とこしなえ

 夢の中で、千冬はひとりきりで立ち尽くしていた。ふたりでくらすために借りた一LDKのアパートのリビングがいつもより広く感じられて、なんだか居心地が悪かった。ひとりでいるには、この部屋は広すぎると感じた。そこでようやく、千冬は一虎が側にいないことに気がつくのだった。
 一虎の不在に、千冬は、そうか、と心のどこかで納得をする。そんな気はしてたんだ、彼はいつかいなくなるんだろう、と。だというのに、安堵の気持ちと同時に滲んでくるのは失望と後悔と罪悪と孤独だった。
 現実世界にはあるはずの、二人掛けのソファもローテーブルもここにはなかった。ラグも敷かれていないフローリングはつやつやに磨かれている。そのせいで余計に広く感じられるリビングは、ベランダに面したおおきな窓から差しこむ光で白く、白く満たされていた。なにかが甘く焦げたような、ひなたの匂いがした。
 目を覚ましたとき、うす闇の中でこちらに背中を向けて眠っている一虎の存在をみとめて、千冬はため息をついた。そうして彼の背中にひとさし指を伸ばす。触れてみる。感触をたしかめるように、背骨をなぞる。身じろぎをする一虎の、浅い吐息。かすかに、喉奥でうめく。ううん。一虎がたしかに目の前に存在していることを、ぬるい体温や呼吸や声が千冬に伝える。
 あれは夢だったんだ。その事実をつよく噛みしめて、千冬はふたたび目を閉じる。
 

 やわらかな日ざしが睫毛にからんで、あんまりまぶしくて二度三度と瞬きをした。今は現実。コンビニのビニール袋が歩くたびにカサカサと音を鳴らした。薄手のロンTにジーンズという軽装で外に出たのだが、上着を着なかったのは正解だった。三月にしては例年よりずっと気温が高くて、歩くと暑いくらいの陽気である。
 スニーカーを履いた足で一歩一歩アスファルトを踏みつけて、今は現実、口の中で、声にはせずにつぶやいた。最近よく見る夢のことをふいに思いだすとき、千冬はどうしようもなく心ぼそい気持ちになる。今は現実。そう自分に言い聞かせないと、夢と現実がごちゃごちゃに混ざり溶け合って、境界線を失って、しまいにはそれらが混同してしまうような気がして、怖かった。
 街路に植えられた桜の樹が、天に向かって枝をいっぱいに伸ばしていた。枝がつくる複雑なかたちの影の下を、千冬はとろとろと歩いていた。コンビニからアパートまでは往復しても十五分とかからないのだが、牛乳一本を買いに行く決心をするために、ずいぶんと時間を浪費してしまった。
 コンビニ袋の中には牛乳一本とシュークリームがふたつ、入っていた。シュークリームはシューにいちごのクリームを包んだこの季節限定のものらしかった。一虎が喜ぶと思って、買った。牛乳以外のものを買うつもりなどなかったのだが。
 今朝飲んでなくなってしまった牛乳を、早めに買いに行かなければと思っていた。一虎は千冬に買いに行かせたがったし、千冬は一虎が買いに行ってくれと思っていた。じりじりとしたとても無為な心理戦の末、先に諦めたのは千冬だった。
「どっか行くん?」
 ソファから立ち上がってジーンズの尻ポケットに財布を突っ込んだ千冬に、一虎はわざとらしく問うた。分かってるくせに。千冬は舌を打ちたい気分だった。アンタ、そういうとこだぞと思う。そういう、意地悪なとこだぞ。
「コンビニ。牛乳買ってきます」
「じゃあ悪ぃけど、ついでにたばこ買ってきて」
「……自分で行け」
 ムッとして返した千冬に向かって、一虎もまた不服そうな表情で「けち」と言った。なんてわがままで自分勝手なひとなんだろう、ほんとうに。
 そんな男のことを、しかし千冬はどうしようもなく好いてしまっていたのだった。
 放っておかれない、と思う。ずっと見ていたいし、ずっと見ていなければならない、と思うのだ。そう思わせるあやうげな部分に、惹かれた。
 一歩を踏み出すたびにビニール袋が揺れる。カサリ、と乾いた音が鳴る。ここ数日のあいだに蓄積された夢の名残が、頭の片隅でつむじ風に乗る。それらははらはらと、舞い上がり、散らばる。
 夢の中は、静寂に包まれた世界だった。千冬が立ち竦む部屋は白く濁っていて、ひどく眩しかった。目の奥がじん、と痛むくらいに。
 一虎くんはどこに行ったんだろう。千冬はそれを心配した。彼はどこに、行かれるというのだろう。――行く宛てなんて、ここ以外、どこにもないくせに。
 自分がひどく残酷な考え方をしていることに、千冬は気づいていた。気づいていたが、しかし知らないふりをしていた。認めてしまえばとたんに途方もない気持ちになって、千冬は罪悪で立つことさえできなくなる。
 いなくなるんじゃねぇよ、勝手に。勝手に、オレの前から。
 離れるつもりなんてなかった。それは一虎だっておなじはずだった。でもあんな夢を見てしまうと、彼がいなくなる可能性を疑って、「あり得ない」なんてことはないんだってことに気づいてしまう。だってもうオレらはとっくにおとなで、成人していて、どこにでも行くことができる。それぞれ、一人だけの力で。
 一虎くんがいなくなることを、オレはいつだって恐れている。きっと、自分が死ぬことよりも、ずっとずっとつよく。

 
 アパートの玄関を抜けて、リビングのドアを開けたときだった。ただいま、と口から出かけた言葉は、ハッと飲みこんだ息と共に喉の奥へと戻ってしまった。
 ベランダに面した窓硝子から、高い位置に昇った日が燦々と差しこんでいた。部屋はしらじらとした光に満ち、眩しくて、目が痛いくらいだった。
 光に包まれてリビングのラグに横たわっている一虎の姿には、どこか既視感があった。
 彼は微動だにしなかった。膝を抱えた胎児のようなかたちをとり、頬を毛足の短いラグに押しつけて、深く目を閉じていた。長いまつ毛が頬にかげを落とす。うつくしい横顔だった。
 千冬はしぱしぱと瞬きをくり返した。記憶を辿る。オレはこれとおなじ景色を、いつかどこかで見たことがあると思った。でも、それがなんだったのか、思いだせそうで思いだせない。一つだけ引っ掛かりを感じたのは、教科書かなにかを気まぐれに捲っていたときに目に入った、いちまいの絵画。いっぱいの白い光に包まれて、まさにこの瞬間、息絶えようとしている男が描かれていた。今思えば、あれは宗教画の類だったのかもしれない。天に召される直前の、だれかの姿を描いていたのかもしれない。
 心臓が痛いほど激しく打った。息を吸い、吐いた。やっと、声が出た。
「一虎くんっ」
 千冬はビニール袋を床に放って、彼に走り寄った。肩に触れて抱き上げた瞬間、一虎はぱっちりと目を開けた。不思議そうなまんまるの目で、千冬を見上げる。そうしておおきなあくびを一つ、もらしたのだった。
「ちふゆ?」
 寝起きの一虎の声は芯がなく、ふわふわと頼りなかった。抱きかかえられた状態で、手の甲で瞼をこする。「寝てた」ぼそりと、言った。
「日当たりよくってさぁ。ここ、すげー気持ちいな」
 へらへらと笑う一虎を見て、千冬は一気に脱力した。肩を落とし、深くふかく息を吐く。先ほどまで激しく鼓動していた心臓が、ゆっくりと凪いでいくのを感じた。
「……ちょっと、本気で、ビビったんスけど」
 声が震えている。それは怒りのせいなのか、安堵のせいなのか、わからなかった。は? と、一虎は軽く首を傾げた。千冬の膝の上に頭を預け、うつむいた顔を下から覗きこむ。
「死んでるのかと、思った」
「はぁ?」一虎は大袈裟に吹き出した。くつくつと笑いながら、千冬の髪の毛にゆびを差し入れた。あやすような、優しい手つきだった。「なに、そんでビビったって?」
「アンタってほんとに……、ほんとに、どーしょうもないひとっすね」
「なんでそうなるんだよ。オマエが勝手に勘違いしたんだろ?
 っつーかさ、ふつー思うか? 死んでるって」
「だって、」
 だって。その先に続く言葉を、唾液といっしょに飲みこむ。だって? 一虎が先を促すのに、千冬はため息を吐いてうやむやにした。だって。
 ――だって、アンタが、あんまりきれいだったから。
 そんなこと、本人に向かって言えやしなかった。
「……死んでたらよかった? オレ」
 千冬の髪の毛先をつまみ、一虎はゆっくりとした調子で言った。口の端を持ち上げて、うすく笑みを浮かべる。見慣れた鈴のピアスが揺れて、音を鳴らした。一虎が小首を傾げるとき、ピアスは決まって、りん、と音を鳴らした。彼がいる、彼の存在を教えるひそやかな音だ。
「冗談でもンなこと、言わねぇでくださいよ」
「あはは。怖ぇーな」
 千冬は一虎の肩に回した腕に力を入れて、上体を屈めた。ぎゅううっときつく抱きしめて、伸ばしっぱなしの髪の毛をてのひらで梳いた。
 耳の近くで一虎が笑っているのを感じる。からかうような、ふざけているような、そんな笑いがさざなみのように続き、やがて一虎の腕が千冬の体に回される。おなじくらいに強い力で、抱きしめられる。
 閉ざしたまぶたの下で、熱い水があふれそうになるのを、千冬は堪えた。泣いたら、またバカにされる。そんなのは悔しい。でもアンタのために泣いてやるってのも、アリ、かもしれない。アンタのためにオレは泣けるし、アンタが死んだらオレは泣くし、ってこと、ここで教えてやってもいいんだ、オレは。バカにされたってなんだって。
「どこにもいくな」
 声は、かたちをなさないまま呼吸に混ざって溶けた。届いていないはずなのに、一虎は応えるように千冬の頭をぽん、と撫でた。その一瞬に、千冬の目のふちからひとつぶの涙がこぼれた。涙は一虎の胸もとに落ちて、シャツに淡い染みをつくった。
 きっとすぐに消えてしまうその染みに、どうか一虎くんが一生気づきませんように、と、千冬は心の底から願った。