みなもに反射しては翻る、朝の光はどこまでもうつくしく透きとおっていた。寄せる波はおだやかで、裸足の足をひたひたと濡らしていく。
水は、まだひどくつめたい。
ひと気のない春先の海は凪いで、こんなにも早い朝の時間に、万次郎とふたりきりでいる奇妙さを堅は思った。
一晩を明かすつもりはなかった。いつものように、軽く夜の街を流したらそれぞれの家に帰るつもりでいた。それなのに、昨夜はどういうわけかそうしなかった。
夜通し愛機を走らせ、いつのまにか都会を抜けて海岸沿いを通る太い国道に出た。どこかで引き返さなければ、と、頭の片隅の冷静な部分が堅に囁いたけれど、くちにはしなかった。黒々とした波を寄せる夜の海を右手に見ながら、先を走る万次郎の、ちいさな背中を追いかけた。
路肩にバイクを停めて、夜が、しらじらと明けてゆくのを並んで見た。海の向こうですこしずつ顔を覗かせる太陽は、次第にその光の質量を増していく。白とも金ともいえない、複雑な色をした光がふたりの頬を滑る。春の朝の、生まれたての光はやわらかい。絹のようなさらりとした感触のそれが、世界に満ちていくさまを肌に感じる。
くい、とジャケットの袖を引っ張られて視線を落とすと、万次郎が上目で堅を見つめていた。起こしに行けば朝はいつまでもベッドでぐずっている万次郎の、今朝の目はすっきりと覚めていて、黒目がちの瞳が朝日を反射して輝いている。
その目に吸いこまれるように、堅は身を屈めた。そっと触れるだけのキスを、たったの一回。それだけ。万次郎の唇はつめたくて、こちらの唇の熱を一瞬で奪っていった。かすかな吐息が皮ふを掠め、もっと、とねだられているのがわかったけれど、堅はやさしく彼を制した。歯止めが、効かなくなるから。視線でそう伝えると、万次郎は下唇を突き出して不満を表現する。その顔が可愛くて、やわらかな頬をゆびで軽く摘んだ。ふに、と餅にも大福にも似たやわらかい感触に、笑みがこぼれた。東京中の不良に恐れられている無敵のマイキー。そんな彼の、まだ充分にただしく幼い部分。
「おりてみようよ」
砂浜を指さして、万次郎は言った。日の光は先ほどより濃いものになっていた。寄せる波の音が耳に心地よい。堅は眉を寄せた。
「まだ寒ぃだろ」
「いいじゃん、ちょっとだけだからさ」
ね。甘ったれた顔をされたのでは、断れない。へいへい、と返事をしながら万次郎の手を取り、堅は砂浜へとつづく階段を下りようとした。
「ん、」
「ん?」
ふいに手を引っ張られ、進めていた歩みを止める。「なに、どした」。怪訝な表情をつくって問えば、万次郎は満面の笑みを浮かべて、
「ケンチン、なんでオレの手ぇ握ってんの?」
「……は?」
繋いだ手を上下に振り、おかしそうに、言った。そうしてはじめて、堅は無意識のうちに万次郎の手を取っていたことに気づいたのだ。途端に、顔が熱くなる。
「……いやなら、いい」
離そうとした手を、強く握り返される。「いやじゃない」。万次郎は心底うれしそうな笑みを湛えて、堅の腕に寄り添った。万次郎の体温はあたたかく、堅より幾分か高い。子ども体温ってやつ。そう思って、すぐに、いや、オレらはまだまだガキか、と思い直す。
中学二年生だった。まだ二輪の免許も取れない年齢だった。この春にやっと三年に進級し、でもまだ親の庇護下にいることがあたりまえの、幼い幼い彼らだった。
やわらかな頬を摘んだとき、自分より高い体温を感じたとき、万次郎を子どもだと思ったけれど、それは堅だっておなじだった。ただ、他の同級の子どもたちよりもずっと早く、大人になることを強いられただけで。
手を繋ぎ、肩を並べて階段をおりていく。ブーツの底で砂つぶが音を鳴らした。砂浜におりると万次郎は堅の手からするりと逃れて、おもむろにブーツを脱ぎはじめた。最初からそうすることを決めていたみたいだった。
「つめてぇぞ」
「いーの!」
堅の忠告も聞かず、万次郎は波打ち際に向かって走り出す。一歩を踏み出すたび、砂は万次郎の体重を受け止めて崩れ、沈む。ぱしゃんっ、と波の跳ねる音が聞こえた。
「うはっ、つめてー!」万次郎は顔をくしゃくしゃにして、はだしの足を海に浸した。
堅もブーツを脱いで、万次郎のそばへと歩いていく。捲り上げたズボンのすき間から肌にふれる風が心地よかった。万次郎とふたりきりで朝の海を訪れるのは、はじめてのことだった。
けっこう長く一緒にいるのに、はじめてのことがまだまだたくさんある。そう思うと、愉快な気分になった。
「マイキー」
声をかけて、ふり返った万次郎の顔は海から生まれた朝日を受けて、きらきらと輝いていた。
眩しさに、目を細める。
肩まで伸びた金色の髪の毛を光が縁取り、彼の輪郭をあいまいに滲ませた。この澄んだ空気の中に溶けていってしまうのではないか不安になるくらいに、万次郎はきれいだった。
近づいて、腕を伸ばす。堅の長い腕はあっという間に万次郎を捕まえて、胸に抱きこんだ。万次郎もまた、抵抗はしなかった。されるがまま、抱きしめられた状態で、うれしそうにくすくすと笑う。
波が寄せて、ふたりのむき出しの足を撫でた。つめたい。けれど、気持ちがいい。
季節のうつろう瞬間はいつもせつなくて、けれど泣くことはできなくて。だから万次郎も、堅も、泣くことを忘れたかのように日々を淡々と送った。
夏が終わり、秋が過ぎ、冬を迎えて、春が来た。
失ったものたちのことを思えば、胸が締めつけられて、呼吸が苦しい。だから、泣いていい、と堅は言いたかった。うまく泣けない万次郎に、もう、泣いていい、と。
それでも彼は泣かないのだろうと知っていた。頑なに前だけを見て、しっかりと未来を見据えて、生きていこうとしていた。彼はどうしようもなく強かった。
「歩こうよ」
促されて、抱いていた腕の力をゆるめた。手を繋ぎ直す。潮風に湿った手だった。
波打ち際を、肩を並べて歩いた。濡れた砂をぺたりぺたりと踏んで、そこにできる足跡は大きさがちがう。指摘すると、万次郎は唇を尖らせた。
「ケンチンの足が無駄にデケェんだよ」
そうして、真っすぐに前方を見つめる。
砂浜は果てしなく続くようだった。どこまで行くのか、ふたりは決めていなかった。行くことができるところまで。決めていたのは、ただそれだけだ。
大きさのちがう足跡は、つけた瞬間から波に飲まれてあっという間に消えた。