遮光カーテンのすき間から、ひとすじの光が床に伸びていた。昨夜脱ぎ捨てた服の上を渡り、空中に散る細かい埃を明らかにして、朝日は部屋をまっすぐに横断する。三ツ谷は枕に顔を押しつけて、充電器に繋がれたスマホを手繰り寄せる。軽い近視の目に、ロック画面に表示された数字が飛びこんでくる。午前七時二十三分。
 昨夜、眠りについたのは二十四時をすこし過ぎたあたりだったから、ひさしぶりにまとまった睡眠を取れたことになる。
 でも、まだ眠い。
 ぼうっとする頭と重たい体をベッドに沈めたまま、スマホのロックを外す。メールとLINEから一件ずつ、通知が来ていた。メールは昨日会ったクライアントからのもので、送信時刻は午前七時だった。早、と三ツ谷は身震いする。現在三ツ谷が請け負っている案件の依頼主は国内でも名の知れた有名アパレルメーカーで、会社組織としても大きい。こんなに早い時間からすでに業務を開始しているのかと思うと、フリーランスもそれなりだが会社勤めもなかなか厳しいものだとため息が出る。それともフレックス制で退勤が早いのか、などと余計なことまで考えてしまい、三ツ谷は瞬きをして思考を打ち消した。
 昨日の打ち合わせの礼を述べる社交辞令的な文言をスクロールして、律儀に署名まで読み終えるとすぐに返信を打った。メールはできるだけ溜めたくない。見落としてはいけない内容が気づかずに埋もれてしまうのは怖いし、未読メールが溜まっているという事実そのものが無用なストレスになる。
 送信の文字をタップしてメール画面を閉じると、顎を枕に乗せてLINEを開いた。案の定、八戒からだった。送信時刻は七時間前――三ツ谷が眠りに就いたころだった。
 『絶賛飲んでるよ〜』という呑気な言葉と一緒に、自撮りの写真が載せられている。とうに酔っているとわかる、顔をまっ赤にさせた八戒と、彼に肩を引き寄せられている柚葉のツーショットだ。彼女もアルコールが入っているためかほんのり頬を上気させ、やわらかな笑みを浮かべていた。
 ふたりの笑顔を見て、一瞬だけ仕事モードになった三ツ谷の表情もほどけていく。
『はよ。こっちは今起きたよ。』
 文字を打ちこみながら、八戒はまだ寝てるよな、と考え直す。特にすぐにレスポンスが欲しいわけでもなかったけれど、三ツ谷は入力した文字を消して、柚葉のアイコンをタップした。
 最後に交わしたトーク履歴が残っていた。日付は四年前、ふたりが活動拠点をフランスに移すと決めた年だった。

 いまどこ

 たったひとこと、だった。吹き出しの中に、柚葉の打った素っ気ない、感情の汲めないメッセージが浮かんでいる。
 あのとき、三ツ谷は当時勤めていたデザイン事務所での仕事が終わらず、待ち合わせ場所に数分遅れてしまった。ほんの数分だったし、地下から地上へ出る階段を駆け昇っていた三ツ谷は、ふたりと落ち合うまで柚葉からのメッセージに気がつかなかった。
「オマエからのライン、今気づいたわ」
 飲み屋まで歩く道すがら、スマホ画面を確認した三ツ谷はようやくそのひとことに気づいたのだった。
 スマホが一般的になったばかりのころだった。それまでのガラケーから、スマートフォンという新種の通信機器に国民が一斉に乗り換えて、様々なトークアプリが日常に浸透しはじめたころのこと。機械に疎い三ツ谷はギリギリまでガラケーを使っていたけれど、いよいよ機種変更しなければならない時期になってようやくスマートフォンに切り替えた。
 友人たちとLINEのアカウントを交換したのも、だから三ツ谷がいちばん遅かった。
 柚葉とのトークは、三人で過ごしたその夜の、彼女からのひとことで始まり、終わっていた。
 三ツ谷はすこし迷いながら、文字を打っていった。
『おはよ。起きてる?』
 当たり障りのない朝の挨拶を打ち、送信する。
 画面を閉じて、ふたたび枕に顔を埋めた。枕からはシャンプーと、最近好んで使っている香水の混ざった匂いがした。それから、ほんのかすかだけれど汗の匂いも。
 鼻の奥に匂いが届くと、昨夜香った、柚葉の香水の匂いを思いだした。銘柄はわからなかった、でも、上質なものであることだけは確かで、身にまとうものには妥協しない柚葉の審美眼が窺えた。
 彼女の匂いを、無意識のうちに探している自分がいることに気づいて三ツ谷は自嘲の笑みを洩らした。突然の再会に驚いたあまり、感傷的になっているのだろうか。けれどまた、柚葉に会いたいとつよく思う気持ちはたしかなもので、三ツ谷を俄かに動揺させた。彼女に会いたい。話をしたい。声を聞きたい。まとっている香水の名前を教えてほしい。
 記憶の湖底に沈んでいた宝箱の蓋は呆気なく開き、その瞬間、体じゅうに拡がったたくさんの欲の存在に、三ツ谷は怯えた。
 こんなはずじゃなかったのに。寝起きの頭を言葉が駆け巡る。こんなはずじゃなかった、こんなはずじゃ――でも、こんなはずじゃなかったのなら、どんなつもりでいたっていうんだ? オレは。
 スマホが手の中で振動した。柚葉からのLINEだった。
『仕事してた』
 絵文字どころか句読点もないさらりとした一文に、苦笑が浮かぶ。「いまどこ」の文字の下に追加される柚葉のトークは、昔から変わらないテンションで、妙に安心をおぼえる。指が、今度はさっきよりも滑らかに動く。
『まじ。休暇なんじゃねーの?』
 すぐに既読がついた。『一応休暇だけど。でもメール対応はとりあえずしなきゃだから』。
 トップモデルのマネジメント業務というハードな仕事を、けれど柚葉は粛々とこなしているように見えた。少なくとも三ツ谷から見て、のことだったけれど。
 彼女にとってマネージャー業は、仕事というより生活の一部なのかもしれなかった。
 実弟のマネジメントは十代のころから彼女の仕事だったし、その延長にあると思えば今さら、お手のものにちがいない。
 様々な想像を巡らせつつ、三ツ谷は、おつかれ、と送信する。
 そのとき、突然スマホが震え出した。トークの通知ではなく通話を知らせるヴァイブレーションに、三ツ谷は身を固くした。画面には「yuzuha shiba」の名前とアイコンが表示されている。
 数秒のあいだ画面を見つめたのち、三ツ谷はアイコンをタップして、スマホを耳に宛てた。
「……もしもし」
 寝起き特有の掠れ声が出た。スマホ越し、遠い場所からかすかだが、音楽が聞こえた。しっとりとしたメロディに、ややハスキーがかったヴォーカル。三ツ谷には聞き取れない歌詞の言語はおそらくフランス語で、だからそれがフランスのアーティストの作品だと予測できた。
 音がさらに遠ざかった、と思ったとき、「三ツ谷」と呼びかけられた。柚葉の声だった。
「ごめん、急に」
 音楽はやがて完全に消え、スマホの向こうからは柚葉の声だけが聞こえた。
「あー、や、大丈夫。……オハヨ」
 三ツ谷は体を起こしてベッドの上にあぐらを掻いた。おはよ、と柚葉も挨拶を返した。
「どーしたん、電話とか。はじめてじゃね?」
 平静を装いながら、三ツ谷は自身の心臓がいつもよりも早く鼓動を打っているのを感じていた。突然の電話に狼狽えるなんて、恋を知ったばかりのうぶな中坊でもあるまいし。いい歳をして、情けなささえおぼえてしまう。
 三ツ谷の言葉に、べつに、と柚葉はフラットな調子で答えた。
「文字打つのだるかっただけ。ちょうどメール処理終わったとこで時間空いたし」
「ん。そっか」
 数秒の間ができた。わずかに聞こえる柚葉の呼吸が、鼓膜を震わせた。
「……昨日は、行けなくて悪ぃ」
 ゴトン、と音を立てて宝箱の蓋が動いたのを感じて、三ツ谷は慌てて話題を変えた。浮かび上がっていくあぶくが、湖面で弾ける。
「いーよ。アンタも忙しいでしょ」
「オマエらほどじゃねーよ」
 三ツ谷の謙遜に、柚葉は笑った。
「なにそれ。似合わないセリフ」
「そーか? オマエらのほうがよっぽど忙しいってのは事実だろ」
「まあ、それはそう。ありがたいことにね」
 三ツ谷は口の端に笑みを浮かべながらベッドを下りた。喉がからからに乾いていた。備えつけのミニキッチンに向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してボトルに口をつける。よく冷えた水が心地好く喉を滑り落ちていく。柚葉も電話のあちら側で、なにかを飲んでいるようだった。かすかに喉を鳴らす音が聞こえた。
「なに飲んでんの」
 なんとなく、問うた。その質問に特に深い意味はなかった。
「珈琲。ホテルのラウンジで買ったやつ」
「実家にいるんじゃねえの?」
 かつてきょうだいで暮らしていた柴家の自宅は、彼らがフランスに行ってからはずっと、長いあいだ誰も住んでいないらしかった。
「帰るの、なんかめんどかったから。ホテルだとなんもしなくていいから楽だし」
 柚葉は言って、また珈琲をひと口飲むだけの間が空く。
 柴家には、三ツ谷も思い出があった。思い出、と呼べるほどきれいなものばかりではないけれど、きれいな出来事もたくさん、あった。その中でも一際星のように瞬くのが、柚葉とはじめて「恋人のようなこと」をした日のことだった。
「……柚葉、さあ、」
「んー?」
 間延びした声はリラックスしているようにも聞こえた。自分と話をして、声を交わして、彼女はリラックスできているのだろうかと三ツ谷は思う。自意識過剰もいいところだ。単に仕事をやっつけてほっとしているだけかもしれない。そしてそんなことを考える三ツ谷自身が、さっきまでの緊張から次第に解放されつつあるのを感じていた。柚葉。名前を呼ぶたび、胸の奥のほう、名前のわからない場所が、せつなく締めつけられる。
「また、オマエに会えてよかったよ」
 言葉は舌を滑り、さらさらとこぼれ落ちていく。うん。柚葉がスマホ越しに頷くのを聞いた。ミネラルウォーターのペットボトルを無意味に指で凹ませながら、続ける。
「もう会えないと思ってたからさ。オマエらが日本を出るってなって、あれが最後だとずっと思ってた」
「アタシに会いたかった? それとも八戒に?」
 おどけたようすで問いかけられて三ツ谷は笑った。「八戒にももちろんだけどさ」。
「柚葉に、会いたかった」
 少しの沈黙があった。心臓の音が、柚葉の耳にまで届いていないか心配になった。スマホを握るてのひらが、もうずっと熱い。火照りは指の先からてのひらを伝い、全身に拡がっていく。
 うん、と柚葉は頷いた。
「アタシも、アンタに会いたかった」
「……実際、どーよ。また会えて」
「んー。大人ンなったなって思ったよ」
「なんだそりゃ」
 別れたときにもお互い成人していたし、大人だったはずなのに。柚葉の答えに苦笑を洩らしつつ、でも、と三ツ谷は思う。
「あん時よりかは、大人ンなったよ」
「あん時って?」
 一瞬、言葉に詰まった。けれど、唇は無意識のうちに動いて、声を乗せていた。
「高校ンとき。……オマエ、おぼえてっかわかんねえけど」
 うす闇の中、手探りでふれた柚葉のしっとりした肌の感触は、今でも三ツ谷の記憶に生々しく刻まれていた。近づいた唇のすき間から熱い息がこぼれ、頬を滑る。夏、だった。閉め切ったカーテンの外では、朝から容赦のない日ざしがアスファルトを叩き、熱していた。部屋は蒸されて、互いの汗と、シャンプーや香水の匂いが混ざり合い、混沌としていた。でも、けっして不快じゃなかった。肌と肌とを寄り添わせ、体温を分け合う。きつく握り合った手に汗が伝う。
 部屋に充満した匂いを思いきり吸いこみ、柚葉の首筋に舌を這わせた。そこで感じた彼女の肌はひどく滑らかでやわらかく、味蕾には滴る汗の塩気が吸いついた。
「おぼえてるよ」
 柚葉の口調は淡々としていて、感情が汲めなかった。過去を蒸し返されて、不快だとか気持ち悪いだとか思われたら。そんな不安を抱いていた三ツ谷にとって、だからその平坦な声はすこし恐ろしかった。彼女がなにを思い、考えているのか、わからない。けれど、一度開けてしまった蓋は、もう閉じることができない。
 あのとき、学校をサボってした行為のことを、当時におぼえたあらゆる体の動きを、はじめて知った柚葉の声や表情を、かいだ匂いを、ふたりのほかに知る者はいない。
「……悪ィ。急に、こんな話しちまって」
 脳裏を往来する記憶がたしかな輪郭を結ぶ前に、三ツ谷は話題を変えようとした。ところが柚葉はあっけらかんとして、「なんでよ」と笑った。
「謝んないでよ」
「いや、悪かったって思ってる」
 は、と、スマホの向こうで柚葉が細く息を吐いた。「なに?」。少しだけ苛立ちを含んだ声だった。
「あんときはオレ、バカだったし、若すぎた。なんも考えらんなくて。だからずっと謝りたかった」
 ごめん。三ツ谷はそう言った。てのひらの熱でミネラルウォーターのボトルがゆっくりとぬるくなっていく。
「なによ、それ。偉そうに」
 柚葉は低い声で言う。
「……結局、なんもできなかったくせに」
 ぽつり、と。こぼれた柚葉の言葉が、耳の中に落ちた。それは三ツ谷の心にある湖に音を立てて沈み、さざ波を立てた。
「うん。でも今思えば、それでよかった」
 あの暑い暑い夏の日。窓の向こうから蝉の声が聞こえていた。真夏に、汗みずくになって必死に肌を寄せ合う自分たちが、なんだかばかみたいに思えて目を合わせて笑った。
 沈黙が落ちた。スマホ越しに、柚葉の気配は動かない。三ツ谷は俄かに居心地が悪くなって水をひと口、飲んだ。すっかりぬるくなった水は不味く、吐き出しそうになった。空腹を感じた。昨夜はカップ麺を食べただけでそのまま寝てしまったから、胃袋はもう空っぽだった。ぐう、と腹の虫が鳴いた。ふいに柚葉の笑い声が聞こえた。
「なに、お腹空いたの」
「……聞こえたんかよ」
 三ツ谷は恥ずかしさに、腹を隠すようにてのひらを宛てた。少しも意味のない行動なのはわかっているのだけれど、まるで目の前に柚葉がいて、見られているような心地だった。一頻り笑ったあと、柚葉はやわらかな調子で言葉を続けた。
「なんでもいいからなんか食べな。アタシと電話してる暇あったらさ」
「オマエのほうから掛けてきたんだろ?」
 まあそれもそうか、と言って、柚葉は心底おかしそうにくすくすと笑う。さっきまでのシリアスな雰囲気はどうやら霧散してしまったようだ。三ツ谷は安堵しながら頷いて、「とりあえず、朝メシにするわ」と言った。
「そっちもこれからメシ?」
「うーん。八戒のばかがまだ寝てるから。アタシは適当になんかつまんどく」
「そっか」
 三ツ谷はつぎに続けるべき言葉を探すように、天井に視線を上げた。くすんだ白色の天井には、でも三ツ谷の求めている言葉などどこにも見当たらない。
「時間あるなら、モーニングでもする?」
「は?」
 先に口を開いたのは柚葉だった。さらりと、あまりにも自然に誘われたので、三ツ谷はかえって動揺した。
「モーニング?」
「泊まってるホテルのすぐ近くにいい感じのカフェがあってさ。そこ行ってみたいと思ってたの」
 暇ならつきあってよ、と柚葉は言った。今日は午前中いっぱいはオフにする予定だった。少しでも休息を取って、体力を回復させたい。
 断る理由もなく、三ツ谷は頷いた。ありがと、と柚葉は言った。
「ホテルの住所、すぐ送るから。こっち出て来られる?」
「あー、……行ける、と、思う」
「OK」
 てきぱきと物事を進めていくのはじつに柚葉らしい。じゃあまた、と言い残して、さっきまでの緊張感のある会話はいったい何だったのかと思うほどに、あっさり通話は切られてしまった。彼女のペースでことが進むのはいつもだけれど、まるで誘導されたみたいで三ツ谷は苦笑いをこぼした。
 そうだ、コイツはこういうヤツだった、と思いだし、腹の中がくすぐったくなる。
 負けん気が強くて気丈で、一筋縄ではいかない。――だからこそ、彼女に恋をしたことも。
 スマホが震えて、柚葉からホテルの場所を伝えるメッセージが届いた。ホテルの名前と、マップアプリに飛ぶリンクだけの簡素な文字列。
 ホテルは昨夜会った駅の、すぐ側にあった。今から最低限の準備をすれば一時間半後には着けるはずだ。
 三ツ谷はミネラルウォーターを飲み干すと、空になったペットボトルをシンクに置いて、その場で大きく伸びをした。