「腫れ、もうすっかり引いたな」
 ケンチンのゆびがオレの頸にふれて、入れたばかりの刺青をなぞった。黒い龍の刺青はケンチンや三ツ谷がこめかみに入れているものと同じ柄だ。
 東卍のアジトの一つである、マンションの一室。幹部連中しか入室を許していない部屋は夕がたと夜のあわいの中にあって、ほの暗い。ソファに深く座ったケンチンの膝の上に跨り、間接照明に濡れたその顔を無表情で見つめる。
「これで三人、おそろいだな」ケンチンはくちの端を持ち上げた。「そのときが来たら三人で心中だ」
 そんなつもりで入れたわけじゃない、と反論したかったが、言葉を尽くすより先に体が動いて、ケンチンのくちびるをくちびるで塞いだ。熱を移すように強く押しあて、ちう、と吸う。あたたかく湿ったくちびるだった。
 心を決めてしまえば、刺青を入れるのはたやすかった。馴染みの闇医者は淡々とオレの頸に針を落とし、ちいさな虫を一匹ずつ殺してゆくみたいに針の先を押しつけ、肌に色を入れていった。皮ふのうすい場所に入れたからしばらくのあいだは熱を持ち腫れぼったかったが、それも数日で治った。
 オレの頸に龍が宿った。それはもう、消すことのできない大きな傷だった。オレは生まれてはじめて、自分の体に傷をつけた。
 つ、とゆび先が龍の輪郭を辿る。ケンチンのゆびはぬるくて、そのぬるいゆびが昔は大好きだったことをおぼえている。昔は――ガキのころは、無邪気にケンチンの手に甘えていた。なにをするにもどこにいても、コイツの手を握って離さなかった。
「よく似合ってる」
 顔を離すと、唾液に濡れたくちびるを舐め、感情の読めない声でケンチンは言った。それが本音なんかじゃないことは知っていた。オレはなにも言わずにケンチンの手を払い、また乱暴なキスを落とす。くちびるの隙間を縫って舌を突き出し、咥内に侵入する。ケンチンは抵抗しなかった。どころか、オレをすんなりと受け入れて熱い舌を絡めてくる。
 オレの呼び出しに応じたときから、こうなることは知っていたのだろうと思う。ケンチンの気持ちを考えると胸の奥がざわつき、痛んで、そしてまだ痛みを感じるだけの人間らしさが自分の中にあることに、驚いた。
 背中にまわってきた手が、癇癪を起こした子をいなすようなやわさで、背骨を撫でた。
 泣きたくなるくらいの幸福感や、甘さが、かつてたしかにあったのに。一体いつからコイツの手に、すなおに甘えられなくなったんだろう。
 こんなふうにふれ合うことで、オレはたしかめようとしている。ケンチンの手を求めつづけていたころの自分の存在と、今もまだ、コイツの手を必要としている自分のことを。
 両の手でケンチンの頬を挟み、ちゅ、ちゅ、と何度も角度を変えてキスをした。ケンチンは真っすぐなまなざしでオレを見ていた。黒い瞳を見つめかえし、ケンチンの目の中に映りこむ自分の、空疎な黒目を睨んだ。
 ピアスも刺青も、ガキのころは興味がなかった。体に針を刺したり傷をつけたりする行為を、避けて生きてきたから。
 オレは自分のかたちを保っていたかった。オレがオレであるために、体のかたちを変えることはあってはならなかった。
 でももうオレは、“オレ”じゃない。だからオレはオレのかたちを変える。頸に入れた龍の刺青は、その覚悟のつもりだった。
「マイキー」
 掠れた声で、ケンチンがオレを呼ぶ。ガキのころと変わらない呼び名を、ガキのころと変わらない声色でくちにするから、オレはどうしていいのかわからなくなる。変わっていく自分と、変われない自分のはざまで、ぼうぜんと立ち竦んでいるみたいな心もとなさがあった。
「なんか、しゃべれよ」
 親ゆびがくちびるにふれた。唾液に濡れたゆび先がひかった。ん、とオレは喉の奥を鳴らす。唾を飲みこんで、膝から力を脱いた。すとん、とケンチンの脚のあいだに尻を落とした。
 ケンチンの肩に両腕を載せ、真正面から向き合う。
「なんか、って?」
 今さら、なにをしゃべれと言うのか、わからなかった。それで、そう言った。ケンチンは呆れたようにこめかみを人差しゆびで掻いた。オレとおそろいの、龍の刺青。
「ここに来てからオレ、オマエの声ぜんぜん聞いてねぇ」
 なんでなにも言わねんだよ、とケンチンは低い声で言った。怒っている、わけではなく、呆れてるんだ、とわかる。もしくは、飽きている、倦んでいる。オレとのこういう関わり方を、ケンチンはけっして歓迎していない。体だけ繋がっても、心はちっとも満たされなくて、ケンチンが部屋を出ていったあとはいつもさみしかった。求めているのはケンチンに違いないのに、なにかが決定的に欠けていた。昔と違って、心が、ぜんぜん重ならなかった。
「話題なんてなんでもいいだろ。きのうの夜なに食べた、とか」
「……わかんねぇよ」
 思考が濁る。だからまたキスを落として、心の中のもやもやをごまかす。そんな愚かなことを何度くり返したのか、もうわからない。
 言葉にしたいと思った。ぜんぶ、言葉にして伝えたかった。でも、無理だ、と悟った。言葉なんてものでオレの気持ちは伝えられない。言葉なんて儚くて頼りない。体で向き合ったほうが、簡単で、楽だった。
「もうなにもわかんねー」
 左手は頬に添えたまま、右手を、ケンチンのシャツの裾に滑りこませる。んぅ、とケンチンが喉奥で声を洩らした。臍のあたりにふれ、撫でさする。筋肉で凹凸のついた腹は無駄がなく、ひんやりとつめたい。
「嘘つけ」
 腹を弄るオレの髪に手を差し入れて、ケンチンは言った。「しゃべるのが面倒なだけだろ」
 オマエはオマエが思うほどなにも変わってねぇよ、とケンチンは言った。ただちょっと、無理をしすぎて疲れちまっただけで。しゃべるのが億劫になるくらい、くたくたになっちまっただけで。
「うるせぇよ」
 ケンチンの言葉が耳障りだった。黙らせようとしてまた顔を近づけたが、今度はケンチンの手のひらがオレの頬を挟んで、動きを制した。
「今度また、三ツ谷たちも誘って飲もうな」
 歯を見せて笑うケンチンに苛立った。“今度”なんてぜったいに来ないことをオレも、ケンチンも、知っていた。
 かつての仲間たちから距離を置こうとしているオレを、ケンチンは見抜いている。わかっているのなら、早くオレを止めてほしい。手を捕まえて離さないでいてほしい。ずっとずっと側にいてほしい。――たすけてほしい。オレの叫びは、でもだれにも届かなくて、オレの中の虚ろな穴に落ちて、反響する。それを、オレは一人きりで聞いている。
 オレはオレを失くしていく。これまであったはずのオレが、どんどんかたちを変えて、まるでべつのなにかになってゆく。それがケンチンの言った、修羅、というものなのかもしれない。
 ケンチンはオレを心から心配してくれている。手を、差し伸べようとしている。でも、その手を掴む勇気がないのは、オレ自身の心の弱さゆえだ。
 
 部屋じゅうが夜で満ちた。舌を絡めあう音だけがいやらしく響き、次第に熱くなっていく呼吸がそのあいまを縫ってこぼれてゆく。はだけたシャツは二の腕で引っかかり、邪魔だったが、完全に脱いでしまう時間が惜しかった。触ってほしい、と思った。ケンチンに、オレの体を思いきり、たくさん。そしてたしかめさせてほしかった。ふたりがちゃんと向き合って、愛し合っていた事実があったことを。
 むき出しになった逞しい胸板に手を当てると、手のひらにケンチンの鼓動を感じた。生きてるんだな、と思った。生きてる、心臓が動いてる。
 ケンチンもまた、オレの胸に手のひらを添わせた。
「マイキーの心臓、すげードキドキいってる」
 かわいい、とケンチンは言って、オレのくちびるに軽いキスをした。お遊びみたいなバードキスだった。違う、とオレはケンチンのくちびるに歯を立てた。ちがう、ちがうだろ。こんな、ガキのするみたいなキスじゃなくて、もっと乱暴なやつじゃないとだめなんだ。ちゃんと触れ、思い知らせてくれ、過去は事実だったって、オレに教えてくれよ。
 ケンチンの手首を掴み、オレの頸に導く。大きくて無骨な両手が、頸を捉える。
「ケンチン、」
 喉から出てきた声はあまりにも弱々しいものだった。
「ケンチン」
 どうしようもなくさみしくて、惨めで、救いがなかった。だから、ぜんぶをきょうここで終わりにしたかった。
 ケンチンの手に手を重ね、喉仏を押すように親指を当てる。殺せ、と、オレは言った。ここでオレを、殺して。
 さもないとオレ、いつかオマエのこと殺しちまう。
「ばか」
 ふっと息を洩らして、ケンチンは言った。
「泣くくらいならこんなこと、すんじゃねーよ」
 気がつけば頬を、熱い水が滑り落ちていた。つぎつぎに溢れてくる涙を、ケンチンが舌で舐めとる。涙が落ちるのをとめられず、手から力が脱けた。
 ぶらんっ、と両腕が力無く垂れる。オレの頸に添わせていた手をほどき、ケンチンは龍の刺青をまた一度、やさしく撫でた。
 オレは声を上げて泣いた。ガキがそうするように、ケンチンの胸に顔を押しつけて、わんわん泣いた。オレの涙でケンチンの胸が濡れ、しずくが滴った。
 オレの弱い部分があふれて、あふれて、止められなかった。うまく呼吸ができない。酸素を求めて大きく息を吸うが、何度やっても浅くしか酸素を取りこめなくて、パニックになった。そんなオレの背中を、ケンチンはとん、とん、と一定のリズムで叩いた。
 ひゅっ、ひゅっ、と音を鳴らして酸素を取りこもうとするオレは、生きようともがく浜に打ち上げられた魚のようで、滑稽だった。ばかみたいで笑える。泣きながら、自嘲の笑みをこぼした。
「……ばかみてぇ」
 呟くと、ああ、とケンチンは頷いて、オレの体を引き寄せ、抱きしめた。あたたかな体に包まれて、ようやく呼吸が落ちついてくる。涙と洟水と唾液でぐちゃぐちゃになった顔を、ケンチンの胸に委ねた。こんなにみっともない姿は誰にも見せたことがなかった。ケンチンだから、見せることができた。そしてこんなみっともない姿を見せるのは、これが最初で最後だ、と思った。
 ケンチンのくちびるが、オレのくびすじを這った。龍の刺青にキスをし、舌先でかたちをなぞるように舐める。軽く皮ふを吸われて、一瞬で離れた。一瞬の出来事だったが、刺青を入れたそこだけが、ケンチンのくちびるから熱をうつされたみたいに、熱かった。
「オマエが求めるなら、いつでも助けてやるから」
 だから、オマエはぜったいに大丈夫だから。
 オレの肩に顎を載せ、抱きしめながらそう言った。涙が、また、あふれた。
 ごめん、ケンチン。たくさんやさしくしてくれてうれしかった。
 ソファの下に横たえている日本刀の存在を、忘れてしまいたかった。ケンチンがぜんぶを知って、覚悟を決めてここに来たことも、何度もキスを交わしたことも、オレが過去を事実だったと思いたくて、ケンチンに甘えたことも、ぜんぶぜんぶ忘れて、記憶から消したかった。
 オレはケンチンを呼び出さなかったし、キスもセックスも強請らなかった。
 いつも通りの夜が来て、いつも通りの朝を迎える。
 事実にしたい虚構が脳裏を過って、その都合のよさに、自分の醜さに、呆れた。
「ケンチン、ごめん」
 ごめん、ごめん、ごめん、ケンチン、ごめんなあ。喉の奥から声があふれて、涙といっしょにぼろぼろと流れてゆく。わかってる、とケンチンは言った。わかってっから、ぜんぶ、大丈夫。
「しにたい、」
 そう呟いたオレのくちびるを、ケンチンは塞いだ。舌が侵入して、歯列をなぞり、口蓋を舐め上げる。舌と舌が絡まり、頭の芯がじん、と痺れた。
 ――ほんとうに、なんでこんなんになっちまったんだろうね。
 押しつけられるような乱暴なキスに、めまいさえ覚えた。オレの求めていたキスだった。
 ケンチンの前でたくさん泣いて、たくさん弱いところを見せちまった。だからもう、これでおしまいにしなきゃならない。
 呼吸を継ぐ間に、涙の溜まった目でケンチンを見つめた。まるであのころと変わらない、やさしい顔をしていた。
「なんでこんなんになっちまったんだろう」
 ケンチンの背中に腕をまわす。突き出た肩甲骨を強く、掴む。
「オレがオマエに、弱いとこを見せられるくらい、強かったらよかったのにね」
 これが最後だとわかってするキスはせつなくて、はじめてくちづけをした中学時代の記憶が甦った。真夏の夜だった。いまいるこの部屋みたいに快適な冷房設備のないケンチンの部屋で、オレらははじめてキスをした。
 そんなこともあった。たしかに、そんなことがあったんだった。
 ケンチンにしがみついて、その体の厚さとあたたかさを記憶に刻みこむ。
「ケンチン、愛してるよ」
 ごめんな、ずっとずっと愛してたよ。どこか遠くのほうで、ケンチンが何ごとかを言ったようだったが、聞こえなかった。でもそれでよかった。なにも聞こえない、なにも知らない、もう、なにもわからない。
 
 もう、ほんとうにこれで、おしまいだから。