あなたが泣いてしまわぬように

 ソイツと寝たのは、やり場のない苛立ちと自らへの嘲りを性的欲求に変換して吐き出したかった、ただそれだけのことで、深い意味はなかった。だからソイツがオレに覆い被さって欲情に猛りきったギラギラした目を剥いているのを自分でもゾッとするほどひややかな頭でひどく滑稽だと思ったし、ソイツの汗が頬に落ちて伝うのを、気持ち悪ぃとさえ思った。
 行為それ自体は、よかった。解されて、十分に受け入れる準備のととのったそこにソイツの、名前も知らない――教えられたけれど、忘れた――男のイチモツが突っこまれて、ぐりぐりと内壁を抉られて腰を打ちつけられて、やがて男がコンドームの中に吐精すると同時にオレもまた呆気なくいった。
「――――」
 果てたオレの腰を抱いて男がなにごとかを囁いたが、オレの耳はとうに鎖されていた。あまったるい睦言の類だと思うが、そんな言葉をオレはまるで望んでいなかった。射精を手伝ってもらえたらそれでよかった。コイツと恋人どうしになるつもりなどさらさらないし、セフレとして都合のいい関係を構築するつもりもない。今夜だけ、今回限り、その場しのぎ。けれどワンナイトというほどのロマンチックな価値を含ませる気もない。
 どこにでもある寂れたラブホテル街の道端で、物欲しそうな顔をして突っ立っていた男に声をかけて、金なら払うと言ったのはオレだった。腹の底に蟠る熱を放出したくてたまらなかった。誰でもよかったなんて未成年の動機みたいだが、実際のところそれとおんなじで、誰にでもいいから抱かれかった。抱かれたかったし、ひどくしてほしかった。
 ひどくって、縛ったり殴ったりとかそういう? 問われて、すなおに頷いた。ホテルのベッドで隣り合って座った。俺はそんなひどいことしないよと、オレの頬を撫でる男の手は汗で湿っていた。
 なにしてもいいと言ったのに男は宣言どおりの優しい所作でオレにさわった。なんとかかんとかと耳もとで嘯かれて、オレはちっとも聞いちゃいなかったが蠢くてのひらの熱さに顔を歪めると男は満足げに息を吐いた。
 いく、いく、となん度も叫んで、結果いけたのは一度だけだったが、男が2回めを求めてきたときはきっぱりと断った。もういい、と思った。金なら払うからと今度は男が言って、オレはせせら笑った。オレの払った金が返ってくるだけで、そんなんプラマイゼロ、むしろマイナスだろが、と。
 今、男の腕がオレの背中を抱いている。密着している肌は汗やら精液やらでべたついていて、気持ちが悪かった。もうしねぇよ? 一般人相手と慮って穏やかな口調を貫いているせいか、男は調子づいてやたらとオレを構いたがった。もう少し一緒にいてよと強請って、重量のある体でのしかかってくる。殴り倒すことは容易だが、警察沙汰はごめんだった。こんなざまを組織にバレるのも回避したかった。けれど、そのくせ、抗う気力すら残っていない体を持て余してもいた。
 面倒くせぇ、と思った。
 心底、オレは疲れていたのだ。死と隣り合わせの生活。張り詰めた糸を切ってしまわないように、細心の注意を払いながらのくらし。
 すべてはオレが選んだ、オレが望んだ、オレが求めた。けれど今、手の中にあるのは中身の入ってないくせにやたらときれいに包装された箱だけだった。
 無防備に体を預けると、男はうれしがってバックハグをしてきた。恋人でもなんでもないくせに、やたらと恋愛要素を持ちこみたがる男の挙動が不快だった。
 ――くそダセぇ。
 何も身につけていないはだかの状態で、名前も知らない男に人形のように抱かれてベッドに寝ている自分自身が、あまりにも愚かしかった。いい歳だっつうのに、十代の家出少女や不良少年と同じことをしている。ばからしさが、オレをじわじわと苛んだ。
 行きずりの男と寝て、それなりに発散して、どうだ、満足したか? そう、自らに問うた。問いかけはがらんどうの頭に反響した。みょうに澄んだ頭のどこからも、答えはかえらなかった。
 遮光カーテンの向こう側には、もう夜明けが訪れている。ああ、とオレは思う。早いとこ帰りたい。自ら望んで抱かれたくせに、いけしゃあしゃあとそんなことを考える。調子がいいのはオレのほうだ。オレは阿呆か? でも、マジで、帰りてぇ。帰って、熱いシャワーを浴びて、ベッドに沈みてぇな。身動ぎをして、密着している男からわずかに体を離す。
 まなうらに、家にいるだろう同居人の姿を思い浮かべる。彼はまだ、寝ているだろうか。それとももう起きて、オレが帰ってきていないことを不審に思ってる? ……心配、してくれているだろうか。
「くそっ」
 マットレスに顔を沈めて、掠れた声を吐いた。どうしたの、と背中で男が問う。嘘くさい優しげな声が疎ましくて、オレはそれを無視した。
 
 
 本来ならば柔く身を包むはずの春のひかりが、まるで責めるようにオレに注ぐ。ひかりの下  もとで、オレの姿は容赦なく暴かれる。昨夜男に荒々しくひん剥かれたスーツを今はしっかりと着、ネクタイを締めて、険しい顔を拵えているオレはけっしてカタギには見えない。そのように見せているのは紛れもなくオレ自身だ。嘘と欺瞞で塗り固めた松野千冬が、世の中の人間たちにどう映っているのか、オレは知らない。知りたくない、と耳を塞いでいる。都合よく、知らないふりをしている。けれど、東京卍會に所属している、オレの存在そのものがとうに罪であることは覆せない事実だった。
 こんなはずじゃなかったのに、となん度も思った。うす汚れてしまったオレが、かつてのオレや東卍を取り戻せるのか果たしてわからなかった。でもやらなければならない。オレが、やらなければ。
 早朝、ひと気が失せて閑散としたホテル街をコインパーキングの方向に向かって歩いていると、さっきまでの非現実感がうすれて次第に「現実」へと意識が引き戻される。
 夢をみているような感覚が、ずっと、あった。男に抱かれているあいだも、そのあとのピロートーク――男が一方的に話していただけだったが――も、すべて夢の中の出来事のようで現実味がまるでなかった。
 男とのセックスで熱は放散できたが、腹の底の疼きは未だに消えていない。名前のわからないそれは痛みにも似ていて、オレの裡を激しく跋扈するのだった。
 満足などできなかった。ホテルでの問いかけに、今さらみたいに答えがかえる。オレは、ちっとも満足していない。
 無意識に、腹のあたりをさわっていた。へその近くを、まるく、優しく。そんなふに撫でたところで、痛みが消えるわけもないのに。
 オレの腹をさする手が、あの人のそれだったらよかった。同居する男がきまじめな顔でオレの腹を撫でて、さする姿を想像した。
 一虎くんは優しい人だから、こんなどうしようもないオレにたいしても、きっとしてくれる。痛い、と言えば本気で心配して、不器用に世話を焼いてくれる。あくまで想像だが、それは裏切られないとわかっていた。そしてそのけなげなさまがいとおしくて、オレはオレ自身の愚かさをつくづく呪うのだった。
 パーキング近くの街路に植った桜の樹は、すっかり葉桜に変わっていた。季節は急ぎ足で過ぎてゆく。時間の流れの早さに、焦っているのかもしれなかった。
 枝のあいまから見える空はあかるい。よく晴れて、抜けるような青空が広がっていた。一虎くんに会いたかった。早く、彼の顔を見たかった。精算機で料金を支払い、車に乗り込んだ。ふわりと、ホテルのシャンプーの匂いがした。
 ホテルを出る前にしっかりとシャワーは浴びたが、帰ったらもう一度、浴びたい。昨夜の男の残骸を、完全に洗い流してしまいたかった。
 

 カードキーを差しこんだ瞬間、ドアが勝手に外側に向かって開いた。驚いて、オレは一歩身を引いた。一虎くんが、スウェットの上下姿で上がり框に立っていた。
「おかえり」
 一虎くんは重たそうな瞼のすきまからオレを真っすぐに見つめて、言った。掠れた声だった。
「……ただいま」
 平静を保ち、いつもと変わらない調子で応える。玄関に入り、後ろ手にドアを閉めた。一虎くんはおおきなあくびをした。
「起きてたんですか?」
 夜じゅう、ずっと。そんな意味をこめたのだが、一虎くんはあいまいに首を傾けただけではっきりしたことはわからなかった。答えたくない、ということか。
 ぼさぼさの髪の毛に、灰色のスウェット。はだしの足もと。一虎くんはいつもと変わらないようすで、目の前にいた。
 期待している自分の存在に、オレは気づいていた。そして、そんな自分を忌まわしく思った。まるで一虎くんを試しているようで、嫌悪感が湧いた。
「遅かったじゃん」
 こちらに背中を向けて廊下を歩きながら、一虎くんはつぶやいた。その背をゆっくりと追い、「仕事です」とオレは短く返す。ネクタイに手をかけて、緩める。
「飲む? コーヒー」
 一虎くんはカウンターキッチンに回りこんで、ケトルを持ち上げてみせた。「オレ、今飲むとこだったし」
 ああ、はい。平たい声で返事をして、ダイニングと繋がるリビングルームをぐるりと見渡した。ソファの肘掛けに、一虎くんのくつ下が脱ぎ捨ててあった。彼の頭のかたちに窪んだクッションと、くしゃくしゃに丸まったブランケットを見て、ここで寝てたのか、とせつない気持ちになった。
 インスタントコーヒーの粉をマグカップに入れている一虎くんをふりかえった。また一つ、彼はあくびをこぼした。
「なんで部屋で寝なかったんスか」
 マグに湯が注がれて、こうばしい香りが部屋に満ちる。
「オマエを待ってたから」
 一瞬の沈黙、そして返答。簡潔な答えに、オレは浅く息をもらす。なんで、と口を動かした。押し殺したような発声で、けれど一虎くんにはきちんと届いたらしい、彼は胡乱な目でオレを見た。
「なんでってなに」
 声にはあからさまに不機嫌が滲んでいた。不貞腐れた子どものようにくちびるを尖らせて、自分用のマグの中をスプーンでかき混ぜた。
「オマエが帰ってこねぇと、眠  ねれねー」
「……なんで?」
「なんでなんでばっか言うなよ、ガキか、クソ」
 オレが鼻で笑うと、一虎くんは苦々しげに顔を歪めた。そして、ほら、とオレにマグを差し出した。立ち上る湯気がいかにもあたたかく優しいものに感じられて、こんな愚かな朝帰りをしたくせになんだか罰当たりだな、と思った。
 一虎くんの手に、ゆびが、かすかに触れる。ほんのりとあたためられた彼の手からマグを受けとり、コーヒーをひと口飲んだ。苦味が強い。適当だから、粉を入れすぎるのだ、この人は、いつも。
「心配してんだよ、悪ぃかよ」
 一虎くんもマグにくちづける。らしくないせりふにオレは、ふ、と笑った。
「朝帰りとか。今までなかったろ」
「……それは、なんていうか、嫉妬っスか」
「バカじゃん」
 ペちん、と頭を叩かれる。心配してたんだっつうの。話をしているうちに、彼の表情はいつのまにか、ずいぶんやわらいだものに変わっていた。口もとに浮かんだかすかな笑みを見て、オレは安堵する。オレが昨夜から朝にかけてなにをしていたのか、この人は気づいていない。このまま気づかず、知らないままでいてくれればいい。
 確信が、あった。オレはきっとこの先、昨夜と同じことをなん度もする。それを愚かしいと感じなくなるまで、なん度も、知らない男に抱かれる。オレがそう望んでいるから。
 抱かれるたびに悪態をついて、早く帰りたいと願って、一虎くんが恋しくなって、でもこんなことは一虎くんには頼めないから。知らない男に抱かれたくて、抱いてほしい、ひどくしてほしいと願って。
 そのくせいくら抱かれてもひどくされても満たされない。だから終わらない。終われない。熱はいつまでも腹の底に溜まる。
 しばらく、互いに黙ってコーヒーを飲んだ。とても静かな朝だった。カーテンは引かれていたが、中途半端に細くひらいた部分から、朝のひかりがラグにひと筋の帯を伸ばしている。
 半分ほど飲んだところで、シャワーを浴びなければと思った。一虎くんは目を伏せてマグの中を覗いている。長い睫毛が頬に影を落としていた。きれいな顔。思わず見惚れてしまうほどに、一虎くんはきれいな顔をしていた。なにを考えているんだろう。思いつつ、わずかになったコーヒーを口に含んで飲みこんだ。
「シャワー、浴びてきます」
 ひとこと断って、浴室に行けばそれで逃げきれると思っていた、オレはそうとう浅はかだったのだ。すべて洗い流せると、なかったことにできると、そう思った。
「千冬」
 低い声で呼ばれて、突然手首を掴まれた。身構える隙もなかったため、手にしていたマグから中身がこぼれた。幸いさめていたが、黒い液体は足もとに点々と落ちて思わず「うわっ」と声を上げてしまった。マグをカウンターに置こうとした瞬間、思いきり腕を引っ張られた。
 あっというまに、オレの首は一虎くんの腕に絡めとられていた。さめたコーヒーは敢えなく、ほとんどが床にぶちまけられてしまった。
 からになったマグを片手に持ったまま、オレは呆然としていた。一虎くんのかたちのよい鼻がくびすじから耳のうらを這って、すんすんと匂いを嗅がれる。心臓が、いやな音を立てて軋んだ。センスねぇ匂い、と一虎くんはぼやいた。ホテルで使ったシャンプーは無駄にあまったるく、たしかにこのましい匂いではなかった。
こういうの  ・・・・・も仕事なのかよ」
 苦しそうに、一虎くんは言った。答えに窮していると、首を抱く腕に力をこめられた。
「なんで?」
「えっ」
 一虎くんの声がせつなげにふるえていたため、オレは動揺した。
「なんでこんなことすんの?」
「……かずとらく、」
「なんで、よその男と寝れんの? 仕事だ? 絶対ぇ、ちげえだろ。嘘つくなバカ。なんのためだよ。オマエがそんなことする意味、ぜんぜんわかんねぇよ」
 ひと息に、一虎くんは言った。絞り出すような掠れた声だった。
「すきなヤツとヤってんなら、いいよ、つきあったりしてても。でもそういうんじゃねぇんだろ」
 行きずりだろ、と一虎くんは言った。オレは唾を飲んだ。紡ぎたいのに、言葉が口の中でもつれる。気づかれていたと思うと、腹の奥がしんと冷えていった。乾いたくちびるを舐める。
「……ストレス解消したって、いいでしょう」
 ようやく口がひらいたと思ったら、吐き出されたのはそんなせりふだった。「べつに」ひんやりとした声で、オレは言った。
「ガキじゃねんだし、こういうのも、ありでしょ」
 一虎くんは目を見開いた。今にも泣き出しそうに顔を歪める一虎くんが、かわいそうでならなかった。そんな顔をさせたいわけじゃないのに、じょうずに嘘がつけない。
 息を吸う。一虎くんがこんなふうにオレを詰るなんてはじめてのことだった。だから、どう応じるのが正解かまったくわからなかったのだ。
「どうしょうもなかった、から」
「はあ?」
 一虎くんは顔を顰めた。眉を八の字に下げて、頬を引きつらせて。心底呆れたような顔。当たり前だ。オレの言葉はあまりに陳腐で、ガキの言い訳とおなじだから。「誰でもよかった」「どうしょうもなかった」だなんて、昨夜からオレはすっかりクソガキだった中坊のころに戻ったみたいに、詮ない言葉を並べている。
「誰かと寝りゃあ、何かが解決する気がして。そんなことなかったけど。それでも、オレはオレをそうすることで慰めて、ぐちゃぐちゃにして、傷つけて、罰したかった」
 傷つけられたい欲求と、慰められたい欲求がこれほど近いものだとは思わなかった。オレは、愚かで狡い。傷つくことで罰を受けて、それでゆるされるなんて思っていた。そんな都合のいい解釈を身勝手にして、オレ自身を正当化していた。オレの行動に顔を歪ませるくらい、一虎くんが怒るとはつゆとも思わずに。
 深いふかいため息が聞こえた。一虎くんはペーパータオルのボックスを手に取ると、カウンターの向こうからこちらにやって来て、オレの足もとにしゃがみこんだ。床にこぼれたコーヒーを、タオルで拭いてゆく。スウェットに包まれた背中が緩やかに曲がる。髪を括っているせいであらわになったうなじが、ひどく頼りなく、無防備だった。
 彼は無言で床を拭いた。横柄な所作は一虎くんの抱える苛立ちをわかりやすく表していた。
 この人はオレが反社組織の人間だってことを知りながら、平気で背中を向けるしくびすじを晒す。オレに殺される可能性なんて考えたこともないようすで、オレに接する。
 一虎くんには東京卍會内部の諜報役を担わせていた。「今の東卍を変える」という目的を果たすために、オレは一虎くんをこの革命に引きずりこんだ。そう、革命だ。命を賭した革命。死ぬかもしれない、死を覚悟した、謀反。
 オレがトチれば一虎くんもまた危険だし、逆も然り。一虎くんはどうして、オレが自分  テメェを殺さないと信じていられるんだろうと思う。こぼれたコーヒーを拭う背中。白いうなじに手を伸ばして、後ろから首を絞めることなんざたやすいのに。オレがてのひらを返して彼を裏切ることを、すこしも疑っていないうしろ姿。
 その場にしゃがみこんで、生ぬるい体温をまとった背中に頬を寄せた。スウェット越しにも彼の背骨の凹凸とその蠢きが感じられた。
「……手伝えよ」
 まるめたペーパータオルを片手に、ぼそりとつぶやく。その声の振動がオレに伝う。うん。オレは頷きながら、両手を彼の体の前にまわした。
「ごめんね」
 背中に顔を押しつけて、オレは言った。「コーヒー、淹れてくれたのに、だめにして」
 一虎くんは動かす手を止めた。握っていたペーパータオルを手の中でくしゃくしゃにして、床に放った。
「謝るトコ、絶対おかしいだろ」
「うん。知ってる」
「わざと?」
 うん。オレは息を吐いた。すこしだけ笑ったことに一虎くんは気づいたようで、呆れたようすでため息をついた。
「しょうがねぇヤツ」
「今さら気づいたんスか?」
 オレはくちびるの端を持ち上げた。
「しょうがねぇ男っスよ、オレは」
 一虎くんは鼻を鳴らした。バカにするみたいに。
「だからモテねんだよな」
「それはアンタもおなじでしょ」
 一虎くんは首を捻ってこちらに視線を向けた。金色の瞳を見つめると、その目の中にはオレが映っていた。彼の視野にオレだけがいる、その特別をなぜ今まですこしも思わなかったのだろう。オレを見つめてくれる目を、オレは真っすぐに見つめかえせていただろうか。
 野郎と寝たの。静かに、一虎くんは問うた。うん、とオレは頷く。知ってるオトコ? ううん、知らねぇオトコ。どうだった。ぜんぜん、だめだった。でも、いった? いった、けど。よくなかった。後悔した? 寝たこと。……うん。した。
 きれぎれに、言葉を交わす。低く抑えた声で、キッチンカウンターの前にしゃがんで、秘密を打ち明けるように顔を寄せあわせて。
「オレじゃあだめだった?」
 すこしの沈黙のあと、ふいに一虎くんが言ってオレは目をまるくさせた。真っすぐにオレを見つめるまなざしは真剣で、そこから目を逸らせなかった。空気がピン、と張り詰めた。
「……頼んだら、抱いてくれてたんスか」
 笑わせようとしたが途端に満ちた切実な気配が消えることはなく、オレはすぐに顔を強張らせた。
「オレじゃだめなのかよ」
 もう一度、はっきりとした口調で一虎くんは言った。
「知らねぇ野郎とヤるくらいなら、オレでいいじゃん。ストレス解消でもなんでもさ」
 それは、だめっスよ。オレはそう言いたかった。一虎くんにそんなことは望みたくない、と。なのに言葉は喉もとに絡まって、すこしも出てきてくれない。
 額を一虎くんの背中に預けた。深く、呼吸した。つくづく、オレはしょうのない男だと思った。頭の中がぐちゃぐちゃで、理性も欲求も境界が溶けあって混ざり、ワケがわからなくなっていた。抱かれたい、ひどくされたい、満たされたい、でもちっとも満たされない。ほんとうはどうなんだ。オレに問いかけてくるオレがいる。そうほんとうは、アンタがよかった? うん、アンタがよかったよ。アンタじゃなきゃだめだった。そのへんの野郎なんかじゃなくてアンタが。アンタが欲しい、アンタに求められたい。だめ、アンタには頼めない。傷つくのが怖い。傷つかれんのが怖い。拒絶されたくない。だめだ。嘘。恋いたい。乞いたい。こうてほしい。だめだよ。本気ですきになっちまうよ。本気で、愛しちまうから。さわって。さわらないで。さわって。痛いところ撫でて、さすって、優しくして。ひどくしないで、ゆるさないで、絶対に。優しくしてほしい。泣きたい。ほんとうは。苦しい。くるしい。息ができなくて、もう、ずっとずっと、呼吸するのがむつかしい。
 するりと、一虎くんの手がオレの頬に触れた。そうして、まるで当たり前のようにくちびるを寄せた。軽いキスをいちど、交わした。まばたき一回ぶんにも満たない浅すぎる口づけは、けれどオレを狼狽させるにはじゅうぶんだった。
 驚いて身を引いたオレを逃すまいと二の腕を掴んできた一虎くんのてのひらが、ひどく、熱かった。
 なあ、と一虎くんは言った。
「このまま押し倒していい?」
 強い光を瞳に宿しながら、オレの耳もとで囁く。熱を孕んだ声に、背筋がふるえた。唾を飲みこみ、オレはかぶりを振った。
「……だめっス」
「なんで」
「なんでって……」
 さっきとおなじやりとりが始まりそうだった。なんで、なんで。オレらはいつも、なんでばかりを投げ合っている気がする。
 答えを見つけられないんだ、きっと。今のこの生活に、ただしい答えを見つけ出せていない。だからいつも問いかけてばかりいる。ほんとうにこれが、ただしさなのか、と。
「……だって、オレ、一虎くんがすきだから」
 観念して、オレはちいさな声で告白した。一虎くんの眉がわずかに動いた。怪訝な表情を浮かべて、オレを見つめる。
「オレ、アンタのことがすきだから。もし抱かれたら、本気ですきになっちまう」
「それ、だめなことなん?」
 わかんねぇ、けど。でも。オレは弱々しくつづけた。
「なんか、だめな気がする。オレもアンタも、いつ死ぬかわかんねぇし。すきになっちまったらせつねぇもん」
「縁起でもねぇこと言うなよな」
 一虎くんはゆったりと笑って、オレの髪の毛を柔く撫でた。その手つきがあまりに優しくて、目のふちに溜まった涙の粒があふれて、頬を伝った。
「っていうか、そんなんが理由なわけ」
 ん、とオレは洟を啜った。いい歳をした大人の男が、しかも犯罪組織の構成員が、めそめそ泣いてるなんて誰にも知られてはならない。この人の、一虎くんの前でだけだ。今は特別だ。
 目もとを拭ったオレの頭を撫でながら、一虎くんは、バカだなあとほほ笑んだ。
「どうせ抱かれんなら、すきなヤツに抱かれたほうが死んでから後悔しねぇだろうよ」
 ヘンな野郎と寝て、後悔したんだろ? ストレートに問われて、言葉に詰まる。
「成仏できたほうがいいじゃん」
「……縁起悪ぃこと、言わないでくださいよ」
「千冬が先に言ったんだろお」
 くしゃくしゃと髪の毛をかき混ぜられて、オレは頬をゆるめた。涙がこぼれる。一虎くんのスウェットとオレのシャツに、涙はぱらぱらと散った。

 
 差しこまれた舌は思いのほか熱かった。水音を立てながら咥内を貪られる感触は昨夜の行為を思いださせられたが、今、オレにさわっているのは他でもない一虎くんだ。照明を切り、カーテンを隙間なく閉めたリビングはすでに濃厚な空気に満ちていて、それだけで脳の中心があまく、痺れた。
 喉を鳴らして混ざり合った唾液を飲みこむ。体を動かすたびに、ふたりぶんの体重を受けとめているソファが痛々しげに軋んだ。「壊れそ」と一虎くんが笑う。やわらかな吐息が頬を撫でる。うす暗がりの中で、互いの表情は判然としない。輪郭だけが影を成し、だからたしかめるように執拗にさわりあった。頬に触れ、顎を辿り、くちびるを探り当てて深く口づけた。キッチンでしたキスよりもずっと、ずっと深いものだ。
 ぬめって熱を持った舌が歯列をなぞり上顎やら舌やらを舐め、啜る。シャツはボタンを外されてあっさり脱がされてしまった。オレはちいさな呻き声をあげる。一虎くんとセックスしてるんだ。その現実がどうにも不思議で、不思議と思う自分がおかしくて、苦笑してしまう。
「なぁに笑ってんだよ」
 ちゅ、とむき出しの鎖骨にキスをされて、オレはくすぐったさに身を捩った。
「や、セックスしちゃってるな、って、思って」
 なんだそれ、と一虎くんは目を細めた。うす闇の中、金色の瞳が潤んでいるのが見えた。
「現実なのかな、これ」
「現実だよ。夢だったら生々しすぎてちょっとやだよ」
 ちろちろと舌先で乳首を舐められて、刺激に思わず腰を引いた。その腰を一虎くんががっしりと掴む。股座に押し当てられている一虎くんのモノはとうに硬くなっていて、勃起したオレのそれとズボン越しに擦れあいいっそう質量を増してゆく。
 一虎くんがベルトに手をかけてズボンを下ろそうとする。オレはすっかりはだかにさせられているのに、一虎くんはまだスウェットの上下を着ている。それが不公平に思えて、オレはスウェットの裾から手を差し入れて一虎くんの腹を弄った。
「かずとらくんも、脱いでよ」
 上目で訴えると、彼はすなおに頷いて、自らスウェットを脱いだ。あらわになった白い胸、意外にしっかりとした鎖骨、そこから伸びるくびすじのタトゥー。色っぽい、と思った。今に知ったことじゃあない、けれど。
「オマエもぜんぶ脱いじゃえよ」
 ズボンを引っ張られて、パンツもろとも勢いよく脱がされた。外気に晒されたオレのモノは上を向いて、これから与えられる刺激に期待しているようだった。恥ずかしくなって閉じようとした脚を、一虎くんの両手が無理やり広げた。そうして、まるでなんでもないかのようにオレのを咥えたのだった。
「え、ァ、ちょっ、」
 んん、と一虎くんが喉の奥でしゃべると、振動がじかにオレを刺激した。無理、やめて。彼の髪に触れ、懇願するオレの声はすでに濡れていた。
「ひぃ、ゃっ、むり、」
「んー……」咥えたまま、一虎くんの目がひかる。「先っちょ、垂れてきた」
 やだ、と言うオレのことなどお構いなしに、一虎くんの口が、舌が、モノを昂めようとする。目をきつく閉じた。一虎くんの咥内のあたたかさと唾液のぬとぬとした感触が全身を粟立たせた。
 目の端から涙があふれ出た。精液より先に生ぬるい水を目からこぼしたオレの、ふるえる右手を一虎くんが握った。指を絡めあう。ほそい指先が、オレの手の甲を撫でる。オレより大きいのにオレより繊細なつくりをしている一虎くんの手。いとおしかった。この手は、きっとオレを殺さないと信じられる手だった。かつてオレのたいせつな人の命を奪った手。だと言うのに、彼の手に狂気がとうにないことを、オレは知っていた。
「あっ、ぅ、んっ、かずとらく、」
 ぎゅううぅ、と手を握りしめた。一虎くんは舌を上下に動かして舐めたり、先端を吸ったり、奥まで咥えこんだりしてオレを膨らませ、先っぽに滲んだ体液を擦りつける。背筋に這い上るものがあった。「いく」とオレは息と声を同時に吐いた。
「いっちゃう」
「ん」
「でちゃう、から、はなして」
「やら」
 ばか、と、一虎くんの髪の毛を左手で掴んだ瞬間、情けない声をもらしてオレは吐精した。一虎くんの口の中がオレのザーメンで汚れてゆく。
「ああ、あっ、かずとらくん、汚れるっ」
 オレは目をあけた。
「いいよ、べつに、汚いとかねーし」
 まるでそうすることが自然とでも言うように、一虎くんは精液を飲みこんだ。恥ずかしさと居た堪れなさで、オレは顔じゅうに熱が集まるのを感じた。
「……っ、ソーロー、恥ずい」
 顔を覆う手を、一虎くんは手首を掴んで引き剥がす。そうしてくちびるにキスをして、にんまりと笑った。いたずらっ子みたいな笑みだった。
「オレのが上手いだろお」
「……誰と比べてんスか、知らねぇっスよ」
「えー。オマエのワンナイトの相手?」
「ワンナイトなんかじゃないって……」
 なんでもいいけどさ、と一虎くんはオレの頭を抱きしめた。
「なあ、オマエのさ、ぜんぶ見せて。汚いとこも、狡ぃとこも。ぜんぶ知りたい」
「な」
 なんで、と言おうとしたオレの口を、ふたたびキスで塞ぐ。それから、オレの目を見つめた。
「オレもオマエのことすきだから」
 弱いとこ、ちゃんと見せろよ。オマエの、弱いとこ、どこ?
 左耳のピアスを、あまく噛まれた。一虎くんの口の中で、金属が歯にあたるカチカチという音がする。
「オレはさ」と一虎くんは耳もとで囁いた。
「オマエの汚くて狡ぃとこ知っても、オマエを罰してゆるしてやることなんかできねぇし、その資格もねぇよ。ただそばにいることしかできねぇ。――でもそれは、オレもおんなじだろが。オレも、オマエにゆるしてもらえるなんて思ってねぇ」
 オレの手に、手を絡めて、一虎くんはオレの目を覗きこんだ。彼のまなこに映るオレは、まっかに熟れた顔をしていた。いつもより、幼いガキのように見えた。
「オレはオマエに優しくしてぇよ。痛いとこがあったらなおしてやりてぇと思う。そういう意味の、すき。……なんか、ぜんぜんうまく言えねーけど、これ伝わってる?」
 オレはなん度も頷いた。頷くたびに、涙がはらはらと舞い落ちた。そっか、と一虎くんははにかんだ。顔が近づいて、額と額が重なった。
 一虎くんの長い前髪が揺れて、頬を撫で、こそばゆさにちいさく笑った。オレのうちがわがあたたかな水で満たされてゆくのを感じた。あんなにも渇いた平坦な心に、突然浅い海がうまれたみたいだった。波が寄せて、静かに引いてゆく。地を踏む脚の、指のあいだに砂つぶが入りこむざらざらした感触が楽しかった。
 あいしている、と思った。目の前のこの人のことを、オレは心からあいしている。
 頭を抱きかえして、言葉にしようとしたのに声が出なかった。代わりに嗚咽がもれて、オレはほたほたと涙を流した。


 ◇


 経営を任されているキャバクラに電話をかけて、客の入りや店の状況を訊いた。何事もなく営業を始めていることを確認すると、すぐに電話を切った。通話終了の画面が消えて真っ暗になったスマホをテーブルに置き、ソファに横になっている一虎くんを見やった。髪の毛に指さきで触れると、視線をこちらに向けて満足げに目を細めた。
「店、大丈夫だって?」
「はい」
 オレはソファの背もたれに体を沈める。
「店はよしとして、もう少ししたら、出ますね」
 ん、と一虎くんはオレの指にキスをした。
 サラリーマンではないから、適当な理由をつけて仕事を休むことはできない。夕闇の迫る部屋、シャツを羽織って、体だけはすでに外出する準備が整っていた。でも、気持ちはしつこく一虎くんのそばにあった。彼も彼で、仕事はあるのだったが。
「オレら、とんだ悪党なのに、こんなんでいいんスかね」
 夜はゆるやかに降りてきていた。照明のついていない部屋の中で、ソファに寝そべる一虎くんの体の輪郭が淡い影となって浮かび上がる。
 閉めきられたカーテンの向こう側を、今日はいちにち、いちども見ることがなかった。
 テーブルに置いた500mlの水のペットボトルを手に取って、ひと口飲んだ。つめたい水が喉を心地好く滑り落ちていった。
「いいんじゃねぇの」
 一虎くんがつぶやいた。「地獄に堕ちる準備はとっくにできてんだ」
 あっけらかんとした答えに、オレは笑った。
「そうか。そうっスね」
「だから今さら、余計な心配すんな」
「……うん」
 指を掴まれて、食まれた。一虎くんの生ぬるい咥内の感触はさっきまでさんざん味わっていたのに、もうすでに欲しくなっている自分に、呆れる。
 あぁあ、とオレは天井を仰いだ。
「満たされたって思ったのに、そしたらもっともっと欲しくなっちまう」
 本気で彼を愛して、彼に愛されて、もう手遅れなところまで来てしまったことを、でもオレはちっとも後悔していなかった。満たされても満たされても、そう思ったはしから水はあふれて、注ぎ足さないとまた足りなくなって。そんなやるせない戯れを、これから先なん度もなん度もくり返してゆくのかと思うと、途方もなかった。
「言っとくけど、オマエと心中するつもりはねぇからな」
 一虎くんは体を起こした。長い髪とともにピアスが揺れて、鈴がリン、と音を鳴らした。
「わかってますよ」
 一虎くんの腕が体に絡む。彼はまだなにも身につけておらず、まっさらなはだかの体を晒していた。
「アンタが死んだらオレは泣くし、オレが死んだらアンタも泣いてください」
 縁起でもないことを、また口にする。けれど一虎くんは嗜めなかった。神妙な面持ちでかすかに頷き、オレの鎖骨に頭を預けた。
「一緒には、死なない」
 約束は、それだけでよかった。一虎くんもおなじように思っていると、オレは根拠なく信じていた。
 まとわりつく一虎くんの体温がいとおしくてたまらなかった。彼でいっぱいになった体を使って、今日もまた生きてゆくのだ。
 一虎くんがオレを見つめる。オレも一虎くんを見つめかえす。金色の瞳の中にオレがいる。腑抜けたような顔をしている。頬を赤らめた、まるでガキみたいな。
 一虎くん。オレの声はほそく、ちいさくて、こっくりと濃厚な部屋の空気に溶けてゆく。
 ――あいしてる。だから、絶対にオレをゆるさないでね。
 声が、言葉が、届いたのか、オレにはわからなかった。確認しようとも思わなかった。闇は濃く、染み入るように部屋に広がってゆく。
 行かなきゃ。オレは一虎くんの鼻の頭にキスをして、立ち上がった。