窓の向こうで、蝉が喚き散らしている。毎年夏が来て、蝉の声を聞くと、ああこいつらも必死なんだな、なんて、センチメンタルな気持ちになってすこしさみしい。
 とっくに食べ終わったアイスの棒を前歯で噛んでいると、木の味と、そこに染みこんだアイスの微かすぎる味がする。きょうはイチゴ。くち寂しくて噛んでいるだけだけど、みみっちい、とかあさんによく言われる。オレもそう思う。でもなんだか、癖になってしまって子どものころからずっとやめられない。
 夏休みは順調に過ぎてゆき、八月も終盤に差し掛かろうとしていた。協力して夏休みの宿題をする、という名目で場地さんとふたり、テーブルに向かっていたはずなのに、いつの間にかふたり揃ってダレて、漫画を読みはじめたら止まらなくなった。この一冊を読んだら再開しよう、と思うのだけど、それを十二回くらいくり返している。場地さんもおなじようで、オレの蔵書の『NANA』を夢中になって読んでる。
 寝転がっていた場地さんが、続きぃ、と言いながら上体を起こした。ぱさ、と長い黒髪が目の前で揺れた。
 宿題はちっとも進んでないけど、そんなことはもうほとんどどうでもよかった。オレは場地さんとこうして一緒に過ごせる時間が楽しかったし、うれしかったから。場地さんとおなじ空間にいて、他愛のない話をして、漫画を読んでごろごろして。
 外では蝉たちの声が喧しくて、太陽はギラギラと照りつけて、夏が最後の力を振り絞ってるみたいだった。
 千冬ぅ、と、本棚に向かっていた場地さんがとつぜん、ふり返った。
「なあこれ、なに?」
「え?」
 言われて、読んでいた漫画から顔を上げると、カサカサに乾いた半紙が場地さんの指に挟まれていて、そこには細い筆ペンで書かれた、見慣れた字が並んでいた。
 あ、とオレは声を洩らした。湿気を吸って、経過した時間を感じさせるペラい紙には、
 
 命名  松野 千冬

 かあさんの丸っこい癖字で、そう書かれている。年季が入って黄ばんでいるその半紙は、昔、押し入れを片づけていたときに見つけたものだった。きっとかあさんが、オレが生まれるってわかったときにでも書いたんだと思うと、捨てようにも捨てられず、ずっと本棚の隅っこに折り畳んでしまっていたのだ。
「かあさんが昔書いたやつっす、それ」
 命名書、ってやつっすよ。
 べつに、見られて困るものでもなかったので、すなおにそう言った。場地さんは「へえー」と興味深そうに息を洩らして、半紙をまじまじと眺めた。
「おまえこんなん取ってンだ。なんつーか律儀だなー」
「……いや、たまたま見つけただけっすよ」
 見られて困るものではない――とはいえ、場地さんにそう言われると途端に恥ずかしくなる。いちおう、オレらは不良で、一生けんめいツッパってるから、こんな、“思い出の品”みたいなのは場地さんは好きじゃないのかもしれなかった。そう思うと頬に血が上ってきて、「あんま、じっと見ないでください」と頼りない声で言った。
 オレの訴えを聞いても、場地さんは、でも半紙から目を離さない。かあさんの字は習字のお手本みたいにきれいじゃないし、命名の紙ってもっとおっきくて太い筆で堂々と書いてるイメージがあったから、ちっちゃくて、細い筆ペンで遠慮するみたいに書かれた「命名 松野 千冬」の文字がひどく弱っちいものに見えた。
「あの場地さん、それそんな、じっくり見るもんじゃないすよ」
 字、きれいじゃねえし。っていうかもう、捨てよっかなって思ってたんで。古いし、汚いし。捨てちゃってください、それ。
 もごもごと言い訳みたいに言いながらさりげなくゴミ箱を場持さんの側に押しやると、場地さんは、きょとんとした顔をして、言った。
「は、なんで?」
 なんで? って、ほんとうにオレの言うことの意味がわからなくて訊いてるみたいだった。
「え? なんで、って……」
「なんでだよ、捨てんなよ。せっかくかーちゃんが書いてくれたンだろ」
 ほら、と場地さんはオレに半紙を渡した。たくさんの皺の寄ったくしゃくしゃの半紙。
「もったいねージャン」
 そう言って場地さんは、漫画本の続きの巻を手に持ってオレの隣に座った。ふわ、と髪の毛が揺れて、かすかに場地さんの匂いがした。
「前から思ってたけどさあ」
 場地さんはオレの手もとを覗きこんだ。冷房はしっかり効いているのに、場地さんが隣にいるってだけで体感温度が二度くらい上がった気がする。さっきからずっとおなじ部屋でごろごろしてたくせに、今さらすぎて、恥ずかしがってる自分が逆に恥ずかしかった。
 オレの気持ちなんてすこしも知らないようすで、場地さんは、
「お前の名前って、いい名前だよな。“千冬”、って」
 と、言った。とつぜんそんなことを言われて、びっくりする。
「そ、っすか?」
 褒められたことが、でもうれしくて、むしろ女みたいな名前で嫌いだった、とは言わなかった。
「うん、いーじゃん。“千冬”って。冬ってなんか、カッケーし」
 八重歯を覗かせて場地さんは笑う。
「場地さんの名前のほうがカッケーすよ。こう、漢! って感じして」
「オレのなんてどこにでもいそうじゃんか」
 ケースケだぜ? もっとカッコいい名前つけろっての。笑いながら場地さんが言うので、つられてオレも笑った。
 半紙にふれると、かさり、と音が鳴る。もう十二年も経ってるから、当たり前だけどぼろぼろだ。自分から捨てなくても、このまま放置していても、自然と消えてなくなってしまいそうな気がした。
 あ、そうだ。場地さんは思い出したようにスクールバッグの中に手を突っこんだ。
「千冬、ってどんな意味あんだろ」
 ぶ厚い国語辞典を場地さんは毎日持ち歩いてる。もう留年れねぇからって言って。真っすぐで、真面目なんだ。場地さんのそういうとこも、オレは好きだった。
「ちふゆ、ちふゆ……」
 ち、のページを捲っていく場地さんを見つめながら、たぶん、“千冬”は載ってないと思いますよ、と言おうとしたけど、言えなくて、黙っていた。
 ちふゆ。ちふゆ。ちふゆ。……。
 くちの中で何度も名前を転がされると、ちょっと、いやかなり、こそばゆかった。こんなにたくさん自分の名前を場地さんが呼んでくれたのは初めてだった。ぼっと顔が熱くなって、リモコンを操作してこっそりクーラーの温度を一度下げた。
「ッンだよ。千冬、載ってねえじゃん!」
 バンっと勢いよく辞典を閉じて、場地さんは憤慨する。「役立たねえな、これ!」。床に放った辞典を受け取って、
「じゃ、千冬の、ち、を調べてみません? ち、ってか、千、か。せん」
「千?」
 せ、のページを開くと、目当ての単語はすぐに見つかった。千。せん。数の名。百の十倍。また、転じて、数の多いこと。
「……結局どういう意味」
「たくさん、ってことっすかねぇ」
 じゃ次、冬は? 場地さんに急かされて、ふ、の項目を捲る。冬。ふゆ。四季の一つ。四季のうちで最も寒い。
「……だ、そうです」
「めちゃくちゃそのまんまじゃん」
「っすね」
「“たくさんの冬”ってどーいう意味よ?」
 うーん、と唸ってオレは天井を仰いだ。正直、こんなふうに自分の名前を調べるなんてしたことがなかったから、千、と、冬、の意味をあらためて知ることができてちょっとうれしかったというのがほんとうだ。場地さんは、でも納得のいかないみたいで、オレからまた辞典を奪って、せん、と、ふゆ、のページを行ったり来たりした。
 んー、と場地さんは唇を突き出した。
「……でもおまえ十二月生まれだし、冬なのはなんとなくわかる」
「まあ、だから冬って付けたんでしょうね」
 冬に生まれたから、千冬。じゃあ春に生まれてたら、千春になってたんだろうか。千冬より女みたいな名前だ。冬に生まれてまだよかった。
「千、は納得いかねーけど。でもおまえのかーちゃんが生まれたばっかのおまえを見て、なんとなく、こいつは“千冬”だ、ぴったりだって思ったのかもしんねーな」
「……どう、でしょうね」
 場地さんの意見に、苦笑する。そんなこと考えたこともなかった。そして場地さんのくちから、生まれたばっかのおまえ、なんて言葉が出たことに驚いて、同時にすごく、照れくさかった。
 生まれたばかりの自分の写真を、かあさんはアルバムに残していたはずだった。ちいさいころ、何度か見せられたことがある。生意気そうな目をして、ぜんぜん可愛いとは思わなかった。むしろ物言いたげに顔を歪め、不服そうな面で、それがおかしかった。――もうずいぶん、アルバムなんて見てないけど。
「そっか、千冬って、たくさんの冬、って意味かあ」
 たくさんの冬、が一体どういう意味か結局わからなかったけど、場地さんは諦めたように辞典を閉じた。ぶ厚くて重たい辞典をスクールバックにしまう。場地さんは命名書を手もとに残しているオレを律儀と言ってくれたけど、オレからしたら場地さんのがよっぽど律儀だ。なんだかんだ勉強しようとしてるし、真面目に授業を受けている。
 襟足のとこで一つに結われた黒髪が、くびすじを流れた。場地さんのくびすじはとてもきれいで、見ているとどきどきしてしまうから、オレは慌てて視線を逸らした。沈黙が落ちる。無言の空間に、クーラーが風を吐き出す音と、外の蝉の鳴き声、それからふたり分の呼吸の音が混ざって、なんだか、すごくヘンな感じだ。
 場地さん、と言おうとして、喉がひどく渇いていることに気がつく。麦茶のピッチャーは汗をかいていて、しずくが、つぅーっとガラスの側面を落ちてゆく。
 ドアの向こう――廊下で、電話の鳴る音がした。すごく遠いとこで鳴ってるみたいに聞こえる。ほんとは玄関側、オレの部屋のすぐ近く、なのに。
 かあさんが出て、なにかをしゃべっている。間を置いて、笑い声。オレは喉を鳴らして唾を飲みこみ、このヘンな空気をなんとかしようと努力した。場地さんのほうを見る。くっきりとした横顔がきれいだな、と思う。そして、そんなことは今はどうでもいいんだって思い直す。
「……麦茶、飲みません?」
 ようやく声が出た、と思ったとき、部屋のドアがノックされて不覚にもびくりとした。とんとーん。くちでノックの音を真似しながら、こっちの返事も待たずにドアを開ける。「ちい、ちょっと電話出て」。
 ゆるみかけた空気が再び固まった。場地さんはぽかん、としてかあさんを見て、オレは目を思いきり丸くさせて、かあさんはなんでもない顔のままオレを手招く。
「福岡のおばさん。ちいの声聞きたいって」
「ちょっ……!」
「……“ちい”?」
 場地さんが復唱するのに、耳を塞ぎたくなった。わああ、と大声を上げてしまいたい。もしくはこの場から消え去りたい。
「かっ、勝手にドア開けンなよ!」
「あら、かあさんちゃんと、とんとーんってノックしたわよ」
「こっち返事してねーだろっ」
 「ちい」、と場地さんが隣で呟くのが聞こえた。ぎゃああ、やめてください! くり返さないで! 場地さんの声でそう呼ばないでくださいっ! オレの心の叫びは場地さんにも、かあさんにも届かず、ただオレの体の中で虚しく反響するだけだった。
「場地さん来てっから出れないって!」
 オレはかあさんに向かって叫んだ。かあさんは眉をへの字にさせて、「困った反抗期ねぇ」とトンチンカンなことを言ってドアを閉めた。
 ぜいぜいと肩で息をして、顔に上った血がずっと留まったままなのをどうしていいのかわからず、かあさんの閉めたドアをきつく睨むしかできなかった。
 ちい。とか。呼ぶなって。もう。オレは、ガキじゃねーンだぞ。
「千冬ぅ」
 場地さんがオレの顔を覗いたので、オレは驚いてのけ反りそうになった。
「ちい、って、なに、おまえのこと?」
「う……」
 くちごもるオレに、場地さんは追い討ちのように「ちい」「ちい」とくり返した。後生なのでヤメテください……。瀕死の状態で訴えると、場地さんは、「なんで」と、半紙を捨てる捨てないの会話をしたときとおなじテンションで、言った。え? 場地さんを見ると、楽しそうではあったものの、ばかにしてるようすではなかった。
「なんで、いーじゃん。かわいいじゃん?」
「かわいいって……」
 いくら場地さんからの言葉でも、かわいいと言われてうれしくなる男はあまりいない、と思う。
「かわいいぜ、ちい、って。なんかひよこの鳴き声みてーで」
「ひよこの鳴き声?!」
「千冬に似合ってるじゃんか、おまえ、かわいーし」
「そんな、かわいいかわいい言わないでください……」
 顔が熱い。耐えきれず両手で覆った。手のひらに熱が伝う。熱い、あつい。せっかくクーラーの温度下げたのに、これじゃぜんぜん意味ない。
「こら、ちい。なに恥ずかしがってンだよ」
 手首を掴まれ、手のひらを剥がされる。場地さんの顔が目の前に現れて、ぐ、と息をのむ。場地さんに、ちい、と呼ばれると、全身の力が抜ける。ぺたんと床に座りこんで、泣きたい気持ちで場地さんを見上げる。
「ちい、って、子どものころそう呼ばれてただけで、」
 かあさん、いまだにオレのことそう呼ぶときあって。それで。
 掠れ声で必死に言い訳をするオレの頭を撫でて、場地さんは「わかったわかった」と笑う。
「べつにからかってるわけじゃねーし。おまえのかーちゃん、おまえのこと大好きなんだなーって思っただけでさ」
「……そんなこと、は、ない、っす」
 再び全身が熱に包まれるのがわかった。場地さんに真っすぐに見つめられると、視線をいったいどこに向ければよいのかわからなくなって、混乱する。
「やっぱいーい名前じゃん、千冬って」
 そう言って場地さんは楽しそうに笑った。オレはもう、すっかり参ってしまって、へら、と弱々しい笑みを浮かべるしかできなかった。
 場地さんが帰ったらかあさんに、もう二度とちいって呼ぶなって釘を刺さなければならない。……効果があるのかは、ちっとも期待できないけれど。