「ただいまあ。あー、めーっちゃいい匂いする」
 玄関のドアがひらいて、千冬は部屋に入るなり鼻をひくつかせた。
「おかえり」
「カレー? うまそ」
 ワンルームの部屋は玄関の隣がすぐに簡易キッチンで、千冬は靴を脱ぎながらオレの手もとを覗きこんだ。
「一虎くん、カレーつくれたんスね」
 千冬は感心したように言った。
「カレーなんてルー入れるだけじゃん」
「いや、野菜とか切れたんだなって」
「それは、……頑張った」
「あはは」
 風呂場で手を洗った千冬が、オレの隣に立つ。カレーはかんたんだ、なんていうのは、普段料理をしないオレには通用しない幻想であると知った。まず、野菜を切るところから躓いた。皮剥きが特に関門で、そこを乗り越えるのにかなりの時間を要した。カレーふたり分にたいして、じゃがいも二個とにんじん一本、玉ねぎ一個。それだけの材料に苦戦しながらなんとか切り終え、肉を炒めていると今度は鍋の底に肉がくっついて剥がれなくなった。せっかく買った肉は破けてボロボロになり、なんとかかたちを留めている数個は貴重だった。味つけだけはまちがいがないはずだ。市販のルーを入れたのだから。
「野菜、ごろごろしてる」
 千冬がボソリとつぶやく。
「……悪かったな。うまく切れなかったんだよ」
 くちびるを尖らせるオレに、千冬はにっこりとわらった。
「いや、野菜大きめにごろって入ってるヤツすきっス。おふくろもそうだったんで」
「え、なにオマエ、マザコン?」
「ちがいますよ!」
 頬を膨らませて否定する千冬が、つぎの瞬間「あっ」と声を上げて鍋の取っ手に添えたオレの左手首を掴んだ。その瞬間心臓がごとり、と動く。
「なに」
 オレはわずかに身を引いた。素早い動作に、少しだけ怯えた。千冬はオレの左手を顔の前に持ち上げて、
「どしたんスかこれ。血ぃ出てる」
「え? うそ」
 見ると、たしかにゆび先に血が滲んでいた。痛みもなかったから、まるで気づかなかった。
「あー。皮剥きのときかな」
「擦っちゃったんスか? 痛そ」
「痛くねーよ。なんならペケに噛まれたときのが痛かったよ」
 冗談半分、本気半分でオレはいう。ペケに噛まれたときはこんなふうに反応してくれなかったくせに、店と家とで態度が変わりすぎる千冬がおかしかった。
「だってあれは出血もしてなかったし……、たいしたことないと思って」
「べつにこれだってたいしたことねーよ」
 カレーはくつくつと煮え、華やかなスパイスの匂いが部屋いっぱいに満ちていく。
 かちり、と音がしてコンロの火が消えた。見ると、千冬がスウィッチのつまみを捻ったところだった。え、と思ったときには、人差しゆびは千冬の口の中に吸いこまれていた。
 第一関節のところまでぱくんと食べられ、咥内のあたたかさを皮ふの面積いっぱいに感じた。動揺のあまり、オレの思考と体は完全にフリーズした。
 え、なんで――、なんで? 疑問符がぽこぽこと浮かんだけれど、それを口にすることができない。千冬は舌を器用に動かしてゆびを舐め、吸った。
「へ、ぇ、」
 オレの口からなんの意味もない声がもれる。それはどうしようもなく情けないもので、千冬にはあまりきかれたくないものだった。
「……あ、止まった」
 ひとしきり吸われたあと、ゆびが解放される。千冬は平然としていた。オレだけが混乱の極みにいて、なんだか惨めな気持ちにさえなる。
「な、にが」
「血」
 ああ、とオレはゆび先を見た。滲んでいた血は拭われ、本来あるべき肌色が姿をあらわしている。
「ってか、傷口に口つけたりしちゃ、だめじゃん」
 研修のときからしつこく言われていたことだ。だからペケに噛まれたときも、おとなしく消毒を待った。千冬はくちびるを舐めて、
「生体に噛まれた傷じゃないから、いいんスよ」
 飄々と、言った。
「……なに、それ」
 都合いいなあ、とオレは思った。思ったけれど、声には出さなかった。千冬に吸われたゆびが、まだ熱を持っていた。千冬の体温をそっくりそのまま移されたような。咥内のぬめってあたたかな舌の感触とか、少しだけぶつかった歯の硬さとか――そういうのが、じんわりとゆびに残って、胸が苦しくなった。
 火を止められても、余熱がカレーをあたためていた。しかし次第に鍋が奏でる音は遠のいていく。煮えた野菜たちはきっとくたくたで、じゃがいもは溶けてしまっているかもしれない。それはそれで美味いのかも、だけど。冷めないうちに、ごはんよそって食いたい。はやく、皿を用意しなきゃ。せっかくつくったんだから、美味いうちに食べてほしい。さまざまな考えが頭を駆け巡っていくのに、体が動かなかった。立ち竦んでいるオレに、千冬の手が伸びてくる。頬に、触れる。一虎くん、と千冬のくちびるが、動く。
「キス、していい?」
「え」
 オレを見上げて、千冬は言った。瞳を見下ろすと、ペケに似ている青い目の奥、湖のようなそこにオレの顔がうつっていた。オレは目をまるくさせて、完全に千冬に怯えていた。強張った表情。下がった眉尻。近づいて、千冬の息がかすかに頬にかかった。オレはぎゅっと目を瞑った。
「――ごめん」
 声がしたと同時に、体温が離れていく。オレは目をあけて、喉の奥で声をもらした。
 千冬は頬をまっ赤にして俯き、口もとをてのひらで覆っていた。
「ごめんなさい。忘れてください」
 そうして千冬はオレの横を通り過ぎ、おもむろに流しの上の棚をあけると、カレー皿を二枚とコップをふたつ取り出して、作業台に並べた。
「せっかくつくってくれたカレー、冷めちまいますね」
 食べましょ、と千冬は言った。突っ立っていたオレの体はその一言でようやく動きだした。それでも、心臓の音は鳴り止まない。近づいた千冬の体温と息の感触が、体にねっとりとまとわりついてしまったみたいだった。何事もなかったように振る舞う千冬を、ずるいを思った。オレはこんなに動揺して混乱してるってのに、コイツは。
 炊飯器からごはんをよそう千冬の横顔を、オレは見つめた。頬がほんのりと赤かったけれど、やがてその赤色も見えなくなってしまった。

 
 オレらは恋人どうしなんかじゃあなかったけれど、もしかしたら千冬は、オレが好意を抱いていることを早いうちから知っていたのかもしれない。
 バスタブのあたたかい湯に体を浸しながら、千冬に吸われた人差しゆびを見つめた。皮がめくれているものの、出血のあとはどこにもなかった。痛みもない。なのに、いつまでもそこになにかが残っていた。
 ――すき、なのにな。
 拒絶してしまうのは、これで何度めになるだろうか。
 千冬から唐突にキスを仕掛けられて、まず感じたのは恐怖だった。こんなことがあってはいけない、と思った。たくさん触れたいし、触れてほしいのに、他人の体温が怖くてたまらなかった。誰かの体温であたためてもらうなんて、オレには一生ゆるされないから。
 口もとまでを湯に沈める。ちゃぽ、と水面が跳ねて垂れた前髪を濡らした。
 千冬のことがすきだった。でも、それは想うだけでよかった。千冬とどうにかなりたいなんてことを考えると体が竦んでしまうから、アイツのそばにいられるだけでよかった。
 膝を抱えて俯くと、水面に自分の顔がうつった。乳白色の入浴剤を入れた湯にうつるオレは、腑抜けたような表情をしていた。
 千冬のキスを受け入れていたら、今ごろ、オレらの関係はどう変わっていたんだろうか。ちゃんと恋人になれていた? それとも、ただのいたずらだってわらわれて、終わってた? そもそも、オレは千冬とどうなりたいんだろう。
 深いため息をつくと、あぶくがぼこっと立ち上がった。目のふちが熱くなってきて、気がついたときには涙がこぼれ落ちていた。涙はぽとぽとと落ちて水面にいくつもの波紋を拡げていく。
 幸せになんかなれない。そう覚悟していたはずなのに、こんなにも胸が痛くて苦しい。心の奥底で、ほんとうは、ずっと誰かを待っていた。さみしくてさみしくて、まっ暗なその場所はつめたくて体はどんどん冷えていって、誰かにあたためてもらいたかった。――それが千冬であればいいと、思っていたのだ。
「……幸せになんか、なれねぇよ」
 低くつぶやいて、バスタブから体を引き上げる。涙は止まることなく流れ続けて、頬を、顎を伝い落ちてぱらぱらと散った。

 タオルを肩に引っ掛けてリビングに戻る。千冬はソファに座ってテレビを眺めていた。オレに気づくとふり返って、「ドライヤー、つかってくださいね」と言った。
 ガチャガチャと騒がしいバラエティ番組が、CMに切り替わる。ビールを旨そうに飲む男のタレントが、満面の笑みを浮かべているCM。
「あー、ビール飲みたい」
 千冬がひとりごちた。
「飲んだら? なんか冷蔵庫に入ってたけど」
 たしか冷蔵庫の奥のほうに、CMとおなじ銘柄の缶ビールが冷えていたはずだった。チェストからドライヤーを取り出しながら、オレはいった。千冬はソファの上で体育座りをして、「うーん」と唸った。
「あしたもあるし、やめときます。もう遅いし」
「……ふうん」
 時刻は十二時半を過ぎたところで、先に風呂に入った千冬の頬はまだほんのりとほてっていた。
 泊まるつもりはなかったのに、食事の後片付けをしているうちに夜はどんどん深まり、いつのまにか深夜になっていた。泊まっていっていいっスよ、と千冬がいうのに、オレはあいまいな返事をした。うん、とも、ううん、とも取れない、どっちつかずの返答。千冬もまた、それ以上しつこく追って来なかったのは、食事前の出来事を考えていたからかもしれない。
 ふたりで食器を片付けたあと、千冬が沸かしてくれた風呂に入った。そのあいだオレは、帰るべきかどうか、ずっと迷っていた。泊まったところでなにも変わらないけれど――そう思いつつも、淡い期待を込めている自分の存在に気づいていた。
 姿見の前にあぐらを掻いて、ドライヤーの温風を髪に当てた。このアパートには独立した洗面台というものがないから、泊まるときはいつもこうしてリビングで髪を乾かす。千冬に背中を向けるかたちで座り、乱暴に髪の毛をかき混ぜていると、金色に染めた前髪が視界に幕のようにおりてくる。
「一虎くん」
 ふいに声がきこえて、ふり返るより先に背中になにかが押しつけられた。それが千冬の額だと気づいて、心臓が跳ね上がった。ドライヤーのスウィッチを切って、鏡越しに背後を見た。オレの体に隠されて千冬の姿はよく見えなかったけれど、ガキがいじけるみたいに、膝を抱えて頭をオレの背中に凭れていた。いつのまにかテレビは消えている。音のなくなった部屋に、ふたり分の呼吸音だけが静かに流れた。
「ちふ、」
 ちふゆ、と言いかけて、鏡の中の千冬の目と視線が絡んだ。青い目は、ペケにそっくりだった。
「さっきは、ごめんなさい」
 ドライヤーを片手に持ったまま、千冬の声に耳を傾けた。
「なんか、いろいろ堪えられなくなっちまって。困らせるだけだってわかってたんスけど……」
「……ん」
「一生懸命な一虎くん見てたら、ほんとうに、オレこの人のことがすげぇすきだな、って思って」
 キス、したいなって思ったんスよ。千冬はぼそぼそと続けた。その顔が赤くなっているのが、鏡越しにもわかった。
「オレのこと、すきなの、オマエ」
 声が震えていた。ききたいような、ききたくないような気持ちで、問うた。うん、と千冬は頷いた。
「すきですよ」
「なんで」
 なんで、こんなヤツのこと、わざわざ。オマエならもっと他にいっぱい、いいヤツいるだろが。
「……わざわざオレなんか、相手にすんなよ」
 前科モンだぞ、とオレは自嘲した。オマエのたいせつな男を殺した。オマエにひどい思いしかさせなかった。そんなオレをすきになる理由、ひとっつもねぇだろ。
「なんで一虎くんが泣いてんスか」
 言われて、オレはようやく自分が涙を流していることに気がついた。息が苦しくなって、何度も嗚咽をもらす。肩を上下に激しく震わせる。その肩を、千冬が遠慮がちに抱いた。
「我慢してたのに、オマエのせいで台無しじゃん……」
「え?」
 息継ぎのあいまに言葉をこぼす。
 我慢していた。すきだなんてぜったいに口にしないように。口にしたらオレは、たやすく幸せになってしまうから。
「オレがっ、幸せになっていいわけねぇもん……っ」
 千冬は力をこめて肩を抱く。オレは顔を千冬の胸に埋めて、まるでガキみたいにわんわん泣いた。いい年をした男でもこんなふうに泣けるのかよと、自分でも驚くくらいの泣きっぷりだった。
 千冬は引くことなくオレを抱きしめていてくれた。背中をさすってくれる手があたたかくて、よりいっそう涙が出た。