うすい背中を抱いて、体から発する匂いを肺いっぱい吸いこんだ瞬間に、なにもかもすべてをこの暑さのせいにできればよかったと心の底から思った。後悔、したのだった。
かすかなたばこの匂いと、一虎自身が持つにおい。それがどういうものかは言葉で表現できない、しかし、きらいではないにおいだった。
同じ職場で働き、退勤後も都合が合えばどちらかの家に行き一緒に酒を飲んだり飯を食ったりする。ときには泊まることもある。この距離感に名前をつけるのならば、「友人」が一等相応しいと、千冬は信じている。そうであってほしいと、そう願っている。
千冬? 一虎はうろたえたようすで名前を呼んだけれど、千冬は一虎の肩甲骨のあいだに額を押しつけたまま動くことができなかった。ぴたりと体を重ねて、腕を一虎の腹の前で結んで、鼻をシャツに埋める。キッチンの備えつけの蛍光灯はしらじらと光を落としていた。
「なに。どぉした」
一虎の声は優しかった。子をあやすような調子で、だから、抱きついた背中が彼のものだとわかっても、千冬は体を離せなかった。一虎に、その優しさに、甘えた。今、抱きしめているあたたかさは、一虎のものである。かすかに皮ふを伝ってくる心臓の鼓動も。でも。
キッチンに立つうしろ姿があまりにも、あまりにも似ていたから。寝ぼけ眼に鮮烈に、その姿は映った。千冬は遠慮がちに顔を上げて、こちらを見下ろす一虎の瞳を覗きこんだ。
ああ、と、こぼれそうになった息を飲みこむ。
肩よりすこし下の場所で揺れていた髪の毛に、ずっと触れたくて、触れたくてしかたがなくて、そうしてとうとう触れることができたのはさいごのあのときだけだった。
頽れた彼の、体が静かにつめたくなってゆくのを感じながら、ただ、抱きしめた。一つに括った馬の尻尾のような黒い髪に触れると、血まみれの手に毛が絡まって、解けなくなった。
「……べつに、どうも、しない」
一Kのひどく狭いアパートは寝室にしているひと間に古いエアコンがあるだけで、いくら冷風を吹かせても部屋全体はちっとも涼しくならなかった。キッチンの据えられた廊下、そして玄関は、だからつねに蒸して暑い。
ただでさえクソ暑い夏の夜に、熟れた空気に満ちたキッチンであつい体をくっつけて、なにしてんだろオレら。っていうか、オレ。
「ねえ一虎くん。引っ越してよ」
暑くて、暑くて、咄嗟にそんなせりふが口をついた。
「は? なんで」
一虎は手に持っていたコップを口に運び、勢いよく麦茶を飲んだ。喉ぼとけが上下に動いて、ああこの人は生きてる。そう、千冬は思った。
背中にくっつけた頬は生ぬるくて、この皮膚の下にはちゃんと血が通っていて、心臓が動いていて彼のいのちを維持していて。これから先もきっと動いて、長く長く、ジジイになっていつかくたばるまで。だってオレらはもう、喧嘩なんてほとんどしねぇから。誰のことも殴らないし誰からも殴られない。そういう世界を生きてるから。今。
おとなになって、まっとうで、オレら、きっと「幸せ」を生きてる。
「できねぇよ。金ねぇもん」
引っ越しなんて。と、一虎はきまじめに答えた。あんまりまじめな調子だったので、千冬は、ふふっと笑った。
「じゃ、うち来たらいいんスよ」
「えー、オマエと一緒に住むの?」
「うん」
千冬は頷いた。かすかに、口の端が持ち上がった。自分のせりふが、おかしかった。
――そう、それで、ときどきでいいんで貸してくださいよ、背中。
あの人に似てる背中。家賃も光熱費もいらない、ただそれだけで、いいんで。
ごくんと唾を飲んだ。千冬は低い声でつぶやいた。
「ここ引き払って、うち、来てよ」
「上司と一緒に住むのもなー」
はらはらと、一虎は笑った。ぜんぶが冗談だと知っている笑いかただった。つられて、千冬も笑った。笑いながら、胸の奥が引き裂かれるように痛くて、痛くて、たまらないことに気づいた。けれど、なんにも気づかないふりをして、笑った。
ひでぇなあ、と千冬は思った。オレも、この人も、あの人も、みんなみんなみんな、揃いも揃ってひでぇよなあ。
ぎゅ、と抱きしめれば一虎の体のかたちは怖いくらいによくわかった。このまま服を剥いでむきだしになった肌に歯を立てたなら、この人は、いったいどういう顔をするだろう。怯えた目でオレを見る? それとも当然みたいにオレの背中に腕をまわすのか。
自分がどちらを望んでいるのかわからなかった。一生、わからないままでいいと思った。
知らない人間たちのわやわやとした笑い声が背後で聞こえた。つけっぱなしのテレビではヴァラエティ番組がそれなりの音量で垂れ流されていた。さっきまで千冬がうたた寝をしていたソファにはタオルケットがいちまい取り残されていて、一虎がかけてくれたらしいそれは千冬の体温を吸ってきっとまだわずかにあたたかい。でも、すぐに冷えていってしまう。千冬ひとり分の体温はゆるやかに、しんしんと損なわれてゆく。
「一虎くん。オレねぇ、」
つめたくなって、動かなくなったあの人のことを思いだす。名前を呼んでもひらかなかった目のことを。血で固まった髪の毛を、梳こうとしたのに指に絡まってうまくできなかったことを。
うん、とこたえた一虎の唇を、軽く触れることで塞いだ。
「……ひどくて、ごめんね」
まっすぐに見つめた先に、まんまるな目をした一虎の顔があった。思いのほかやわらかな一虎の唇を、でもこれ以上求めるつもりはなかった。
「ごめんね」
ゆっくりと、体を離した。合わさっていた箇所から順ぐりに、熱が逃げてゆく。触れて、たしかめていた体のかたちも、蒸した空気に溶けてすぐにわからなくなってしまった。
もっと長い時間をかけて重なりたいとか、触れていたいとか、抱きたいとか。そういう欲を果たして誰に向ければいいのかわからない。わからないなら、誰にも向けないほうがきっといい。これ以上、一虎くんにひどいことをしたくはないんだよ。
千冬がはにかむと、困ったような表情をつくって一虎は眉を下げた。物言いたげなようすで、けれど結局はなにも言わずに、残っていた麦茶を飲みほした。濡れた唇が蛍光灯に艶めいて、それに噛みつきたいと千冬はふいに思ってしまう。
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