優しくないキス以外は知らなかった。優しいキスを教えたのは三ツ谷で、柚葉はそれを受け容れた。唇と唇がふれた、ただそれだけの戯れかと思って、けれど三ツ谷のまなざしが真剣だったので、くちづけられた、キスされたのだと、頭の芯が理解した。
 暴力とはほど遠い優しいキスだった。


「……いやだった?」
 三ツ谷が瞳を覗きこむ。すこし潤んだ白目と黒目を見つめて、柚葉は言葉を失う。
 ソファの布地の、硬い感触がてのひらを伝った。知らないうちに体が強張っていて、緊張していることを自覚する。三ツ谷相手に、なにを。そう思ったけれど、優しいだけの、見返りを求められないキスに、ただ動揺した。
「いや、とか、」
 絞り出した声は震えていて、柚葉は喉の奥で苦笑する。三ツ谷相手に、なにを動揺してるんだ、アタシは。
 自宅の、馴染みきった自分の部屋にいるはずなのに、地に足がつかないような浮遊感があった。
 でもいつか、こうなることはわかっていた。
 三ツ谷とキスをする日、触れあって、抱きしめて、大人がすることをする日。ふたりで身を寄せ合っていれば、いつか、そういう日が来てもなにもおかしくなかった。
「いや、とか、じゃない」
 びっくりしただけ、ただ。掠れた声でそう言うと、柚葉は視線をローテーブルの上に落とした。氷と、麦茶の入ったグラスが二つ。柚葉自身が用意したものだ。傍の小皿には、三ツ谷の持ってきた個包装のクッキーが添えられている。
 柴家を訪れるとき、かれは毎回律儀にも、なにかしらの手土産を持ってくる。それは高価なものではけっしてなくて、スーパーで買えるファミリーパックのお菓子のお裾分けが多いのだけれど。
「そっか。……ごめん」
「だから! いやとかじゃないって」
 僅かに体を動かし、自分から離れようとする三ツ谷を、柚葉は睨んだ。
「びっくりしただけって、言ってるじゃん」
 そんなキス、はじめてだったから。とてもちいさな声で続けた。言葉にした途端、頬に熱がせり上がってくるのを感じる。
「そんな、って?」
 三ツ谷は目尻を下げたやわらかな笑みをつくって、問うた。「そんなって、どんな」。
 柚葉の顔のパーツ一つひとつをたしかめるように、三ツ谷は視線を這わせた。それがいやらしいものではないことに、柚葉は理不尽な怒りを覚える。いっそうわかりやすく性的な視線であればよかった、と。そうすれば殴る理由も、逃げる理由もできる。
「ちょっと、見んな、ばか」
 それで、片ほうのてのひらでかれの顔を、もう一方の手で自らの顔を覆った。そんなことをするよりかれから体を離して逃げてしまえば良いと思い直したけれど、いつのまにか手首を掴まれホールドされていた。離せ、と訴える。離さねぇ、と返される。ばか、と悪態をつく。ばかでいーよ、と笑われる。
「柚葉」
 手首を引かれて、強張ったままだった体が三ツ谷の腕に包まれた。低く呻くと、「もうしねぇから」といなされる。そうじゃない、と言おうとして、あっというまに抱きしめられてしまった。男の力には敵わない。そんなことはわかりきっていた。抗っても、拒んでも、男はいつだって、暴力で全身を武装していた。そういうものだと知ったときから、求められれば応えてきた。壊されそうな自尊心だけは必死に守りながら。
 三ツ谷の匂いを吸って、胸を満たす。頭を抱えられて髪を梳かれると、かつて母親が、自分にそうしてくれたことを思いだした。
「もっかい訊くけど」
 三ツ谷の声が頭の上で聞こえた。なに、と目を持ち上げる。視線が絡む。やっと目ぇ合わせたな、と三ツ谷は笑う。
「うるさいな。なによ」
「いや。ホントにいやじゃなかったかな、って思って」
「……しつこいな。いやじゃないって言ってるでしょ」
 でも、と柚葉は続けた。
「アンタがするみたいなのは、はじめてだ」
 三ツ谷は目を細めた。
「男なんてみんな勝手だから。三ツ谷はぜんぜんちがう」
「オレも男だけど、ちがう?」
「ぜんぜん」
「じゃ、またしてもいい?」
 頷いて、柚葉は唇の端をわずかに上げる。「アンタとだったら、なんだってしたい」。
 顔を近づけると、息が頬にかかった。生ぬるい吐息は、甘い匂いがした。さっき食べていたバタークッキーの匂いだった。
 唇と唇が触れる。一瞬だけ、時間が止まったようだった。でも掛け時計の秒針はしっかりと一秒を刻んでいて、二秒後にはふたりの重なった体温は、ひとつに戻っていた。
 今日二回めのキス。
「もしかして三ツ谷、ファーストキス?」
「そーいう柚葉もじゃね?」
 アタシは。言いかけて、くちを噤む。しばらく視線をさ迷わせて、うん、と頷いた。 「そうだね。ファーストキスだ」
 熱を湛えた頬に、三ツ谷のてのひらが添えられる。かれのてのひらはいつもつめたい。そのつめたさが心地よくて、頬を擦り寄せてみる。はは、と三ツ谷は笑った。
「なんか、猫っぽい」
 こんなにも無防備に甘えてしまうなんて、今日のアタシはきっとどうかしてる。頭が、どろどろに溶けちゃったみたいだ。三ツ谷の、バタークッキーなのか香水なのか柔軟剤なのかわからない甘い匂いをかいでいると、溶けてゆく頭を止める気にもならない。もうずっとこのまま、どろどろに溶け合ってしまいたかった。
 三ツ谷が好きだ、と思った。けっしてくちには出さないけれど。好きだ、好きで、そしてたぶん、愛してる。
「好きだ、柚葉」
 耳もとでひっそりと囁かれた。耳の輪郭に沿って熱が這う。柚葉は三ツ谷の胸もとに顔を押しつけて、まっ赤になった頬を隠した。