唇を重ねあわせるだけの行為が、こんなにも気持ちのよいものだと万次郎は今まで知らなかった。ただ、ふれあう。それだけのことなのに。十五年という短い人生で誰かとくちづけをしたことなどなかったから、堅とのそれは万次郎にとってはいつでも最初で最後の尊いものだった。
 堅の唇はふれると、季節によってその感触が変わる。夏は湿気をはらんで生ぬるく、秋が始まると水分が抜けてわずかにかさつく。その変化もなんだか面白くて、好きだった。
 ぬくもりを分けあうようなささやかなキスを、今日もくり返す。先にねだったのは万次郎だった。堅の服の裾を引っ張り、上目で訴えると、読んでいた雑誌を床に置いて堅は万次郎の唇に軽くふれる。ちょん、と触るだけの子どものようなそれが不満で、万次郎がキスをし返す。唇を押しつける、ひどく拙いものだ。うすい皮ふ越しに硬いものに当たり、堅の前歯だと察した。
 堅は万次郎の両肩に手を置いて、いなすような優しいキスを返して顔を離した。かすかなリップ音が響いた。
「……ケンチン、さあ」
 再び雑誌を手に取ってしまった堅に、万次郎は不服に顔を顰める。「なんで、そんなさ……」。
 あとの言葉が続かなくて俯くと、堅は雑誌に落としかけた視線を持ち上げて、ん、と喉の奥で声をこぼした。
「なんだよ」
 古い蛍光灯のあかりが、夜に沈んだ部屋全体の輪郭をくっきりと浮かび上がらせ、なに一つ誤魔化せるものなどなかった。吐き出したい言葉も、考えていることも、このあかりの元ではすべて暴かれると思った。万次郎は、だから堅の目を見つめて、「そんな、さあ」と言葉を声に乗せる。くちにしにくい恥ずかしい事柄もなにもかもぜんぶ、この蛍光灯のきついあかりのせいにして曝け出してしまえばよかった。
「そんなにキス、じょうずなの」
 そもそも堅は、慣れているような気がした。ふたりのあいだにある“恋”と呼ばれる現象に、堅はそっくり、馴染んでいるようだったのだ。それが、万次郎にはひどく歯痒い。自分はこんなにもいつもいっぱいいっぱいなのに、堅の余裕のあるさまが憎らしかった。愛しいのに憎らしい、そんなことがあることを、万次郎ははじめて知ったのだ。これが恋ってやつなのだろうか。
「ってゆうか、なんでケンチンはそんなに恋がうまいんだよ」
 つめの先で唇にふれ、ほんのりと熱を帯びていることに気がついて恥ずかしくなる。堅はちっともそんなふうには見えなくて、泰然としているのに。
 万次郎の言葉に、堅は、「恋がうまいってなんだよ」と笑った。雑誌をふたたび床に置く。今度は読みさしのページを開いて伏せず、しっかりと扉を閉めて。表紙を飾るうつくしく磨かれたバイクが、蛍光灯のあかりを反射してきらきらとまぶしい。
「ふてくされんな」
 ほら、と両手を広げられて、万次郎は下唇を尖らせたままその腕の中に滑りこんだ。ぎゅう、と堅の腕が万次郎の体ぜんぶを包む。あたたかかった。
 ほら、こーゆーとこ。と、万次郎は心の中でぼやいた。こーゆーとこ、ずるいんだってば。
「ケンチンの初恋って、いつ?」
 腕の中で目だけを持ち上げ、万次郎は問うた。堅はかすかに眉を動かした。
「なんで」
「だから。キスとか、そーゆーの、うまいから」
 恋に、慣れてるみたいだから。万次郎の声は低くこもって、堅の腕の中に響いた。
「そんなこたァねーだろ」
「うそ」
「うそじゃねーし」
「うそ。いつ? 初恋」
 堅は万次郎の背中を優しくさすってやりながら、「いま」、と口にした。
「いま、って、なに。いつ?」
「いまはいまだろ。いま」
 「いま」という言葉がゲシュタルト崩壊しそうで万次郎は軽く混乱したけれど、彼のいう“いま”が“いま、このとき”であると理解した途端、顔がたちまち赤くなるのがわかった。
「オレの初恋はオマエ」
「……うそ」
「うそじゃねーって」
 こんなことをさらりと言ってしまうあたりもまた、恋に慣れていると万次郎の感じる所以だった。
「ヒトを遊び人みてーにいうなよ」
「そうは思わねーけど」
 でも、となおも食い下がる万次郎を、堅は、しかたないといったようすで強く抱き寄せた。
「……ほら、これが証拠」
 頬を鎖骨に押し当てると、とくんとくんとたしかな生命の音が聞こえた。ひどく速く、高鳴っている。キスをしあうときにいつも万次郎の心臓がそうであるように、堅の心臓もまた、忙しない鼓動をくり返しているのだった。
「ケンチン」
 万次郎は上目遣いで堅の目を見つめた。かすかに濡れているような、熱っぽい目でもって堅は見つめ返す。
「心臓、めちゃくちゃ速い」
 にっと口の端を持ち上げると、堅はうるさそうに視線を逸らせた。彼の上気した頬を蛍光灯が容赦なく暴くのをみて、万次郎はますます気分をよくする。
「オレとおんなじじゃん」
「うっせ」
 頬を、耳を、堅の胸に押しつけて、彼の背中に腕をまわす。抱きしめると、いっそうつよい力で抱きしめ返された。この腕がオレ以外を抱いたことはないと、万次郎はそのときに確信した。Tシャツ越しの背中にふれるてのひらが、ほんのりと湿って熱かったから。そしてそのゆびさきが、万次郎の肩甲骨をためらいがちに探っているから。
 大人ぶってみせてるけど、ケンチンもオレとおなじくらいドキドキしてたんだ。そう思うと、さっきまで感じていた憎らしさが愛しさに変わる。憎らしいのに、ひどく愛しい。そんなこともあるんだなあ、と万次郎ははじめて知ったのだった。
 脈打つ心臓の音に耳を澄ませながら、目を閉じる。堅の心音は鼓膜に心地よく響いた。頭に堅の顎が乗せられた。体を寄せ、密着部分を広げると、堅の体温が優しい。
 このまま眠ってしまいたいと思った。抱き合ったまま目を閉じたら、あのタオルケットがなくても眠れる気がした。
 風俗店が入った雑居ビルの一室で、ふたりは一つの蛹のようにまるくなって、時間の流れる音の中をしずかに漂うのだった。