まるいまなこがオレをじっと見つめていた。深い森の奥にひっそりと佇む、湖のような澄んだ瞳だった。そこに映りこんだ自分の顔を、オレはじっと見つめかえす。ハイネックの薄手のセーターに隠されて、首の刺青は今は見えない。
「かわいいでしょう」
背後に立った千冬の声はどこか誇らしげだった。腕には体重測定を終えた仔犬を抱えている。
毎朝出勤するとまずはあつかっている動物たちの健康管理から始まる。検温、体重測定。必要ならば爪のケアも。休暇明けに店に来ると、見覚えのない黒猫が真新しいケージでおとなしくしていた。
「きょうからウチの家族っス」
仔犬をケージにそっと戻してやりながら、千冬はオレの隣にしゃがみこんだ。
ちいさなケージの中で、その黒猫は身動きひとつせずにオレを見ていた。毛並みはととのっておらずボサボサで、顔つきも生意気そうだけれど、青色の目はどこまでも深く透きとおっていた。誰かに似てる、と思った。そうして、すぐに合点がいった。隣に座る千冬の顔を見やると、オレの視線に気づいて千冬は首を傾けた。
「なんスか?」
「いや、コイツ千冬に似てんなって思って」
「ええ?! 似てないでしょ!」
「似てる。目の色とか特に」
黒色の毛がボサボサだったり、生意気そうな顔だったり。あとに続けようとした言葉は飲みこんで、オレは猫に手を伸ばした。ゆびを近づけるともの珍しそうな顔で匂いをかいでくる。かすかなあたたかさを感じた。いきものの持つ、あたたかな体温。
「オレはペケJに似てるって思ったんスよ」
「ペケ?」
ガキのころ、千冬が可愛がっていたという猫のことを思いだす。名前をペケJと言って、店の名前はその猫からもらった。元々の名前はエクスカリバーだったらしいけれど、その猫に懐かれていた場地がペケJと名づけたので、千冬もそれに倣ったそうだ。
いいのかよ命名権場地に譲って。ずっと前にペケの話をはじめてされたとき、オレが問うと千冬は「場地さんがペケJっていうんならそいつはペケJなんっスよ」とわらっていた。
「じゃあ、コイツはペケの生まれ変わりかな」
ペケはある日突然いなくなったそうだ。いくら名前を呼んでも現れなかった。時間は流れて季節もどんどん過ぎていった。とうとう帰ってこなかったペケは、たぶん死んだのだろうと千冬は話してくれた。猫は死期を察すると人の元を離れて自分だけの死場所にいくんですって。そこでひとりっきりで死ぬんだってききました。
寿命を考えれば、猫だって少なくとも十年は生きるはずだから、生きていてもおかしくはなかった。たとえ生きていたとしても、ペケは自分で自分の居場所を見つけたんスよ。そう言った千冬の顔はさみしそうだったけれど、すべてを理解し納得しているように見えた。
オレの匂いをたしかめるように鼻を動かす猫――千冬いわくペケJは、やがてざらついた舌でゆびをペロリと舐めた。そのやわらかく生ぬるい感触に、思わず「ぎゃっ」と声を上げてしまった。
「ああ、お腹すいたんスね。ごはんの時間だ」
「噛まれそう、怖い、千冬たすけて」
「ちょっとそのまま動かないでいてください。びっくりしちゃうんで」
「千冬うう」
まだ動物の扱いに慣れていないオレをその場に置いて立ち上がり、千冬はいそいそと給餌の準備を始める。オレは動くことを禁じられ、ペケにゆびを舐められつづけた。
目線を送るとオレのゆびになにか味でもついているのだろうか、ペケは無心で舌を動かしていた。ひどくくすぐったかった。
こんなに小さないきものでも、生きるためにものを食おうとしていることが、妙にオレの心に響いた。
「えらいな、オマエ」
かたほうの手で、ペケの頭を軽く撫でた。そのときだ、ペケが勢いよくゆびに食らいついたのは。
「いっでええええっ!」
「一虎くん?!」
オレの悲鳴に千冬が慌てて駆け寄ってくる。甘噛みなんてかわいいもんじゃあない、マジ噛みだった。なのにペケは平然とした表情で、オレを見上げていた。
「か、噛まれた……」
「あー、びっくりしちゃったんスね」
かわいそうに、と言う千冬はあきらかにペケの心配しかしていなくて、オレはくちびるを尖らせた。
「オレのことも心配してくれよ」
「なにを今さら。昔さんざん喧嘩してきたじゃあないっスか」
ちょっと噛まれたくらいで大袈裟な。千冬は呆れたようにため息をついた。コイツの言っていることはもっともで、昔してきた喧嘩の怪我とは比べものにならないくらいの些細な痛みと傷だった。痛い、と言うのも憚られるくらい。
「そりゃあ、そうだけど」
「でも、一虎くんは優しいっスね」
ペケを抱え上げて腕に抱くと、千冬はオレを見てわらった。
「は? なんで」
「だってコイツがゆびを吸ってるあいだ、ちゃんと動かずにいてくれたじゃあないっスか」
「……オマエが、動くなっつったから」
オレは噛まれたゆびに視線を落としてつぶやく。千冬は首をふって、
「アンタは優しいから、この仕事向いてますよ」
ペケは千冬の胸に抱かれて、満足そうに目をほそめている。どうやら早くも千冬に懐いているらしかった。
千冬に言われた言葉が頭の芯を叩き、反響した。向いてる、なんて、今まで誰からも言われたことがなかった。千冬は、学歴もない、職歴もないどころか、前科持ちのオレに働く場所を与えてくれた。接客業なんてとうてい無理だと思っていたから、最初はバックヤードでの在庫管理や、掃除の仕事をおもに任された。そのうちにあつかっているさまざまないきものたちの世話も見るようになって、今は店頭に立って接客までしている。「生きているもの」を相手に仕事ができる、なんて。十年前のオレには、無理だった。でも、今はできている。震えが止まらない夜をいくつも越えた場所に、今、オレは立っているのだった。
「コイツのごはん終わったら、開店準備するんで」
ペケをケージに戻して、千冬は皿に盛った仔猫用のペットフードを置いた。待ってましたとばかりに餌にがっつくペケを見て、いきものの持つ力強さをやはり感じた。
「……ゆび、どーしたらいい?」
生体に噛まれたり、引っ掻かれたりしても絶対に傷を舐めたりはしてはいけないときつく言われていた。千冬はようやく気づいたように、立ち上がってオレの手をとった。千冬の手がオレの手に触れ、噛まれたゆび先を検分する。オレより少し低い位置にある頭。目。鼻。ツン、と尖っているくちびるの先。
「血は出てないんで、消毒だけでよさそうっスね」
ひさしぶりに、千冬の顔をまじまじと見つめることができた。家にいるときは千冬がそばに来るとすぐ逃げ出したくなってしまうというのに、ここが職場だからか、噛まれたことで気が動転してしまっているからなのか、とにかくオレは目を逸らさずにいられたのだ。
「……一虎くん?」
気がつけば、オレは千冬の右手を両手で握りしめていた。
千冬の体温がオレの手をじわりとあたためていく。その心地好さに、さっきまでの動悸がおさまってくる。これが、たぶん、安心、というものなのだろう。ほんとうは千冬に触れてほしくて、さわっていてほしくてたまらなかったのだ。触れてくれたら、オレは安心できたから。
ぎゅ、と力をこめるオレの手のその上に、千冬は手を重ねた。そうして、優しく包みこむ。
「痛い?」
千冬は問うた。上司という立場を抜きにした口調で。まるで家にいるときみたいな穏やかな発声で。
「も、大丈夫」
オレの声はか細かったけれど、誤魔化そうとする気は、なかった。千冬ははらりとわらった。
「そっか。よかったです」
消毒します、とオレの手を離し、救急箱を取りにレジ台へと向かう。エプロンをつけた後ろ姿を視線で追った。腰のあたりで結んだ紐が、動物の尻尾みたいに揺れていた。
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気がつけば窓の向こうは夜の闇にとっぷりと覆われていた。壁掛け時計が十九時を示し、ドアの鍵はもう施錠されている。動物たちのかすかな鳴き声――眠っているヤツらの寝息も含めて――が響く店内はレジ周りだけにあかりが灯されていて、全体的にうす暗かった。
掃除用のモップを片づけると、残った仕事がないか店を見渡す。バックヤードにも周り、在庫を数えた。いきものたちのケージを一つひとつ見て、餌と水に過不足がないかを確認する。小さな店だからあつかっている生体は少ないけれど、いかんせん従業員がオレと店長兼経営者の千冬のふたりだけなので、一人当たりの業務量はかなり多い。それでも不思議と、苦痛は感じなかった。いきものの、生命の気配を浴びながらの仕事だからか。とても信じられないけど、やっぱりオレはこの仕事に向いているのかな、なんてことを思ってしまう。
「テンチョー、掃除とかいろいろ終わったけど。あとなんかない?」
レジ締めをしている千冬に声をかける。千冬は顔を上げてオレと、時計を交互に見た。
「あ、すんません、時間過ぎてましたね」
売上管理があまり得意ではない千冬は、レジ締めの作業になると集中力をすべてそちらに傾ける。もともと、さほど勉強ができたわけではないから当然なのだけれど、それでも必死こいて経営について学んで、結果こうして立派に店を構えているのだから大したものだと思う。
「ありがとうございます。上がってください」
「はあい」
エプロンの紐を外しながら、窓の外を見やる。すっかり暗くなった商店街は人通りもまばらで、あかりのついている店も僅かだ。夜の闇にほんの少しだけ、こころぼそい気持ちになった。
なあ、とオレはレジのそばに寄った。千冬がふたたび顔を上げてオレを見た。
「きょうさ、オマエんち、行っていい?」
飯、つくって待ってるから。そうつづけると、千冬の表情がぱあっと輝いた。
「え、つくってくれるんスか?」
珍しー、と千冬の目がまんまるになる。
「あんま期待すんなよ、簡単なもんしかつくれねーぜ」
「ぜんぜんいっスよ! じゃあこれそっこー終わらせて帰るんで!」
互いの家を頻繁に行き来するようになってだいぶ経つけれど、オレが率先して飯をつくることは滅多になかった。料理の経験なんて皆無だからレパートリーもないし、味の保証もできない。ネットで調べてつくってもなぜかおかしなことになるのが常だったから、料理は極力避けてきたのだ。でも今夜はなんとなく、千冬に自分がつくった飯を食わせたいと思ったのだ。日中、手を握ったときに伝わってきた体温が体の奥に残っていて、いちにちかけても消えなかった。それとどう関係があるのかはわからなかったけれど、千冬になにかしてやりたいという気持ちがあるのは、たしかだった。
「そんじゃ、とりあえず先帰るな」
「鍵、ちゃんと持ってます?」
「持ってる、持ってる」
オレはポケットから合鍵を取り出す。出所後しばらくしてひとり暮らしをはじめたオレに、なにかなくてもいつでも来てくださいと手渡された合鍵だった。ぶら下げているのは、ガチャガチャで取ったチープなキーホルダーで、千冬と色違いだ。
「じゃあ、待ってるな」
片手を挙げて、裏口から店を出た。ドアを押しあけた途端にひゅうっと風が吹きぬけて、薄手のパーカーの裾をはためかせた。秋が終わりつつあった。街路の枝は日に日に葉を落としていき、風をうけて寒そうにしている。いつのまにか見知ったものになっていた商店街を、出口に向かって歩く。仕事終わりは遅くなるから、買い物をするときは駅前のスーパーに行くことにしていた。
歩いて15分程度の場所にある24時間営業のスーパーは、いつ行っても混雑している。スマホの画面を見ると、二十時半に差し掛かろうとしていた。なにをつくろうか、っていうか、なにをつくれるんだ? オレは。ネットをひらいて「料理 初心者」「レシピ 簡単」「時短 うまい」などで検索をかける。けれど出てくるのは複数の食材と、小麦粉や片栗粉や塩や胡椒や唐辛子などの調味料をあれこれ組み合わせてつくる料理ばかりで、ちっとも参考にならなかった。すぐにつくれて腹を満たせるうまいメシだよ! 苛々しながらとりあえずカゴを持って店内をうろつく。千冬が何時に帰ってくるかわからないけれど、とにかく工程がシンプルで失敗しない味つけのもの、オレでもつくれるようなもの――結局、「カレー・シチュー・スパイス」と書かれた陳列棚の中からCMでいちばん名前をきくメーカーのカレールーを選び、野菜コーナーに戻ってじゃがいもと玉ねぎとにんじんをカゴに入れる。最後に肉を選び、会計を済ませてスーパーを出た。カレーならルーを入れるだけで味つけしないで済むから、オレでもたぶん大丈夫なはずだ。
ほんとうはもっと手の込んだものをつくりたかったけれど、それはカレーを成功させてから考えよう。
頬を撫でていく夜風がひんやりとつめたくて、気持ちがよかった。気がつけば顔じゅうが紅潮し、ほてっていた。スーパーのビニール袋を提げたまま、片ほうの手で頬に触れる。皮ふは、ひどくひどく熱かった。