ヘンな夢を見た。
 一虎くんが場地さんを殺す夢だった。
 一虎くんの握ったナイフが場地さんの腹に刺さって、場地さんが倒れるのをオレは遠くから見ていた。遠い、とても遠い場所にオレはいて、場地さんと一虎くんはトップクなのに、オレは制服のブレザーを着ていた。
 オカシイだろ、と思って、これは夢だとわかった。わかったけれど、どうしようもなく胸がざわざわして、ひどく、たまらなく、怖かった。場地さんが死んだ。――その時のオレは、場地さんが「死んだ」となぜか確信していた。もしかしたら倒れただけで、一命は取りとめていたかもしれない。すぐに手当てすれば、助かるかもしれない。
 場地さんは強ぇし喧嘩慣れしてるから、一虎くんの攻撃を躱していたかもしれないのに、どうして「死んだ」とわかったんだろう。
 場地さん。オレは叫んで、叫んだつもりだったけれど声は出なくて、一虎くんに殴りかかろうとして足が少しも動かなくて、その場に立ち竦んだ。オレは結局、なにもできずにふたりの姿を見ていたのだ。遠い、遠い場所から、ふたりの影を眺めていた。
 涙が出て、うめき声がもれ出て、それで、目がさめた。

 部屋は青暗さに染まっていた。夜と朝の境目。涙に霞んだ目でぼうぜんと天井を見上げていると、頬を滑り落ちてゆく涙の熱を感じた。
 夏休み直前の浮き足だった気持ちは完全に失われていた。ヘンな、とてもいやな夢だった。ぽろぽろとこぼれ落ちる涙を止めたくて、乱暴に目もとをこする。洟を啜りながら起き上がると、汗でパジャマもシーツも枕カバーもびっしょり濡れていた。
 気持ち悪ぃ、と思った。
 濡れたパジャマやシーツや枕カバーもだけれど、なによりさっきまで見ていた夢が、ただただ気持ち悪くてしかたがなかった。
 夢は夢らしく、前後の脈絡はまるでなくって、でも一虎くんの場地さんへの気持ちはほんものみたいに思えた。あれが、殺意というやつなのだろうか。不良どうしの喧嘩ったって所詮はガキの喧嘩だ。ほんとうの殺意を、オレは知らない。――いや、知らなかった。けれどもう、知ってしまった。あのヘンな夢のせいで、知ってしまったのだ。不本意だ。いやだ。知りたくもない感情だった。それに、あの一虎くんはあくまでオレの夢の中の一虎くんで、現実の一虎くんと場地さんを殺した一虎くんは、ちがう。ぜんぜん、ちがう。
「……あー」
 胸がぎゅうっと痛んで、この痛みはなんのための痛みだ。場地さんが刺されて怖かった、かなしかった。一虎くんを止めたくて止められなかった。体が、ちっとも動かなかった。足が一歩を踏み出せなかった。たすけたい、と思ったのに、できなかった。――誰を? 場地さんを。一虎くんを。オレは、ふたりを、たすけたかったのに。
 たいせつな人たちだから、たすけたかったのに。
「あぁあ……」
 頭を抱えて、もう一度、布団に寝転がる。夢だ、ととっくにわかっても、胸に走った痛みはたしかなものだった。心臓よりもっともっと奥のどこかに深く刺さって、ちゃんとオレに傷をつける。

 
「ち、ふ、ゆぅ」
「ぁでっ!」
 後頭部を、平手でペシンっと叩かれた。家の鍵をかけたところだった。五階からおりてきた場地さんが、いつもの不敵な笑みを浮かべてオレの側に立った。場地さんの顔を見た途端、オレの頬はゆるむ。反射だ。
「おはよーございますっ」大きな声で挨拶をすると、団地の踊り場に声がわあんと響いた。
「早いっスね、今場地さんち行こうとしてたんスけど」
 いつもより一分早く場地さんと会えたのはうれしかったけれど、迎えに行かれなかったのはなんだか、少し悔しい。
「ん。まあ、たまにはいーだろ」
 場地さんは長い髪の毛を揺らして、先に立ってさっさと階段を降りてゆく。
「あー、そういやオレ今日補習だったワ」
 期末の数学がオワッテタらしい場地さんに、オマエもだろ? と当然のように振られたけれど、オレはギリギリ赤点ではなかったので、補習はなんとか免れていた。「ウラギリモノメ」と場地さんは舌打ちをした。
「……場地さんの補習が終わるの、オレずっと待ってるっス」
「ずっとってなんだよ。そんな長時間拘束されんのかよオレやだよ」
 場地さんとの会話はするすると進む。隣に立って、歩いていられるだけで楽しいし、うれしいし、なにより誇らしい。ふと、今朝見た夢の話をしたくなった。すぐにうすれてしまうだろうと思っていたのに、夢の気配は朝メシのときも、髪をセットしてるときも、玄関で靴を履いているときも、執拗にまとわりついて離れなかった。
 場地さん。名前を口にしようとしたとき、団地のぐるりを囲むフェンスに凭れている、黒い背中が見えた。
「あ、いやがった」
「……え?」
 オレは目を瞬かせた。黒い背中は、一虎くんだった。鈴のピアスをりん、と鳴らして、こちらを振り向く。きれいな顔。黒と金色のメッシュを入れた、ウルフ・ヘアー。
「ばじー」
 にこにこ笑って手をふる一虎くんに、オレは意味もなく身構えた。そんな必要なんて、少しもないのに。
「なんだよーもー。いっしょ登校しよーつったのに」
「だからしてやってるだろがバカ余所者のくせに」
「オレは場地とふたりっきりがよかったの!」
 一虎くんは場地さんの腕に腕を絡めて体を寄せた。オレはそれに少しぎょっとして、そしてかなり、ムッとした。くびすじのスミを夏の透きとおった光のもとに惜しみなく晒して、金色のきれいな目をした一虎くんと場地さんは、もつれあうように歩き始める。
 数歩遅れて彼らのあとを追う。さっきまでオレとしゃべっていた場地さんは、今は一虎くんと会話をして笑いあっている。
 ああ、約束してたのか。と、バカなオレはようやく気づいた。だから場地さん、いつもより一分早かったんだ、と。
 一虎くんと場地さんはほんとうに楽しそうだった。ふたりは同い年だし、東京卍會の創設メンバーだし、オレの知らない時間を共有している。オレの知らない場地さんを一虎くんは知っていて、オレの知らない一虎くんを場地さんは知っている。そう思うと胸の奥がしん、とつめたくなった。ふたりの仲のよさは当たり前のことなのだけれど、いやだな、と思った。
 なんか、いやだな。なんか、うまく言葉にできないけれど。
「場地さん。一虎くん」
 ふたりの背中に向かって、声をかける。ふたり揃って、こちらを向く。
 夢の中で、ふたりのあいだには一体なにが起こっていたんだろう。なにが、起こったんだろう。オレの与り知らないところで、ふたりはふたりだけのなにかを育てて、水をやっていたのだろうか。そのなにかが一虎くんの殺意だったのか、場地さんの慈悲だったのかはオレにはわからない。わからないなりに、バカなりに、いちまつのさみしさを感じた。
 見つめる先にいる場地さんと一虎くんに向かって両手を広げ、飛びこんでいった。
「いでっ」
「わっ、ンだよテメェ!」
 ふたりの背中をいっぺんに抱きたくて、抱きしめたくて、でもオレでは腕の長さが足りなくて、肩を軽く叩くくらいしかできなかった。
 いつもならこんな無礼なことはしない、でも今は、こんなふうなガキっぽい構われ方しか知らない。
「痛ぇーよバカ! 千冬!」
 一虎くんがオレの頭に手をのせて、髪をくちゃくちゃにする。オレに触れる手の広さや指のかたちが、今朝の夢に出てきた一虎くんのそれと重なる。この手が握ったナイフの感触が、オレにわかる。まるでオレが一虎くんになったみたいだった。あ、と思った。ぱちん。おおきくひとつ瞬きをしたその一瞬だけ、見えた景色があった。一虎くんのくびすじにナイフの切先が向けられている。虎のスミは派手でよく目立つ。一虎くん、とつぶやくオレの声は低かった。
 彼の腹に跨って、泣きながらナイフを握っているのはオレだった。
「ぁ、」
「ア?」
 あふれ出そうになった悲鳴を、てのひらで口を抑えて殺した。一虎くんと場地さんが、怪訝な表情を向けた。
「なに、千冬。あーそうか、一丁前にヤキモチ妬いてんだ」
 一虎くんは意地悪い顔で笑った。ええ、とオレは唇を歪める。笑顔に見えたかどうか、それはわからない。
「オレと場地がステディな仲なのに、妬いてんだ」
「は、……あ、いえ、」
「なんだ? ステディって」
「ラブラブ〜って意味」
 ハッ、と場地さんは笑った。
「っざけんなこんなアタマオカシイやつと」
「似たもんどうしでお似合いじゃん」
「バーカ」
 一虎くんはころころと笑う。無邪気に、無垢に、あっけらかんと、楽しそうに笑う。動揺を悟られないように、オレもへらへら笑った。泣きながらナイフを向けた景を、それを見た事実を、どうにか消したくて、へらへら、へらへらと。
 オレはいつ、この人を殺そうとした――のだろうか。オレは、そして彼を殺してしまったのだろうか? なぜ? 場地さんを殺したから。いやちがう、だってあれは夢だった。オレは殺さない。一虎くんを殺さない。誰のことも、殺したくない。
 場地さんも、一虎くんも、オレのたいせつな人たちだ。
 おおきな瞬きを、ぱちん、とする。目を開けたときには目を閉じるまえと変わらない景色があって、場地さんと一虎くんは笑っていて、今は夏で太陽がギラギラと眩しい。遠くの空に入道雲。朝のこの時間ですでにこの暑さはちょっと異常なのではないか。額に汗が滲んだ。オレたちはちゃんとした不良の、中学生だ。期末テストが終わった。もうすぐ夏休みが始まって、オレは場地さんと海に行く。絶対に行く。約束はまだしていない、でもこれからするつもりだ。場地さんはきっとしかたねえなって言ってオレのお誘いに乗ってくれる。優しいんだ、この人。もしかしたら一虎くんも連れてくるかもしれないけれど、べつにいい。そしたらオレはタケミッちを連れて、そんで四人で海に行こう。四人で。ヘンなメンツかな。でも、ま、いっか。海、暑ぃかな。日に灼けるかな。灼けるよな。そういえば一虎くんって意外と肌白いけど、灼けたら赤くなるタチなのかな? 場地さんはまっ黒になりそうだな。でも日に灼けた場地さんはカッケェだろうな。いつもの三割増しでカッケェよな。楽しみだな、夏休み、みんなで流しに行ったりもしてさ。そうだ武蔵祭りもある、浴衣着てみんなで集まって。花火! 夏ってオレすきだな。秋より冬より春よりすきだ。千冬って名前だし冬生まれだけど夏がすきだ。イベントいっぱいあるし、一年でいちばん楽しいと思う。ねぇ、場地さん、一虎くん。ふたりは、夏はすきですか。遊びに誘ったら、来てくれますか。海行ったりしましょうよ。夜じゅうバイク流しましょうよ。ねぇたくさん、たくさん、いっしょにいましょうよ。お願いだから。ね。


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