顔を押しつけた枕からはひなたの匂いがした。それに混ざって今ではもう嗅ぎ慣れた千冬の匂いも。三十手前の男が放つ匂いなんてよいものでもないはずなのに、少しもいやな気分にならないのは惚れた弱みだろうか。それとも単に気持ちが弱っているから? ひと肌恋しいだけ? 熱っぽい頭は朦朧としていて思考はまるでさだまらない。重たい体を守るようにぎゅっと丸めて枕を抱きしめると、額に貼られた熱冷ましシートがずれて、メントールの香が鼻の奥をツン、と突いた。
夏風邪はばかが引くって言いますよね。出勤前の千冬に言われた言葉が記憶の水面を浚う。生ぬるい手で額に触れながら、真剣な表情でそんなことを言ったので一虎はどう反応するのが最適かわからなくなった。朝起きた瞬間から、だるい、頭が痛い、と訴える一虎に熱を測らせると、37.8℃の表示だった。風邪ですね、と千冬は体温計の数字を見つめ、そうして、先ほどの言葉をつぶやいたのだった。
「なんでそんないじわる言うんだよ」
「いじわるて、アンタ」
ばか、だなんて。ひどすぎる。ワイシャツを着た千冬を、ベッドに横たわった状態で一虎は見上げた。恨めしげな目で。そんなつもりはなかったのに、声は掠れてひどくか細かった。
「病人には優しくするもんだろぉ」
風邪なんて滅多にひかないから、こんな非日常な状態に陥ると途端にメンタルが崩壊する。ただでさえ脆い精神の持ち主なのだ。夏掛けに包まってぐずる一虎の側に寄って、千冬は額にかかった前髪を払ってやる。
「どっかで中抜けしてようす見に来ますから。今日はゆっくり休んでてください」
「……ん」
病欠することへのすまなさはあったけれど、千冬のてのひらの柔さがささくれていた心をわずかに均した。迷惑かけてごめん、と言おうとした一虎の喉から痰の絡んだ咳が出る。シーツに口を押し当て苦しげな咳をする一虎の背中を、千冬の手がさすった。
ばか、と言われたのはショックだったけれど、なんだかんだ言って千冬は優しい。それは風邪をひいている状態に限らないことを一虎は知っているから、つい甘えて、千冬を乞うてしまう。
「はやく帰ってきて」
はいはい、と一虎の頭をひとつ撫でて、千冬は立ち上がる。気をつけて。無理に動かないように。水分ちゃんと摂ってくださいね。できれば食事も、食べられる分だけでいいんで食べて。親が子に言い聞かすような注意事項をつらつらと述べて、千冬は部屋を出ていった。
玄関のドアが閉まると、途端にあたりは静寂に満ちる。喉奥でぜいぜいと掠れた呼吸がもれ出、息苦しさにサイドテーブルに置かれたペットボトルを手に取った。マスカット味のスポーツドリンクはするすると喉を滑り落ちていった。そこでようやく、一虎は喉がカラカラに乾いていたことを知った。
ベッドに丸まり、枕に頬を預けた。ひなたと、千冬の匂いが交互に鼻を掠めた。早く帰ってきて、なんて、ずいぶん甘ったるい、めんどうなことを言ってしまった。自分の発言をふり返って、一虎はうっそりと後悔する。千冬は呆れたかな。さすがにうざかったかな。ふと不安になったけれど、こっちは体調不良なのだから仕方がない、と自分を納得させる。今日の店のシフトはバイトの子がふたりいたはずだから、オレがいなくってもどうにでもなる。でも、千冬はオレのようすを見に中抜けすると言った。余計な迷惑をかけちまうな。ため息を一つ、吐き出す。
滲んだ罪悪感は次第に頭の片隅へと追いやられてゆき、解熱剤による眠けが一虎の全身をゆるやかに包んだ。ベッドに体重を任せて力を抜くと、意識はあっというまに夢の世界へと落ちていった。
ひんやりとしてやわらかな皮ふの感触があった。指のひらが頬を撫でる心地は気持ちがよかった。まぶたを押し上げると目の前に千冬の顔があり、一虎は咄嗟に、「ああ」と無防備な声を発した。
「どうっスか、具合は」
じっとりと汗ばんでいるくびすじに千冬はタオルを当てがってくれていた。ていねいな動作で滲んだ汗を拭い、優しく甘い声をかける。とろとろとした眠りのふちにいる一虎は覚醒しきらない頭で、千冬が今なぜここにいるのかを考えていた。
「……オマエ。店は」
「中抜けするって言ったでしょ?」
「あー、そっか」
そっか、とくり返せば口もとがどうしてかゆるんでしまう。なに笑ってんスかと千冬がくしゃくしゃになった髪の毛をさらにかき混ぜて乱した。一虎はその手を取って、唇に寄せる。匂いを嗅ぐ。ふたりで愛用している石鹸の、清潔な香り。すんすんと手の匂いを嗅いで、指の感触を楽しむと、心細さがうすれてゆく。
「大丈夫っスか? なんかメシ、食いました?」
しばらく一虎のすきにさせていた千冬はやがて周囲を見渡して、ペットボトルの中身が半分以上残っていること、食事をした気配がないことを素早く察知する。
「だるくて。眠ぃし、全然腹減らねえの」
「ちょっとでもなんか食わねぇと。とりあえずこれ、飲んで。飲めます?」
スポーツドリンクを掴んでキャップを捻る。のむ、と一虎は言ったけれど、上体を起こす気力もないらしかった。
「……やっぱオレ、店休んで一緒にいればよかったっスね」
しんどいのに、すんません。謝る千冬に一虎は首をふる。
「オレも、寝てたらすぐ良くなるって思ってたもん」
「これ以上つらくなる前に病院行きましょう」
一虎は「病院」という単語に露骨に顔を顰めた。
「ビョーイン、は、ヤだ」
「はいはい」
千冬は一虎の言葉を受け流しながらペットボトルに口をつける。中のスポーツドリンクを口内に含み、一虎に顔を近づけた。
唇が、なんの抵抗もなく触れ合う。かすかにひらいた唇のすきまから甘酸っぱいドリンクをそっと流しこむと、一虎は給餌される幼鳥のようにそれを受け取った。こくこくと喉が鳴ったのを確認してから、そうっと顔を離す。潤んだ瞳が千冬を見つめていた。もっと、と、その目が言っていた。千冬はもう一度、口移しでドリンクを飲ませてやる。一虎は片肘をついてわずかに体を持ち上げ、ドリンクを飲むのにいちばん具合のいい角度で千冬の唇を受けていた。それでも口に含みきれなかった水分は唇の端からあふれ、顎を、そしてくびすじを伝った。
タオルを当てていたからシーツを濡らすことはなかったけれど、スポーツドリンクの甘味料によって一虎のくびすじはベタベタになってしまった。
「な、もっと」
そんなことはお構いなしに水分をねだる一虎に、千冬は、「つぎはメシ。カロリー」と言って、足もとに置いていたコンビニのビニル袋の中を弄った。取り出されたのは、小ぢんまりとしたチョコレートケーキが二切れ並んだパックだった。
「……なんでケーキ?」
訝しげに首を傾けた一虎に、千冬は、「アンタ自分の誕生日も忘れたんスか?」と驚いてみせた。九月十六日――今日は一虎の誕生日で、千冬はこの日を祝おうと事前にプレゼントを用意し、ケーキ屋にバースデーケーキも予約していたのだ。
「夜に食べられなかったときのために、とりあえず買ってきたんスよ」
「え、わざわざ?」
一虎は目をぱちぱちと瞬かせた。まるで、信じられない、とでもいうように。千冬はバツの悪そうに唇を尖らせた。
「仕事だから夜しか時間取れねぇけど、どうしても祝いたかったんで」
こんな風邪っぴきの時に、あれっスけど。はにかむ千冬を見、チョコレートケーキを見、また千冬に視線を戻す。一虎はくしゃりと表情を崩して、顔を片手で覆った。くふっ、と口もとから笑みがこぼれる。
「……うれしい」
「そりゃあ、よかった」
ドーム状になっているケーキの蓋を開ける。店員が付けてくれたプラスティックのフォークでひとかけらを掬い、一虎の口もとに運ぼうとした。すると、一虎は背中をシーツにくっつけ、頭を枕に乗せて千冬を見上げた。
「この体勢じゃ食えねぇんだけど」
「……じゃ起きてくださいよ」
一虎はいたずらっ子のように目をほそめた。
「起きれねぇ」
意図を察した千冬は「しょうがねぇ人」とぼやきながらケーキのかけらを口に含んだ。そうして、寝た状態の一虎の口に、自らの唇を押し当てた。
軽くひらかれた口に、舌でケーキを入れてやる。やわらかなスポンジもとうに常温に戻ったチョコレートソースもすぐに崩れてかたちをなくし、一虎の舌の上でまたたくまに溶けていった。誤嚥の心配はなさそうだった。
「んー、んま」
「今時のコンビニスイーツ、ほんと侮れないっスよね」
「もっと食う」
「……いや、じゃあ起きろってば」
寝たまま「あ」と大口を開ける一虎に呆れながらも、千冬はふたたびケーキを口移しで食べさせてやる。もっと、もっと、とねだられて、喉仏の上下運動を何度も見守った。そうしているうち、やがてケーキはすべてなくなっていた。
千冬はほっとしてため息をついた。
「まあ食事ではないけど、とりあえず固形物を食べれてよかったっス」
口もとについたチョコレートソースを親指の先で拭い、一切れ余ったパックに蓋を被せる。散らばった諸々を片付けるため一虎に背中を向けた時、ぐい、とシャツの裾が引っ張られた。
ふり返る――それと同時に、唇と唇とが重なっていた。チョコレートの甘ったるい匂いで鼻口がいっぱいになり、丸くなった目の視野は一虎の顔で埋まった。
「ケーキ、すげー甘かった」
「……そりゃ、ケーキっスから」
「でもうまかった。ありがとな」
そう言って一虎は笑う。まだ顔は赤く、瞳は熱っぽく潤んでいた。
「そんだけ食欲あんなら夜は夜で、ケーキ屋のケーキっスからね」
「えぇえ〜、食えっかなあ」
一虎は肩を竦めたけれど、すぐに表情を崩し、
「でもまあ、また千冬に食わせてもらえばいっか」
「あんま甘えないでください」
っていうか全然、起きれんじゃんか。ツッコミそうになったけれど、まあ、誕生日だから。少しくらいのわがままは今日だけはゆるしてあげようじゃないか。
口の周りどころか、顔じゅうが、甘くて甘くてたまらなかった。キスをしてきた一虎の唇には、チョコレートソースがくっついていた。気づいていないようだからそのままにしておくか、ベッドに戻ったらきれいに舐めとってやるか――千冬は思案しながら、中身の少ない冷蔵庫を開けた。
(24.0917)
Happy Birthday,Kazutora!!