷凍の鍋焼きうどんが一つあったので、それを選んだ。
 アルミ箔の鍋をコンロに載せ、火にかけた。
 ドアの向こうからシャワーの音が聞こえてくる。湯が壁や床にぶつかって飛び跳ねる。マイキーの肌に落ち、滑ってゆく。ふと、脳裏にマイキーの痩せた体が浮かび上がった。
 血管の浮き出た腕や、アンクル丈のズボンから覗く細い足首。あんな体でほんとうに、人を殺したりしてるのだろうか。人を殺めるだけの力なんてないように思えた。それどころか、自分自身を生かそうという気力さえ失くしているようだった。食わず、眠らず。ゆっくりと死に向かって歩いていっている。いまのマイキーからは、そんな死の匂いが漂っていた。
 ぐつぐつと煮えてきたうどんを火からおろしたとき、休憩室のドアが開いた。濡れた髪をそのままに、肩にタオルを引っ掛けたマイキーが部屋に入ってきた。着替え用に置いていたオレの服はさすがにおおきすぎて、ズボンの裾を引きずっている。
「飯、ちょうどできたぞ」
「ん」
 ビーサンでぺたぺたと床を踏み、マイキーはソファに腰を下ろす。髪の毛の先からしずくが滴った。オレは浅く息を吐き、
「ほら、髪拭いてやる」
 肩に掛けていたタオルを手に取ってわしわしと髪の毛をかき混ぜた。
 両手で包んだマイキーの頭は、思いがけずちいさかった。なんの抵抗もせず、オレにされるがままになっているマイキーの表情は、斜め上のここからではわからない。でも、なにも言わないということは、悪くない、ということだと勝手に解釈した。
 こうしてマイキーの髪の毛を拭いてやるのは、ひどくひさしぶりのことだった。むかしは一緒に銭湯に行ったときなんか、こんなふうに髪を濡らしたまま放置しようとするマイキーの髪を、タオルとドライヤーで乾かしてやっていたから。
「またむかしみてーに、一緒に銭湯行きてぇなー」
 いまではもう懐かしい思い出に、頬が緩んだ。
 マイキーの髪の毛は、脱色しているのか銀色に近い白髪で、一本一本がひどく細かった。蛍光灯のあかりを受けるたび、その髪がきらきらとひかる。
「オレはケンチンみたいに、刺青スミ隠せないから」
 ひとりごとのように、マイキーは言った。俯いた顔の、むかしより肉の薄くなった頬がオレの位置から見えた。
 オレもがっつり、こめかみに刺青を入れているけど、髪の毛を下ろせばなんとか誤魔化せる。マイキーの短い髪の毛では、でもそれは無理なわざだろう。
 オレは一度ソファから離れ、コード類がぐちゃぐちゃに絡まったボックスの中からドライヤーを取り出した。
 勢いの強い温風がマイキーの髪の毛を遊ばせる。
「ほい、終わり」
 ドライヤーのスイッチを切って髪の毛に櫛を通すと、シャワーを浴びる前よりいくらか潤ったように感じた。
 マイキーは自分の手で髪を触ると、オレの顔をふり仰いで、「ありがと」と言った。
 口の端をわずかに持ち上げて目を細めるマイキーを、愛おしい、と思った。愛おしくて、いますぐにでも抱きしめたかった。
「……メシ、食おう」
 オレはドライヤーのコードを本体に巻きつけて、マイキーから離れた。強制的にでも離れなければ、理性が吹き飛んでしまいそうだった。
 マイキーを好きだった。恋をしていて、愛していた。尊敬の気持ちがいきすぎたものだと思っていたけど、一度決別して再会したいま、あらためてあふれてくる感情があった。
 ――マイキーが好きだ。
 オレは、ずっとコイツに恋をしている。
 両手を布巾で保護しながら、鍋焼きうどんのアルミ箔をマイキーの前に置いた。ほかほかと立ち上る湯気を顔に浴びて、マイキーはうれしそうに笑った。



 ケンチンがつくってくれたアツアツの鍋焼きうどんをゆっくり時間をかけて完食すると、カップ麺を食べ終わったケンチンは、よしよし、とオレの頭を撫でた。汚れものをシンクに下げて、すぐにオレの向かい側のソファに戻った。
 すこしのあいだ、沈黙が落ちた。オレはぼんやり、なにも置かれていないローテーブルの上を見つめた。たくさん食べたから、眠かった。昼ま、あんなに寝たのにまだ眠い。まだ、眠れる。
「眠いか?」
 ケンチンが静かな声で言うのに頷いて、オレはビーサンを脱いでソファに横になった。
 昼に借りて、そのままにしていたブランケットを引っ張り、体に掛ける。ブランケットのやわらかさと暖房のあたたかさが心地好く、あっというまに眠れそうだった。
 オレは重たい瞼を持ち上げて、けんちん、と名前を呼んだ。ん、と軽く首を傾げてみせるケンチンに、手招きをする。「こっち、来て」。
 ケンチンは躊躇しているようだった。じっとオレの目を見つめて、なにかを考えている。なに、考えてんの。そう問いたかった。オレのことが、怖い? と、聞きたかった。怖いなら、追い出してもいいよ、と。
 オレとケンチンは、もう、住んでいる世界が違う。立っている場所が違う。向いている方向が違う。だから、もう二度と会えないし会わないと思っていた。別れてから十二年。ずいぶんと長い空白の時間が過ぎた。オレはたくさんのものを得て、同時に、たくさんのかけがえのないものを失った。ケンチンも、そんな〝かけがえのないもの〟の一人だった。
 べつに恋人同士なんかじゃない。手を繋いだことも、キスをしたこともないし、そもそも想いを伝えたことさえなかった。でもオレは、ずっとケンチンが好きだった。好きで好きで、ケンチンが恋人だったらいいなって、ずっと思っていた。
 たくさん甘えて、たくさん困らせた。ケンチンは、それでもずっとオレの側にいてくれた。
 先に離れたのはオレのほうで、ケンチンはそんなオレをこっちの世界に連れ戻そうとしてくれていた。その必死さを無碍にしてしまった。オレは底なし沼に足を踏み入れて、自分から地獄を選んでいった。
 やがてケンチンは腰を上げ、寝そべっているオレの側に立った。マイキー。ケンチンが言った。
「ん」
 両手を伸ばして、広げる。ケンチン。目を見つめる。名前を呼ぶ。
 ケンチン、オレの手を、触って。掴んで。
 ケンチンは黙ったまま、オレの腕の中に滑りこんできた。手のひらが背骨にふれた。ケンチンの体温を感じた。頬に、耳もとに、ケンチンの息づかいがあった。それに、ひどく安心した。
 風が吹いて、窓がカタカタと揺れた。抱き合ったまま、オレらはしばらくそうしていた。ごうごうと激しい風の音が響いて、まるで難破した船の中に、ふたりきりでいるような気分だった。
「マイキー」
 すぐ側にケンチンの顔がある。なに、と言ったオレの唇に、あたたかいものが落ちた。ケンチンの唇。少しかさついて、そして、かすかにふるえていた。
「……悪ぃ」
 口もとを抑え、離れようとするケンチンの腕を、引っ張って引き留める。なんで、とオレは言った。
「なんで、なにが、悪いの」
「――それは、」
「ケンチンはなにも悪くない」
 声が喉の奥でもつれ、みっともなく掠れた。でも、構わなかった。ケンチンの前でなら、オレはいくらでも弱くなれてしまう。声がもつれて、掠れて、ケンチンは、でもそんなオレを見捨てないってわかっていた。だから安心できた。だから、大好きだったんだ。
「ケンチンはなにも悪くねぇよ」
 目の奥が痛い。熱い水の塊が、あふれてしまいそうだった。
「悪いのはオレだよ」
 オレは目を伏せて、言った。
「ケンチンを、東卍のみんなを、オレは傷つけた。自分から離れてって、勝手ばっかして、なのにまだこんなふうに、ケンチンに甘えてる」
 合わせる顔なんてねぇよ、とオレは笑った。そんなオレの頬を、ケンチンの手のひらが撫でた。ごつごつして、皮ふの厚い手だ。
 むかしは誰かを殴っていたこの手は、今はバイクのために働いている。
「好きだよ、ケンチン」
 言葉が、勝手にこぼれ落ちていた。
「ずっと好きだった」
 だから、ほんとに、ごめんね。オレは顔を持ち上げて、今度はこっちから、ケンチンにキスをした。
 みるみる赤くなる顔を隠すように、ケンチンは手の甲で口を覆う。オレは上体を起こし、ソファに座り直す。
 どうしてもいま、伝えたかった。このときを逃せば、きっともう二度と伝えられないだろうから。
「バカ」
 ケンチンはため息といっしょに言葉を吐いた。
「オレも、」
「え?」
 ケンチンはソファに座って、オレの頭を撫でた。
「オレも好きだった。ガキのころから――出会ったときからずっと」
 胸の中で、なにかが爆ぜた。ちいさな火花が弾けて、一瞬だけ鮮烈なひかりを放つ。心臓がドキドキして、頬が熱をもつ。
 ケンチンの腕が伸びてきてオレの体を包み、抱きしめた。ひどく、つよい力で。
 こんな安心を感じたのはほんとうにひさしぶりのことだった。オレがいまのオレになって、安心なんて言葉はどこにも存在しなくなっていた。ケンチンの腕の中で、ケンチンの体温と匂いにあたためられる。そんな贅沢な安心を、体じゅうで感じている。
 けんちん、と洩れた声は濡れていた。気がつけば、あふれた涙が頬を滑っていた。
 ケンチンの腕の中で、オレは泣いた。ぼろぼろとこぼれる涙はとめどなく、ケンチンの着てるシャツを濡らした。それでも、ケンチンはオレを離さなかった。