明け方の空気は清潔に澄んでいて、それに身を浸せばこんな自分でも少しだけきれいになれる気がした。そんなわけねぇのに。くちびるの端を持ち上げて自嘲し、千冬はネクタイの結び目に手をかけた。
 マンションのエントランスに入りオートロックを解錠すると同時に、まずネクタイを緩める。エレベーターが降りてくるあいだ、静かに、深く、呼吸をくり返す。一度、二度、三度。
 全身にまとわりつく緊張感は、しかしついぞほどけることはない。一生、この体で生きていくんだな。靄のかかったように不明瞭な頭で千冬は思い、ふたたび笑みをこぼした。かなしみや絶望の感情はとうに過ぎて、胸に湧いてくるのは己への蔑みと憎しみと失望だった。頭重感が、このところずっと続いていた。ずるずると目線が落ちていく。前髪がまぶたにかかる。エレベーターの発する機械音がうるさかった。
 価値がわからない仕立てのよいスーツも、ブランド物の腕時計も、今すぐ剥いで捨ててしまいたかった。今日は誰も殺さなかったことに安堵する不自然を悼みたかった。こんなの普通じゃないと、ほんとうは心から叫びたかった。
 それでも少しも声が出ないのは、体が疲れきっているからだ。自覚している。頭の重みも、凝りすぎた首や肩が痛くてたまらないことも。
 早朝のエレベーターホールはひと気がなく静かだった。静けさが千冬自身の心を追いつめてゆくことに気づいたのは、最近のことだ。疲れてんだよ、と同居人の男はいう。くまがひどいぜ。ちょっと休まねぇと。
 金色の長い前髪を揺らして千冬に語りかける同居人のまなざしは、いつも優しかった。彼のその優しさがうれしくて、疎ましくて、憎らしくて、「そうっスね」と表面上はへらへらと笑って受け流しつつも胸の内では千冬はいつも悪態をついている。うるせんだよ、休んでらんねぇんだよクソが。
 ポン、とまぬけな音が響いて、エレベーターが止まった。下げていた重いこうべを無理やり持ち上げる。
「……あ、れ」
 ドアがひらいたとき、目の前に現れたのはくだんの同居人だった。彼――羽宮一虎は部屋着のスウェットを着て、髪をゆるく括ったラフすぎる恰好でそこに立っていた。千冬をじっと見つめ、やがて小さな声で「おかえり」と言った。エレベーターから、千冬の前へと一歩踏み出す。
「……お出迎えっスか」
 千冬はため息を吐いた。また、悪態だ。優しさを無碍にする自分を、そう戒めながら。
「上から、見えたから」
 一虎は親指をあげて頭上を指し示した。ベランダから、帰宅する千冬の姿が見えたのだという。千冬は「そうですか」と呟いた。
「そりゃ、わざわざ、ドーモ」
「なあ。桜、咲いてんの見た?」
「は?」
 一虎の横を通りエレベーターに乗りこもうとした千冬の腕を、一虎は掴んだ。そして前後の脈絡もなく、突然問うたのだった。
「なに、桜?」
「道端に植わってる桜の樹、あんじゃん。蕾だったやつ、咲いてたから、今日」
 マンション前にはたしかに並木道があり、冬のあいだは寒々しい裸の枝を天に向かって伸ばしていた。それらの樹が桜の樹だとは、しかし千冬は知らなかったし、蕾がついていたことも、花が咲いたことにも気づかなかった。並木の通りを歩いたはずだというのに。すべては千冬にとってただの景色でしかなかった。そして一虎の報告は仕事帰りの彼にとって何の意味も伴わず、千冬は眉間にしわを寄せた。
「……だから?」
 どうでもいい、と千冬は思った。そんなことよりさっさとスーツを脱いで腕時計を外してベッドに倒れこみたかった。毛布にくるまって、なにも考えずに眠りたい。それがたとえ浅い細切れの眠りだったとしても、目を閉じて暗闇に沈んでしまいたい。
「なあ、花が終わっちまう前に、どっかで花見しねぇ?」
 露骨に不機嫌をあらわにする千冬を無視して、一虎はのんびりとした調子で続けた。一虎が千冬のために、リラックスしたていを装っていることはすぐに察した。
 このところ、こうしてふたりで向き合って話をする機会が少なくなっていた。朝帰りが多くなり、血生臭い案件に絡んだ夜は家に帰らずホテルに泊まった。ひさしぶりに、まっすぐにこの人の顔を見たな、と千冬は思った。そして、彼の放った言葉をゆっくりと咀嚼する。
 蕾。桜の樹。花見。どうにも現実味を持たない単語たちだ。――ほんとうに? 心の奥底で、千冬は自問した。
 現実味がないのは、いったいどちらだというのか。彼のいう桜のか。今、自分のいる世界か。
 今日は誰も殺さなかった。アリバイ工作することも、血の匂いを消す必要もなく、一日を穏やかに終えられた。そんなことにいちいち安心して、また朝を迎えるこちらの世界に桜なんか咲きやしない。いやちがう、オレが見ていないだけ、気づいていないだけで、ほんとうは、ちゃんと咲いているんじゃないか?
 視界が上下に激しく揺れて、一虎のととのった顔がぐにゃりと歪んだ。手足が痺れ、つめたくなってゆく。目を瞬かせて、両足を地面に押しつけた。それでも重力には勝てず、倒れる、と思ったときには膝がくずおれ、千冬の体は一虎に腕の中に沈んでいた。
 一虎から漂うボディソープの匂いが、早鐘を打つ心臓をゆっくりと均していった。気がつけば嗅ぎ馴れていたその匂いは、千冬の使っているボディソープと同じもので、彼と自分がいっしょにくらしていることの証明のように思えた。
「……ほら、疲れてる」
 頭の上に、一虎の声が降ってくる。「疲れてる――どころじゃねぇか」
 そりゃそうだよな、と、一虎は言う。そりゃあ、そうっスよ。千冬は笑う。こちとら反社組織側の人間なんスよ。日陰者がのんきに花見なんか、ゆるされねぇんだよ。
「世話ぁ、ないっスね」
 千冬は体を支えている一虎の腕にしがみついて、浅く息を吐き出した。
「くたびれ果てて帰ってきて、アンタに介抱されて。こんなザマ、誰にも見せたくもねぇのに」
 誰にも見られずに、この人にも知られずに、路傍で倒れてそのまま逝っちまったほうが楽なんだろうなあ。オレのために泣いてくれるこの人が、実際に泣いてるのを見るのは、つらいだろうから。
 ――結局オレは、自分のことしか考えてねぇんだなあ。
「桜、きれいでしたか」
 ぽつりと、千冬は言葉をこぼした。オレはちっとも気づかなかったけど、アンタは、見たんでしょ。一虎は「ん」と頷いた。
「きれいだった」
「……そっスか」
「オマエも早く見とけよ。散っちまうぞ」
「うん。そうします」
 指を伸ばして、一虎の頬を撫でた。しばらく撫でていると、滑らかな肌が指のひらに馴染んでゆく感触が心地好い。よかった、と千冬は目を細めた。
「アンタにはずっと、きれいなもんばっか見ていてほしいんで」
「おんなじセリフ、そっくり返すわ」
 くすくすと一虎が笑う、その振動が千冬に伝う。オレには、と、口をひらきかけて噤んだ。オレには、アンタにそう言ってもらえるだけの価値がある? いつでも、後悔と不安で潰れそうになりながら生きている。その心臓が今でも動いて止まらないのは、一虎がいるからだと千冬は信じていた。
 そして、彼を失うより先に自分が死ぬのだろうこの先の運命のことも。
「今度、花見しましょうよ」
 一虎の腕をほどいて、千冬は自分の力だけで床を踏む。前髪を掻き上げると手櫛でかんたんにととのえた。
 おう、と一虎はうれしそうに頷いた。そうして千冬の手をとって、ゆるい力で握りしめた。あたたかくてやわらかな手を、千冬もまた握りかえした。
 ねぇ。千冬は一虎の目を見上げた。
「生きて、くださいね。一虎くん」
 そんな願い自体が罪だとわかっていたが、口にせずにはいられなかった。俯いて、自身の靴を見下ろす。昨日の朝に磨いた革靴は、もうすでに曇りが目立っていた。
 生きて、生きて、生きて、オレなんかよりずっと長く生きて、たくさんきれいなもんを見てください。
「遺言みてぇで、聞きたくねぇな」
「遺言だったらなおさら、いうこと聞いてくださいよ」
 事実、明日のことさえわからない世界に生きているのだ。おはようもおやすみも、行ってきますもおかえりも、すべて遺言だと思ってもよいはずだった。
「花見の約束も遺言なん?」
 一虎が言うのに、千冬はふふっと笑った。「どうでしょうね。そうならないようにしてぇけど」
 あ、と言いながら、一虎の指が千冬の髪の毛に伸びた。少しの沈黙ののち、一虎は面映そうに笑って、指さきを目の前に差し出した。うす紅色のはなびらが一枚、親指と人差し指に摘まれていた。
「……さくら」
 千冬は低い声でつぶやいた。
「きれいってか、かわいいっスね」
「千冬に似合うよ」
「いや、それうれしくねぇっス」
 女じゃねぇんだから、と尖らせたくちびるに、一虎のくちびるがごく軽く触れた。キスは一瞬で、しかしお互いをその気にさせるには充分な行為だった。
「外ではそういうの、やめてって」
「じゃー、さっさと帰ろうぜ」
 ボタンを押すと停まったままのエレベーターのドアはするすると開いた。握った手が少しずつ熱を持ってくる。恥ずかしいのに、離せない。離したくない。
 手の体温とかたちを探るように千冬は一虎の手をきつく握りかえす。もうかたほうの手には髪についていた桜のはなびらを包んでいた。こんなものを持ち帰ったところで、と思うのに、捨てるのがひどく惜しかった。
 きっともうきれいにはなれない自分だから、せめてきれいなものを見て、触れていたい。隣に立つ一虎も、千冬のそんな願いを叶えてくれる存在のひとりだった。きれいな人。オレの、すきな人。
「一虎くんに、もっとさわりたいです」
 ぼそりとつぶやくと、一虎は少しばかり黙ったのち、「すきなだけどーぞ」と笑った。