ラグの上に体を倒し、ふたりして寝転がった。ラグは毛足が短くてうすいから、フローリングの硬さがじかに伝わる。それでもお互いに、ベッドに行こうとは提案しなかった。泣き腫らしたまぶたが、眠気に従って今にも落ちてきてしまいそうだ。目の前で千冬はオレの目を見つめている。手が伸びてきて、オレの頬をするりと撫でた。
「千冬は、オレとなにしてぇの」
オレはすなおに問うた。恋人どうしならば当然それなりのことをするんだろうと、恋愛経験がないなりに想像だけはできたから、目を逸らさずにきいた。千冬は首をわずかに傾けて、
「なに、って?」
と、かえした。不思議そうに目をまるくさせて。
「べつになにも、しない」
なにかしなきゃないってのも、おかしいでしょ。千冬は口の端を持ち上げた。
「一虎くんがしたくないなら、それでいいんス」
そんなことがあるのか、とオレは驚いていた。だいたい――それもすべて想像のものだけれど――恋愛というのは性愛が隠れていて、必ず、セックスがついてくるものだろうと思っていたから。
「千冬は? オレとしたくねぇの?」
それで、そうきいた。千冬はこそばゆそうに表情を崩した。そしてもう一度オレの頬に手を当てて、「べつにセックスが目的じゃねぇんで」と言った。
「でも、そーいうかたちで一虎くんを満たしたいって思ってるのは、まあ、そうです」
「やっぱ、してぇんじゃん」
うん、と千冬は頷いて、オレの頭を抱きしめた。オレとおなじボディソープの匂いがした。
「いろいろ、してやりてーんです。アンタに、いろいろ」
「……いろいろ」
「キスとか。あとそう……なんか、いろいろ」
そっか、とオレは言った。そっス、と千冬は言って、オレの頭を深く胸に抱いた。
体が、千冬の体温で満たされていく。それは信じられないほどの幸福をオレに与えた。
「幸せになっちまうよ」
オレは千冬の腕の中でつぶやく。このままじゃあオレ、幸せになるよ、と。
「千冬にさわられんのは、すきだ。気もちいい」
もっとさわってほしいって、思う。抑えていたことばたちが、澱みなく口から溢れ出る。
「アンタそれは、オレのことがすきってことですよ」
千冬の声が耳もとをくすぐる。また、涙が滲みそうになった。
「人のことすきになったって、いいじゃないっスか」
誰かをすきになって、それで幸せになったって。
ん、とオレは頷いた。
床に散らばった髪が、ラグの上で波打っていた。まだ湿っている髪の毛を、でももう乾かそうという気にはなれなかった。まぶたがひどく重たかった。眠い、寝そう。つぶやいたオレに、千冬は「寝てください」と言った。ついでみたいに頭を撫でて。
目を瞑る。途端に暗闇が視界を覆う。体は千冬に抱かれてあたたかい。ふと、額にやわらかく湿ったなにかがふれた。それが千冬のくちびるだと気づいたのは、夢に落ちるまぎわの、わずかな一瞬のことだった。あ、と思うより早く、オレはするすると眠りに落ちていった。
目がさめたとき、目の前に千冬の寝顔があった。のんきで健やかな寝顔をしばらくぼうっと見つめる。固い床に寝たせいで、体のあちこちが痛かった。いい年こいて変な場所で寝るもんじゃねぇな、とつくづく思った。
体を横向きにして、オレに顔を見せて眠る千冬の表情はほんとうにアラサーかと疑いたくなるほど幼いものだった。もともとの童顔がいっそうあどけなく見える。重たげな前髪を額に散らして、すやすやと寝息を立てる千冬を見ているうち、体が勝手に動いていた。近づけた顔に、千冬の息がかかる。構わず鼻の頭をくっつけると、オレはハッとして身を引いた。自分の行動に自分で驚く、なんて、バカみたいだ。千冬はかすかに呻き声を上げたけれど、目をさますようすはない。
鼻と鼻を触れあわせるだけのスキンシップは動物じみていた。人間も動物だからな、とわれながら意味のわからない言い訳をして、そっと体を起こす。寝たあとに千冬がかけてくれたのだろうタオルケットを、千冬を包むようにかけて直してやる。
窓辺に近づいてカーテンを細くあける。外を見ると、ぴかぴかに晴れた青空が見えた。高い場所に雲が浮かんでいる。すっかり秋の空だった。
ううん、と声がしてふりかえると、千冬がオレの寝ていた場所をてのひらで探っていた。まだそこにある体温を頼りに、オレを探しているようだった。戻っていって、そばにしゃがみこむ。千冬、と名前を呼ぶ。千冬はうすく目をあけて、オレを見上げた。
「かずとらくん」
「はよ」
「はやいっすね……めずらしい」
寝起きで、まだ舌の回っていない千冬は目をこすりながら体を起こし、大きなあくびをした。
「……ってか、体、痛ぇ」
「はは。オレも」
「こんなとこで寝るもんじゃあねぇっスね」
オレとおなじことを言ってる。おかしくて、喉を鳴らしてわらった。
「朝メシ、なんかつくる」
「え、大丈夫? つくれる?」
「バカにすんな」
「ねえ」
立ち上がりかけたオレのパジャマの裾を、千冬は引っ張った。促されて屈むと、両頬をてのひらで包みこまれ、ぐいっと顔が近づいた。オレは目を見開いた。
「夢、見た」
ぬるい吐息が頬を滑った。
「夢」
どんな、と問うと、千冬は目を細めて、
「一虎くんとキスする夢」
と、言った。
「……そう」
「ねえ、正夢にしてもいい?」
まっすぐにオレを見つめる。青い目。深い湖のようなそれに、オレがうつっている。水鏡の向こうでオレはくしゃりとわらって、千冬のくちびるに自分のくちびるを重ねた。一瞬のことだったけれど感触と温度はしっかりと伝わった。それは千冬もおなじだったようだ。顔を離したとき、千冬がきょとんとした顔をしていたのがおかしかった。
「ほら、正夢になったろ」
勝ち誇った気持ちで、オレは言った。
「……ちょっ、ずりぃ! オレからしたかったのに!」
「どっちからでも変わんねぇって、べつに」
したかったから、しただけ。そういって、オレはふたたび立ち上がる。かんたんな朝食をつくろうと思った。トーストに、卵とベーコンを焼くだけならオレにでもできるはずだから。
背後では千冬がまだぶうぶうと文句を垂れていた。ほんとうに負けず嫌いなヤツだ。
焦げたトーストはほろ苦く、バターとジャムで中和しながら食べた。目玉焼きは白身がフライパンに張りついてしまったのを無理やりこそげ落としたせいで無惨に千切れているし、ベーコンもおなじだった。それでも千冬は文句を言わずに食べてくれた。
ダイニング・テーブルに向かい合ってオレのつくった朝食を食べているあいだ、オレらは無言だった。テレビもついていない部屋で黙々と食事を咀嚼する。窓から差しこむ光が少しずつその質量を増してきていた。明るくなっていくごとに千冬の顔がはっきりと輪郭を定めてくる。パンを噛みしめながら顔を見ていると、はたと視線がぶつかった。
なんスか、と軽く首を傾ける千冬に、オレはうっすらとわらって応えた。なんでもない。無言の中に、そう言葉をこめた。
ついさっきキスをしたことなどなかったかのような自然な時間だった。今までとこれからはなにも変わらない気がした。千冬はコーヒーを啜っている。朝日が頬にぶつかって、白っぽく反射していた。
ふいに、脛を蹴られた。つま先で、ごく軽く。千冬はオレの足に足を絡ませて、上目遣いでオレを見た。
「なんだよ」
思わず、固い声が出た。はだしの足がすりすりと脛を、ふくらはぎを撫でてくすぐったかった。
「なーんか一虎くん、シケた顔してるんで」
「そんなことねぇだろ」
「なに考えてるのか知りませんけど、そんな不安になんなくっても、大丈夫っスよ」
図星を指されて、どきりとした。千冬はマグカップをテーブルに置いた。
「……不安、とかじゃ、ない」
「嘘。顔にぜんぶ書いてある」
千冬は無遠慮にオレの顔を指さした。そうして目を細めてオレを見つめた。つま先でオレの足の甲をさすりながら。
「ほんとにアンタってわかりやすいっスね」
自覚はなかったけれど、千冬がそう言うのならそうなのかもしれなかった。俯いてパン屑のついたゆび先を見下ろす。そんなオレの耳に千冬の声が静かに降ってくる。
「オレは逃げませんから」
だから、安心してください。千冬はそう言って、オレの足を解放した。体温が離れると急に心もとなくなったけれど、千冬の目は真っすぐにオレを見つめてくれていた。
うん、ありがと、とオレはつぶやいた。ほんの少しだけ、声が掠れた。
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出勤してすぐ、動物たちのようすを確認する。ケージでおとなしくしているいきものは皆、昨日となにも変わりがないようだった。
千冬とふたりがかりで、検温と体重測定をする。それからそれぞれに給餌をして、店内の清掃に入る。一連のルーティンはすっかり体に染みついて、滞りなく流れていった。
土曜日ということもあり、客は立て続けにやってきて、オレも千冬もその対応に追われた。アメリカンショートヘアのケージを覗きこんだカップルを相手に、ああでもないこうでもないとやり取りをしているオレを、隣のケージから見つめている目があった。ペケJだった。青い目が真っすぐにオレを見ていた。ペケは昨日のうちにしっかりとケアされていたから、初対面のときより小綺麗になっていたけれど、客からの人気はあまりないようだった。みんなペケを一瞥するだけで、すぐにべつのケージを見にいく。
「やっぱまた今度にする」とカップルの若い女が言って、オレはようやく解放された。カップルが店を出ると同時に千冬も会計の対応が終わったらしい。人が捌けて、店内は唐突にいきものたちの立てる音と気配だけに満ちた。
はぁーっとため息をついて、オレは前髪を掻き上げた。千冬が労るようなまなざしを向ける。
「お疲れさまです。対応ありがとうございます」
「……ああ、うん」
接客が不得手なオレのことを、千冬はいつも気遣ってくれる。できるだけ頑張って慣れようとしているのだけれど、人とのコミュニケーションは一朝一夕ではいかないから、毎回とんでもなくエネルギーをつかうのだ。
「大丈夫ですか?」
客の置いていったレシートを帳簿に挟んで、千冬はオレの目の前に立った。不安そうな表情で顔を覗きこむ。
「だいじょぶ」
「ほんとに?」
千冬は肩に手を置いて、じっとオレの目を見た。ペケとおなじ、青い目。そんなきれいな目でオレを見てくれることがうれしくて、照れくさいようなくすぐったいような気持ちで、オレは視線を逸らすと口をもごもごと動かした。
「……ほんとは、けっこう、きつかった」
白状すると、ほら、と千冬はわらった。
「お客もいないし、ちょっとだけ休憩しましょう。コーヒー飲みます?」
「ん。のむ」
千冬のあとについて、休憩室に向かう。店を完全に空けるわけにはいかないから、千冬はすぐに仕事に戻るのだろう。動物たちに昼メシも与えなきゃならない。
インスタントコーヒーを入れるための湯を、ケトルで沸かす。こぽこぽと水の沸騰する音が響く休憩室は、窓からさしこむ日でしらじらとまぶしかった。光は千冬の黒い髪を透かして、横顔のラインをなぞる。顎、頬、鼻の頭。
パイプ椅子に座って見つめていると、今朝の出来事が鮮やかに蘇ってきて恥ずかしくなった。自分からしておいて、今さら、キスをした事実をなかったことにしたかった。
でも、もうしてしまった。事実は覆らない。
「はい」
コーヒーの入った紙コップが、目の前に置かれた。ありがと、とオレは言ってコップを手に取る。
「一虎くん、頑張ってますね」
「え?」
千冬が立ったまま急に言ったので、オレは驚いて目を上げた。青い瞳に視線がぶつかる。
「迎えに行ったときは、こんなに元気になるなんて思わなかった」
「そんなに元気なかった? オレ」
はい、と千冬は頷いた。オレは苦笑した。
「そりゃあ、出所してすぐ元気なヤツなんていねぇだろ」
「そうっスかねぇ」
まあ、わかんねぇか、そんなこと。世の中いろんな人間がいるし。晴れ晴れとした気持ちで出てくるヤツも中にはいるだろう。
でも、千冬と再会したときのオレはたしかに憔悴しきっていて、疲弊していて、どうしようもなく頼りなかった。千冬、とオレは紙コップをテーブルに置いてたずねた。
「あのさ。なんでオレに構う?」
構うどころか、千冬はオレの更生のために奔走してくれた。部屋探しを手伝ってくれ、職を与えてくれて、さんざん世話を焼かせてしまった。
「オレは、オマエに報いたいって思うよ」
恩返しなんて柄じゃあないけれど、償いさえもできないのなら、せめて。
千冬はしばらく黙ってオレを見つめていた。そうして、やがて浅く息を吐いた。
「オレは、一虎くんがこれからもオレのそばにいてくれたらいいなって思ってますよ」
視線を持ち上げて、千冬と目を合わせる。千冬はやわらかな表情を浮かべていた。
「オレは一虎くんがすきなんで」
アンタがどうかは知らないけれど。そう付け足しながら、千冬はオレに背中を向けた。腰で蝶々結びをしたエプロンの紐が、やはり尻尾のようにゆらゆらと揺れた。
「先に戻ってますね」
休憩室のドアが静かに閉まって、ひとり取り残される。千冬の声が、言葉が、耳の奥に響いていた。さらりと、オレをすきだと千冬は言った。パイプ椅子の背もたれに寄りかかって、オレはため息をついた。
オレが千冬をすきなことなんて、とっくに見透かされていたのだ。それどころか、あっさりと向こうから告白までされてしまって、咄嗟に反応できなかった。頬が熱を持っていた。顔じゅうが熱かった。横に置いてある姿見を見たらきっとまっ赤な顔をした自分がいるはずで、恥ずかしさのあまり見ることができない。
「オレも、オマエがすきだよ」
オレ以外に誰もいない休憩室で、ぼそりとつぶやく。口もとがにやけてしまったので、慌てて、てのひらで覆い隠した。