Ⅰ.

 ニュースで、マイキーを見た。後ろ姿だったが、うなじに入れた刺青と白髪ですぐにアイツだとわかった。かつて闘った黒川イザナの姿をそっくり受け継いだような容貌に、背中につめたいものが這った。
「また梵天か」
 イヌピーが油で汚れた手をウエスで拭きながら、壁に吊ったテレビを見上げた。昼のワイドショーは、梵天幹部らの姿を捉えた独占映像を流している。その中に、マイキーはいた。
 遠目から見ても、痩せ細っているのがわかった。カメラはそれ以上近づくことができないのだろう、ギリギリまでズームされた映像の中で、梵天幹部ら数名の姿は駅の雑踏に紛れてあっというまに消えた。
 頭の悪そうなコメンテーターが、なにか、頭の悪そうなコメントをしている。「とにかくね、梵天やつらの首領を拘束して……、」「……連中の悪行非道の数々は……、つまり、」「まあ、とにかくね、警察がきちんと機能して、上を潰さないと」――ごちゃごちゃごちゃごちゃうるせえな、と思った。テメェがマイキーを語ってんじゃねえよ。
 梵天――今や日本最大の犯罪組織。目的のためなら平気で人を騙し、犯し、殺す、極悪非道な連中。その組織の実体は警察すら把握できておらず、裏社会の闇の闇の闇の頂点に君臨している。
 その首領トップが佐野万次郎。
 むかしを懐かしむことはいくらでもできる。アイツに憧れ、アイツを心から尊敬していた、オレの青春時代。もう十二年も前の話だ。
 バイクを走らせて、敵対するチームと毎日のように喧嘩をした。マイキーは、東京卍會の総長としてオレらを引っ張ってくれた。頂点てっぺんを見せてくれた。
 あのころから、十二年の時間が経った。
 オレは視線をテレビから逸らして、目の前の作業に集中しようとする。納期が遅れてきょうやっと届いた部品があった。商品を待たせている客がいた。今のオレはカタギで、バイク屋だ。マイキーとは、十二年前に決別した。もう、お互い違う道を選んで歩いている。
 オレの胸のうちを察したのか、イヌピーがテレビを消した。つかの間、沈黙が落ちた。妙な静けさの中で、工具と金属が当たる音だけが店に響いた。
 マイキーと別れて、十二年。そのあいだにマイキーは変わっちまった。オレが、ずっとアイツの側にいて、支えるのだと思っていた。でも、マイキーはそれを拒んだ。なんで、という問いかけも、待て、という懇願も、アイツには届かなかった。
 人生の岐路に立ったマイキーは、オレの伸ばした手をふり払って、オレの踏みこめない、あっちの世界に行っちまった。
 ――もう、手の届かないところにアイツはいる。
「ドラケン」
 ふいに呼ばれて顔を上げると、イヌピーがぎゅっと眉を顰めて、トントン、とその眉間の皺を指で叩いてみせた。「怖ぇー顔してる」。
 知らないうちに険しい顔をつくっていたらしかった。イヌピーはオレの隣にしゃがんで、部品を組み立てている手元に視線を落とした。
「マイキーのこと考えてるオマエは、思いつめすぎていて見てると怖ぇ」
 緊張をほぐそうとしているのか、イヌピーの声はフラットで穏やかだった。はは、とオレは笑った。
「そーか?」
「眉間に皺寄せすぎると、元に戻んなくなんぞ」
 ただでさえ怖ぇ見た目なんだから、気をつけろ。客商売なんだし。そう言って、イヌピーは自分の仕事に戻っていった。
 オレは軍手を外して、親指と人差し指で眉間を揉んだ。イヌピーの冗談を本気にするつもりはなかったが、マイキーについて考えると、たしかに表情が強張ってしまうのを自覚していた。
 思いつめすぎてる――イヌピーの言うとおりだと思う。でも、思いつめないでいるほうが、オレにはよっぽど難しい。
 考えないなんて、できるわけがなかった。憧れと尊敬の先にいた人物が、暴力でもって裏社会の頂点にいる現実を受けとめられなかった。
 いつか、マイキーとまた会いたい。会って、ゆっくり話をしたい。
 オレの望みはただそれだけで、でも、絶対に叶わないことを知っている。
 カランッ。店のドアに取りつけた鈴が鳴り、隙間から滑りこんできた、春さきのつめたい風が頬にふれた。こんちはぁ、と馴染みの客がバイクのあいだから顔を覗かせて、オレは工具を置いて立ち上がる。
 
 
 
 オレら、一瞬だけテレビに映ったみてーだぜ。スマホの画面を見ながら三途が言うのに、九井はいかにも不快そうに顔を顰めた。
「独占映像だってよ。うざってぇマスゴミが」
 動画サイトに即日アップされたらしい映像を、ほら、と九井に見せる。九井は画面を見ることもなく、鼻で笑った。
「なに言ってんだ、今さらだろ」
「違いねぇ」
 三途はヒャハハッと笑った。笑い声は、いまはもう廃墟と化したボウリング場の、ほの暗いフロアにキン、と響いた。
 オレは硬い椅子に深く座り、目を閉じている。
 ――頭が痛い。
 頭が、もうずっと長いこと、痛くてたまらなかった。三途の笑い声が脳を直接殴ってくるようで、耳障りだった。ボウリング場のフロアにはオレと三途、九井の三人。まだ梵天が、いまほどの規模ではなかったころのかつてのたまり場は、ボロボロになった現在も侘しく時代に取り残されている。
 三月の終わりの夜風が、割れた窓硝子のあいまから入りこんできた。鼻先を掠める街の匂い。車の排気ガスや人間たちの出す濁った呼気が混ざった、この都市特有の匂いだった。
 ズキズキと痛む頭を持ち上げて、天を仰ぐ。黒い笠を被せた白熱式の電球がぶら下がる、安っぽくて暗い天井があった。
 これから、どこに行こうか。オレはそう思った。
 梵天という組織が日本の裏社会のトップに昇りつめ、これ以上、オレはなにを求めてなにを望んでいるのか、もう、わからなくなっていた。
 これからなにを成し遂げて、なにを手に入れたいのか。オレは、ほんとうはどうしたい? 自分自身に問いかけてみても、空っぽの心はなんの答えも返してくれなかった。
 助けてほしい、と心から願った。
 この虚しさを、空洞の心を、黒く塗り潰したかった。
 ――誰か、オレを、助けて。
「ボス」
 九井の声が、わん、と耳の中に響いた。目を開ける。暗闇に、現在いまのオレの部下たちの顔がぼんやりと浮かび上がる。
「そろそろ行きましょう」
 ああ、とオレは立ち上がった。ふらつきそうな体を、そうと悟られないように立て直して、前を向く。
 今夜も死体が三つ増える。三途の握る銃で、九井の忍ばせた短刀ドスで、「殺せ」と言うオレの声で、三つの命が潰える。邪魔な裏切り者は消す。それが梵天のルールだ。
 めまいがした。眠れなくて、もう何日も夜の街を無為に徘徊している。街灯の少ない道を無意識に選んでいた。ひかりのもとに出るのが怖かった。オレはオレのつくりだす、まっ黒な影を見たくなかった。
 ズボンのポケットに手を突っ込んで、出入り口に向かう。薄っぺらいビーサンがぺたぺたとリノリウムの床を踏む。ドアを抜けると、まだ芯につめたさを孕んだ風が、髪の毛を嬲って去っていった。



 レジを締めたことを確認してから、照明を落としていく。営業終了時間を遅めの二十二時にしているのは、ガキのころのオレらが宵っ張りだった名残りだ。これが意外と好評で、免許取り立ての学生や、かつての青春を取り戻したい五十代以上のサラリーマンのおっさんらが学校や仕事帰りに寄って、ずらりと並んだバイクに目を輝かせたり、試乗したり、私物のバイクのメンテを頼んできたりと、なにかと役に立っているようだった。
 営業時間外も緊急のメンテなら受け付けているし、そういったサービスのおかげか常連の客も増えてきていた。まだ始めたばかりのちいさな店だが幸先はよさそうで、オレもイヌピーも毎日忙しく働いている。これがカタギってやつなんだな、としみじみ思う。
「イヌピーお疲れ、電気消すぞ」
「おう」
 工具箱の蓋を閉じ、定位置に戻したイヌピーを確認してから、最後の明かりを消した。銀色のホイールが、最後に一度だけひかったのを見た。
 店の戸締りをして、シャッターを下ろす。
「きょうも無事営業終了、っと」
「ドラケン、油くせぇ」
「お互い様だろーが」
 ひさしぶりに銭湯でも寄ってくか、と提案しようとしたオレは、イヌピーの背後――壊れて灯りのない街灯の下に人影をみとめて、目を細めた。
 幽霊のような頼りなさで立っているソイツは、突っ立ったままじっとオレらを見ていた。
 日中はそれなりに人通りはあるが、オレらが帰るころにはほとんど誰も歩かない道だ。街灯も少なく、不審者注意の看板が立つほどには暗くて、危なっかしい。だからこそ安い家賃で店舗を借りられたのだが、もうすこし経営が安定したらもっと客の寄りやすい場所に移転したいと思っている。
「おい」
 オレはイヌピーの腕を掴んで、こちらに引き寄せた。イヌピーもふり返って、ソイツを見た。
 暗闇の中、ソイツの白髪だけがひかって見えた。その髪の色に見覚えがある、と思った。正面から向き合って、視線を合わせる。はっとした。見覚えがある、どころではない。オレはコイツを知っている。
「……マイキー?」
 夜闇の中で、マイキーは空洞のような目でオレを見つめていた。


 
 ケンチンに会いたい、と思った。そんなことを思うのははじめてではなかった。ほんとうは、いつだってケンチンに会いたくて、会いたくて、たまらなかった。でも、もう会わないと決めたのはオレ自身で、だから、いっそのこと忘れようとした。ケンチンという存在そのものを、なかったことにしようとした。オレらはそもそも、であわなかった。小学生のころの思い出も、中学時代の思い出も、ぜんぶ忘れて記憶から消そうとした。ケンチンなんていなかった。東京卍會なんて、なかった。
 でも、そう思えば思うほど、思い出は記憶に強く刻まれていった。そして刻まれた記憶は、熱と痛みをオレに与えた。
 頭が、ずっと痛かった。痛くて痛くて、眠れなくなった。眠れないときは何時でも起き上がって、暗闇に沈む街を徘徊した。誰も通らない、街灯の少ない道を選んでひたすら歩いた。ときどき、夜を活動時間とする妙な輩に絡まれたが、その都度蹴り倒した。噂が広まったのか、そのうちに誰もオレに近寄らなくなった。
 歩いて、歩いて、歩いた。街の匂い、排気ガスと人間の放つ呼気の混ざった濁った空気。反吐が出そうで、頭痛はひどくなる一方で、でも徘徊をやめられなかった。
 歩いていればいつか、ケンチンに会えるんじゃないかと、ある日ふと、思った。それを望んでオレは深夜の街を歩いているんじゃないか、と。
 ケンチンの暮らす街、ケンチンの経営する店。下りたシャッターの前で、何度も立ち竦んだ。会いたい、と、ひとこと伝えればケンチンは、会ってくれると知っていた。アイツはやさしいから。でもいつも、結局なにもできなかった。あまりにもオレにとって都合のよい想像に、自分自身に嫌気がさした。
 二度と会わない。そう決めたはずなのに。
 体じゅうに血の匂いを浸みこませて、オレはケンチンのまえに立っていた。
 電球が切れて灯りのついていない街灯の下で、ケンチンを見つめていた。
「マイキー?」
 ケンチンがオレを呼ぶ。むかしのまんまの声音で、オレの名前を呼ぶ。オレは表情を動かさずに、「こんばんは」と言った。


 
 どうしてこんなところにマイキーがいるのか、理解できなかった。でも、たしかに、マイキーはオレの前にいる。無表情で、オレを見つめている。イヌピーが横で息を呑む気配を感じた。
「マイキー……なんで、」
 なんでここに、とイヌピーは言った。答えを求めているというより、口にせずにはいられないようすだった。オレもおなじ気持ちだった。でも、それ以上に、マイキーと会えた純粋なうれしさが込み上げてきて、目頭が熱くなった。
「こんばんは」
 マイキーの声はごく平坦だった。ひさしぶりだね、ケンチン。イヌピーも。
「オレ、」
 ちいさな声を口の中で転がすように、マイキーは言った。
「我慢できなくなっちった」
 表情は少しも動かないのに、その言葉でオレはマイキーの抱えているさみしさを理解できた気がした。どうしようもないさみしさ、虚しさ、つらさ、痛み。そういうのがぜんぶ詰まった苦しげな言葉だった。
 イヌピーはオレの腕を小突いた。視線を落とすと、イヌピーは小声で、
「とりあえず保護してやれ、ドラケン」
 と、言った。「アイツ、だいぶ弱ってる」。
 深い夜の闇の中でも、マイキーのやつれ方は異様だとわかった。ガキのころに比べて一回り、ちいさくなったようだった。
「オレらを殺そうってわけじゃないようだし、オレもついてく」
 ああ、とオレは頷いた。一歩、マイキーに近づく。ほんとうは、駆け寄って抱きしめたかった。でも脚が、どうしてか前に進まなかった。一歩、一歩、踏みしめながら、マイキーの側に歩いてゆく。
 目の前に立つと、ますますマイキーのちいささを感じた。無意識のうちに手首を掴んでいた。骨張った腕だった。オーバーサイズの長袖のシャツを着ていてわからなかったけど、体が、ずいぶんと薄かった。
「とりあえずうちの店、来い」
 寒ぃだろ、とつづけると、マイキーは従順に頷いた。白髪が揺れて、顔に翳がさす。表情は変わらず、すこしも動かない。



 ケンチンの手がひどくあたたかくてびっくりした。びっくりしたのに、表情が、硬直したみたいにぜんぜん動かなかった。いつのまにか、驚いた顔も、かなしい顔も――笑顔も、もちろん――できなくなっていた。感情を殺して生きてきたツケだと思った。
 ケンチンが閉めたばかりのシャッターを再び開けてくれて、オレを店の中へと引っ張っていく。ずらりと並んだ単車バイクたちに、すこしだけ胸が疼く。
「懐かしいんじゃね?」
 ケンチンがオレをふり返ってくちの端を持ち上げた。やさしい笑顔だった。コイツはむかしとちっとも変わらない。
「買い取ったばっかのバブもあんだぜ、まだメンテ中だけど」
 指の差すほうを見ると、むかしのオレの愛機とおなじバブが一台、離れた場所に置いてあった。オレンジ色の照明を受けて、つやつやの肌がひかってきれいだ。
「あれ直ったら、オマエ、乗るか?」
 冗談なのか本気なのかわからない調子でケンチンが言うので、オレは俯いて、うん、と言った。よし、じゃ、成約決定ってことで。ケンチンは笑った。つられて、唇がほんの少しだけ動く。
 連れていかれた部屋は、店の奥の、従業員のための休憩室のようだった。横長のソファと、ローテーブル。冷蔵庫と電子レンジ、簡易なキッチン設備。オレらのあとに入ったイヌピーが後ろ手にドアを閉め、居心地悪そうに突っ立っている。部屋の蛍光灯が眩しくて、オレは目を細めた。
 ケンチンは暖房のスイッチを入れ、なにか考えるようすを見せた。そりゃそうだ、いきなりオレが現れて、ケンチンもイヌピーも、対応に戸惑っている。
「とりあえず、ほら、ソファ座れよ」
 イヌピーがソファを指し示したので、従った。ソファに座ったオレにブランケットを手渡してくれて、軽く頭を下げる。人に頭を下げるなんて、いつぶりだろうと思った。もしかしたら、中学時代、パーちんのダチの彼女の両親に、ケンチンと一緒に頭を下げたとき以来……かもしれない。そんなむかしのことを、まだ覚えていることに驚く。忘れようと、なかったことにしようとしたのはオレなのに。
「イヌピー、ここコーヒーしかねぇよな」
 キッチンの戸棚を漁っていたケンチンが問うた。
「あー、うん。たしかそう」
「牛乳なんてねぇしな」
 オレはブラックコーヒーが飲めない。コーヒーは砂糖と牛乳をたっぷり入れた、カフェオレと決まっていた。
「マイキー悪ぃ、ろくなもんねぇからなんか買ってくるわ。とりあえず食いもんも」
「オレが行ってくる」イヌピーがおおきな声で言って、オレのことを見た。「ドラケンはコイツの側にいてやれよ」
 悪いな、と片手を挙げるケンチンに見送られて、イヌピーは部屋を出ていった。
「イヌピー、やさしいヤツだな」
 オレの向いに座ったケンチンに、オレは言った。ケンチンは頷いて、「アイツはいいヤツだよ」と言った。
「そっか」
 よかった、とオレは浅く息を吐いた。よかった、ケンチンが、やさしいヤツらに囲まれて生きていてくれて。
 十二年前に別れてから、ずっと不安だった。オレなりに必死に守った東卍のヤツらが、無事で生きてくれることを願った。みんなの噂は風の便りで聞いていた。カタギの世界で活躍しているのを知って、心から安心したものだった。
 そしていま、ずっと会いたかった人に会えて、その無事をこの目で確かめている。
 暖房が効いてきて、部屋があたたまっていくうち、次第に眠気が襲ってくるのを感じた。毛羽立ったブランケットを肩から羽織り、落ちそうな瞼を必死で持ち上げる。あ、眠れる、という安心感に包まれるのも、ひさしぶりだった。
「マイキー」
 ふ、と頭の近くで声がして、目を上げる。ケンチンはオレの隣に座って、肩を抱き寄せていた。あたたかな腕と、かすかに頬にふれるケンチンの息。
「眠っていいぞ」
 肩を抱く手に力がこめられる。オレはおおきな息を吐く。目の奥が痛い。いつもの頭痛とは違う痛み――懐かしい痛みだった。
 ――あ、泣く、
 そう思ったつぎの瞬間には、オレは深い眠りに落ちていた。
 

 
 すー、すー、とオレの腕の中で寝息を立て始めたマイキーの顔を、あらためて見つめる。目の下にひどい隈ができていて、抱いた肩は手のひらに骨のかたちを伝える。手首の浮き出た血管――見るからに痩せ細った姿が、痛々しかった。
 どうして、とオレは思った。どうして、こんなんになっちまったんだ。オレらの東卍の、無敵のマイキーはどこ行ったんだよ。いまだって無敵なことには変わりはないのかもしれない。日本最大の犯罪集団、梵天の首領。でも、いま、オレの腕の中にいるのはあのころよりちいさくなった、一人の弱った人間だった。
 マイキーの寝息と、掛け時計の針の進む音だけが部屋に漂う。何日もまともに眠れていなかったのだろう、マイキーはあっというまに眠りの世界に落ちていった。寝息はおだやかで、すこし安心する。唇が半分開いて、涎が垂れていたので指さきで拭ってやった。ガキみてーだな、と思って、むかしのマイキーを思いだす。あのころも、マイキーはガキみたいだった。お子様セットのオムライスに旗が立ってないことに憤慨してむくれたり、食ったらすぐに眠くなっておんぶをねだったり。
 仮にも暴走族チームの総長のくせに、オレのまえではとことんガキだった。――だから、自惚れたんだ。オレのまえでだけ見せる姿がたくさんあったから。
 尊敬の念が恋に変わったのはいつだったのか。いつのまにかオレはオマエに恋をしていた。けっして口にはしなかったけど、オマエのことを心から愛していた。いまも、その気持ちは変わらない。傷つけられて突き放されても、離れてしまっても、まだオマエを愛している。
 カチャ、と音がして、休憩室のドアが開いた。
「あれ、マイキー……」
 シーっと、唇に人差し指を当てて、入ってきたイヌピーの言葉を制した。イヌピーはコンビニの袋をローテーブルに置くと、怖々といったようすでマイキーの顔を覗きこんだ。「寝てるのか?」。心底意外そうな声音だった。オレは頷いた。
「まともに眠れてねぇみてぇだから」
「そうか」
 カクンッ、とマイキーの頭が傾いて、オレは体をずらして位置を調整する。マイキーが眠りやすいように、ちょうど鎖骨の下の部分で、頭を支えてやれるように。
 イヌピーが、ふっ、と笑った。
「なんだよ?」
「いや……、愛だな、と思って」
「……なんだ、それ」
 くすくすと笑うイヌピーに蹴りでも喰らわせたかったが、ヘタに動くとマイキーを起こしちまう。我慢して、コンビニの袋から飲み物や食べ物を取り出すイヌピーを黙って眺めた。
 カップ麺や菓子パンといったすぐに食べられるものや、ゼリー飲料やプリンなどの喉を通りやすいもの。お茶、ミネラルウォーター、果汁一〇〇%のオレンジジュース。イヌピーはこれで案外気の効くヤツだから、弱ってるマイキーを見てすぐにどういったものが必要かわかったのだろう。
「冷食もいくつか買ってきたから、冷凍庫入れとくぞ」
「ああ、悪い。ありがとな」
 冷凍庫のドアを開けるイヌピーの背中に向かって、礼を言う。
「それで、どうすんだ、ドラケン」
 イヌピーはふり返った。「マイキー、まさかずっとここにいるわけじゃないんだろ?」
「ああ――」
 マイキーの寝顔を見ながら、オレはため息を吐く。一応は、住む世界のまるで違う人間同士なのだ。今回のマイキーはただの気まぐれを起こしてここにやって来ただけなのかもしれない。でも、とオレは思う。
 灯りのつかない街灯の下、さみしそうな声でマイキーは言った。「オレ、我慢できなくなっちった」。
 あのか細い声を信じたい自分もいた。自惚れだと笑われても、マイキーがオレや、元東卍のメンバーに会いたくなってここまで来てしまったのだと思いたかった。
「……わかんね」
「わかんねぇって……」
 イヌピーは肩を落とす。
「マイキーの考えてることなんてわかんねーけど、とりあえず今夜は休ませて、明日にでもまた聞いてみる」
 せっかく深く眠っているのに、起こして問いつめるのはさすがにかわいそうだ。イヌピーも同意見らしく、そうだな、と頷いた。
「いろいろとありがとな、イヌピー」
 あらためて礼を言うと、イヌピーは素っ気なく、「べつに」と言った。
「まあ、じゃあ、あとはオマエに任せていいんだな?」
「ああ――こっちは大丈夫だ。帰って休んでくれ」
 マイキーの体を抱えて、ソファに横たえた。ブランケットを掛け直してやると、うぅん、と唸って体を折り曲げた。
「また明日、な。お疲れ」
 イヌピーが片手を挙げるのに、お疲れさん、と返した。ドアが開き、静かに閉まる。かちゃん。金属のぶつかる音が、妙に耳をついた。



 これは夢だ、とわかった。見慣れた景色――武蔵神社、だ――に見慣れた特攻服トップクを着た男たち。オレも同じモノを着ている。黒い特攻服に赤い襷を掛けて――決起集会だ、みんな集まってる。オレの隣にはケンチンが立っていて、壱番隊から伍番隊までが隊長連中を先頭に、ずらりと並んでいる。
 これは夢だと、わかった。オレはむかしの夢を見ている。威勢がよくて、堂々としていて、たくさん笑ってたくさん泣いていたころの思い出たち。走馬灯みたいだな、と思うと笑えた。オレ、死ぬのかな。なんか体がへんにあったかいし、このままほんとうに死ぬのかもしれない。
 ――最後にケンチンにも会えたし、それもいいかもしんないな。
 ケンチン、ずっと会いたかった。会えてよかった。拒まないでくれてうれしかった。ケンチン、あのね、
「――、」
 口の中で、発したつもりの言葉が溶けた。体が重たい。瞼ごしに強いひかりを感じて、思わず、きつく目を瞑った。
 まぶしい、強いひかり、朝だ、……朝? そろそろと目を開ける。頬にソファを覆う布の感触があった。知らない触り心地だった。上体を起こそうとして、体に掛けられているブランケットの存在に気がつく。毛羽立った、ヘンな柄の描かれたブランケット。ブラインドの隙間からひかりが差しこんでいる。朝のひかりだとわかった。
 ブランケットを顎まで引っ張り上げて、数回、瞬きをした。それから、対面のソファに座って目を閉じている、ケンチンに視線を向けた。寝ているのか、唇がすこし開いている。そのようすが無防備な子どものようで、思わず笑ってしまった。ふ、と息がもれて、口もとが緩んだ。
「ん、マイキー……?」
 ぴくん、と瞼が動いて、ケンチンが目を開けた。オレは横たわったままケンチンを見つめ、「おはよ」と言った。
「起きてたのか」
 ケンチンが髪の毛を掻いた。左のこめかみにかけて、龍の刺青が踊っている。当たり前だけど変わらない、むかしのまんまのケンチンの刺青。
「いま、起きたとこ」
「そうか、」
 立ち上がって、ケンチンはおおきく伸びをした。くぁ、とあくびをこぼして、首をぐるぐると廻す。「結局オレまで寝ちまったな」。
 もしかして、オレのために起きていようとしてたのだろうか。そう思うと不思議な気持ちになった。なんで、きのう突然現れた、過去に決別した人間にたいしてここまでやさしくできるのか――オレにはわからなかった。
「腹減ってね? なんか食うだろ」
 そう言って冷蔵庫を開け、お茶とミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、どっちがいい、とオレに差し出した。オレはすこし迷って、ミネラルウォーターを選んだ。
 のそのそと起き上がって、ブランケットを肩に引っ掛けたまま、キャップを開ける。ケンチンはお茶のペットボトルに一度口をつけてから、薬缶をコンロにかけて湯を沸かし始めた。
 オレの前におにぎりとサンドイッチ、インスタント味噌汁のカップを置く。割り箸も。
「……こんなに食わない」
 オレが呟くと、ケンチンは「いいから食え」と言いながらオレの向かいに座った。湯の注いだカップ麺をテーブルに置く。
「食わないと倒れちまうぞ」
 割り箸を割って、手を合わせてからカップ麺を啜りはじめたケンチンを見て、味噌汁のカップを両手で持った。あたたかさが手のひらを伝ってくる。ひとくち、飲んだ。なめこと豆腐の味噌汁だった。
 ひとくち、ひとくち、ゆっくりと飲んでいくと、腹が鳴った。それで、サンドイッチのセロファン紙を破って中身に齧りついた。ハムチーズ、卵、レタスとトマトの三種類を一気に食べて、おにぎりに手を伸ばす。梅干しとシャケのおにぎりをあっというまに食べてしまって、自分に驚いた。たい焼きやどら焼きなんかはつまんでいたけど、こういう、ちゃんとした食事はほんとうにひさしぶりだった。
 ケンチンはカップ麺を汁まで飲んで、食ったなー、と満足げに笑った。
「うまかったか?」
「うん」
「もっといろいろあっけど、まだなんか食べるか」
 そうしてケンチンはオレの前に菓子パンやゼリー飲料やオレンジジュースやプリンを置いて、好きなだけ食え、と言った。
「なんか、パーティみてぇだな」
 オレは笑った。頬が持ち上がり、眉が自然と下がった。ケンチンはオレのそんな顔を見て目をまるくさせた。
「なに?」
 オレはデニッシュに齧りつきながら、首を傾げた。いや、とケンチンは背もたれに背中を預けた。
「やっと笑ったな、と思って」
「……うん。ひさしぶりに笑った」
 甘ったるいデニッシュで口じゅうをいっぱいにして、くすくすと笑った。
 強張っていたはずの表情がいつのまにかほぐれて、緩んでいた。左手でぺたぺたと頬を触ってみてもいつもとなにも変わらないようだったけど、胸の内側がじんわりとあたたかいのを感じていた。ひさしぶりにたくさん食べたからだろうか。
「マイキー、さ」
「んぅ?」
 ソーセージの挟まれたパンを頬張って、ケンチンの目を見つめる。ケンチンは言葉を選んでいるように、少しのあいだ沈黙した。
「なんでここに来たのか、聞きてえの?」
 ケンチンが抱いているだろう疑問を、先に口にしてやる。ケンチンは躊躇いながら頷いた。オレはオレンジジュースを啜って、パンを飲みこんだ。
「きのう言ったとおりだよ、我慢できなくなった」
 昨夜、店の前で再会したときのケンチンの顔を思い出していた。ほんとうに驚いた顔をして、オレを見ていた。我慢できなくなっちった、とオレは言った。
「ケンチンに会いたかった」
 あまりにも都合のいい言い分であることはわかっていた。オレは目を伏せた。自分から突き放して離れていったくせに、会いたくなったから会いに来た、なんて、わがままにもほどがある。
「……ごめん」
 ずるくて、わがままで、ごめんね。オレンジジュースを飲み干して、紙パックをテーブルに置くと、オレは立ち上がった。ふらつくのはいつものことだ。それを、でも誤魔化さなくてもいいのはラクだった。
 ケンチンの前だったら、オレはただの一人の人間でいられる。
 そう――だから、オレはここにはいられない。
「帰るよ」
「は?」
 口の端を持ち上げて、ケンチンに笑いかける。こうやって笑うのも、これで最後なんだろうな、と思った。ケンチンと会うのも、これが最初で最後だ。
「待て待て待て、マイキー!」
 踵を返しかけたオレの手首を、ケンチンが掴んで止めた。熱い手のひらだった。ぐい、と引っ張られてよろめいたオレを、ケンチンが抱きとめて支える。
「待てよ、納得いかなさすぎていろいろ無理!」
「なにが」
「オマエ、わがまますぎ」
 ケンチンは、はぁあ、とおおきなため息を吐いた。そうして、
「わがままなのはとっくに知ってっけど。……変わんねーな、ほんと」
 呆れたように、笑った。
 変わらない、なんて、言われるとは思わなかった。オレは自分がすっかり変わったと思っていた。過去の自分はもういなくて、いまは罪ばかり重ねている極悪人。なのに、むかしと変わらない顔でケンチンはオレに笑いかけてくれる。
 もしオレが、ほんとはオマエを殺しにきた、って言ったら、どうすんだろ?
「……も少しいろよ、ここに」
 いてくれよ、頼むから。そうケンチンは言った。低い声で、まるで懇願するみたいだった。ケンチンの腕の中は、やはりあたたかだった。また、眠くなってくる。腹いっぱい食べたから、余計にだ。
「ケンチン」
 オレは目を伏せたまま、言った。「もうすこし、眠ってもいい?」と。


 
 ソファよりベッドのほうがどう考えてもいいのだろうけど、ここでいいとマイキーは言って、そのまま休憩室のソファに寝転がった。ブランケットを掛けてやると、ケンチンありがと、と舌ったらずに言って微笑んだ。こんなふうにまだ笑えるマイキーがいることは、オレの救いだった。昨夜の、まったく動かない無表情はすっかり溶けて消えてしまったようだった。
 さて、と。マイキーがすやすやと寝息を立て始めたのを見届けて、オレは休憩室を出た。
 自分のしている行動が、よくないことだとはわかっている。マイキーは、警察が追っている犯罪組織のトップだ。信じたくないことだが、マイキー自身も、おそらく人を何人も殺している。その犯した罪は当然ゆるされるものではないし、ただしく裁かれなければならない。
 でも、とオレは自己弁護だとわかっていながら、思う。
 でも、マイキーは、オレのたいせつな人で、守ってやらなければならない人で。十代のころにオレが追っていた関東卍會から梵天へと、いつしかおおきくなってしまったマイキーの後ろには、マイキーを傀儡にした何者かがいる――そう思うのは、あまりにも都合が良過ぎるだろうか。
 すこしのあいだだけでいい、マイキーの側にいたいと思った。この件でオレが罪に問われたとしても、後悔はしないし、できない。ぜんぶがオレのエゴだからだ。マイキーに非はない、帰ろうとしたアイツを引き止めたのは、オレだ。

 店舗に入ると、ドアの向こうでがちゃがちゃと音がした。鍵の解錠される音がして、シャッターが持ち上がる。イヌピーがガラス越しにオレに気づいて、片手を挙げた。
「よお」
 よ、とオレも手を挙げる。カランッとドアのベルが鳴り、イヌピーが店に入ってくる。
「お疲れさん、早いな」
「気になっちまってさ」
 なにが、とは言わなくともわかる。マイキーのことだ。
 営業開始時間にはまだ早いから、パイプ椅子を引っ張り出してイヌピーに勧めた。オレも工具箱に腰を下ろす。
「アイツは」
「寝てる」
 椅子に座ったイヌピーの問いかけに、すなおに答える。イヌピーは、マジか、と言った。
「もう帰したと思ってたのに」
「オレが引き止めた」
 イヌピーは理解できない、というように首をふった。
「ドラケンの気持ちはわかるが、もうアイツはむかしのアイツじゃねえんだぞ」
 梵天の首領なんだ。イヌピーは渋い顔で言った。
「わかってんよ」
「オマエの身も危ねーぞ。っていうか、アイツのこと探してんじゃねーか? 梵天のヤツら」
 そうかもな、とオレは天井を見上げた。
 マイキーが日々どこでなにをしているか、梵天幹部の連中が把握しようとしているのなら、たしかにオレも危ない。でも、と思う。
「もうすこしだけでいいから、アイツの側にいてぇんだ」
 一日でも、半日でも、数時間だって構わない。時間の制限があったとしても、ほんのすこしだけでもいいからアイツと向き合って、話がしたかった。
 イヌピーはしばらく黙って、それからため息を吐いた。
「……それがオマエの愛ってやつか?」
「ははっ」
 オレは笑った。たしかに、イヌピーの言う通りだ。

 仕事に入る前に、軽くシャワーを浴びた。整備の仕事をしているとバイクについた土埃や油で汚れまくるから、簡易なシャワールームを店に設置したのは賢明だった。
 シャンプーとボディソープを洗い流し、細かな水の粒に打たれながら目を閉じた。マイキーのことを考えた。十二年ぶりに突然オレの前に訪れて、いまは店のソファで眠っているマイキー。体を縮め、丸くなって眠る姿は、なにかから必死で自分の身を守ろうとしているようだった。
 かつて東京卍會の総長だったマイキーも、ガキのころ、そうやって眠っていた。喧嘩はめっぽう強かったが、眠るマイキーを見ると、〝無敵〟だなんてどのくちが、と思った。
 目を開ける。水の粒が睫毛を縫って、目に入ってくる。シャンプーハットは、もう使わない。
 蛇口を締めて湯を止めると、オレはタオルを肩に引っ掛けてシャワールームを出た。

 日中の仕事はいつもと変わらず、滞りなく進んだ。一時間に一度はマイキーのようすを見に休憩室を覗いたが、毎回、同じ姿勢で眠りこけていた。狭いソファに身を沈めて眠るマイキーの寝顔は、穏やかで、安心しきっているように見えた。それで、オレも安心して仕事に戻ることができた。
 十五時半すぎ、長いことメンテを続けていたバイクを無事に持ち主に返却し、ひと段落がついた。平日のこの時間帯は客足もなく、集中力も途切れてくるころだから、短い休憩を取るようにしている。
「コーヒーでも持ってくるわ」
 オレはイヌピーに声をかけて、休憩室につづくドアを開けようとした。そのとき、ドアが外側に開き、ボサボサ頭のマイキーが目の前に現れた。オレは驚いて、咄嗟に身を引いた。
「マイキー。起きたのか?」
 とろん、とした目でオレを見つめるマイキーは、まだ寝ぼけているのか足もとがふらふらと頼りない。「うーん」と唸って、目をこする。
「起きた、」
「よく眠れたか?」
 うん、と頷くマイキーに胸の奥が熱くなった。よかった、と思った。
 よかった、オマエが、ぐっすり眠ることができて。
 ボサボサになった髪の毛を手櫛で整えてやる。マイキーは眠そうで、でもおとなしく、されるがまま突っ立っている。
「マイキー」
 背後からイヌピーが声をかけた。ん、と視線を上げて、マイキーはイヌピーにも笑いかけた。
「きのうよりは顔色いいな」
「オマエがいろいろ、食いモン買ってきてくれたおかげだよ」
 コイツ、買ってきたモンぜんぶ食っちまったんだぜ、と言うと、イヌピーは笑って、「そりゃよかった」と言った。


 
 目が覚めたとき、ケンチンはいなかった。ここがどこで、いまが何時なのかわからない恐怖よりも、ケンチンのいない恐怖が勝った。まだ重たい瞼を持ち上げて、裸足の脚にビーサンを突っ掛ける。ソファからブランケットがずり落ちたけど、構っていられなかった。ケンチン。心の中で呼びながら、ドアを開けて、廊下を歩いた。店のほうに続くのだろうドアがあった。ノブを掴んで、廻す。内側に開いたドアの向こうに、ケンチンの姿を見つけた。

 くしゃくしゃになっていた髪の毛を、ケンチンが手櫛でなおしてくれた。その手の無骨さと、あたたかさが懐かしかった。イヌピーに促されて店の中に入り、きらきらのバイクたちのあいだにパイプ椅子を置いて座った。ケンチンもイヌピーも、同じように椅子に座っている。掛け時計を見上げると、夕がただった。傾いた茜色の日が、静かに店の床を照らしていた。
「どうすんだ、マイキー。これから」
 イヌピーがコーヒーの入ったカップにくちづけながら、聞いた。どうしよ。オレはカフェオレをひと口飲んで、呟く。
「梵天のヤツら、オマエのこと探してんじゃねーのか」
 首をふって、「それはねぇよ」と言った。「オレ、しょっちゅういなくなるって九井に言われたことあるし」。
「ココ?」
 ――ああ、そうだ、九井とコイツは幼馴染だった。オレは自分の迂闊さを悔いた。でも、イヌピーはそれ以上、九井について訊ねてこなかった。
「じゃ、まだしばらくふらふらしてられんだな」
 ケンチンの声はどこかうれしそうだった。そうだね、とオレは言った。
「なんか、お忍びで城下町に遊びに来た殿様みてぇだな」
「なんだ、その喩え」
 イヌピーが言うのに、ケンチンは笑った。意味はよくわからなかったけど、つられてオレも笑った。
「店に寝泊まりさせんのもなんだけど、オレ、まだ実家住まいなんだよな」
 客も嬢もいるのに、泊めるのはまずいかもな。ケンチンがぶつぶつとひとりごちるので、オレは「ここがいい」と言った。
「ここ。この店の休憩室がいい」
「またソファで寝るのか? 硬いし、体つらいだろ」
 不安そうな顔で、ケンチンは言う。オレは首をふった。
「大丈夫。どこでも寝られるし、あのソファ寝心地よかったし」
「……そうか」
「仕事の邪魔はしないからさ」
 オレが甘ったれた声で言うと、ケンチンは肩を竦めた。イヌピーも同じような反応だった。
「わかった。じゃあ、とりあえずあの部屋、使ってくれ」
 イヌピーのOKが出て、ひとまずの寝床が決まった。
 カランッ――ドアのベルが鳴り、客が入ってきたので、イヌピーは立ち上がって対応に向かった。バイクの陰になって、客からオレらの姿は見えていないらしかった。オレはケンチンの耳に口を寄せた。
「ケンチンも、」
「ん?」
 オレは声をひそめて、つづける。
「ケンチンも一緒にここに泊まって」
 は? とケンチンは呆けた顔をしたが、オレの中ではもう決定事項だった。決まりだかんね。そう言って、カップに入ったカフェオレを飲み干す。ケンチンは「マジで自分勝手な」と渋い顔をしたけど、ぜんぜん怒ってはいなかった。それからコーヒーを啜って、
「ウチの営業、二十二時までなんだ。それまで悪ぃけど、適当にしててくれ」
 店仕舞いしたら銭湯でも行こうぜ、と付け足して、ケンチンは立ち上がる。作業着のつなぎを着たケンチンを見上げると、むかしと背は変わっていないようなのに、あのころよりずっとおおきく見えた。
 マグカップを両手に包んで持ち、底に残った茶色いコーヒー滓に視線を落とす。
 ――どうする、これから。イヌピーもケンチンも、オレにそう問うた。ここにいることを選んだけど、オレは、ほんとうは、どうしたらいいんだろう。どうするのがベストなのか。あるいは、ベターなのか。
 自分がどうしたいのか、選択する力を失ってしまったみたいだった。それはひどく心細いことだった。
 接客をするイヌピーの姿、単車の部品と向き合うケンチンの姿を、交互に見やる。ふたりの邪魔だけはできない、しちゃいけない。
 でも、ほんのすこしでいいから。もうすこしだけ、ケンチンの側にいたい。