はじめて一虎とキスをしたとき、押しつけられたうすい唇が思いのほか水っぽく湿っていて、千冬はひそかに驚いた。おんなのこみたいな唇っすね、とぼやくと、「オマエ、おんなとちゅーしたことあんの?」と、意地悪く笑われた。
 一虎の質問には答えず、やり返すように乱暴にくちづける。自分の唇はかさかさと乾燥していて、ささくれていることを知っていた。リップクリームを塗る習慣など千冬にはなかった。それは一虎もおそらくは同じだろうに、こんなにも皮ふ状態がちがうのは不思議だった。
 煌々と明るい照明のもとで交わしたキスは、それまでお互いに摂取していたアルコールの匂いが混ざり合い、ちっともロマンチックなものではなかった。それでも、誰かと唇を重ねた経験などない千冬にとって、一虎とのキスは充分に胸を締めつけた。
 自分じゃない人間の体温に触れて、味わって、匂いをかいで、汗ばんだ体はじっとりと熱くて、洗濯をしたばかりの白いシーツは散々に乱れた。
 千冬の目のふちから、生理的なものかわからない涙がこぼれた。頬を伝ったそれを一虎の舌が舐めとり、しょっぱい、と彼は呟いた。声が耳たぶに触れると、いっそう涙があふれてきて、千冬は困惑した。
 くしゃくしゃになったシーツの上で、ふたりはもつれあいながらやがて眠りに落ちた。

 相手のことを知るためには、それなりの時間を共有しなければならないんだな、と、千冬は傍らで目を閉じている男の横顔を見つめた。一虎のことを、まるではじめて知ったような心持ちだった。
 彼の唇が意外にやわらかくてうすいこと。セックスのあいだ、汗をあまりかかないこと(これは、今が冬だからかもしれない。夏はどうなのだろう)。最中に、ずっと手を握っていてくれること。
 一虎とは少年のころからのつきあいになるが、上司と部下という間柄とはいえ同じ職場で働き、家に招いたり招かれたりの関係が始まったのはここ一年ほどのことだった。ゆえに、共有している時間となると、まだ浅いと言えた。
 きれいに生え揃った睫毛が震えて、瞼が、そろそろと開かれる。一瞬さ迷った視線が千冬を捉え、一虎は眩しそうに瞬きをする。
「おはようございます、一虎くん」
 一虎は、んん、と喉の奥で唸り、枕に顔を埋めながら大きなあくびをした。
「……今、なん時」
「もうお昼っすよ」
 むき出しの一虎の肩に、そっと手を置く。汗のひいた肌はもう昨夜の熱を失い、平静な状態で、そこにあった。一虎は千冬の手の甲にてのひらを重ねた。指をつかって、するすると撫でられる。くすぐったい。――けれど、気持ちがよかった。
 まだ眠ぃ、とぐずる一虎は、千冬の手を撫でながらいつまでも枕から顔を上げない。
「起きてくださいよ。……シーツとか、洗濯しなきゃ、だから」
 一虎の手から逃れて、千冬はベッドからおりた。フローリングの床がはだしの足裏につめたかった。
 一虎に甘えられるのは、うれしくもあり、気まずくもあった。なにか悪いことをしているような気持ち。誰かに咎められているようで、けれどその「誰か」が誰かなど、知らない。
 いつか、彼とはそういうことになるのではないかと、千冬はうすく予感していた。だって、こんなにも近くにいる。職場が同じ、という程度の距離感ではなく、呆気なく一線を越えてしまえるような、どこか気安くてそしてひどく厄介な近しさ。
「ほら、一虎くん」
 タオルケットと毛布を同時にめくって、つめたい空気に一虎を晒した。彼はまだ裸だ。寒ぃじゃんバカ、と文句を垂れるのを無視して、ふたり分の匂いと汗を吸ったそれらを剥がしてしまう。
 一虎の裸体を見て、恥ずかしさが今さらになり千冬を襲った。顔が熱くなって、昨夜の出来事がビデオテープを巻き戻すように、思い返される。一虎の瞳の表面に映った自分の姿がフラッシュバックする。誰にも見せたことのない姿を見せて、誰にも聞かせたことのない声を聞かせた。
 恋をしてしまったらどうしよう。そのことを、千冬はひどく怖れた。もし彼に、恋をしてしまったら。
「ちふゆ」
 一虎の声が、広くもない部屋に甘ったるく響いた。そんな声で名前を呼ばないでくれ、と懇願したい気持ちで、千冬は「なんすか」とわざと素っ気なく返事をした。
 平たい腹をシーツにくっつけ、頬杖をついたていで千冬を見上げると、もうさあ、と一虎は言った。
「なかったことには、できねぇじゃん」
 一虎のまなざしはやわらかくて、とろとろと甘い。背筋が、ゾッとした。それは呪いの言葉に違いなかった。悪意などは、ないのかもしれなかったが。喉がからからに渇いて、唾液を二度、三度と飲みこんだ。
「あの、」
「ごめん」
 千冬の声を遮って、一虎は続けた。
「オマエのこと、オレ、とっくにすきだったから。だから、もう、手遅れ」
 耳の奥に流れこむ一虎の言葉が、容赦なく体じゅうを駆け抜けていった。
 違うのだ。昨夜は、酔っ払っていて。だから、ただのあやまちで――言い訳はいくらでも思い浮かべられたが、一虎に先を越されてしまっては、なにを言っても無駄だと悟った。
「て、おくれ」
 彼の言葉を、反芻する。口の中で、飴玉のようにころころと、それはたやすく転がった。噛み砕くことはできる、でも、溶けてなくなるまで舐めるしかない。一虎の声がそのように強請った。
「うん。もう、手遅れ」
 ごめん、と、ふたたび言われた。謝られても、こちらは困るだけだというのに。
「……シーツ、洗うんで」
 退いてください。言うと、一虎は存外すなおに体を起こして、すっかり伸びた髪の毛を掻き上げた。虎のタトゥーが描かれたくびすじに、細い髪の毛が流れる。その彼の姿があまりにもきれいで、千冬は恐怖を感じた。
 シーツを乱暴に引っ張って、マットレスから外す。ついでにぬくもったタオルケットも洗おうと思った。
 手遅れだと彼は言ったが、体温や匂いや汗といっしょに、すべてを水と洗剤が洗い流してくれたらよかった。
 シーツとタオルケットを両手に抱えて、洗面所に向かう。フローリングの床をぺたぺたと踏む。背中で、一虎のあくびの気配を聞く。
 とうに高いところに昇った太陽が、まるで春のような澄んだ光を降らせている。