夜が明けたら笑ってね

 冬の夜空はしんと透きとおっている。高い場所に昇った月を見上げて息を吐けば、吐息は瞬く間に白く濁った。十二月の空気は冷えきっていて、そのせいもあってか背中に押しつけられた体温がひどく熱く感じられた。
 すっかり酔い潰れた万次郎は、堅に背負われた状態で腹立たしいほどのんきな寝息を立てている。
 元東京卍會のメンバーによって開催された忘年会という名の飲み会で、万次郎はしたたかに飲んだ。普段はバイクレーサーとして節制している分、貴重なフリーの時間を楽しみたかったのだろうと、メカニックであり彼の相棒でもある堅は思っている。プロとはいえ、多少はハメを外す日が必要だ。
 潰れてテーブルに伏せってしまった万次郎をおんぶし、彼の分の会計も一緒に済ませて一次会で皆と解散した。万次郎は特別酒に強いわけではないし、放置して風邪でも引かれたら大ごとになる。
 一歩踏み出すたびに影が揺れる。当然だが、成人した男の体は重たい。中学のころなら余裕だった。今でも余裕といえばそうなのだが、中学時代の骨格と大人になった今の骨格はやはりちがう。背だって、あのころよりすこしは伸びた。
 背中にずっしりとくる重みを抱えなおして、この年になってもまだコイツの世話を焼いていることがおかしかった。
 ガキのころから一緒にいて、おそらくはこれからもずっと一緒にいるんだろう。そのあいだ、何回コイツをおぶるのだろうか。
「……けんちん、」
 くびすじに、湿った熱い息がかかった。わずかに首を傾けて視線を投げると、とろんと重たそうな瞼のすきまに覗く、万次郎の黒目とぶつかった。
「おう。起きたかよ」
 堅が笑いながら言うと、万次郎は頬を背中に押しつけて、「まだねてる」と言った。堅にだけ向ける、ひどく甘えた声で。
「おい。起きたんならテメーで歩けや」
「んー……、もうちょいねる……」
 寝起きにぐずるのは、子どものころから変わらない。堅は渋い顔をつくってみせたが、万次郎は一向に背中から降りるようすがない。むしろ余計に体重を預けてくるため、堅は仕方なく、惰性で歩きつづける。
 クリスマスが終わり、あとは年末に向かっていくだけの街は静かだった。あちらこちらで煌めいていたイルミネーションの類もほとんど片づけられ、正月を祝う準備さえ終盤を迎えていた。
 アーケードを抜けたらてきとうなところでタクシーを呼ぶか、と考えていた堅の首に、きつく、万次郎の腕が巻きついた。ケンチン、と呼ぶ万次郎の声はあいかわらず甘くて、息には濃いアルコールの匂いが混ざっていた。
 なんだよ、と振り向けば、へらりと脱力した笑顔が街灯に照らされた。
「ね〜ケーンチーン〜」
 ぐりぐりと頬をすり寄せてくるさまは、犬のような猫のような。
 何をどれくらい飲んだのかなんてわからない、ただ、飲み過ぎなことだけは明らかだった。
「オマエ……、こんなん撮られたらなに書かれっかわかんねーぞ」
「え〜べつになんでもいい〜」
「オマエがよくてもスポンサーどもがうるせーンだよ」
 トップオブマンジを支えるスポンサーふたりの渋面が、脳裏にチラついた。根も歯もない出来事をスキャンダル扱いされたら、どんな嫌味を言われるか。雑誌の記者だけではない。今の世の中、一般人によって簡単に、SNSで拡散することもできる。
 あのマイキーが酔っ払っておぶられてた! メカニックの龍宮寺に! などと写真付きで載せられたりしたら。
 面倒ごとはレースそのものにも響く。堅が最も鬱陶しく思うのはそこだった。
「誰も見てねーよ」
 二十三時を過ぎたアーケードには、飲屋街を過ぎたこともあって、万次郎と似たような酔っ払いか、やる気のなさそうな客引きがちらほらと見える程度だった。軒を連ねる店は一様にシャッターを下ろし、街灯が煌々とオレンジ色の光を放っていた。
「オレ、いつもケンチンにおんぶしてもらってんね」
 万次郎は顎を堅の肩に乗せて笑った。彼がしゃべるたび、空気がかすかに振動する。白い息がもわりと膨らみ、すぐに消えていく。
「自覚あんなら自分で歩け」
「ケンチンの歩くテンポって気持ちよくって眠くなんだよなあ」
 なんか電車みてぇ。そう言って万次郎は再び、顔を背中に埋めた。電車なんてほとんど乗らないくせに。
「人を乗りもん扱いすんな」
「……ケンチンさ、オレ以外のヤツおんぶすんの禁止な」
「ア?」
 くぐもった声が、耳のちかくで聞こえた。約束な、と。
「オレだけの、ケンチンの背中だかんな」
 甘ったれた子どもの言うようなせりふを、万次郎は、しかし真剣な声音で言った。背中にかかる重みが増した気がして、堅は彼を抱え直した。体の左右でぷらぷらと揺れる万次郎の足は、もう歩く意思を放棄したようだった。
「……ワガママ総長め」
「ん、知ってる」
 万次郎はくすくすと笑う。心底おかしそうに。
「でもケンチン、なんだかんだいつもオレのワガママにつきあってくれるし」
 そういうとこ、すきだよ。万次郎はひどく、とてもひどくちいさな声で言った。まるで秘密を打ち明けるかのようなか細い声は甘く響き、長いあいだ側にいて、はじめて聞くものだった。
 堅は立ち止まり、万次郎をふり返った。彼は顔を堅の背中に沈めた状態で、静かに呼吸をしていた。吐き出される熱い息が、くびすじにふれる。ぶ厚いダウンの上からでも、万次郎の高い体温は充分に感じられた。
「マイキー」
 顔を覗きこもうとして、ふいと逸らされた。しかし髪のすきまから覗く耳朶は、まっ赤に染まっている。
「……こっち見んな」
 ダウンに埋まり、こもった声で万次郎は言った。
「耳、まっ赤だぞ」
 堅は歩みを再開しながら呟いた。万次郎が顔を上げる。
「見んなってば!」
「もう見ちまったし」
 喉の奥で笑うと、万次郎は両足をじたばたと動かし、「ケンチンのバカ!」と言った。
「もう下りる!」
「今さら何言ってんだ。いーよ、もうタクシー拾うし」
「下りる! 下ろせってば!」
「っとにワガママな」
 堅は苦笑を洩らしつつ、背中で暴れはじめた万次郎を地面に下ろした。酔いは冷めきっていないようで、わずかに足もとがふらつく。手首を掴んで支えたとき、うすい皮ふの下で響く鼓動を触覚した。
「んな恥ずかしがることかよ」
 え、と万次郎は上目遣いで堅を見た。わかってるっつうの、と堅は親ゆびの先でこめかみを掻いた。
「オマエがオレをすきなことくらい、とっくに知ってらぁ」
「……自意識過剰」
「だってほんとのことだろ」
 そうだけどさ、と万次郎は唇を尖らせた。堅は両のてのひらで万次郎の赤い頬をつつんだ。視線が絡む。万次郎の印象的な黒目が、いまは真っすぐに堅を見つめている。
 ガキのころとは変わった外見。でも万次郎の目や眉や唇のかたちは、何も変わらずそのままで。
 そんな些細な部分を忘れられないくらい、万次郎を見てきた。“無敵のマイキー”を、ずっと見てきた。堅には、誰よりも彼の側にいたという自負があった。
 だからこれからも、側にいるのは自分で、彼をおんぶするのも自分だけであればいい。
「キスとか、する?」
 視線を逸らして、万次郎がぼそぼそと呟いた。
「してぇの?」
「うわぁ、いじわるだ」万次郎は口をへの字に曲げた。それから、こくん、と頷いた。
「したい」
 ん、と堅は喉の奥で返事をして、しずかに顔を寄せた。
 軽い、ふれるだけのキスを万次郎の唇に落とす。一瞬の出来事だった。すぐに離れていった堅の顔を、万次郎は見上げた。不満をあらわにした表情で。
「そんだけ?」
 堅は黙って、万次郎のコートの襟を立ててやる。赤くほてった顔が、襟によってじょうずに隠された。そうして、彼は万次郎の手を引いて歩きだした。知らず知らず早まる歩調に、万次郎が慌てて合わせる。
「ケンチン、もしかして照れてんの?」
「うっせ」
「照れてんだ。もうガキじゃねーのに」万次郎はくつくつと笑った。
 いつのまにか、手を繋ぎあってふたりは歩いていた。手を掴むようにしていたのに、万次郎が器用に動いてゆびどうしを絡めた。堅はそれをふり払わなかった。アルコールのためにいつもより高い体温が心地好くて、このままずっと、こうして歩いていくことができたなら、と考えた。
 アーケードを抜けて、広い国道に出る。雲のない夜空にちかちかと星の瞬きが見えた。澄んだ冬の夜空だ。
 堅は息を吸った。かじかむほどにつめたい空気が喉を通り、肺を満たした。
「歩いて帰っても、オレはいーけど」
 隣で、万次郎がそう言った。路肩に停められたタクシーの中で、運転手がこちらを見ていた。
 うん、と堅はあいまいに答えた。繋いだ手に力をこめる。あたたかい。
「……ケンチンの手ぇ、あったけぇ」
 万次郎がほほ笑む。やわらかくほどけた笑顔のどこにも、翳など見えなかった。