サンダルを突っ掛けてベランダに出ると、秋の終わりの風が頬を滑った。気持ちのいい夜。ほんのりと酔った頭で、手摺りに体を預ける。窓をふり返ると、リビングのソファに寄りかかって眠る一虎くんの姿が見えた。無防備だなあ、とおかしくなる。オレに心をゆるしてくれている証拠だろうか。そんなふうに思うことが、オレにゆるされるんだろうか?
ソフトケースからたばこを一本取り出して、咥えた。いつも一虎くんにもらいたばこするくらいで頻繁には吸わないけれど、吸いたくなったときのために一箱買っておいたものだ。100円ライターで火をつける。先端が赤く燃える。星の瞬きよりずっと力強い。
秋の夜風に煙が流されていく。一虎くんと歩いた、家までの道が眼下にあった。アパートに着くまでずっと手を繋いでいた。一虎くんは手をほどかなかったし、オレもほどくつもりはなかった。離したくなかった、というのが本音で、離したら、きっと彼は自分の家に帰ると言う気がした。
怖がりで傷つきやすい一虎くんに、無闇なかなしみを与えたくなかった。
彼を保護したのはオレのエゴだ。放っておいたら死んでしまいそうな彼を、どうしても死なせたくなかった。オレにはそれしかできなかった。
煙を吸いこんで、細く吐き出す。ひさしぶりに吸うたばこはさほどおいしいと思わなかった。
帰り道にふたりで並んで見た流れ星は、あっというまに視界から消えてしまった。「なに願った?」と無邪気に問うてくる一虎くんに、オレは咄嗟に、「商売繁盛」なんて嘘をついた。ほんとうは、ぜんぜんべつのことを願っていたのだけれど。
たばこは半分ほど残して簡易灰皿に押しつけて消した。一瞬だけ空を見上げてすぐに目を逸らし、リビングに戻った。
ソファに凭れた一虎くんを起こさないよう、そうっと近づいた。前髪を払って、その整ったきれいな顔を見つめる。
「ごめんね、嘘ついた」
起きる気配のない一虎くんに、オレは小さな声で話しかける。
「商売繁盛なんて、うそ」
ほんとうは、と言葉を継ぐ。
「一虎くんがもっともっとオレを求めてくれますようにって、願ったんだよ」
もっと欲しがって、求めて、渇望してほしい。ずっとそう願っていたのに、一虎くんは頑なだった。そんな彼にオレはときどき苛立った。苛立っても、訴えることはしなかったから、一虎くんがオレを貪欲に欲しがることはなかった。ないままに今日まできてしまったのだ。
肩ほどまである髪がゆびのあいだをさらさらと流れ、こぼれていく。人さしゆびで頬を撫で、輪郭を辿った。頬、顎、耳のかたち。んん、と呻き声をもらして、一虎くんの目があいた。
視線が、一時絡まった。
ちふゆ、と彼の唇が名前を呼ぶ。うん、とオレは答えた。手が伸びてきて、一虎くんの両手がオレの頬を包んだ。
「顔、近い」
「うん」
オレがくすくすと笑うと、一虎くんは眠たそうな声音で、
「……すげー、ちゅー、したい」
そう、言った。そんな彼を心底、かわいいな、と思う。
「どうぞ」
オレの返事を待ってから、一虎くんは静かに唇を重ねた。生あたたかい体温を感じて、不覚にも心臓が高鳴った。
顔が離れると満足そうにほほ笑む一虎くんがいた。オレは髪の毛をくしゃくしゃにかき混ぜながら、言う。
「ほんとうに、アンタはかわいい人ですね」
ひどいことばかりしている、と思う。オレは一虎くんをこの世に留めてしまって、生きることを強いてしまった。それは彼にとって呪いにちがいないはずだった。
心の中でなん度も謝った。でも、オレにできることなんてほんとうになにもないから、せめて一緒に生きてほしいと、隣でわらっていてほしいと、そう願うのだ。
目の奥がツン、と痛んだ。滲み出そうな涙を押しこめて、もう一度、軽いキスを落とした。一虎くんがくすぐったそうにわらう。
幸福そうなその表情に、オレの心はゆっくりとあたためられていく。