秋の夜空はめまいがするほど広く澄み渡っていた。チカチカと瞬く星を見上げ、あしたも晴れかな、なんて、どうでもいい他愛のない話をする。
退勤後、二組の足は自然に千冬の家へと向かっていた。帰路をとろとろと辿りながら、オレは千冬と肩を並べて歩いている不思議を思った。
好意を伝えあった事実以前に、千冬はオレという人間を最初っから受け入れてくれた。千冬につらい思いをさせたのはオレなのに、それを承知したうえでオレを拒絶しないでいてくれた。オレは殺されてもいいはずだったのに、千冬はそれをしなかったし、望むことさえなかった。
ああ、とオレは空を眺めながらため息をついた。ようやくわかった――気がした。
「なんか言いました?」
隣で千冬がたずねるのに、オレは頷いた。そうしてゆっくりと言葉を吐いた。
「千冬はさ――当たり前なんだけど、やっぱりオレをゆるせねぇんだなって。今やっとわかったよ」
千冬は神妙な顔で自身のつま先を見つめた。ハイカットのスニーカーはずい分と履き古していて、ボロボロだった。
「オレを勝手に死なせないためだったんだろ? 出所の時、保護したのは」
「……だって」
千冬は、オレに呪いをかけていた。絶対に死なせない、という呪いを。それは無垢な呪いとなってオレを縛り、この世に縫い留めた。千冬のいる世界に、きつく。
「だって、それ以外にどうしようもなかったから」
「わかってる」
右手を動かして、千冬の手を握る。そして、「ごめん」と言った。
「オレずっと、ほんとうにずっと、千冬にしんどい思いばっかさせてんな」
千冬の手はあたたかで、ゆるい力で握ると、おなじくらい弱々しい力で握りかえされた。ささやかな抵抗――オレへの反抗――を、心からいとおしく思う。
「ごめんな」
くりかえす謝罪に、千冬は首を左右にふる。でも、俯いた顔は上げなかった。
髪の毛に隠れて表情は見えなかったけれど、きっとくるしみに歪んだ顔をしてるんだろうと思った。そんな顔をさせたくはなかった。でも、千冬は最初っから苦しかったのだから、ぜんぶ、なにもかも今さらだ。
「ごめんとか、いらねぇっス」
車道を走る車の音のすきまを縫って、千冬が言った。
「オレら、もう、キスした仲じゃあないっスか」
唇にはまだ今朝の感触が残っていて、恋愛経験がないって大変だな、とオレはつくづく思い知った。大概が十代のうちに通り過ぎているだろう「すきなヤツとのキス」に、オレはこの年にしてようやっと辿り着いたのだ。
「千冬って、ファーストキスいつ?」
興味本位でたずねれば、千冬はギョッと目をまるくさせた。
「なんスか、中坊みてぇなこと言って」
「オレの心はちゅーぼーのままだよ」
「体は立派なアラサーでしょ」
いいから教えろよ、と迫る。千冬は逃げるようにそっぽを向いた。
「……教えねー」
「まさか、千冬もアレがはじめて? とか?」
「なっ、……ンなわけねぇでしょ!」
「ほんとかぁ?」
さらさらと流れてくる風がオレと千冬の髪の毛に絡んだ。秋の終わってゆく匂いを含んだ、気持ちのいい風だった。
深い紺青の空のあちこちに星が散らばった静かな夜には、オレらの足音だけが聞こえていた。商店街を抜けたらすぐに狭い道に入る。千冬の家までもうまもなくだった。
「オマエんち、行っていいの?」
こんなところまで来て、今さらだったけれど一応訊いた。千冬は「今ここで言います?」とわらった。
「もう着くのに、ダメっつったらどうすんスか」
「え、……自分ち帰る」
「すなおか!」
ケタケタと腹を抱えて千冬はわらう。ああ、そんな顔を見られるだけでじゅうぶんなんだよな、とオレは思う。オレはたくさんのひどいことをしてきて、誰かをわらわせてやれる自信なんてすっかり失くしていて、なのに千冬はいつも隣でころころとわらってくれる。
「はあーっ、ウケたウケた」
息継ぎをしながら空を見上げた千冬が、ふいに「あっ」と声を上げて立ち止まった。半歩遅れてオレも止まる。千冬は空の一点をゆびさした。
「今、見えたっ? 流れ星!」
「え?」
千冬のゆび先を辿った場所で、一瞬、光が流れた。
「ねぇ見えた? 一瞬だったけど!」
興奮したようすで千冬はオレの顔を見た。
「見た。見えた」
と、オレは言った。
「なんか願いました?」
「あんな一瞬で、なんも願えねぇよ」
そうだ、流れ星に願いをかけるなんて、ほんとうはばかげている。けれど、十代のオレは願わずにいられなかった。どんなに阿呆らしいとわかっていても、願うことがオレの救済だった。
独居房の四角い窓から見えた星と月と、ときおり過ぎっていった流れ星のことを今でもずっと忘れられない。あれはたしかに希望の光で、でも願いを叶えてくれる魔法ではなくて、オレはとうとう今日まで生き永らえてしまった。
「千冬はなんか、願ったん?」
ガキの会話みたいだと思いながら問うと千冬は頷いて、
「商売繁盛」
ドヤ顔で、そう言った。
「うわ、現実的」
「だってそれなりに繁盛してくんねぇと、そのうち一虎くんの働き口もなくなっちまいますよ?」
「そりゃ困るわーマジで」
でしょ? と千冬は言って、オレの手をぎゅ、と握った。
「一虎くんにはずっと店にいてほしいんで」
視線の先に、煉瓦を模した壁が見えてくる。千冬のくらすアパートだ。庭に植っている名前のわからないデカい樹が、風に葉っぱを揺らしている。
「一虎くんは、どうっスか」
「うん?」
「ずっと店にいてくれますか」
これは、面談かなにかか? オレは千冬の目を見つめて、口の端を持ち上げた。
「そりゃあ、いるよ」
今店を放り出されても、どこに行けばいいのかわからない。
「そっスか。よかった」
「クビにしないでくれよ、店長」
「努力しますよ」
喉を鳴らしてオレはわらった。つられて、千冬もわらう。繋いだ手が熱を持つ。帰り道、ずっと手を繋いでいたことが今さら恥ずかしくなった。けれど、お互いにほどこうとはしなかった。
次に流れ星を見たときに、オレはこれからもずっと千冬と一緒にいたいと願うだろう。千冬はいやがるだろうか。すぐに面倒になるだろうか。不安が消えたわけではないけれど、「逃げない」と約束してくれたことはほんとうだ。オレにできるのはその言葉を信じることだけなのだ。
当然みたいに千冬の部屋のドアをくぐる。ただいま、と千冬が言う。それに倣って、オレも部屋の中に向かって「ただいま」を言った。