ここにふれていたいよ

 もうずっと、幸福な夢の中にいるようだった。ベッドの中で身じろぐと、堅のぬるい肌がすぐ側にあった。むき出しの胸板に頬をすり寄せ、万次郎は満足げなため息を吐き出す。
 喧嘩ばかりしていたころに比べればいくらか筋肉は落ちたが、堅の体はまだ十分に現役を思わせた。その体に抱かれると、かつて暴走と喧嘩に明け暮れていた、青春時代を思いだす。きらきらして、いつまでも色褪せないうつくしい思い出たち。
 かなしいことだってたくさんあった、たくさん泣いた、でも、今はもうかなしくないから。
 昨夜、思いきり堅とふれ合っているとき、なぜかあのころの記憶が脳裏を過ぎった。鼻の奥がつん、として、あ、と思ったときには涙があふれて止まらなくなった。堅は驚いて動きをやめたが、その腕を引っ張って無理やりにキスをした。クリームの味のする甘いくちびるだった。
 八月はかなしい思い出の多い月だったが、誕生日を祝われることで、そのかなしみに淡いひかりが差すのを感じた。まるでそこだけが日だまりのように、あたたかだった。
 八月という季節に兄貴が死んで、ずっと癒えなかった喪失感を、なにかで上書きするなんて一生できないけど。でも、わずかにでもそこにひかりが差すのなら、あたたかな日だまりができるのなら、オレはまだ生きていてもいいのかな、と思える。
 万次郎は昨夜の出来事をまどろみの中で反芻しながら、ふたたびの眠りに落ちていった。

 食器に水がぶつかって跳ねる音が聞こえ、意識が浮上した。重たい頭を持ち上げると、キッチンに立つ堅の後ろ姿が見えた。上背のある彼にキッチンの作業台は低く、やや猫背気味になって皿を洗っている。手の甲で目をこすりながら万次郎はあくびをした。
 ケンチン、と呟くと、水音に紛れて聞こえないと思っていたのに、堅はふり返って「おー」と言った。「やっと起きたか」
「うん。いま、何時?」
「もう昼だぞ」
 スマホを開いて時間を確認すると、十一時半を過ぎていた。うめき声を洩らしながらゆっくりと起き上がり、ベッドの上に座る。胸の深いところに、まだ幸福な時間が残り香のように漂っていた。鼻先を甘い香りが突いた。昨夜ふたりでわけ合って食べたケーキの匂いだった。堅は昨夜の食事の片づけをしてくれているようだった。かちゃ、かちゃ、と食器の洗う音が断続的に聞こえてくる。
 ふたりで暮らす部屋のあちこちに、幸せな時間がいまもまだ留まっていた。
「ケンチン、きて」
 重たい瞼を精いっぱい持ち上げて、堅に向かって両手を拡げる。堅は視線をこちらに投げた。
「いま、手ぇ離せねえから」
「いいからーはやくー」
 皿洗いなんてどうでもいいから、はやく、はやくきて。子どものように駄々をこねると、堅は仕方ないというようにため息をついて、水道の蛇口を閉めた。手を拭いてつけていたエプロンを外し定位置に引っ掛けると、万次郎の側に寄る。
「つかまえた」
 堅の大きな体を、万次郎は両腕で強く抱きしめた。額を鎖骨に押しつけて、ぎゅう、と音が鳴るほどに強く。
 万次郎の背中に堅の手のひらが添えられ、ぽん、ぽん、とやさしく撫でられる。まだシャツを着ていない裸の背中に、湿った手のひらがふれる。
 あったかい、と万次郎は思った。ケンチンの手ぇ、あったかい、ケンチン、大好き、大好き。
「だいすき」
 堅が喉の奥で笑うのがわかった。まるで、知ってる、というような笑みに、万次郎はくちびるを尖らせる。
「ケンチンもオレのことだいすきだろ」
「ああ」
「じゃ、ちゃんとそう言って」
 きょうのオレはいつものオレより面倒くさいな、と万次郎は自覚していた。しかし、堅に思いきり甘えたい気持ちが先走って、あふれて、止められない。堅は万次郎の背中を撫でながら、耳もとで、「大好きだ、万次郎」と言った。それで、万次郎はようやく彼を解放した。
「起きて早々なにやってんだか」
 呆れを滲ませた顔で、堅は笑った。「バカップルみてーじゃねぇか」。
「だってバカップルだろ? オレら」
 否定できなくて眉を顰めてみせる堅の手を、万次郎は握った。昨夜、オレをたくさん触ってくれた手。そう思うと体の芯がまた、熱を帯びてくるのを感じる。したいな、と思う。また、ケンチンとしたい。たくさん触って、たくさん触られたい。
 口もとについたケーキのクリームを堅が掬って、そのゆびを万次郎が無意識のうちに舐めた。きっかけはそれだけだった。堅のゆびをくちに含み、舌を動かした。甘いクリームといちごの甘酸っぱさを感じた。ゆびを舐め、手のひらに舌を移動させ、ちろちろと舌先でくすぐると堅の手のひらが万次郎の頬にふれた、その次の瞬間には、キスをしていた。
 万次郎は熱を溜めた目で堅を見つめる。幸福な夢の中にずっと揺蕩っていたいと思った。しかし、堅は万次郎の目を手のひらで覆って、
「そんな目で見んなって」
 笑いを含ませた声で、言った。「またヤリたくなんだろ」
「ヤっていいのに」
 ヤろうよ、ケンチン。懇願をするように訴えてくる万次郎の頭を撫で、
「とりあえず朝メシにしよーぜ。もう昼だけど」
 と、堅は言った。

 万次郎が顔を洗ってうがいをし、リビングに戻ってくると、シンクに溜まっていた皿はすっかり片づけられ、堅はインスタントコーヒーに湯を注いでいるところだった。
「ほら」
「ん。ありがと」
 差し出されたマグカップを受け取って、立ったまま、ひとくち飲む。牛乳と砂糖のたっぷり入った甘いカフェオレだった。
「メシ、すぐできっから。座って待ってな」
 ん、と頷いて、ダイニングテーブルの椅子に腰を落ち着ける。堅はエプロンをつけて、手際よく朝食の準備を進めていた。フライパンにサラダ油を熱し、ベーコンをカリカリに焼く。目玉焼きは一度軽く焼いてから、ひっくり返して黄身を潰す――万次郎は、この食べ方が好きなのだ――、目玉焼きに火を通しているあいだにトースターにトーストを入れてタイマーをセットする。
「ケンチン、手際いいね」
 すなおに感心すると、堅は顔を顰めた。
「そりゃ毎朝同じことやってりゃあな」
 一緒に暮らすようになって、食事の準備はもっぱら堅の役目だった。たまに万次郎も手伝うが、特に朝食は、朝に弱い万次郎には荷が重いらしく、これまで一度も一緒に作れたためしがない。それにそもそも、食事作りは器用で要領もよい堅のほうがじょうずなのだ。それを知っていたから、堅は無理に万次郎に頼まず、食べたいもののリクエストを聞くだけにしていた。
 出来上がったベーコンと目玉焼き、トーストを一つの皿にのせて万次郎の前に置く。はちみつトーストにハマっている万次郎のために、バターとはちみつも忘れない。
「あ、そうだ」堅は思いだしたように付け加えた。「きのうのケーキ、残ってっけど食べるか?」
 ケーキ。きのう、とうとう食べきれなかったケーキのことだ。万次郎が頷くのを見て、堅は冷蔵庫からラップをかけた皿を取り出す。
 誕生日にはぜったいホールケーキ、と万次郎はつねづね言っていたから、要望どおりいちごとクリームのたっぷりのったホールケーキにしたのに、まだ半分以上残っている。
「……きのう、ケーキ、ぜんぶ食べられなくてごめん」
 自分のぶんの食事を持ってテーブルについた堅に、万次郎はちいさな声で謝る。昨夜のことがふたたび鮮やかに蘇ってきて、万次郎はカフェオレを飲んだ。
 くちに含んだ堅のゆびの感触や味が、まだ残っている。堅も記憶に思い至ったらしく、視線をトーストに落とし、「いや」と首をふった。それから笑って、
「っつーかホールだし、もうガキじゃねんだからさすがに無理があるだろ?」
「んー……。でも、ガキのころは食べてた」
「ガキのころは、な」
 子どものころはなんでも、無限に食べられたのはたしかだった。ケーキ一ホールくらいぺろりと平らげられた。大人になっていつのまにか、甘いものを無尽蔵に食べられなくなったし、食べる機会も自然と減っていった。
「オレら、ひょっとして年とった?」
 万次郎のせりふに、堅は吹き出した。
「ひょっとしなくても年とったよ」
「マジかー。なんかちょっと、やだなー」
 バターとはちみつをたっぷり塗ったトーストを齧って、万次郎は不服そうな顔を歪めた。年をとると食べられなくなる、なんて、都市伝説かなにかかと思っていた。実際に自分が大人になってみて、でもそれが真実であることを知った。
「っていうかさあ、夕べはケンチンがさあ……」
 昨夜の堅のゆびは、ひどく甘かった。ごつごつとして固くて、節張っていて、皮が厚かった。軽く吸うと、甘さの奥からほのかなしょっぱさを感じられた。ケンチンの味だ、と万次郎は思った。
「なんだよ」
 意地悪な笑みを浮かべて、堅はベーコンを噛んだ。万次郎は頬が熱くなるのを感じた。
「……夕べは、ケンチンが悪い」
 そう、ケンチンが悪い。ケンチンがあんなことするから、ケーキを食べられなかった。
 責任転嫁だろうか。万次郎は、でも、堅が自分を見つめる目の熱っぽさや、ゆびを咥えたときになにも言わなかったことなどを思いだし、やっぱりケンチンのせいだ、と思い直す。
「どっちもどっちだろ」
 冷静な反駁に万次郎はくちびるを尖らせた。「オマエが先にオレのゆび食ったんだし」。
「じゃあさあ」
 気がつけばバターとはちみつでべたべたになってしまったゆびを、堅に向かって伸ばした。じゃあ、ほら。見せつけるように、手を開く。
「オレのゆび、ケンチンは食べたいと思わないのかよ?」
 もう高い場所にある太陽が、ひかりを室内に注いでいた。バターとはちみつの甘い匂いのする万次郎のゆびは、堅の目の前で煽情的にぬらぬらとひかった。堅は万次郎の、真剣な目を見つめる。その目がわずかに熱っぽく潤んでいるのは、寝起きだからだろうか。
 堅はひとくちだけ残ったトーストを皿に戻して、万次郎の手首を掴んだ。そして、ぱくり、と人差しゆびをくちに含んだ。
「あ、」
 万次郎が驚いて身を引こうとするのを制して、堅はくちの中で万次郎のゆびをいじった。ゆび先を、側面を、付け根を舐め、やさしく吸う。舌の先端をつかってくすぐれば、万次郎は喉を鳴らして唾を飲みこんだ。
「――ケンチンっ」
 万次郎が止めるのも聞かず、掴んでいた手首を引っ張り、手のひらと手首の皮ふに舌を這わせる。鳥肌が立ち、背筋になにかが這い上がってくる。
 あ、だめだ、と思ったとき、堅は万次郎の腕を離した。
「へ、え、」
「これ以上やるとまたケーキ食いっぱぐれる」
 呆然としている万次郎に向かってにやりとくちの端を持ち上げ、何事もなかったように堅はトーストの最後のひとかけらをくちに入れる。
「美味かった。ごちそーさん」
 そう言って、手のひらを合わせた。あまりのことに目を丸くさせていた万次郎は、ようやく我にかえって、「ケンチンっ」と叫んだ。顔が熱い。きっと堅から見ればまっ赤になっているのだろう。舐められた右手をどうすることもできなくて、空に漂わせるしかなかった。
「ちょっとさあ……、なんで煽んの? 信じらんねー」
「べつに煽ってねーよ」
 堅はコーヒーを飲んだ。「オマエのゆびが美味そうだっただけ」
「うわあ」
 万次郎は堪えきれずに吹き出した。くすくすと笑うと、胸の奥から甘いものがこみ上げてきた。昨夜の記憶――堅の手に、ゆびに、舌に、ふれられて、幸福をおぼえた甘くてぬるい記憶だった。
 ケンチン、と万次郎は言った。
「ゆびだけでいいの」
 唾液で濡れたゆびを、ふたたび堅に差し出す。昼すぎの濃いひかりがふたりのいるダイニングをあたためた。
 堅は深く長く息を吐き出し、
「オマエこそ煽んなって」
 手を伸ばして、ゆびとゆびを絡めた。万次郎のゆびの付け根を撫で、甲に浮き出た血管を辿る。そのこそばゆさに、万次郎はくしゃりと笑った。
「ケーキ、おやつに食べよ」
 そして、そう言った。うん、と堅は頷いた。ゆび同士をしっかりと絡めて、互いの熱を与え合うように、握りしめる。帯びた熱は発露されるときを待っているようだった。
 ふたりは互いに見つめあって、ゆったりとほほ笑んだ。テーブルの上で、半分残ったケーキのクリームが、少しずつ溶けはじめていた。