ドライフラワー

 浅い眠りから目覚めるとき、決まって甘い香りが鼻先を掠めた。男二人が暮らす部屋には似合わない花の匂いは、ささやかで、そのくせ万次郎の記憶のみずうみをやさしく撫で、波立たせる。
 タオルケットに包まったまま目を開けると、いつもと変わらない景色がそこにある。ウォールナット色のフローリングに、落ちついたアイボリーのソファ。簡易なつくりのローテーブルには飲みかけのカフェオレの入ったマグカップが置いてある。
 目を閉じるまえとあとでなにも変わらない部屋のようすに、当たり前だとわかっていても万次郎は毎回、安堵する。そして枕にもう一度顔を埋めて思いきり息をすって、吐く。ふぁあ。猫の鳴き声のようなあくびが洩れた。
 まどろみの中で嗅いだ匂いがまた漂って、万次郎は視線を動かした。傾きはじめた日の光が、リビングの壁に掛けられた千日紅の花束に注がれている。元は去年の誕生日に堅がプレゼントとしてくれた生花だが、傷んできた頃合いを見てドライフラワーにしたのだった。
 ベッドに寝転がったままドライフラワーに視線を向けていると、この一年のあいだに起こったことを、まるでアルバムを一枚ずつ捲っていくように鮮明に思い出せた。香りは記憶と強く結びつくものなのだろうか。ふたりで暮らすこのちいさな部屋で、ドライフラワーはいつもほのかな香りを放ち、部屋で堅と過ごす時間に寄り添ってくれていた。
 香りは時間を経るにつれ徐々に弱くなっていったが、今もまだ、香りつづけている。
 スマホで時間を確認して、万次郎はもそもそと起き上がった。十六時四十ニ分。シャツから伸びる腕に鳥肌が立っていた。肌寒さに、点けっぱなしにしていたクーラーの設定温度をニ度上げる。
 太陽は傾きはじめていた。日中はまだ日差しの強い日もあるが、八月も終盤になり、次第にひかりは秋のそれへと衣を変えていっている。
 夏が終わりを迎えている。そう思うと胸の奥のほうで、痺れるような甘い痛みが走った。
 残暑は九月末、へたしたら十月に入ってもつづくかもしれない。しかし毎年、自分の誕生日を過ぎてしまえば、季節が一つ、終わる気がした。八月二十日が、万次郎にとって夏が死ぬ日だった。
 マグカップを手にとって、飲みかけのカフェオレをひとくち、飲んだ。砂糖と牛乳のたっぷり入ったカフェオレはすっかり冷めて、でも十分に甘くて美味しい。くしゃくしゃにしたタオルケットを引きずりながら、キッチンに向かう。まだ寝ぼけているようで、つめたい水を飲んで目を覚ましたかった。
 ミネラルウォーターが冷えていたはず、と思って冷蔵庫の前まで行ったとき、万次郎は吹き出してしまった。
 冷蔵庫のドアに一枚の紙が貼ってあった。そこには堅の字で、

 本日おやつ厳禁。 堅

 と、大きく書かれていた。そうだ、きょうはケンチンが帰りにケーキを買ってきてくれるんだった。ミネラルウォーターを取り出してコップに水を注ぎながら、うれしさで頬が緩む。くふふ、と自然と洩れてしまう笑みを抑えられない。冷蔵庫にはおやつと思って残していた生どら焼きが入っていたが、いまはそれを食べてはいけない。せっかくの誕生日のケーキを食べられなくなる。
「ケンチン、マメだなー」
 知らず知らずのうちににやけてしまう頬を、無駄な抵抗だとわかっているが、ゆびで摘んでみる。なにをしてもにやにやが止まらなくて、ああこれが、幸せってやつなんだ。万次郎はそう結論を出した。
 水を一気飲みして、空のコップをシンクに置くと、またタオルケットを引きずりながらキッチンを出る。裸足の足のうらがぺたぺたとフローリングを踏んだ。
 堅と一緒に暮らすようになって二度めの誕生日を、万次郎は迎えた。
 
 
「マイキー。誕生日、なに欲しい?」
 一年前の、誕生日数日前だった。とうとつに問われて、万次郎は咄嗟に、
「ケンチンの愛かな」
 と、言った。ベッドに入って、ふたりともあとは寝るだけという状態になっていた。右腕に頬を乗せて万次郎を見つめ、堅は呆れたようにため息をついた。
「……本気で言ってンだけど」
「オレも本気で言ってるけど?」
 そーかよ。ベッドの中で一枚のタオルケットに包まり、間接照明だけを点けた部屋はうす暗く、互いの表情の変化は影となって視界をちらつく。眠るまえのこの少しの時間を、万次郎は好いていた。眠りが誘ってくるのに抵抗して、堅の体にふれる。寝巻きのシャツの上から堅の腹を、子をあやすように何度も撫でる。
 くすぐって、と堅は身を捩った。いつもの、甘い夜の時間だった。
「いやマジで、本気で言ってンだから、オマエも本気で考えろって」
 堅は終わりそうになった話題を再開させる。万次郎の髪を梳いて、ゆびに絡めた。
「えー……」
 万次郎は気のない返事をする。誕生日。プレゼント。一緒に暮らすまえにも、誕生日が来るたび毎回そのやりとりをした。ふだんはわがままなくせに、でも肝心なときになにも思いつかない。万次郎は自分のことながら、それをいつも不思議に思っていた。なにか、バイクの部品とか、新しいメットとか、ケンチンにおんぶしてもらえる権利とか、なんでもいいから提案してみたかったのだが、どれもいまいちピンと来なかった。
 万次郎は体を動かして堅の体に腕を巻きつけ、抱きしめる。無言で、堅もまた万次郎の背中に手を回す。
 とくん、とくん、と万次郎の耳もとで堅の心臓の音がする。その音を聞くと安心して眠れたから、万次郎は眠るとき、いつも堅を抱いて、堅に抱かれる。
 なにもいらない、と万次郎は思った。なにも、ほんとうになにも。
「うん。やっぱり、ケンチンの愛で」
 それで、そう言った。堅が鼻を鳴らした。
「もっと具体的かつ物質的なもので頼むわ」
 そう言われてもなあ、と万次郎は堅の顔を見上げた。「じゃ、具体的かつ物質的なケンチンの愛」
「オマエなあ……」
 ぎゅうと体を押しつけられて、髪の毛をくしゃくしゃに撫でられた。ケンチンの大きな手のひらが好き。もっといっぱい撫でて、さわって。
 うやむやにするつもりはなかったが、堅にキスをしたことでプレゼントの話は自然と終わってしまった。
 そして数日後、誕生日の当日に、堅は千日紅の花束を買ってきたのだった。

「埃とかカビに気ぃつければ一年はもつってよ」
 茎から葉を取り除き、手際よく作業しながら堅は言った。花が枯れちゃう! ケンチンどうしよう! こうべを垂らし、生きる力を失いつつある花を見て万次郎はパニックになった。毎朝花瓶の水を換え、直射日光の当たらない場所に置き、生花の状態を三週間ほどもたせただけでも十分だと堅は思っていたのだが、万次郎はほとんど永久的に、花をその姿のまま愛でていたいようだった。
「オマエ、そんなに花とか好きだったっけ?」
 スマホでドライフラワーの作り方を調べながら、堅は問うた。床にしゃがみこみ、不安そうな顔で新聞紙の上に横たえた弱った千日紅と堅とを交互に見て、万次郎は「んーん」と首をふった。でも、と続ける。
「これはケンチンからのプレゼントだから。ずっと見ていたいし側に置いていたい」
 万次郎の答えに、堅は、そっか、と返した。
 風通しのよい場所で二週間ほど乾燥させ出来上がったドライフラワーは、リビングの壁に掛けていつでも視界に入るようにした。
 ほのかに甘く、清潔な匂いが部屋に漂い、「男二人が生活してる部屋の匂いじゃねえな!」と堅は笑った。万次郎は満足して、さっきまで茎から葉を毟っていた堅の手を握った。草つゆに濡れて、皮ふが少しだけ湿っていた。

 あれから一年が経った。ドライフラワーはいよいよ水分を失い、花も茎もすっかり干からびてしまったが、香りは未だに漂って万次郎の鼻先を躍る。昼寝から覚めるとき、特に強く香るような気がした。そして香りを感じるたびに思い出すのは、花束を手渡してくれたときに見せた、堅のやわらかな笑顔だった。
 帰ってきた堅を玄関で迎えたとき、「柄じゃねーし、うれしかねぇかもしれねーけど」そう前置きして、彼は恥ずかしそうにセロファン紙に包まれた花束を差し出した。紅紫色の、丸いフォルムの花一種類だけを束ねたシンプルな花束だった。
 堅の作業着のつなぎとその愛らしい花束は、あまりにも似合っていなかった。万次郎は呆然として、
「……こんなのはじめてもらった」
 と、言った。
 堅はいよいよ照れくさそうに、「そりゃそうだろな」と苦笑した。そして花束を万次郎に差し出す。受けとると、清潔な植物の匂いがふっと漂った。万次郎は頬を緩めた。うわあ、と声があふれた。
「どーしよ、すげー、めちゃくちゃうれしい」
「マジか」
「うん。“ケンチンの愛”だ」
 ありがとう。そう言って花を潰さないようにやさしく抱き、笑顔を見せた。
 ケーキを食べたあと、千日紅の花について、ふたりで調べた。堅は花屋――もちろん、花屋は未知の領域だった――の店先で見かけた、“マイキーに似合いそうな”花としてそれを数本花束にしてもらっただけで、ポップに書いてあった「千日紅」という名前しか知らなかった。
 花屋では他にもいろいろなアレンジを頼めるらしかったが、あまりにも柄じゃなくて、気恥ずかしくて、選んだ一種類だけを束ねてセロファン紙に包んでもらった。
「ね、これみて、ケンチン」
 スマホの検索画面を見せながら、万次郎は楽しそうに言った。
「この花の花言葉はね、――」
 色褪せぬ恋。
 花言葉には、そう書いてあった。堅は顔を赤らめ、その表情を見て万次郎はにや、と意地悪げな笑みを浮かべた。
「ケンチン、知ってたん」
「知らね」
「えーうそ。知ってた。絶対ぇ知ってた」
 あぐらを掻いた堅の膝の上に乗り、胸板に頭を預ける。心臓の音が聞こえた。いつもより、速い。どきどきしてるんだ、ケンチン。照れてんのかな。かわいい。頬を胸にすり寄せて、より深く、堅の中の音を聞こうと耳を澄ませる。
 ふいに目の奥がつん、と痛んだ。熱がこみ上げてきて、あ、と思ったときには、もう泣いていた。
「マイキー?」
 とつぜん涙を流しはじめた万次郎に、堅は驚いて目をまるくさせた。ぼろぼろと落ちてくる涙を手の甲で拭って、洟をすすり、それでもなお涙は止まらなくて堅の胸に顔を押しつける。
「どーした急に」
「……ううん」
 わかんない。わかんないけど。なんで泣いてんだろ、オレ。万次郎は止まらない涙を堅のシャツに吸わせて、声を上げて泣いた。
 とく、とく、とく。堅の心臓の音がやさしく鼓膜を打ちつづけていた。
 

 花束をもらってきょうでちょうど一年、ふたりの生活に色と香りを添えてくれた花も、さすがにもう寿命だった。
 壁に掛けたドライフラワーにふれてみる。かさ、と乾いた音がした。このまま手のひらに包んでしまえば、粉々にすることはたやすい。ゆびさきで花の輪郭をなぞると、乾いた体からかけらがぽろぽろと落ちていった。
 玄関のほうで、かちり、と鍵の解錠する音が聞こえた。ドライフラワーから手を離して、急いでそちらへと向かう。
「ケンチンっ」
 ドアを開けて入ってきた堅は、万次郎の顔を見ると静かな声で「ただいま」と言った。
「おかえり」万次郎もまた、笑った。
 堅はいつもと変わらず、作業着であるつなぎに、油の匂いをまとわせていた。一年まえのことを思いだす。一年まえのきょうも、おなじように彼はこの部屋に帰ってきて、ただいまを言って、それで、“ケンチンの愛”をくれた。
 堅の右手には近所のケーキ屋のロゴの入った箱、左手にはセロファン紙に包まれた花束が提げられていた。
「ほら」
 かさかさと音を鳴らす花束を、堅は万次郎に手渡した。紅紫色をした、丸いフォルムの愛らしい花だった。
「いーのかよ、プレゼント、去年とおなじモンで」
「ん、これがいいの!」
 花束を、壊さないように胸に抱く。うれしい。万次郎は呟いた。ありがとう、と。
 それからつま先に体重を乗せ、堅に向かって軽くくちびるを突き出した。
「待てって、手洗いとうがい――」
「あとで!」
 堅のつなぎの胸を引っ張り、落ちてきたくちびるにくちびるをふれ合わせる。堅から、夏の終わりの匂いがした。
 一度キスをしてしまうと、そのあとはどんどんふれたくなってしまう。ケンチン、と体を寄せる万次郎の頭を撫で、堅は「手ぇ洗ってうがいしてからな」と言った。
 洗面所に向かう堅からケーキの箱を受け取り、万次郎は先にリビングに戻った。ケーキと花束をローテーブルに置いて、堅が帰ってくるまえまで見ていたドライフラワーを、壁から外す。顔を近づけても、もう香りはしなかった。その、乾ききった体を愛おしく思う。固くなった繊維が皮ふを甘く噛むように刺した。
「それ、もう寿命だな」
 つなぎを脱いで、部屋着に着替えた堅がリビングに入ってきた。うん、と万次郎は頷いて、堅に手を差し出す。「もうなんの匂いもしないや」。
 紅紫の色だけはかろうじて残り、それがかつてうつくしい花であったことを物語っていた。手の中で、ぼろぼろと崩れていく体。一年も、もった。オレらの一年間をずっと見てくれてた。いい匂いをさせるから、オレが昼寝から覚めるとき、すごく気持ちがよかった。
 くしゃ、と髪の毛を撫でられて、万次郎は目を上げた。去年と同じ、やさしくてやわらかな笑みを浮かべた堅がいた。
「新しいの、花瓶に飾るだろ?」
「ん。もちろん」
 最後のひとかけらが砕けるのを見届けて、万次郎は、ひどく満たされていた。
 きょうもらった花束も、傷んできたらまたドライフラワーにしよう。一年後、きっときょうと同じように砕けてしまうとわかっているけれど、それでも次の誕生日まで、側にいてほしい。
 マイキー。呼ばれて、万次郎は堅の目を見つめる。
「誕生日おめでとう」
 そうして堅はきつく抱きしめてくれた。くふふふ、と笑いながら、万次郎も彼の背中に手を回す。
「いい一年にしろよ」
「とーぜん! ケンチンもだかんね!」
「オレは誕生日じゃねーよ」
 今年もよろしくね、と言うと、正月かよ、とツッコまれた。それもそうか、と万次郎は笑った。
 テーブルの上で千日紅の花が、クーラーの風を受けてさわさわと鳴いている。
 花はそのかたちを保ったまま、また一年、香りつづける。