ぜんぶあげる

 情欲に浮かされたまなざしがオレを刺して、堪らずに声を上げた。喉の奥で絡まり引きつった声は 「ひ」とも「い」とも聞き取れない音となってワンルームの床に落ちる。部屋は狭くって空気は濃厚に圧縮され、ベッドもシングルサイズで成人した男ふたりの体重を支えるにはあまりに心もとなかった。ベッドの骨組みが軋む音が悲鳴みたいに絶え間なく響いて、オレの低くけっしてうつくしくない喘ぎ声も隣室に、あるいは階下の部屋に、きっと聞こえているはずだった。
 ――ちょっと、もっと、ゆっくり、
 呼吸のあいまに一虎くんの激しい動きを嗜めようとして、キスで唇を塞がれる。繋がった状態でのくちづけは脳の奥をじん、と甘く痺れさせた。一虎くんはどうすればオレがとろとろになってしまうのか、あるときから知ってしまった。
 セックスしながらのキスは、やばい。熱い舌が口内を舐め、上顎をさすり、愛情表現というのはまったく上辺だけのことばでオレにはただ蹂躙されているようにしか感ぜられず、それが、どうしようもなくいけないのだった。
 マゾなのかも、と自らの性癖を危ぶむのだけれど、この際マゾでもなんでもよかった。オレが気持ちよくて一虎くんも気持ちよくて、それだけでもうふたりがセックスする理由には充分すぎた。
 快楽を求めて本能のままに貪りあうオレらはいかにも動物じみていて、なんだか滑稽にも思えた。
 舌を抜かれて入れ替わりに、奥を激しく突かれた。腰を押しつけてぐりぐりと内壁を抉ってくる一虎くんの、むき出しの背中に腕をまわす。ゆびさきを使って尖った肩甲骨をたどり、背骨をなぞった。肌はすべらかなのに背骨の盛り上がりの一つひとつは正しく硬く、ひんやりとしていた。爪は切ってやすりをかけたばかりで、触れたとて痛くはないはずだった。だのに彼は、「引っ掻くな、痛ぇから」とオレの耳もとで熱い息を吐いた。
 うそつけ、とオレは心の中でかえした。オレの耳たぶが一虎くんの声と吐息にすっかりやられてしまったのを、誰よりも彼が知っている。
「引っ掻いて、ない」
 掠れた声で、言う。うわ言というよりも、ガキがする言い訳のようにそれは頼りなく響いた。目を細くあけて、オレに覆い被さっている一虎くんの、必死げな顔を見上げた。うす暗がりの中で表情はよくわからない。けれど、こんだけベッドをギシギシ鳴かせて動いたらさぞ疲れてしんどいだろうと思う。背中をさすって、優しい力で撫でてやる。
 うざいだろうな、オレのこういうの。一虎くんはオレの気遣いを嫌悪する。キモいだのうざいだの散々な悪態をついて、厄介なものを相手にしたときのように、ひどく厭う。優しくされるのが、いやならしかった。そんなの、今さらではないかとオレは思うのだけれど。
 しつこく奥を穿ちながら、頬に、てのひらを宛てがった。頬を撫でる手は熱く汗に湿っていた。ちふゆ、と唇が動くのを、陰影の蠢きで、察する。オレは彼のてのひらに自分のそれを重ね、そのまま、手首を握りこんだ。あっ、と一虎くんが腕を引く前に、手首の内側にキスを落とす。ふるりと身を震わせたのがわかった。気持ちがいいのかと思って舌先で舐める。ちろちろと、啄む。皮ふはしょっぱい味がした。
「ここ舐められんの、すきなの?」
「……すきじゃねぇ」
 うそだ、と、今度はしっかりと声に出していた。一虎くんは不服げに、「うそじゃねー」と言った。苛立っているけれど、どこか甘さを孕んだ声に、オレは満たされる。
 オレの視線から逃れるように目を伏せ、一虎くんは性急に動いた。ガツガツと乱暴に突かれて、そのたびにうまれてくる声を、オレは喉奥でつぎつぎ殺す。
 彼が律動するあいだずっと、オレは一虎くんの手首で自分の口もとを覆っていた。ふ、とか、う、とか、あえなくもれてしまう声を、一虎くんの左手首が受け止めて、吸ってくれた。
 うすく、目をあける。目の前できん色の、長い前髪が揺れている。耳たぶに下がる鈴のピアスが、体の動きに合わせて涼しげな音を鳴らす。りん。りん。呼吸は徐々に浅く、早くなった。手首に走る血管がどくどくと、酸素を彼の全身に運んでいるのを触覚する。
 生っちろくてまっさらな手首に、オレはかみつきたかった。歯を立てて、傷をつけたかった。ひとつでもふたつでも。そこにあってもいいはずの傷がないことが、オレには不思議だったから。
 あ。一虎くんが小さく声をもらす、そのわずか数秒後にはオレの腹の上に吐精して、どろっとした白い体液がオレのへそに溜まった。
 繋がっていた部分が解放される。一虎くんは弛緩しきった体をオレの体に押しつけ、ぴったりと重ねる。それなりの力で、抱きしめる。オレは黙って彼の抱擁を受け、そのどさくさに、きつく掴んで唇に当てていた手首を、齧った。
いてっ、――ンだよ」
 一虎くんは舌打ちをした。けれどオレを抱くことはやめなかった。言ってることとやってることが違うぜと指摘しようとして、すぐ面倒になった。
 ぐちゃぐちゃになったシーツが背中に、汗や体液を吸って張りついて気持ちが悪かった。頭の中が重たく、ひどく眠たかった。眠っていい? とオレはきいた。彼の耳に、囁いた。答えがかえってくるよりはやくまぶたが落ちてきて、そのまま、オレは目をとじた。

 
 一虎くんと“そういう”関係になることを、オレも一虎くんも、どこかで期待していたのだと思う。そういう、というのは、キスしたりセックスしたりする、体の関係ということ。
 一回関係を持ってしまえば、男どうしということもあって、後腐れもなく続けられた。これが何回めの夜になるのか、いちいち数えることもとうにやめていた。お互いに、無意味だと悟ったから。
 目がさめたのは、たばこの匂いがしたためだった。視線の先で、淡いオレンジ色の光が一虎くんの横顔をふちどっていた。腹這いの状態で、両肘をシーツについて、彼はたばこを吸っていた。
 サイドテーブルに置いた間接照明は三〇〇円均一の店で買ったものらしかった。球形をしていて、値段のわりに快い光を放つ。調光は三段階で、今は光の加減をいちばん絞った明るさになっていた。それは一虎くんの気遣いに違いなかった。オレの睡眠を邪魔しないようにしてくれている、その優しさが、とても脆くてせつなかった。
「……たばこ、」
 低く掠れた声が出た。オレは手を伸ばして、たばこを求めた。一虎くんは煙を吐き出しつつ、「やんねーよ」と意地悪そうに笑った。セックスの最中はぜんぜん笑わないから、彼の笑みを見たのは、ひさしぶりな気がした。
「なんで。けち」
「もらいたばこなんてダセー」
 一虎くんの吸ってんのでいっスよ。しつこく、食い下がった。彼はため息をつくと、フィルターから唇を離して、オレの口もとにたばこを持ってきてくれた。咥えて、煙をちょっとだけ吸って、むせた。
「ダサ」
「ッ――、うるせぇよ」
 煙を吐き出すように、空咳をする。たばこなんてふだんは吸わない。でもセックスのあと、一虎くんが吸っているのを見ると、そのおいしくもないものがきゅうに恋しくなる。人の食べているものがおいしそうに見える心理と同じなのだろうか。
 オレはたばこを諦めると、枕を抱き寄せて頬を沈めた。一虎くんの匂いのする枕だった。彼のつかっているシャンプーとトリートメントの匂い。それから、香水の匂い。そしてたばこの匂い。
「寝たばこ、危ねぇっすよ」
 なにか言葉をかけたくて、適当に選んだものはそんなせりふで、一虎くんはばかにするように鼻を鳴らした。オレ自身、ばかなことを言ったな、と思った。オレはふたりのあいだにある沈黙を攪拌させたかっただけで、そんなお説教のどこにも、意味なんてないのだった。
 ふぅーっと煙を吐き出して、一虎くんは、短くなったたばこをサイドテーブルに置いている灰皿に押しつけて消した。後頭部で軽く結わえた髪の毛は乱れて、今にもヘアゴムからこぼれ落ちそうだった。オレはその髪に手を伸ばして、毛先に触れた。意外にも触り心地のいい髪をしていて、ゆびのすき間からさらさらと流れていく。
「一虎くんて、髪、けっこうちゃんとケアしてるんすね」
 さらさらしてて、気持ちいい。呟くと、一虎くんは右肘を倒し、腕枕をした。顔をこちらに向けて、まだかすかに濡れた目でオレを見た。
「ごわごわしてたら、なんか不潔っぽくてイヤじゃん」
 清潔感、大事なんだろ、接客業って。そう言って、口の端を、に、と持ち上げる。オレの経営するペットショップの店員として、彼もまた客を相手にする身のうえなのだった。さすがに勤務中はピアスを外させているけれど、髪の色や長さに制限はもうけていなかった。ただ唯一、清潔感は保っていてほしいと従業員には頼んでいた。一応、接客業なので。
「さっきは、ごめん。噛んで」
 一虎くんの髪を撫でながら、オレは謝った。一虎くんは息をもらして、痛かった、と大仰に顔を顰めた。
「そんな強く噛んでねぇよ」
「でも痛かった」
「……だから、ごめんって」
「オマエってヤってるとき、ちょいちょいなんかするよな。マゾっぽく見えっけどじつはサディストなん?」
「なんかってなんスか。あとサディストではないっス」
「サディスト“では”、て」
 愉快そうに、一虎くんは笑う。
「爪立てたり、噛みついたりさぁ。あとで痛ーんだよ風呂入っとき。ほら、こことかも痕できてるし」
 ほら、と見せられた左手首には、たしかにオレの歯形がくっきりとついていた。
 そんなに、彼に痛い思いをさせていたのだろうか。自覚をしていなかっただけで、思っていた以上に力をこめていたのかもしれない。
 彼に傷をつけたいと思った。それは否定できない。白い皮ふに刻まれた歯形を見て、心の底に安堵が広がるのをオレは感じていた。これがきっと正しいのだと、そう思ってしまった。
 一虎くんは――。口をひらきかけて、途中で、言葉がもつれた。
 ずっと、一虎くんの手首に傷がないことが、不思議だった。彼が死を思うくらいに追いつめられていたことをオレは知っていたから。
 再び出会い、顔を合わせるようになって、傷はおろか古い瘡蓋さえないきれいな手首を見た。オレはいつも、ひどく残酷な気持ちを持って彼を見つめていた。
 ――一虎くんは、死ねなかったんスね。
 幾度も、彼に言葉を投げかけようとした。あんなに死にたかったのにとうとう死ねなかった一虎くんが、生きて今目の前にいること。オレの隣にいて、ときどき、欲求を吐き出したくて熱を求めること。
「……ずっと前に、なんかの本で読んだんスけどね」
 オレはゆっくりとした調子で言葉を紡いだ。ふいに思いだしことがあった。うん? と一虎くんは瞬きをした。
「SMのSって、SavageのSらしいっスよ」
「なに、それ」
 真偽のほどはわからない話に、一虎くんはころころと笑った。彼はきっと単語の意味すらわかっていないのだ。のんきに笑う姿を見ていると、自然と気持ちが凪いだ。
 彼はオレの肩を引き寄せて、頬に頬を重ねた。オレも一虎くんの体を抱きしめ、額に、鼻の頭に、頬に、キスを落としていった。唇を合わせると、そのすき間から濡れた舌が出てきて、そっと差しこまれる。音を立てて唾液を絡ませあううちに、また体の奥が熱っぽくなっていく。手をまわして、一虎くんのヘアゴムを引っ張った。ぱら、と髪の毛がこぼれ落ちる。髪のあいだにゆびを入れて、かき混ぜる。きん色と黒色の混ざりあった彼の髪の毛は、細くてとてもきれいだ。

 
 しばらくのあいだ響いていたシャワーの音が止まる。細やかな水音は雨粒が屋根を叩く音に似ていて心地よく、瞼が重たくなるのを堪えるのに必死だった。時計は深夜の三時半を過ぎたところで、もはや早朝といってもいい時間かもしれなかった。
 二回めのセックスを貪って、果てると同時にオレは気を失ったらしい。ちょっとの時間だったようだけれど、目をさましたとき一虎くんは隣にいなかった。
 毛布に包まって眠っていたオレはのそのそとベッドを這い出て、床に落ちた下着を拾い上げて身につけた。部屋は暖房が効きすぎていて、暑いくらいだった。じっとりと汗ばんだ上にいろいろなものでべたついた体に、直接スウェットを着るのは、躊躇した。けれど、シャワーを浴びるまで裸で待っているのも妙だった。どうせ洗濯するんだし、まあいいか。仕方なく、パジャマ代わりにしているスウェットを着る。一虎くんの家に常備しているやつだった。彼の家にはオレの私物が、オレの家には彼の私物が、それぞれいくつかあった。パジャマだの、歯ブラシだのの細かい生活用品。お互いにお互いの家をあんまり行ったり来たりしているので、もはやどちらがどちらの家なのか、わからなくなりそうだった。
 浴室のドアがあいて、リビングに入ってきた一虎くんは上半身裸で肩にタオルを引っ掛け、髪の毛はすっかり濡れていた。オレの姿を見とめると、彼は息をもらした。
「あ、起きてる」
「起きました、さっき」
 髪の毛を拭いながら、一虎くんは冷蔵庫から水のペットボトルを取り出してオレに手渡してくれた。喉がカラカラだったので、ありがたかった。
「気絶してたよオマエ」
 知ってます。水を一気に半分ほど飲み、オレは言った。「起きたら隣にアンタがいなくて、ちょっとさみしかった」
「さみしかった?」一虎くんは鼻を鳴らした。「オレがいなくて?」
「うん」
 すなおに、頷く。目ざめたときの彼の不在が、空っぽの隣が、こんなにも胸をすうすうとつめたくさせるなんて思わなかった。
 そうか、と一虎くんは言った。ベッドに腰を下ろし、たばこを手にとった。
「ん」
「うん? なに」
「やる。一本だけな」
「ああ――、ドーモ」
 差し出されたくしゃくしゃのソフトケースから、たばこを一本引き抜いた。特段、今は吸いたいわけではなかったけれど、せっかくのご厚意だ。百円ライターで火をつけて、先にひと口吸った。肺に煙が流れると、やはり少しむせた。
「火ぃ、ちょうだい」
 一虎くんは顔を近づけて、オレの咥えているたばこの先端から火を浚った。呼吸の音が近づいて、すぐに離れる。それを、惜しいな、とオレは思う。さっきまで散々体をくっつけて、呼吸も体温も十分なくらいに混ぜあったのに。
「オレにさみしがられて、うれしいんスか?」
 揶揄するように言うと、ぶは、と一虎くんは笑いと煙を同時に吐いた。
「なんだそれ。ウケる」
「いやまじめな話。たばこ、くれるくらいにはうれしかったんじゃないっスか」
 髪の毛先からしずくが落ちて、シーツを濡らした。髪の毛、乾かしたほうがいっすよ、風邪ひくし。放置すると髪も傷むらしいっスよ。バイトの子が教えてくれました。あと湯冷めするからパジャマ着てください。一虎くんにかけたい言葉はつぎつぎあふれた。そのどれもを、でもオレは口にしないとわかっていた。こんなオレの優しさを、果たして彼はうざがる気しかしなかった。
「べつに。さみしーとかオマエが言うの似合わなさすぎて、ちょっと引いた」
「引いたんスか」
 それは、心外だった。
「はは。ま、いいじゃんなんだって。オマエはたばこ一本得したわけだし」
 もうやんねーけどな、と一虎くんは腕を伸ばして、サイドテーブルから灰皿を取り上げた。膝の上に置くと、とん、と灰を落とす。すんなりと細長いゆび。左手首の表面には、オレの噛んだ痕がまだ残っている。瘡蓋にも、みみず腫れにもなりそこねたそれは、朝が来てまた夜が来るころにはすっかりうすれてなくなるのだろう。
「場地さんは、」
 その人の名前があまりにもさらりと出てきて、オレは内心、驚いていた。視線をやると、一虎くんの表情は垂れた前髪に隠れて見えない。
「場地さんは、いつもペヤング半分コしてくれた」
 知ってるよ、と一虎くんはたばこを唇に挟み、こたえた。「アイツ、優しいから」
「一虎くんは、あんま、優しくないっスよね」
 こんな話をして、おかしみが湧いてくる。一虎くんは懐かしそうに頬をゆるめた。
「場地より優しくなんて、できねーよ」
「べつにそれでも、いっス。そん代わりオレが一虎くんに優しくするんで」
「はあ? いらねーよ」
 唇を歪めて、しんから嫌そうに、彼は言った。灰皿でたばこの火を消す。ぐ、と力を入れると、フィルターから先のわずかに残った白い部分が、折れた。
「場地さんなら一虎くんに、優しくするでしょ、ぜったい」
「オマエは場地じゃねーだろ」
「それはそうっスけど」
 誰も、誰かの代替にはなれない。そんなことはとっくに知っていた。なんなら中坊のころには気づいていた。一虎くんもオレも、だけどお互いがほんとうに欲しい人間ではない誰かのことを、既にこんなにも求めてしまっていた。
「オレはアンタのことがすきなんで」
 それでいいでしょ、とオレは言った。口の端を持ち上げて、うっそりと笑いかける。ずっとそっぽを向いていた顔が、視線だけこちらを向く。
「場地に、なんて言われるかな」
 ふいに、低い声で一虎くんは言った。こころぼそさの滲んだ声だった。
「なんてって?」
「へいきでオマエとヤっててさ。すかれたり優しくされたりして。こんなんゆるしてくれんのかな、アイツ」
「アンタのことなんか、ゆるしてますよ、とっくに」
 オレはほとんど吸わずに無駄にしてしまったたばこを灰皿に押しつけて捨てた。「あの人は、優しいから」
 うん、と一虎くんは頷いた。またひとつぶ、水滴が落ちた。オレは一虎くんの頭を抱き寄せて、頬と頬を合わせた。濡れた髪の毛がオレの顔に、くびすじに、張りつく。しずくがスウェットを濡らす。鼻を啜る音が聞こえた。泣いているのか、それとも寒いのか。裸の、無防備な体を抱きしめて、体温をわけ与えるように、一虎くんを包みこんだ。
 オレが場地さんだったらよかったのかな。そうしたらもっとじょうずにアンタを愛してやれたんだろうか。
 誰にも問うことのできない問いかけを、オレは自分の胸の中にそっと押し留めた。考えてもしようのないことだ。だって場地さんはもう、どこにもいないのだから。
 ワンルームの狭い部屋の空気が、青みを増してきていた。朝日が昇る瞬間を、今朝は見られるかもしれない。引かれた遮光カーテンの外側の世界を見たかった。けれど一虎くんから離れたくもなかった。もう少しだけ、こうしていたいと思った。朝日がもれるときまで、あともうちょっとだけ。
 夜じゅう抱きあって、重なって、それでもまだまだ欲しがって、オレらはなんて貪欲なんだって思う。でもそれはアンタもおなじだろうよ。みんな揃いも揃って欲張りで、しかたがない。
 ありがと、と声が聞こえた。一虎くんの口からこぼれたそれを、でもオレは聞こえなかったふりをした。また何度でも、彼がそう言えるように。それがオレだけにできる、わずかばかりの優しさだった。