あまいためいき

 セックスのとき、三ツ谷のしなやかな脚のつま先が、なにかを求め掴むようにきゅっとまるくなる。それを見とめると、八戒はたまらなくうれしくなる。果てる、その直前の一瞬間。三ツ谷のまるいつま先は、雄弁に、行為の心地好さを八戒に伝える。
 遮光カーテンを閉め切ったうす闇に包まれた部屋で、ふだんは見られない三ツ谷の姿を見るのも好きだった。涙に潤んだ瞳も、堪えようとしているのにもれ出てしまうあまい声も、お互いの汗と体液で湿った肌も、なにもかもが八戒の興奮を煽った。そして同時に、呼吸ができなくなるような胸の苦しさもおぼえた。
 思いきり抱きあって、求めあって、それでもまだまだ足りなくて、もっとたくさんが欲しくなってしまう自分の貪欲さに、驚くのだ。オレって、こんなに欲しがりだったっけ。くちを開けて、必死に酸素を求める三ツ谷の唇を吸い、舌を絡めながら、思う。とろとろに溶けてしまいそうなほど、全身があつい。
 セックスを介し快楽の交換をしていると見せかけて、その実、三ツ谷を苦しめているのではないかという漠然とした不安がにわかに襲ってきて、たかちゃん、と八戒は三ツ谷の瞳を覗きこんだ。たかちゃん、大丈夫? 痛くない? ね、しんどくない? 不安げに歪む八戒の顔を見上げて、三ツ谷は、いいから、と言うように手を伸ばす。その手は八戒の頬を撫で、こめかみを辿り、高校に入ってから伸ばしはじめた髪の毛先にふれる。そのまま頭を引き寄せられて、くちづけあう。三ツ谷のうすい唇は熱を帯びていて、舐めればほんのりと甘い。なんの味だろうと思ったけれど、それは味ではなくて三ツ谷の髪の毛から漂う彼の愛用するシャンプーの香りなのだった。
「……いー匂い」
 髪の毛に顔を埋めて、八戒は熱い息を吐く。三ツ谷の中に入った状態で、全身をゆっくりと前後に揺らした。接合部から響く水音が、耳を責める。色白の肌に滲んだ汗を舐めとって、しおからいその味に、たかちゃんの味だ、と思う自分は心底この人に溺れている。
 自分の体の下になって、声を抑えて喘ぐ三ツ谷のこめかみにキスを落とす。髪の毛を掻き上げると普段は見えない龍の刺青が覗き、その存在にかすかな嫉妬心が湧くのを、キスの雨をふらせることで誤魔化した。
「だいすき、たかちゃん」
 ねえ、だから、オレのものになってよ。喉もとにまで出かかった言葉は、三ツ谷からのくちづけによって遮られた。唇がふれた瞬間、背筋にあまい痺れが走り、八戒はあっけなく果ててしまった。

 全身の重たさを感じながら、ベッドに沈みこむ。ぼうっと天井を見上げていると、「たかちゃん」と八戒は三ツ谷の顔を上目で見つめた。そのまなざしはさながら主人のご機嫌を窺う大型犬のようだ。
「へいき? あと……どうだった?」
 遠慮がちに絞られた声音に、三ツ谷は露骨に眉を顰めた。顔を見られたくなくてそっぽを向きたかったけれど、そんなことをすれば八戒がひどく傷つくことを知っていたから、「へいき」と素っ気なく答えて、
「いちいち聞くなって、……わかってんだろ」
 あんなに散々、声を上げさせて。実際にくちにはしないけれど、三ツ谷の声音ですべてを察したらしい八戒は満足そうに笑って、三ツ谷の手を握ると自らの頬に押し当てた。くふふ、と、吐息とともに笑みがもれる。
「ごめん。かわいいね、たかちゃん」
「うっせ」
「……うん。ごめんね」
 セミダブルのベッドは、男子高校生ふたりが横たわるにはすこし窮屈ではあった。八戒は、しかし「タカちゃんといっぱいくっつけるから」と言って、自室のベッドでセックスをすることを好んだ。八戒は三ツ谷の体に抱きついて、三ツ谷は八戒の頬に手を添わせて、そうして互いの体温を感じながら、抱きあったあと特有の気だるさに身を任せている。
 八戒の肌はまだじゅうぶんに熱を宿していてあたたかかった。その熱をてのひらに這わせて、三ツ谷は、最中の彼の表情や声を、無意識のうちに思い返していた。
 熱っぽい瞳がこちらを覗きこむたび、顔を逸らして直視してしまわないように必死だった。「たかちゃん。こっち、見て」。八戒は三ツ谷の頬を掴み、やや乱暴に視線を絡ませた。視線を合わさった、と思ったつぎの瞬間には唇を吸われて、舌を差し入れられる。そのくり返しを、何度も、何度も。
 求められたら、拒めない。八戒の犬のような上目遣いに見つめられると、拒否する力が全身から抜けてゆくのだった。
「ね、たかちゃん」
 鎖骨に頬をすり寄せていた八戒が、甘ったるい声で言った。ん、と視線を下げると、八戒はいつものまなざしを三ツ谷に向けていた。
「も一回、したいんだけど」
「は?」三ツ谷は露骨に眉を顰めた。そして、すいっと視線を逸らす。「もー今日はだめ」
「えー?!」
「もう帰んなきゃだし」
 三ツ谷が上体を起こそうとするのを、八戒は腕を掴んで引き止める。
「たかちゃんち、今日お母さんいるってゆってたじゃん!」
 三ツ谷はため息をついて、八戒の額を人差し指で小突いた。
「ぜんぶおふくろ任せってわけにはいかねーだろ」
「そりゃ、そうだけどさ……」
 八戒の、こういうあまったれた子どもっぽさに苛立つと同時に、かわいいやつだな、と思ってしまう自分を三ツ谷は自覚している。オレが甘やかしすぎてるから、いつまで経ってもこいつはガキなのかもしれない。そう思うことさえあるし、おそらく実際に、そうなのだろう。だから、たまには厳しく扱ってやらないといけない。
「今日はもう帰る」
 はっきりとそう言って、ベッドを出た。
「たかちゃぁん……」
 床に脱ぎ散らかしていた下着や衣類をさっさと身につけていく三ツ谷を、八戒はベッドに寝転がったていで、恨めしげに見つめた。枕を抱きしめ、鼻まで埋める仕草はまるで駄々をこねる子どもそのものだ。八戒の視線を全身にちくちくと感じつつ、三ツ谷はジーンズにベルトを通した。
 ねえ、と八戒は両手を大きく広げた。
「帰るまえに、ぎゅってして」
「……女子か?」
 さすがに笑ってしまったけれど、三ツ谷はセーターを着こむと、ベッドサイドに近づいて体を屈めた。
「ん」
 八戒の長い腕が首に巻きつき、引っ張られる。やわらかくてあたたかな抱擁だった。このままベッドに引きずりこまれるかも、と思ったけれど、八戒は存外すなおに三ツ谷を解放した。
「ありがと」
「……ん」
 にかっと歯を見せて笑う八戒を見て、今生の別れというわけでもないのに、わずかに胸が痛んだ。このまま彼を置いて帰ってしまうことに、かすかな罪悪感が芽生える。
 こういうところが、きっとだめなんだろうけど。
 八戒から体を離し、彼の目を見下ろす。
 彼のすべては無自覚によるもので、その無自覚が三ツ谷をたびたび惑わせた。
 さみしそうな目を見せて、構ってやればころころと笑う。子どもなんだ、と思う。大寿がいなくなってからずいぶんとしっかりしてきたけれど、根っこの部分はまだまだ変わらない。おそらく一生変わらないのだろうそのあまくやわらかな部分が、けれど嫌いではないこともたしかだった。
「そんな目で見るなって」
 三ツ谷は苦笑しながら、右のてのひらで八戒の目もとを覆った。「その目で見られるとダメになる」。
 本音をこぼせば、目隠しをされた状態で八戒はおかしそうに笑った。
「じゃ、ダメんなっちゃおうよ」
 手に手を重ねて、そんなことを言う。三ツ谷はため息を吐いた。
「それはダメ」
 ふふ、と笑って、八戒は三ツ谷の手を離した。彼もまた、三ツ谷が自分の思いどおりにいく男ではないことを知っているのだった。そういうところが、余計に、三ツ谷をひとりじめしたい、ずっといっしょにいたいと思わせる要因でもあるのだけれど、あまりわがままを言って困らせたくもない。人の心はほんとうにむつかしく、複雑極まりないものだ。
「待って待ってたかちゃん。お見送るから」
 鞄を肩に斜めがけにしていよいよ部屋を出て行きそうな三ツ谷に声をかけて、八戒はベッドを出る。まだ下着も着けていない彼のすんなりとした体が、うす闇の中に淡い輪郭を描いた。
「べつにいいよ、寝てろって」
「んなわけにいかないよ」
 下着を着けて、スラックスを履き、シャツを羽織る。シャワーを浴びたかったけれど、そんな時間はない。オッケー、と指で丸印をつくって見せる。
「こんどはいっしょにシャワー浴びよ」
「……こんど、な」
「うん!」
 頷く八戒の頭を、三ツ谷は撫でた。こそばゆそうに身を捩る八戒を、やはり、どうしたって憎めない、と思う。このままいっしょにダメになるのもありかもしれない。そう思わせる無自覚の力が彼にはあって、その力に抗い続けられるか、三ツ谷はすこし、不安になるのだった。

 玄関を出ると外は日が落ちかけていて、夕日が西の方角を茜色に染めていた。
 指と指とを絡めて、ふたりは歩きはじめる。どこまでお見送るの、と問えば、たかちゃんちまで、と八戒は笑いながら言った。
「責任を持ってお見送ります」
「なんの責任だよ?」
「たかちゃんのいろんな顔見ちゃった責任?」
「アホか」
 くすくす笑い合いながら歩く、こんな平和な時間を愛おしいと思う。大きな子どもを相手にしているようで、でも、八戒がときおり見せるひどく大人びた表情や言動に、ぐらぐらと揺れる心があることも三ツ谷は知っている。
 指さきを伝う八戒の体温を離したくない、でも帰らなきゃいけない、まだ離したくない、帰らなきゃ――。
 三ツ谷は八戒の指を軽く握った。それに応えるように、八戒もまた彼の指を握りかえす。この応酬が果たしてなんの意味を持つのかなんて知らない。それでもそうする以外に術がなかった。複雑に絡まる感情を、互いに伝えあう術が。
「……いっそ、ダメになりてー、なんて」
 ぽつん、と呟いてみる。声は、けれど八戒には届かなかったようで、「なに?」と顔を覗きこまれた。三ツ谷は、なんでもない、と首をふった。
 空を見上げると藍色の夜空が広がっていた。いくつもの名前のわからない星が明滅しているのが見える。視線を足もとに落とし、タートルネックのセーターに顎の先を隠した。
 春のはじまりの清潔な空気に、かすかにあまい花の匂いを感じた。