流れ星

 日中の日ざしはまだ充分にあたたかいのに、夜になると急激に冷えこむようになった。サンダルを履いた足の裏がつめたい。キッチンでたばこを吸おうとすると千冬が「部屋の壁に匂いがつく」と言っていやがるので、オレはひんやりとした風の吹く中渋々ベランダで喫煙している。
 ときどきもらいたばこをするくせに、どの口がそんな文句を言うのか意味がわからない。反論したい気持ちを、でもひとまずぜんぶ飲みこんで、オレはおとなしく外に出るのだった。
 煙を細く吐き出して、空を見上げる。大人になった今はもう、視界は四角形に切り抜かれてはいなくて、夜空も柵越しではない。東京の街の明かりがずっと遠くに見えて、世界は正しく、どこまでも広かった。
 檻の外に出るのはおそろしかった。でも千冬がいたから、そっと声をかけてくれたから、オレはまだ生き延びることを選んだのだった。
「寒くないっスか」
 リビングとベランダを隔てる窓が開いてふり返ると、千冬が肩にフリースのブランケットを羽織った姿で目の前に立っていた。
「寒ぃよ」
 オレは煙と言葉を同時に吐いた。わざとらしくて顔を顰めて。「オマエが意地悪するから、おかげでめちゃくちゃ寒い」
「意地悪じゃねぇでしょ」
 千冬ははだしの足でベランダに出てきた。足、つめたそ。オレが言うと、つめてーっス、と千冬は笑った。
「賃貸だと、部屋ん中でたばこ吸うと退去ん時面倒なんで」
「へえ。じゃあ、マイホームでも買う?」
「アンタってマジでバカっスね?」
 オレの冗談に、千冬は本気らしく返した。オレはへらへらと笑う。
「夢は持ってたほうがいいじゃん」
「途方もない夢よりも、目の前の業務にしっかり向き合ってください」
 ちりり、とたばこの先端が赤く燃える。燃え尽きた灰がこぼれて、ベランダの床に落ちた。儚い赤い灯に、昔見た流れ星の姿を重ねた。
 流れ星も、ほんとうのところは星が燃え尽きる際の一瞬に過ぎない。死ぬ瞬間を見せつけられているだけで、さらには願い事をすれば叶うなんてカルトなことまで託されて、星屑にとってはさぞ迷惑だろうと思う。
 少年時代の記憶――それは不思議と鮮明だった――をたぐり寄せながら、なあ、とオレは千冬に問いかけた。
「千冬は流れ星に願い事したことある?」
 千冬は首を傾げた。なんスか急に、と、怪訝な表情をこしらえて、けれどすぐに真剣な声で言った。顎に指を添えて、そうっスねぇと唸る。
「どうだろ。いや、見たこともないかも、流れ星は。初詣のお参りはあるけど」
「見たこともねーの?」千冬の答えに、オレはびっくりしてしまう。「っていうか初詣とはぜんぜん違げーよ」
「一虎くんはあるんスか? 流れ星、見たこと」
「ある」と、オレは言った。「昔な、ガキのころだけど」
 へえ、と千冬は興味深そうにオレの顔を覗きこんだ。
「願い事、した?」
「した」
「なに、願ったんスか」
 たばこをひと口吸う。舌に苦い味が広がった。煙を細く吐き出し、言葉を継いだ。
「うまれてくる前に戻してくれ、って」
 千冬の表情が途端に曇って、しまった、とオレはため息を吐いた。暗い話などするつもりはなかったのに、どうしても言葉がこぼれてしまう。誰にも言ったことのない話を、でも千冬に、聞いてほしいと思ってしまったのだ。
「いやさ、そもそもオレがうまれてこなかったら、ぜんぶうまくいってたのかなーって思ってさ」
 極力あかるい声で言ったけれど、発した言葉の重みはオレがよくわかっていた。夜風が頬を撫で、髪の毛とピアスが同時に揺れる。りん、りん、と鈴がかすかな音を立てた。
 千冬は目を細めて、肩に掛けたブランケットを胸もとで合わせた。
「……そんなん、わかんないじゃねぇっスか。実際うまれてこないと」
「そう」オレは頷いた。「だから、すげえ残酷だよな、って」
 うまれて、生きてみないとわからないことが多すぎて、オレはずっと苦しくてしかたがなかった。
 正方形に近い四角の窓から見た流れ星は、オレの眼前をあっさりと過ぎ去ってどこかで燃え尽きた。オレの願いなど少しも聞いちゃいないとでもいうように。
 手摺りに置いていた手に、千冬がてのひらを重ねた。あたたかい手。ずっと触れていたくて、さわっていてほしくて、体温を掴んでいたくて、輪郭をたしかめていたくて。――でも、オレはやんわりとその手をほどく。千冬はオレの手を追ってはこなかった。オレが握っていた部分の手摺りをおとなしく掴んで、顔を上げた。
「一虎くんの手ぇ、つめたい」
 こちらを見つめる千冬のまなざしはまっすぐに、オレを射抜いた。オマエが外に追い出したから冷えたんだよ、と喉もとまで出た文句を、飲みこむ。代わりに小さく笑いながら、短くなったたばこを足もとに落とした。サンダルで踏みつけて、火種を消した。
「……今も」
「ん?」
 千冬はふいに目を伏せた。視線から解放されると、オレは途端に心細くなる。見ていてほしい、いや、見ないでほしい。さわってほしい、ううん、さわらないでほしい。千冬への願望は、いつも頭の中でこんがらがっていて、オレ自身どうしたら始末をつけられるのかわからないでいた。
「今も、そんなこと願ってるんスか?」
 オレは無言で俯いた。つめたい空気が体中にまといつく。一瞬だけ千冬にさわられた手はまだかすかにあたたかくて、オレは千冬の体温を欲しいと、心から思った。
「……千冬にどう思われたんだろ。ちょっと怖ぇな」
 引いた? 答えずに、逆に問いかけてみた。引かない、と千冬は首をふった。
「でももうそんなこと、願わないでほしい」
 顔を歪めて、かなしそうな顔をする。そうだ、とオレは思った。
 その顔だけでじゅうぶんなんだよなあ。そういう顔を、してくれるだけで。千冬のかなしい顔を見たいわけではなかったけれど、オレのためにそんな顔をしてくれる千冬がたまらなくいとおしかった。今にも泣き出しそうなのを堪えているような。くちびるをきゅっと結んで、少し不貞腐れているような。
 それ以上、オレは何も望めないし、欲しがれない。オレは千冬に、何も求められない。
「……帰るワ」
 手摺りに背中を向けると、オレは千冬に向かって笑いかけた。千冬は、驚いて目をまるくさせる。まんまるの、青い目。
「泊まってくんじゃないの」
「そのつもりだったけど、やっぱ、いいや」
 千冬は不安そうに眉を顰めた。
「……オレ、なんかしちまいました?」
 オレのためにそんな、不安にならなくっていいのに。そう思いながら、吸い殻を摘み上げてプラスチックの携帯灰皿に押しこんだ。
「なんにもねぇよ」
「……」
「でも今日はちょっと、ウチで寝る」
 納得のいっていない顔で、千冬はくちびるを尖らせる。表情をころころ変える千冬はまるで体だけ大人になっちまったガキみたいで、可愛らしかった。
「それじゃ、また明日、店で」
 おー、とオレは返事をした。サンダルのソールがアスファルトの床を擦る、固い音が夜の闇に響いた。窓を開ける。リビングは照明のおかげで煌々と明るく、ほのあたたかかった。

 
 千冬の住むアパートからオレの部屋までは徒歩で十分ほどで、だから帰るのが億劫な時はたびたび、どちらかがどちらかの部屋に泊まって翌日一緒に出勤していた。千冬の家にはオレの下着や歯ブラシが置いてあるし、オレの家にも千冬の私物がいくつか、あった。
 ――泊まるのは、平気なのに。
 夜風に髪の毛を遊ばれながら、オレは平たい道路をとろとろ歩く。千冬にさわられた手は、もうオレの体温だけになってジーンズのポケットの中に押しこまれていた。
 一瞬、だった。それこそ星が灰になるくらいの一瞬。千冬はオレに触れた。あたたかな手で、オレに触れた。オレはそれとなく千冬を拒絶した。――オレが逃げたことを、千冬はかなしく思っただろうか。訊いてみるつもりはなかったけれど、もし他人の心が読めるのなら、千冬の心を読みたいと思った。アイツはすなおだからすぐ顔に出るし、わかりやすい。けれど、「ほんとうのところ」を察する能力がオレにはないから、千冬の思っている「ほんとうのところ」が、わからなかったのだ。
 ――すき、なのになあ。
 なんでかなあ。こんなに、さわるのもさわられんのも怖ぇのは。
 千冬にさわられるとオレはたやすく幸せになっちまうから、だからこんなに、怖ぇんだろうなあ。
「すき……なのにな」
 ぽつん、と声がこぼれ落ちる。吐息と混ざってそれは呆気なく空気に溶けていく。顔を上げると、夜空は高い場所にあった。街路の枝のあいだから見える真っ黒の空に、今夜は月も星も見えなかった。
 いくら視界が広がっても、見えねぇものは見えねぇんだな。そんな詩人みたいなことを胸の中でつぶやいて、我ながら、ばかげていると思った。
 やがて見慣れた茶色の建物が、街灯にぼんやりと浮かび上がった。なんだかんだで二年のあいだくらしているアパートは、古くて狭くて、家賃の安さだけが取り柄みたいな建物だったけれど、オレはわりあい気にいっていた。契約更新もする気でいて、きっとこの先まだまだ世話になる。
 昔ながらの鍵を鍵穴に差しこんで、錆びついたドアノブを回す。玄関横のスイッチを押して電気をつけると、がらんとした殺風景な部屋がオレを出迎えた。台所を隔てた一間にベッドを置いてあるだけの、かんたんな部屋。持ちこんだものは少なくて、部屋のようすはここに越して二年の時間を経た今もほとんど変化していなかった。
 靴箱の上に鍵を置いて部屋に入ると、ベッドに体を放り投げた。ぎしりとスプリングが軋んだ。ドラケンから譲られた簡易ベッドだった。そのほかに、三ツ谷が使っていた全身鏡、パーちんの実家にあったというローテーブル――無駄に厳かな模様が描かれている――があった。テーブルの上には、空のペットボトルが卒塔婆のように何本も立っていた。
 オレが出所した時、東卍の創設メンバーたちが協力してかき集めてくれた家具で部屋はできていて、体はそこにすぐに馴染んだ。
 うれしかった。オレを忘れないでいてくれたことが。十年の時間がオレの存在を溶かしてしまうのはかんたんなはずだっただろうに、みんなオレのことを憶えていて、受け入れてくれた。
 東卍がなくなって、マイキーが消えて、世界は変わっちまった。でも、ムショの中で背中を押した「死」から、オレはやっと遠ざかることができたと思った。
 枕に顔を沈めて、深く呼吸をする。染みついたたばこの匂い。いくら洗濯しても取れない匂いだ。
「……たしかに、賃貸でたばこ吸うのはよくねーかもな」
 千冬の嫌がる気持ちが理解できた。……オレも少しは大人になれたんだろうか。