※フィリピン軸で死んだドラケンとマイキーが転生、再開したあとの短いおはなしです。
※ドラケンには過去の記憶があり、マイキーにはありません。
唇に唇でふれたあと、万次郎は吐息といっしょに「ケンチン」と声をこぼす。その水っぽく濡れた声に堅の心臓が音を立てて軋む。
万次郎は過去の彼とおなじまなざしで堅を見つめ、真っ黒な瞳の中に堅の姿を映した。細く開けた窓の隙間から、夏の終わりの夜の匂いが流れこんできた。その匂いに急き立てられるように、もう一度強くくちを吸う。今、彼にふれて、縋りついていなければ、もう二度と会えなくなる気がした。
終わってゆく夏は、いつもどこか死の気配を孕んでいた。例にもれず、今年も。
きつく堅の肩を掴んでいた万次郎の指が、体の輪郭をなぞり、肩甲骨を探り、背骨のほうへ伸びていく。万次郎のぬるい手のひらがシャツの下の肌を直に撫で、堅はぞくりとした。
「マイキー」
唇を離して、名前を呼ぶ。うす暗がりの中で、くふふ、と万次郎はちいさく笑った。
ケンチン。マイキー。あの頃と変わらない呼び名で、ふたりはお互いを呼びあう。堅と違い、過去の記憶のない万次郎にとって、“マイキー”という名前は現在の堅と自分との関係を確実なものとする、唯一の結び目だった。その結び目をほどくわけにはいかない、と堅は思う。もう二度と離れないし、離さない。この世界で再会して、最初に交わした約束だった。
何度もくちづけを交わしていると、体は自然と熱を帯びてくる。セミダブルのベッドは大人二人分の重みでくるしそうな声を上げ、不安定に揺れた。
「ねえケンチン」
ふいに万次郎が問うた。唇を寄せながら堅は、なんだよ、と答える。吐く息は次第に熱くなっていって、頬にふれるたび万次郎はくすぐったそうに身を捩った。
「オレらって、マエもこんなことしてた?」
過去の人生のことを、万次郎は“マエ”と表現する。マエは、どうだった? マエのオレは、イマとなにが違う? 問われるたびに、堅は、自分だけが過去を憶えているという事実に恐怖するのだった。
堅にとって記憶している過去は確かにあったものに違いないが、万次郎にしてみればまるで身に覚えのないもので、堅の話す内容を信じなければその過去は“ない”と同じことだ。
万次郎が信じてくれたから、かつての過去は、今の彼の中に“ある”。
頭を過った恐怖を誤魔化すように、万次郎の唇に指を這わせて、薄く開けさせる。従順にくちを開けて堅の指を招き入れた万次郎に、痺れるような甘ったるい欲が湧き出た。
「してたよ」
堅が答えると、指を甘噛みしながら万次郎は、ふうん、とくぐもった声を発した。前歯が何度も指を噛むのに抗するつもりで、口内に指を押しこむ。生温かくてやわらかな舌の感触が堅の指を包んだ。
指先をゆるゆると動かすと唾液が、くちの端からこぼれる。それを舌で舐めとって、そのまま、耳たぶを食んだ。
万次郎の体が僅かにふるえた。彼は耳が弱い。“マエ”もそうだった。耳たぶを舐めたり吸ったり執拗にいじって、万次郎の反応を見るのが堅は好きだった。逃げるように頭を動かして、万次郎は「こそばい」と言った。
「気持ちい、のまちがいじゃね」
耳の輪郭を舌でなぞる。肩が小刻みにふるえている。待って、ちょっと待って。笑いながら言う万次郎に、待たねえ、と返して、万次郎のシャツの裾から手を差し入れた。火照った肌を手のひらで撫で、円を描くようにくすぐる。
うすい腹には、けれどしっかり筋肉がついていて、触れば自然と過去を思いださせた。マイキーの言うところの“マエ”でも、オレらはこんなふうに何度も何度も、キスをしたりふれ合ったりしていた。
マエも、イマも、オレらはすこしも変わらない。名前を呼び合って、笑い合って、キスしたりふれ合ったりして、お互いの存在がちゃんと目の前に在ることを確かめた。
今も、確かめている。彼の体がここに在ることを。指や手のひらや唇で、もう二度と逃さないように、必死に縋りついて、離れたりしないように。
「マイキー」
もう呼べないと思っていた名前を呼ぶ。涙が出そうだった。この現実が神様の、気まぐれないたずらであっても構わなかった。今、万次郎に触ることのできている事実がただ尊かった。
「オレはね、ケンチン」
暗がりに、万次郎の黒い眼が穴のように開いていた。潤んだ目が堅を見つめる。
「ケンチンが話してくれたマエの話のこと、全然なンにも憶えてねえけどさ」
「……ん」
万次郎は額を、堅の額に近づけた。こつん、と重なった額に、互いの汗を感じた。
「それはほんと、ごめんだけど。でもねオレは、今のケンチンを愛してる」
ちゃんと愛しているから。万次郎は目を細め、そう言った。
「うん」
「逃げないし、絶対にいなくならない。だから大丈夫だ」
「……うん」
額と額を合わせたまま動けずにいる堅の唇を、万次郎は静かに塞いだ。約束。そう彼は呟いた。
窓の向こうで、細く、雨の降り出す音が聞こえた。蒸し暑い空気が一瞬だけ流れこみ、二の腕を滑っていったが、空気はすぐに冷却された。つい数日前まで雨が降ると、途端に蒸して仕方がなかったというのに。
夏は、こうしてすこしずつその輪郭を失くしていくのだ。
万次郎のくびすじに浮かんだ汗の玉を指のひらで掬って、堅は彼の体を抱きしめた。今を生きて、目の前にいる万次郎の存在ぜんぶを肯定するように、強くつよく抱いた。
「愛してる」
うん、と堅の腕の中で万次郎は頷いた。声が体の深いところにまで落ちて、響いた。
雨脚が強くなったのを、アスファルトを叩く音で知った。ふたりきりのうす暗い部屋に、雨粒の砕ける音が浸みていく。