じゅる、といやらしい音が響いて、唾液もろともくちびるを吸われた。昂奮を煽ることをわかっていてあえて水音を立てようとする一虎の意地悪を嗜めるために、千冬は一虎の背中をごく軽い力で叩いた。
「……あかんぼうじゃねんだから」
 千冬の鼻の頭に熱い息をかけて、一虎は笑う。
「あかんぼう?」
「背中、ぽんぽんってさ」
 どういう意味かわからず首を傾けた千冬は、そこでようやく合点がいった。背中をさする手が、あかんぼうをあやす動きと同じだと一虎は言ったのだった。
 一虎に触れるとき、彼を傷つけないようにできうる限りの弱い力で触れている自分がいた。千冬にとってそれは無意識下でのさわり方で、指摘されるまでそうと気づかなかった。
「優しいなぁ、オマエ」
 千冬の重たく垂れた前髪を指さきで分けながら、あらわになった額に自身の額を合わせる。ぴったりと重なった体はお互いにとうに火照り、服越しでも伝わる熱に千冬は羞恥で頬を紅潮させた。
 間接照明だけ灯った寝室はふたりの発する体温であたためられ、しっとりと湿っていた。もつれながらベッドに転がってふざけあっているうち、いつも通りの夜を迎えようとしていた。
 パーカーの裾から一虎の手が滑りこんで直に下腹部をさわられる。びくんっ、と体が跳ねて、喉の奥で声がもれた。慌てて口もとを隠そうとして、手を捕まえられる。そうしてあっというまに、シーツの上に縫い留められた。
 千冬は顔を背けた。
「ゃ、っ、はずかしぃって――」
「だいじょーぶ。オレしか見てねぇから」
 手の甲に、指さきに、くちびるを落としながら一虎がいう。声を発するたびに熱い息が肌に触れて、背筋がぞくぞくと痺れた。
 いくら自分たちしかいない部屋だとしても、恥ずかしいものは恥ずかしい。千冬はきつく目をとじて、まなうらの闇の中に逃げこんだ。追いかけてくるのは一虎の体温で、服の下にするすると入りこんだ手は迷いなく千冬の腹の上を探る。
 気持ちよさよりくすぐったさが勝って、千冬は思わず、くふっと笑ってしまった。
「こそばい?」
 一虎が目を細めて問うのに、千冬はすなおに頷いた。
「こそばいのと気持ちいの、どっちがすき?」
「え……」
 なに、その質問。千冬は呆れて、くちびるを尖らせた。その先端に、一虎が軽いくちづけをする。ちょん、と小鳥が餌を啄むような愛らしいキスに、腹の奥が鈍く疼いた。
「よくそんな恥ずいこと訊けますね」
「えー? だって知りてぇんだもん。千冬のすきなもん」
 な、どっち? 一虎は首を傾げてみせた。目の前で髪が揺れる。オレンジ色の照明が彼の顔の輪郭を淡くふちどっているのを、きれいだな、とぼんやり見つめた。ん、と喉を鳴らし、唾液を飲みこんだ。そうして、一虎から目を逸らしたまま、「どっちも」とつぶやいた。
「一虎くんにさわられるんなら、どっちも、すき」
 言ってしまったあとに、顔じゅうがまっ赤に染まってゆくのを千冬は自覚した。なに、言ってんだ、オレ。恥ずい、消えたい。ぐちゃぐちゃと思考が絡まった。その頭を、一虎のてのひらが包みこむ。驚くほど優しい手つきに、千冬はうすく目をあけた。ちふゆ、と一虎は言った。
「やばい、かわいすぎる、オレしぬかも」
 一虎は千冬のくびすじに顔を埋めて、深いふかいため息をついた。髪の毛が頬にかかって、くすぐったかった。
「……死なないでよ」
「うん」一虎は両のてのひらで千冬の頬を包むと、おかしそうにはにかんだ。「がんばる」
 千冬のくちびるを吸うと、服の下で手が動き出す。千冬は目を閉じた体ていで彼の手の蠢きを感じた。熱いてのひらは汗でうっすらと湿り、それが腹の表面やへそや胸に触れるのがくすぐったくて気持ちがよかった。そんなふうに、さわるんだ、一虎くんって。まるではじめて体を重ねるような感想を抱く。ぺたりぺたりと千冬の皮ふの状態を、体の輪郭をたしかめるように動く一虎の手が、ひどくいとおしかった。この人の手は、今、自分のためだけに動いてるんだと思うと、たまらなかった。結果体を繋げなくても、さわったりさわられたりする時間だけで満たされる。それ以上望むのはむしろ貪欲にさえ思えた。
「すき」
 頬にキスを落とされて、同時にふってきた声と言葉に、千冬は目をあける。まっすぐにこちらを見つめる一虎の瞳は潤んで、今にも熱い涙をこぼしそうだった。
 すき、と千冬もまた、思った。わずかに首を持ち上げて顔を近づけ、一虎のくちびるにくちびるを重ねた。表面の皮ふどうしを合わせるだけのキス。もうおとななのに、とおかしくもなるが、幼いものどうしがするようなくちづけをしたところで、バチは当たらないはずだ。おとなになったから、ゆるされること。
 ああもう、と一虎は額を抑えて天を仰いだ。尖ったのどぼとけが上下に動いた。
 ベッドの上で重なり合って、すきなだけさわりあって、さて次はどうしてくれようか? 同じことを考えてるんだろうなあ、一虎くんも。そう思うとおかしくて、千冬は舌先でくちびるを舐めた。俎上の魚になっているのも、動いて一虎を押し倒してやるのも、どちらも楽しそうに思えた。いずれにせよ、お互いにお互いを傷つけることはない。オレらはにんげんだから、肌を重ねたって汗にまみれて擦れるだけ。
「一虎くんのすきにして、いいっスよ」
 両腕を広げてみせる。ダイブしてくるアンタを抱きとめるくらいはできる。今のこの、ベッドの上なら。
「やっぱ、優しいよ、オマエ」
「そうかな。そうでもねぇっスよ」
 どうだか、と言って一虎は千冬の髪を撫でた。さわり方が優しくて、子どもに返ったような錯覚に陥った。一虎くんも、さっき、そうだったんだろうか。
 絡みあってぐちゃぐちゃになってしまいたい欲求と、体温をつかってあたためあいたい気持ちとがないまぜになる。一虎は何度も千冬の髪に触れ、頬を撫でた。
 ――優しくしてぇんです、アンタには。
 口から出そうになった言葉を、千冬は息をともに飲みこんだ。なんとなく、わざわざそれを言う必要などないように思われたのだった。


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