ムショの外で千冬と再会した時、オレは咄嗟に、殺されるんだ、と思った。千冬はパーカーにジーンズというラフな恰好で立っていて、トートバッグを肩に提げていた。キャンバス地の白いトートバッグの中にはナイフが入っていて、それを取り出してオレの心臓に切先を向ける――そんな妄想をしているオレをよそに、千冬は「一虎くん」と笑いかけた。やわらかなほほ笑みだった。
「おかえりなさい」
と、千冬は言った。まるで買い物から帰ってきた人間に挨拶するみたいな気やすさだった。
背後に寄り添っていた刑務官が離れて、檻の中に戻っていく。ガ――チャン。重たい音を立ててドアが閉まった。おそらくまた、しばらくのあいだは開くことのゆるされない扉。
ひゅっ、と。喉の奥で呼吸が絡まった。吸おうとして吸いきれなかった息が、くちびるのすきまから細くもれ出た。いき、とオレは思った。息。ひゅっ。ふっ。ひぅ。酸素を求めれば求めるほどそれは遠ざかり、手を伸ばして掴もうとするとこちらを小馬鹿にするように逃げてゆく。喉を抑えた。体が傾いてゆく。視野が狭まる。指の先が痺れる。息が、できない。
「一虎くん?!」
くずおれたオレに走り寄って、千冬はオレの肩に、背中に触れた。
「落ちついて。ゆっくり、ゆっくり、息吸って、吐いて」
背中をさする千冬の手のぬくもりを感じた。癇癪を起こしたガキをあやすような優しい動作。
「過呼吸はね、ゆっくり、落ちついて、息すればなおります」
次第に酸素が肺に取りこまれ、満ちてゆくのがわかった。ふう、ふう、と大きく肩で息をするオレを、千冬は弱い力で、遠慮がちに抱きしめた。
「ごめんなさい、驚かせちまいましたね」
「……な、んで……?」
呼吸のあいまに、問う。息ができるようになっても心臓は早鐘を打ち続けていて、オレを抱く千冬の体温にも、どう反応するのが正しいのかわからなかった。
「なんで、オマエ……」
混乱する頭で、目の前の現実を整理しようと必死だった。千冬の目を見ると、透きとおった湖のような深い色をしていた。困ったように眉を下げて、笑う。
「一虎くんがそろそろ出所するころだってドラケンくんたちから聞いて。っていうか、みんなと連絡取れてたんスね」
「……ドラケンとは、手紙、で、」
うん、と千冬は頷いた。
「そのへんはドラケンくんから聞きました」
十年前、面会に来てくれたドラケンとは、その後は手紙のやりとりで近況報告をしていた。身内以外の面会はできなかったけれど、オレの家族が面会に来ることはとうとうなかったから、ドラケンとの手紙がオレと檻の外とを繋ぐ唯一の糸だった。
「……オマエ、オレを殺しに来たの」
くちびるからこぼれた言葉は、しばらくのあいだ空中に留まっていた。オレの言葉が千冬の耳に届いたのは、声を発してから数秒後だった。千冬は目をまんまるにさせて、ぽかんと口を開けた。
「殺す? なんで?」
千冬はオレとまるでおんなじ反応をした。は、とオレは息をもらした。
「なんでって、ふつう、そう考えるだろ」
オレは――、続けようとしたオレを、千冬が遮った。
「今さらっスよ」
「……」
「アンタを殺したって場地さんは帰ってこねぇ」
その名前を聞いた瞬間、体が強張った。オレらを取り囲む空気が一瞬にして張り詰める。千冬の目は浅く伏せられて、オレを抱く自分の手を見ていた。
十年前にオレの目の前で死んでいった男――場地圭介を、もはや悼むことしかできないのだと、その事実を十年のあいだに何度も突きつけられた。いや、悼む資格すらオレにはないのかもしれない。だからと言って、死んで詫びることもゆるされない。
何もかも、すべてが遠かった。
「……だよな」
オレは心のどこかで期待をかけていた自分に気づいた。自死がゆるされないのだったら、殺されたいと願っていた。オレは卑怯者だから、そうして罪を誰かになすりつけてこの世とオサラバする、安楽な未来を望んでいた。
「バカだ、オレ」
両手で顔を覆った。小さく丸めた体を、でも千冬がしっかりと抱きしめてくれていた。人間の持つ体温がなつかしかった。昔、ほんとうにほんとうのガキのころ、母親にこうして抱きしめてもらったっけ。そんなことも、あったんだっけ。
母親ほどやわらかくはない大人の男の腕の中に、この歳になって包まれている不思議を思った。
「バカですよ、アンタは」
今ごろ気づいたんスか、と千冬が耳もとで囁いた。うん、とオレは頷いた。目のふちから熱い水の塊があふれて、あ、と思うまもなく頬を伝った。
「ああ、あ……っ、うああぁっ」
ムショの高い高い塀の前で、千冬に抱かれながらオレは声を上げて泣いた。ガキのように、気がふれたみたいに、わんわん泣いた。
「ごめんなあ」
嗚咽をもらしながらオレは何度も何度も謝った。涙と洟水とよだれでぐちゃぐちゃになった顔を千冬の胸に押しつけた。誰にたいする謝罪なのかわからない。でも声は「ごめん」という言葉にしかかたちをなさなかった。ごめん。ごめんなあ。ごめんなさい。
千冬はオレを殺すことはおろか、殴ることすらしなかった。オレの体を抱きしめて、ひとしきり泣き喚くのにつきあってくれた。それだけだった。
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朝のひかりが瞼をなぞって、くすぐったさに目をさました。促されるまま借りた千冬のベッドはしっかりとした白いマットレスが敷かれていて、当たり前だけれどムショのそれとはまるで違った。オレこっちで寝ますからと言って千冬はソファに横たわった。本来ならばオレがそっちで寝るべきなのに、千冬はしつこくオレにベッドを使うよう勧めた。
カーテンのすきまからもれた朝日が、オレの体をまっすぐに横断して睫毛を撫でた。数回、瞬きをした。眩しさに目を細める。膝を抱えて眠る姿勢はガキのころからの癖で、だから朝起きるときはいつも背中がきゅっと丸まっている。背中を丸め、膝を抱えたままマットレスに体を沈めてゆくと、まだまだ眠れてしまいそうだった。眠気が、波のようにゆっくりと寄せては引いてゆく。布団からも枕からも、千冬の匂いがした。まるで千冬に包まれて眠っているような気持ちになった。
昨夜は深く、とてもふかく眠った。せっかくだから外食でもしたいとこだけど、一虎くん疲れてるだろうから。そんな気遣いにより、コンビニで弁当と缶ビールを買って千冬の家に向かった。前を歩く千冬に、オレは阿呆のようにくっついていった。迷いのない足取りに、オレは却って戸惑った。千冬が何を考えているのか、まるでわからなかった。
繁華な駅前を通りアーケードを潜り抜けた場所にある千冬のアパートは、意外にもさっぱりと片づいていた。
大きな家具といえばシンプルなかたちのソファとベッド、本棚があるだけの広めのワンルーム。ベランダへと続く窓からは、茜と藍の混ざり合った複雑な色の空が見えた。
ローテーブルに買ってきた弁当と飲み物を広げて、向かい合って食べた。コンビニでの支払いはすべて千冬持ちで、あとでちゃんと返すよ、とオレは弱々しく言ったのだけれど叶えられる自信はまるでなかった。ムショから出たばかりのオレに、外で働き、自立して生活する姿はとうてい想像できなかったのだ。
シャワーを借りて髪と体を清潔にし、ベッドに横たわるとオレはすぐに眠りに落ちてしまった。
千冬がオレを迎えにきたこと、自分の家に連れてきて、食事とシャワーとあたたかい寝床を与えてくれたこと。――なんで? と、心底思った。あまりにも千冬がわからなかった。なんで、オレにここまでするのか。なんで、手を差し伸べるのか。
でも、思考するまもなく瞼は落ちた。気がつけば朝になっていた。
「ちふゆ」
枕を抱きしめながら、そっと名前を呼んだ。昨日再会してから、オレはまだ千冬の名前を呼んでいなかった。千冬はオレを、ちゃんと名前で呼んでくれたのに。
ちふゆ。自分にしか聞こえない小さな声を出すオレはひどく臆病で怖がりで、情けなかった。
洟を啜って、ふたたび枕に顔を沈めた。
目がさめたのは、コーヒーのこうばしい匂いが鼻先を掠めたせいだった。身動ぎをして目をひらく。カウンターキッチンに、パジャマ姿の千冬が立っているのが見えた。
「……ちふゆ」
寝ぼけまなこをこすりながら声をかけると、千冬は顔を上げた。湯気の立つマグカップを両手で包み持っていた。
「おはようございます」
律儀に挨拶をする千冬に、おはよ、と短く返す。喉がからからに渇いていた。千冬はゆっくりとオレに近づいて、「座っていいですか? ここ」とベッドの縁を視線でしめした。オレは頷いた。
「一虎くん、ぐっすり寝てましたね」
ベッドに腰をおろして千冬はくちびるの端を持ち上げた。マグカップをローテーブルの上に置く。
「……一回起きた、けど」
二度寝した、とオレは不必要な弁明をした。
「起こしてくれりゃあ、よかったのに」
「あんなにすやすや眠ってるとこ起こせるほど、オレは鬼じゃねぇっスよ」
しし、と笑う千冬の表情は穏やかで、オレの記憶の中を生きる十三歳だったころの松野千冬と、咄嗟には一致しなかった。
「オマエ、変わった? なんか」
布団にくるまった状態で、オレはつぶやいた。ええ、そうっスかねぇ、と千冬は首を傾げた。
「でも十年、経ちますもん」
心臓が、ごとりと鳴った。オレとコイツは、十年前の時間を共有している。オレの目の前で場地の体が崩れた、その向こう側にいた千冬の姿をオレは見たのだ。
そして十年前、死んだ場地を抱きしめた時と同じ手で、千冬は昨日、オレに触れた。
「……壊すことしかできないのにさ」
「え?」
十年前の十月三十一日の抗争で、オレは千冬のたいせつなものを壊した。壊してしまったものが帰ってくることは二度とない。だというのに、コイツは。
「オレには壊すことしかできなかったのに」
「……一虎くん?」
なのになんで。コイツは。
「ごめん」
大粒の涙があふれて、頬を、顎を、伝い流れた。声がふるえて、どうしようもない恐怖がオレを包んだ。ちふゆ、とオレはふるえる声で千冬を見上げた。
「ころして」
「ちょっ、ちょっと?!」
千冬の両手首を掴んで、オレは懇願していた。千冬のてのひらを首に添わせて、訴えた。ころして。しめて。くび。このまま。ころして。
「バカっ、やめろって!」
思いきり手を振りほどかれて、肩をベッドに押しつけられた。途方にくれるオレを、千冬はつよいまなざしで睨みつけた。
「バカな真似すんな!」
オレを押し倒すかたちで覆い被さり、千冬は低い声を放った。大人の、男の声。体がふるえた。
「そんなことしたって、オレはアンタを殺さない」
「……でも、」
「なんべん頼まれても、……土下座されたって、絶対に殺さない」
はくはくと息がもれるオレは死にかけの魚みたいだった。涙があふれて、こぼれて、止まらない。
頬を伝う涙が枕カバーとシーツを濡らした。肩を抑えつけていた千冬の手が離れて、体がふっと軽くなった。
「すんません」
カッとなっちまって、と唇を尖らせて、千冬はバツの悪そうに顔を顰める。
「……なんでオマエが謝んだよ」
悪いのは完全にこっちなのに。居た堪れない心地で、上体を起こした。伸びた前髪がぱらぱらと顔にかかって、うっとうしい。
髪の毛を掻き上げながら千冬の隣に膝を抱えて座った。頬は涙で濡れていたけれど、さんざんな姿を見せた今さら、隠そうという気はまるで起きなかった。
「オレ、生きていていいのかな」
つぶやく。それは何度も思考に飛来してきた問いかけだった。自問して、答えを求めてさ迷ってる。ずっと。
千冬はそれには答えず、オレの顔を見つめてそっと手を伸ばした。
「髪の毛、伸びましたね」
額に波打つ髪をゆびの先で払い、オレの目を見つめる。ん、と喉の奥で返事をした。
「いっそのこと伸ばそうかな」
「いいんじゃないっスか、イメチェン。今の一虎くん、ちょっと陰キャっぽいし」
「うるせーよ」
千冬は無邪気にわらって伸ばした手を引いた。髪の毛をさわられただけなのに、心臓が痛いくらいに鳴っていた。
千冬の体温を感じると、体が勝手に身構えてしまう。怖い、と怯んでしまう。それは殺されるかもしれないという気持ちとは無関係な、まったくべつの場所から発生するふしぎな感情だった。
「朝メシにしましょ」
そう言って千冬は立ち上がる。オーバーサイズのパジャマは丈がやや長いようで、裾をわずかに引きずっていた。
斜め上から笑みを向ける千冬には、ガキだったころの面影がきれいに宿っている。