昨夜殴りつけられた頬は、鏡を見たら青黒く腫れていた。痛みは感じない。指の先で触れるとかすかに熱を持っていて、その熱だけが殴られた「事実」を唯一鶴蝶に突きつけた。
 熱を冷ましてしまうのは惜しい気がしたが、顔を洗わないわけにはいかないのでつめたい水を両手に掬い、顔を沈めた。じいん、と痺れが走った。
 イザナはすぐに手を上げる。理由はないことのほうが多い。腹が減っていた、ペットのベタがそっぽを向いた、ただなんとなく苛々していた――強いて理由をつけるのならばそんなところで、まったくもって子どもじみていた。彼はかっこうばかり大きくなった子どもなのだと、イザナに殴られるたび鶴蝶は思う。握りしめた拳や振り上げられた脚が少しの手加減もなく鶴蝶の体に食いこんで、肉が凹み、息が止まる一瞬。癇癪を起こした子どもが泣き喚く姿をイザナに重ねる。愛してほしい。子どもはそう叫んでいた。愛して。愛して。愛して。オレを愛して。喉が切れて血が出てしまうのではないかと不安になるくらいの大声で、子どもは――イザナは訴える。
 だから鶴蝶はイザナの暴力を受け入れる。殴られ蹴られ踏みつけられても、その理由がどれほど理不尽であっても、イザナがそうしたいのならすきにさせた。それでイザナの癇癪がおさまり気が済むのならばいくらでも相手をした。――それ以外にイザナを宥められるすべを、年若い鶴蝶は知らなかったのだ。

 まだ寝室で眠っているイザナを起こさないよう、足音を殺してキッチンに立つ。どの窓も遮光カーテンがぴっちりと閉じられて、もう朝の七時を過ぎたというのに部屋全体はうす暗かった。
 キッチンの電灯をつけると手もとが白く発光した。冷蔵庫から食材を取り出して、鶴蝶はイザナのための朝食の支度を始める。ウインナーに十字の切り込みを入れて、溶いた卵液に砂糖と少しの塩を混ぜる。サラダ油を敷いて熱した卵焼き用のフラインパンに卵液を流しこんでくるくると巻き、同じ動作を三回くり返した。あっというまにふっくらと厚く膨らんだ卵焼きが出来上がる。卵焼きを皿に移し、ついでウインナーもフライパンで焼いていく。切り込みを入れた箇所に火が通ると、肉が捲れ上がってさながら蛸のような足ができた。
 そんな小細工いらねぇよ、とつめたくあしらわれてしまうのは目に見えていたが、つい余計なひと手間をかけてしまう。養護施設で暮らしていたとき、朝食にときどき出てくる蛸に似たかたちのウインナーを鶴蝶はひそかに好んでいた。素っ気ない給食にそのウインナーが添えられていると、ほんのわずかにだが食卓が華やいだから。
 当時もイザナは特に何の感慨もなかっただろうが、どうでもいいと一蹴されてしまうような手間ひまに幼い鶴蝶のこころが救われていたのはたしかだった。
「テメェのエゴを押しつけるんじゃねぇよ」
 イザナはしばしばそう言って鶴蝶を小突いた。その通りだと思うから、反論はしない。鶴蝶がイザナのためにしていることのすべては、イザナにとっては煩わしいエゴだった。そんなことはとうにわかっていたのだ。
「オマエはオレに言われたことだけしてりゃあいーんだよ」
 何度も投げつけられたイザナの声が耳の奥でくり返し響く。つめたい、怒りの感情を孕んだ声。すまない、とそのたび鶴蝶は謝った。
 ――でもオレは、オマエが安らげるためなら何だってしてやりたいから。
 喉もとまで出かかったことばは、音にはしない。いつも。
 食パンをトースターに入れると、つまみを回す前に寝室へ向かう。
 ドアを開けると、イザナを包んで膨らんだタオルケットが規則的に上下する影が見え、それが彼が今朝も生きていることを鶴蝶に教えた。すうすうとくり返される呼吸の音がかすかに聞こえて、つられて、胸の奥があたたかくなる。
 呼吸の気配を感じるだけで、イザナへの愛おしさで胸がいっぱいになった。それがおかしな、異常なことだとはちっとも思わない。オレにはこの人しかいないのだから。この人がオレの生きる意味と理由そのものだから。心も命も捧げている、なによりもたいせつな人なのだから。
「イザナ」
 届けるつもりのない声はひとりごととなって床にこぼれた。穏やかな寝息を立てて眠るイザナを起こしてしまうのが、にわかにかわいそうに思えたのだった。
 足音を忍ばせてベッドに近寄った。顎まで引き上げたタオルケットに包まれて、イザナは眠る。長いまつげがときおり震えるのは、なにか夢でも見ているのだろうか。夢の中までは鶴蝶も世話を焼きに行くことができないから、こういうときは現実世界のイザナの寝顔を、もどかしく見守るしかない。
 苦しい思いやかなしい思いをしていなければいい。夢の中でくらいはせめて、屈託なく笑っていてほしい。鶴蝶が願うのはいつもいつも、イザナの幸福についてだった。
 それにしても、この人はオレと共にいて幸せなのだろうか? ――不意に耳の奥で疑問が蠢いた。それはつめたい不安といっしょに背筋を登ってくる。
 とてもちいさな不安の種は、いつもこころのどこかに埋まっていて鶴蝶を苛んだ。芽吹く気配を感じる前にほじくり出してしまいたかったが、心優しい鶴蝶に、果たしてそれはむつかしかった。結局いつまでもこころの底に沈めて、不安な心地が去ってゆくのをじっと待つほかなかった。
 イザナの顔に自身の顔を近づけてみる。気配を察して起きるかと思ったが、イザナは変わらずに規則正しく寝息を立てている。ゆっくり、吐息を感じられるほどに距離を縮めて、唇に唇が触れる、というところで頬に鋭い熱が走り鶴蝶は身を引いた。
 目の前で星が散った。比喩ではない。視界いっぱいにまたたく星に驚いていると、
「このっ、ばか!」
 ベッドに横になっていたイザナが半身を起こし、寝起きとは思えない大声を上げた。
「テメェ、なに人の寝込み襲ってんだよ!」
「す、すまない、つい」
「なにが、つい、だ。ばぁか」
 イザナが深いため息をつきながら起き上がり脚をベッドの淵からおろしたとき、鶴蝶はようやく、彼に思いきり頬を張られたのだとわかった。左頬がじんじんと熱く痛む。それでも昨日拳で殴られた右頬より、平手打ちされたこちら側はまだ生やさしいものに感じられた。
 機嫌を損ねたようすで、イザナは足下に視線を落としている。前髪が額に落ちて、整った顔を半分隠した。
「イザナ、すまん。悪かった」
 無言のイザナを宥めようと、鶴蝶はくり返し謝罪する。
「寝顔見てたら、イザナに触れたくなっちまって」
「……変態」
「すまない」
 鶴蝶が正直になればなるほど、イザナは渋い顔をこしらえる。不快そうに眉を寄せて、唇を歪める。
 しかし、本音を伝えることは悪いことではないと鶴蝶は信じていた。特にこの、意地っ張りで扱いのむつかしい男とは、いつも本音で向き合いたかった。
 嘘ではない、ほんとうのことばを伝えたかったのだ。
「イザナ。オマエは、オレといて幸せか?」
 それで、先ほどうちがわで響いた不安をくちにしてみた。イザナは「アァ?」と、不愉快そうに言った。
「自惚れんなよ」
 鼻で笑い、続ける。
「下僕が王に仕えんのはあたりまえだろが」
 イザナは鶴蝶をつめたく見据えた。
「オマエはオレの言うとおりにしてりゃあいいんだよ」
 問いに答えるつもりはイザナにはなかった。おそらく、そんなことは考えたことすらないのだろう。
 彼からは何度も同じせりふを聞かされたはずだった。ああ、そうだ、そうだったな。鶴蝶は頷く。頬を緩めると、張られた頬がわずかに痛んだ。ここにある痛みも、熱も、イザナの心からの叫びだと思うとすべて愛しい。
 王と下僕。その主従関係は施設にいたころから変わらずに今も続き、もしこの関係が壊れたら、オレはもうイザナの側にはいられない。鶴蝶はそう思っていた。オレたちはずっと、このままでいい。このままでいたかった。
「朝メシ、できてるから」
 それだけ告げて部屋を出ようとしたそのとき、「おい」と背中に声を投げつけられた。ふり返ると、イザナは真っすぐな視線をこちらに向けていた。感情の読めない大きな瞳の中に、鶴蝶は自分の姿を見つける。うす暗い部屋の中、廊下の照明が筋となってイザナの体を斜めに渡っていた。
「オマエは、――」
 そこまで言ってイザナは息を吸い、唇を閉ざした。うん? と、鶴蝶は喉の奥で声をもらし、続きを待った。イザナは言葉を探すように中空を見つめ、やがて目を細めた。
「なんでもねぇ」
「どうした? 他になにか、気に障ったか?」
「……うっせぇな。いいよ、もう」
 イザナは深いため息をついて立ち上がる。すらりとした影が床に伸び、Tシャツにスウェットのズボンを履いた姿で鶴蝶の横を通り過ぎていく。自分より小柄な、華奢にさえ見える背中を鶴蝶は慌てて追いかけた。
 彼はなにを言いかけたのだろう。あまり自信のない想像力を必死に働かせたが、鶴蝶には答えを見つけられなかった。
 ダイニング・テーブルの椅子に腰を下ろしたイザナの前に、出来たばかりの朝食を置く。トーストにバターを塗ったものも、ほぼ同時に。
「……こんな小細工いらねぇつってんだろ」
 ぼそりとつぶやいて、イザナは蛸のかたちのウインナーにフォークを突き刺した。鶴蝶は苦笑いを浮かべる。
「施設にいたとき、たまにそういうの出てきてたろ」
「おぼえてねぇよそんなもん」
 ウィンナーを口に放りこんで、咀嚼する。くだらねぇと吐き捨てながら、用意された朝食をだらだらと食べ始めるイザナに鶴蝶はひそかに喜んだ。
 キッチンカウンターの向こうで、イザナの食事するようすを静かに眺めた。あまり見つめ過ぎると不機嫌になるから、使ったフライパンや皿を片づけながら、こっそりと、だ。
 横浜天竺の特攻服を着ていないイザナの姿は、どこか幼くて、見ているとなにかを思い出しそうな気持ちになった。それがなにかを考えたときにすぐ、幼少のころ共に施設で過ごした時間に辿り着いた。オレたちの国をつくる、と決めたあのころのこと。雪の日にかまくらの中で身を寄せ合って話しこんだこと。
 そのときに目の前にあったイザナの横顔が、今のイザナと、重なる。同じ人間なのだからあたりまえだが、おもかげというにはそれはあまりにも近すぎた。まるで十二歳のイザナが、そっくりそのまま目の前に現れたようだった。
「おい、鶴蝶」
 鋭い視線が向けられて、鶴蝶はコップを拭いていた手を止めた。イザナは背もたれに体を預けた行儀の悪い姿勢で、鶴蝶を睨みつけていた。
「どうした?」
 メシが不味かったのか、変なものでも入っていたのか。不安になってカウンターを回りこみ、イザナの側に寄る。イザナは目を眇めて、「オマエよぉ」と鶴蝶を見上げた。
「メシ、不味かったか?」
「オマエ、マジでガキのころのまんまだな」
「は?」
 思いがけないことばに、鶴蝶は頭の上に疑問符を浮かべる。その愚鈍な反応が気に食わなかったのか、イザナは余ったウィンナーにフォークを突き刺すと、おもむろに鶴蝶の顔に近づけた。
「食えよ」
「……なんで」
「いいから」
 仕方なくウィンナーを口に含む。油が舌の上に溢れて、次いで程よい塩気が口じゅうに広がった。
「うまいか?」
「……ああ、まあ」
 市販品だから、と意味のない言い訳をする。
「オレのためだとか言って、くだらねぇことばっかしやがって」
 歯で潰したウィンナーを飲みこんで、視線を皿に落としたイザナの横顔を鶴蝶は見た。まだカーテンを開けていない部屋の中、照明だけが淡いオレンジ色を放ちイザナの輪郭をなぞっていた。銀色の髪の毛が光を跳ね返して、ちかちかと瞬く。
「イザナのためならなんだってするさ」
 鶴蝶のことばに、ハッ、とイザナは笑った。
「それがオマエの幸せか?」
「ああ、そうだ」
 ためらいもなく答えてみせる。途端に、イザナの顔が歪む。
「オレはオマエのために生きてるから」
 イザナが求めているもの――たとえば、愛してほしいという渇きを、オレが癒せるわけでもないけれど。
「そのためならいくらでも殴られてやる、ってか」
「ああ。イザナが望むならそうする。そうさせてほしい」
「そうかよ」
 素っ気ない声音でイザナは言い、トーストの最後の切れ端を口の中に放った。小さな咀嚼音が沈黙を埋める。イザナのまなざしはテーブルの上の空になった皿に、未だ注がれていた。長いまつげが神経質そうに揺れ、鶴蝶はその微細な動きをじっと見つめた。
「オレはずっとオマエの側にいたいんだ」
 こころの中で、長いあいだあたためてきた思いを口にする。鶴蝶は静かに続けた。
「イザナの側にいられるならなんだってする。オマエに命を懸けてる。ずっといっしょにいたいから」
「ウゼェなあ、それも」
「すまん。でも、ウザくてもいい」
 イザナは口の端を持ち上げて鶴蝶を見上げた。「いい覚悟じゃん」と平らかな声音で言い、鶴蝶の胸倉に手を伸ばした。つよい力で引き寄せられて、にわかに顔が近づく。
「さすが、オレの下僕だよ」
 青紫色の瞳の中に、鶴蝶の顔が映りこんだ。鏡のようだと思った。
 唇と唇が重なる。咄嗟のことに体が強張ったが、胸倉をがっちりと掴まれていて動けなかった。獰猛ないきものが獲物に食らいつくのと同じ激しさで、イザナは鶴蝶の唇を食んだ。口の中に、かすかな血の味が広がった。
 ゆっくりと顔を離されて、見るとイザナの唇が赤く染まっていた。
「イザナ、血が出てる」
 慌てて指を唇に持っていったが、傷は見つけられない。イザナは、「オマエの血だよ」と笑い、人差し指で鶴蝶の唇をなぞった。絵の具のような鮮やかな赤色が、指のひらについた。ちりちりとした痺れのような痛みを唇に感じたのは、そのときだった。
 舌で舐めるとたしかに血の味がした。舌先で、わずかに切れている皮ふを探り当てる。鶴蝶はほっと息をついた。
「なんだオレか。よかった」
「……オマエさあ」
 イザナは呆れたようすで眉間に皺を寄せた。
「ん?」
「ああ、もういいや」
 ひらひらと右手を振って、離れるように促す。もう会話をする気はないようだった。
 おとなしく体を離し、ボックスティッシュを箱ごとイザナに手渡す。自らも一枚取って、唇から流れる血を拭いた。
 イザナとのキスはいつも、そのたびに必ず痛みを伴った。唇という、人間の器官でも鍛えようのないとりわけ弱い場所に、イザナは容赦なく傷をつけた。鶴蝶が他人と唇を触れ合わせたのはイザナがはじめてだったが、それはキスというよりただ唇に噛みつかれているといったほうが正しいしろものだった。
 血を含んだティッシュをキッチンのゴミ箱に捨てる。痛みは、けれどすぐに去ってゆく。彼が与えてくれる痛みならいつまででも抱いていたいと思うのに、少しすれば消えてなくなる儚さに、鶴蝶は不思議な心地をおぼえる。
「……イザナ、コーヒーでも飲むか?」
 鶴蝶は頬をゆるめて問う。イザナがかすかに頷くのを確認して、ドリップポットに浄水を注いだ。
 コンロが湯を沸かすあたたかい音で部屋が満ちていった。揺れる空気のあわいには、イザナの気配が混ざっている。オレばかりが満たされていると鶴蝶は思う。イザナにしてやれることがなにもなくて、満たしてやることもできないのなら、彼の望むとおりにすることでしか隣にはいられない。
「鶴蝶」
 低い声で呼びかけられ、顔を上げた。視線をテーブルに落としたまま、イザナは唇を動かした。
「オマエは、どこにも行くなよ」
 そうして、背もたれに背中を深く預けた。天を仰ぐイザナののどぼとけが上下する。唇に残った血を舐めとったのだと、鶴蝶にはわかった。
 ポットがしゅんしゅんと鳴き始める中、鶴蝶はイザナのことばを脳裡でゆっくりと反芻させた。答えははなから決まっていて、それをそのまま唇から押し出した。
「あたりまえだ」
 朝の冷えた空気が少しずつぬくもりを帯びてきていた。頬にあたる蒸気が心地好かった。
 インスタントコーヒーの瓶を手に取り蓋を開けると、思いがけず軽やかな音が部屋に響いた。



(24.1010)