ことん、と。なにかが肩に当たる感触がした。すぐにそれがタカちゃんの頭だってわかって、スマホに落としていた視線を持ち上げる。タカちゃんはオレの左肩にこめかみのあたりを凭せかけて、目を閉じていた。すうーっと細く長く息を吐く。そのためいきには疲労の色がじゅうぶんすぎるほど濃く詰まっていて、オレはタカちゃんの頭に手を伸ばしていた。ゆびのすき間をこぼれていく銀色の髪の毛が、間接照明のオレンジ色を受けて、きらきらときれいだった。
「お疲れさま。……仕事、終わったの?」
 オレが言うのに、タカちゃんは「んん」とうめき声を上げて、額をぐいぐいと肩に押しつけてくる。猫が頭を撫でろってねだるみたいな、そんなかわいい動きに、胸がきゅんとする。ふだんはぜったいに、タカちゃんはオレにこんなふうに甘えてくれない。きょうは、きょうだけはきっと特別だ。
「も少しかかる。いまはちょっと休憩」
「そうなんだ」
 大変だなあ、とオレは心の中で呟いた。くちにするといかにも他人事みたいに響くから、心の中でひっそりと思うだけ。
 デザイナーとして活躍しているタカちゃんの仕事量は、会いにくるたびにどんどん増えていっているみたいだった。前回会ったときも、夜に一回セックスしただけで、そのほかの時間はずっと机に向かって仕事をしていた。そのあいだオレは手持ち無沙汰だったけれど、滞在中はずっとタカちゃんのアトリエに居座って、かんたんな食事をつくったり掃除をしたりして過ごした。それはそれで楽しい時間だったのだけれど、やっぱりもっとタカちゃんとくっついていたかったというのが本音だった。
 フランスと日本を行ったり来たりの忙しない日常に、タカちゃんはオレにとって彩りで、ゆいいつの癒しの存在だった。誰だって、ひさしぶりに恋人と会えたら、いっぱい触れあって、いっしょにごはんを食べたり出かけたりしたい。オレだってそうだ。最近は特にオレも忙しくなって(うれしいことなのだけど)、そんな中でようやく取れた短い休暇なのだった。限られた時間内に、MPならぬTP(タカちゃんポイント)をいっぱい獲得しなければならない。
 スマホを床に置くと、すり寄ってくるタカちゃんの体をぎゅううと抱きしめた。愛用しているシャンプーが鼻先でほんのりと香る。すごくいい匂い。
「タカちゃんの髪、すげーいー匂い」
「ん。オマエがくれたフランス土産のやつ。めっちゃさらさらになっていい」
「使ってくれてんだ? うれしい」
 くしゃくしゃと髪の毛を撫でまわすと、タカちゃんは「やめろって」とくすぐったそうに身を捩る。疲れた顔に笑みが浮かんで、それにオレは、ほっとする。アトリエに来て三日、タカちゃんの笑顔をやっと拝めた。
「なあー、八戒」
「なぁに」
 あぐらを掻いたオレの脚のあいだに体を滑りこませて、タカちゃんはオレを見上げた。むかしからずっと大好きな、きれいなタカちゃんの目。そこにぼんやりとオレの顔が映っている。タカちゃんがオレを見つめてくれてるって思うだけで、心臓がぎゅっとしめつけられる。
 タカちゃんはちょっとだけ黙って、それから言った。
「たまにさ、こんなふうにオマエに甘えてもいいかな」
「え?」
 細く掠れた声でタカちゃんはそう言うと、すっ、と目をそらした。手の甲でくちもとを抑えている。え、なんて? と、言葉の意味をたしかめたくてオレは問う。タカちゃんは、でも目をそらしたまま、なにも言わない。赤くなっているタカちゃんの耳をなぞって、ゆび先でピアスに触れた。
「……そんなん、いいに決まってんじゃん」
 なにも考えずに、いつだって甘えてきてほしい。仕事で疲れ果てて限界になんないと甘えちゃいけない、なんて謎ルール、タカちゃんらしいといえばそうなのだけれど。
「ってゆうかさ、こーやってくっつくのに、理由なんていらなくない?」
 覆いかぶさるようにして、タカちゃんの体を思いっきり抱きしめる。大人になって、喧嘩をしなくなったタカちゃんの体は、筋肉はまだ残っているけれどむかしよりずっとずっと細い。その体を抱くと、シャンプーの匂いといっしょにタカちゃんそのものの匂いがして、泣きたいくらいにいとおしくなる。ほんとうに、すきだなあ、と思うのだ。どれだけ距離が離れてしまっても、いっしょにいられる時間が減ってしまっても、会えば抱きしめたいし、触れたくてしかたがない。
「だいすき、タカちゃん」
 子どもみたいな調子で言うと、タカちゃんのてのひらがオレの頭を撫でてくれた。あったかいてのひらだった。
「ん……サンキュ」
 頭の輪郭をなぞるようにして撫で、耳たぶを辿り、頬に触れる。オレたちはあたりまえみたいにキスをして、そうしてゆっくりと顔を離していった。タカちゃんは体を起こすと、オレの肩をぽん、と叩いた。
「仕事戻るわ」
「えー、もお?」
 わざと駄々を捏ねると、タカちゃんはくつくつと笑って、
「つづきはあとで、な」
 いたずらっ子みたいな表情をつくって、言った。その言葉に途端に顔がにやけてしまうオレは、だいぶ正直者なのだろう。
 チェストの上の置き時計を見ると、深夜の一時を過ぎていた。このまま、きょうも徹夜するんだろうか。
 そうだ、とオレは思った。夜が明けたら、コーヒーを淹れてあげよう。朝食は近所のパン屋さんに誘って、いっしょに焼きたてのパンを食べよう。バカだなあ、キザだなあ、と笑われるかもしれないけれど、今のオレにできることはできるだけしてあげたかった。
「先、寝てろよ」
 デスクに向かったタカちゃんがそう言ってくれたけれど、オレは首をふって、
「オレも起きてる」
 と、言った。「タカちゃんが寝るまで、起きて待ってる」と。
 タカちゃんは無言で、手を動かし始める。パソコンの液晶が煌々とひかって、タカちゃんの顔を青白く照らしていた。その顔にほんのりと、やさしい笑顔が浮かんでいるのをオレは見とめた。