地下鉄駅構内の籠った空気から逃れるように、地上へと続く階段を一段一段昇っていく。駆け抜けるほどの体力は残っていなかった。次々と湧いてくる人間たちの肩や腕や脚に体のどこかしらをぶつけられながら、重たい体を必死に引っ張り上げる。
 東京の地下ほど気分の滅入る場所は他にない。一体どこから、と思うほど人間が四方八方の出入り口から溢れ来て、あっという間にプラットフォームを満たしてしまう。呼吸が苦しい。それは比喩ではなかった。実際、三ツ谷の息は上がっていた。階段を昇るだけで息が切れるなんて、若いころには想像もしていなかった。あのとき、体力は無限だったし、疲れなんて少しも知らなかった。
 蓄積した疲労が汗といっしょに毛穴から噴き出してくる。一刻も早く地上に出て、タクシーを拾って家に帰りたい。ベッドに倒れこんで、眠りたい。ああ、その前にシャワー。全身が汗で気もち悪ぃ。そう思ったところで、ひどく空腹であることに気がつき舌打ちをする。なにか適当な飯を食わなければ。なんだって人間はこんなにやることが多いんだ、まったく。
 長引いていたクライアントとの打ち合わせが今回でようやく終わり、あとは制作に力を入れるだけとなって、三ツ谷の気分はけっして悪くはなかった。むしろ窮屈な場面から脱け出せた解放感と、やらなければならない仕事を一つやっつけたという充実感があった。
 打ち合わせ先のカフェで先方からOKをもらったとき、デザインを描いたラフ画を何枚も破り捨てた日々がやっと報われた、そう思った。けれど、連日の寝不足と乱れた食生活が、緊張の糸の切れた今になって体に堪えていた。
 最後にまとまった睡眠を摂ったのはいつだったか、思い出せない。疲れたら細切れに眠り、数時間後には起きてスケッチブックに向かう。空腹を誤魔化したくて、仮眠をとる。三十分だけ眠って、また起きる。空腹がいよいよ限界となったときにやっと重い腰を持ち上げて、キッチンのラックから探り当てた適当な菓子パンを齧る。
 服飾デザイナーとして独立してから、仕事を一件もらうたびにそんな生活のくり返しだった。体が悲鳴をあげるのは、まあ、当たり前だよなあ、と我ながら思う。とはいえ、仕事が待っていると思えば睡眠や自炊に割く時間がひどく惜しく感じられて、結局、生活の基本を後回しにしてしまうのだった。
 脚がもつれて、体が僅かによろめいた。地上から階段をおりてきたサラリーマン風の男性の肩に肩がぶつかり、三ツ谷はすみません、と掠れた声で謝る。男性は不快そうな顔をこちらに向けて舌打ちをした。去っていく白髪混じりの後頭部を睨みつけて、残り少なくなった階段をゆっくりと踏みしめた。
 地上に出た瞬間、ぬるい夜風が頬を撫で、髪の毛を乱した。大きく、息を吐き出す。それは深いため息のようでもあって、三ツ谷は自嘲的な笑みを浮かべた。大人になって仕事を持てば、もっと恰好よくスマートに生きられるものだと思っていた。けれど、実際に年を重ねてみたなら、生活はじつに泥くさい。ガキのころと同じくらい、毎日を生きるために必死だ。
 働いて、金を稼いで生活をする。
 そういうものだと、でも理解はできた。独立するときには、当然、ある程度の覚悟もしていた。デザイナーという仕事は華やかなイメージがある一方、ひどく地味で、自分との長い闘いを延々と続ける職業だ。敵は、すべてを放り投げて逃げたくなる自分。でも、何があっても、負けるつもりはない。負けん気だけは喧嘩に明け暮れていたガキのころに、散々叩きこまれた。だからオレは大丈夫だと、自信を持ってここに立っていられる。あのころがあったから。
 夜の街の喧騒が、体じゅうを包みこんだ。季節はとっくに秋へと流れたはずなのに、東京の空気は濁っていて蒸し暑い。涼やかな風が流れるのは、もう少しあとになってからだろう。
 チノパンの尻ポケットからスマホを取り出して、時間と通知を確認する。夜の七時を過ぎたばかり。着信もメールの通知もない。ロック画面の写真を見て、知らず笑みがこぼれる。先ほどの自嘲とはちがう、やわらかく解けた笑みだ。
 中学時代につるんでいた仲間たちが、手の中にいる。みんな、大人になった三ツ谷に向かって、得意げな笑顔を浮かべている。マイキー、ドラケン、場地、一虎、パーちん。三ツ谷の姿もある。東京卍會設立のメンバーだ。一様に幼い顔立ちをしている少年たちも、今ではもうすっかりいい年の大人になっている。
 ひさしぶりに、あのときのメンバーに会いたいと思った。あのときの、まだガキんちょだったオレを知っている誰かに。そんな感傷的な気分になる夜が、三ツ谷にはときどき、訪れた。過去にこだわっているわけでも、戻りたいと思っているわけでもない。ただ、懐かしいヤツらとまた顔を合わせたい、話をしたいというシンプルな欲求が、特に仕事を一つ片づけた夜に、やって来る。
 LINEの画面を立ち上げて、連絡先を知っているメンバーのアイコンを見つめた。一瞬ののち、すぐに画面を閉じる。こんなに疲弊しきった状態で、会ってどうする。今はおとなしく家に帰って飯を食ってシャワーを浴びて寝る。おそらくそれが今するべき最適解にちがいなかった。
 連絡をするなら明日以降だ。そうして、スマホをポケットに戻した。タクシー乗り場に向かって歩き出そうとしたそのとき、一際強い風が吹いて、三ツ谷の前髪を嬲った。思わず、目を瞑る。駅やコンビニの煌々と眩い明かりが遮断されて、瞼がすべてを覆い隠す。一つの束になった風は思いがけない力で三ツ谷にぶつかり、あっと思ったときには体が傾いていた。目を開ける。ふり返る。地下へと続く長い階段が、うす暗い空間に三ツ谷を飲みこもうと、口を開けている。落ちる。重力には逆らえない、いっそうこのまま落ちて、うまいこと受け身を取れば最低限の怪我で済むかも――そう考えた次の瞬間、強い力で腕を引っ張られた。ぐんっと勢いよく体を引きずり上げられて、三ツ谷は慌てて脚を踏ん張った。
「わっ、ぁ、」
 力任せに引っ張られて、慣性のまま階段とは反対側に倒れる。ぽすんっとのんきな音がして、固いなにかに顔面がぶつかった。
 あらゆる動きと音が止まったようだった。けれどそれもほんの僅かな時間に過ぎなかった。三ツ谷は誰かが自分の腕を引っ張って体を支えてくれたこと、その誰かの固い胸に顔がぶつかったことを、すぐに理解した。
「おにーさん、大丈夫?」
 頭の上からふってきた声に、視線を上げる。男は顔の半分を隠す大きなサングラスをかけていた。海外製の高級ブランドのものだとすぐにわかった。男の顔は小さくて、刈り上げられた短髪が、顔の小ささと緩やかな曲線を描く後頭部のかたちの良さを際立たせていた。――その輪郭に、三ツ谷は見覚えがあった。
「……八戒?」
 唇に馴染んだ、弟分の名前をつぶやく。三ツ谷の声に男はハッとしたようすでサングラスを外した。
「え、うそっ、タカちゃん?!」
 髪型や服装は変わっていたけれど、サングラスの下から現れた目はむかしと寸分違わぬかたちを保って、三ツ谷を見下ろしていた。
「わー、タカちゃんだ! めっちゃ久しぶりー!」
 彼――柴八戒はその長身を屈めて、たしかめるように三ツ谷の顔に顔を近づけた。鼻どうしがふれそうになって、その勢いに、思わず後退りそうになる。
 元々、三ツ谷に対してすなおな犬のような懐き方をしていた八戒は、人目を憚ることなく三ツ谷にふれたり、縋りついたり、抱きしめたりしていた。高校生くらいまでは八戒のそんな甘えんぼうぶりをある程度までゆるしていたけれど、互いにいい年で、恋人でもない男ふたりが顔と顔を寄せ合っているのは、あまりに不自然だった。駅前を行き過ぎる人々の視線を集めていることに気づいて、三ツ谷は八戒の胸をてのひらで押した。
「八戒、助けてもらって悪ぃけど、さすがに近ぇわ」
「えー、再会のハグくらいしてもよくねぇ?」
「ばか、やめとけ」
 三ツ谷が拒もうとすると、より強い力で抱き締めようとする。海外生活で身についた習慣なのだろうけれど、ここは日本だ、東京だ。再会を喜ぶハグやキスに慣れている場所ではない。
「ちょっと八戒、なにしてんの?!」
 そのとき、背後から声が飛んできた。八戒はふり返って、バツの悪そうな顔をすると、渋々三ツ谷から体を離した。
 八戒の視線の先に、すらりとした女性の姿があった。街の明かりの中で、彼女の体のラインがうつくしく浮き上がって見えた。
 三ツ谷は目を細めて、彼女を見た。
「柚葉」
 彼女の名前を呼ぶのはいつぶりか、すぐには計算できなかった。けれど、声は縺れることなくするすると唇に乗った。まるで昨日までずっと呼んでいたかのような自然さに、三ツ谷自身が驚いた。
 柚葉は長い髪の毛を片方の耳にかけ、真っすぐに三ツ谷を見た。耳たぶを飾る華奢なピアスが、かすかに光を放った。
 シンプルなノースリーブワンピースに薄手のカーディガンを肩がけし、細いヒールの靴を履いていた。けっして派手ではないけれど、遠目でもまとっているものの質と、品のよさが漂ってくる。そのコーディネートは、大人になった柚葉に、よく似合っていた。
「三ツ谷」柚葉は一瞬だけ見開いた目を、すぐに三日月のかたちに弛めて、ほほ笑んだ。「久しぶり。こんなところで、偶然だね」
 雑踏の中にいるはずなのに、柚葉の声があまりにも明瞭に耳に届いたのは、彼女の声を思い出という宝箱の中に大事にしまっていたからだ。うつくしい宝石を納めるように、三ツ谷は柚葉の声を宝箱の底にそっと沈めていた。誰にも気づかれないような深いふかいそこは、柚葉の声だけが一等星のようにちかちかとまたたいていた。
 なにかを言いたくて、言葉を紡ぎたくて、口をぱくぱくさせているところに柚葉の声が再び飛んでくる。
「っていうか八戒はなにしてんの?」
 八戒は三ツ谷へのハグは諦めたものの、なぜか彼の腕を両手でしっかりと掴んでいた。シルエットだけ見たらまるで恋人どうしが寄り添っているようだった。
「久しぶりにタカちゃんと会えたんだもん、なのにハグもダメだなんてさー」
「突然アンタみたいな大男にハグされてもビビるでしょ。ただでさえ日本で目立つんだから、無駄に悪目立ちするようなことはやめて」
「厳しいなあ」
 ぶつぶつ言いながら、三ツ谷の腕を離す。ぬるい夜気が、三人のあいだを縫って通り過ぎていった。柚葉のワンピースの裾がはためき、白い脛が見えた。見てはいけないものを見てしまった気がして、三ツ谷は目を逸らした。
「三ツ谷、いろいろごめんね」
 柚葉はすまなそうに眉を下げた。「昨日、日本に帰ってきたばっかでさ、距離感バグってんの、コイツ」。
「ああ――」
 掠れた声が出て、三ツ谷は咳払いをした。名前はあんなにもするりと出てきたのに、単純な相槌がなぜかむつかしかった。ふつうにしゃべりたいのに、会話をしたいのに、うまく言葉になってくれない。もどかしくて、苛々する。息を吸って、声を吐く。
「……そっか。フランスにいたんだもんな、ふたりとも」
 そ、と柚葉はヒールを鳴らして歩み寄る。耳たぶに光るひと粒のダイヤが、控えめにまたたいた。
「ほんと久しぶりだよね。えっと、……何年ぶり?」
「最後に会ったのはオマエらがあっちで仕事するって決まったときだから――四、五年とか?」
「うわ、アタシも歳をとるわけだわー」
 柚葉がおどけたように笑った。
「オレも歳とったよー。ねぇ、立派な大人になっただろ?」
 八戒は長い両腕を広げて三ツ谷に全身を見せてきた。スマートな体に清潔な白い半袖シャツをまとい、アンクル丈のカーゴパンツを履いていた。有名ブランドの革靴で足元を締めて、柚葉と同じくシンプルなのにどれも上質なもので仕立てられていることもあって、嫌味がすこしもない。自分に似合う服がなにかを知っている人間の持つ堂々とした着こなしに、三ツ谷はほう、と嘆息を洩らした。同時に、うわオレ、すげー職業病、と自嘲もこぼれてしまう。
「あ、タカちゃん笑った。オレかっこよくなった?」
「ばか。仕事人間すぎって自分がおかしかっただけだよ」
「え? じゃあかっこよくない?」
 本気でかなしそうに眉を八の字にする八戒は、あいかわらず犬のようなすなおさだ。
「はいはい、かっこいー、かっこいー」
「棒読み!」
 ふたりのやり取りを聞いていた柚葉は、腕時計を一瞥して、「ねえ」と三ツ谷に声をかけた。
 視線に、視線が絡まった。真っすぐにこちらを射抜く、鋭いまなざし。心臓が一度、大きな音を立てた。記憶の湖底に沈んでいたはずの宝の箱が、あぶくとともに浮かび上がってくる。長い年月をかけて砂に埋もれ、けれど存在を忘れたことなどなかった。砂を被った宝箱はいつだって三ツ谷の心の底にあって、なにかきっかけがあるたびに、ゴトリ、と鳴いた。
 テレビで人気海外モデルのニュースを見たとき。テレビ画面に八戒の、仕事モードに決めた顔を見つけたとき。柚葉の姿を知らず知らずのうちに探している自分がいた。八戒のマネージャーとして働く彼女が、画面に映るはずもないのに。
「立ち話もなんだし、よかったらご飯でもいかない? アタシたち、ちょうどなんか食べに行こうって出てきたとこなんだ」
 駅前はいつの間にかますます人が増えてきていた。八戒の姿をちらちらと見やる若い女性もいた。モデルとして活躍する八戒は、日本での知名度ももちろん高い。現在の活動拠点はフランスだけれど、デビューしたのは日本でのことだったし、デビュー当初の彼の姿を知っている人間だって少なくないはずだ。いつ声をかけられてもおかしくない。女性に声をかけられて八戒にフリーズされても面倒だ。マネージャーである柚葉の危惧を、三ツ谷はすぐに理解できた。
 指の先でこめかみを掻いて、思案する。このままふたりと共に食事に行きたい気もちと、徹夜続きの体を労ってやりたい気持ちとが混ざり合っていた。さっきまでさっさと帰って寝たいと思っていたことも、思い出す。けれど、――。
 出会ってしまった、と三ツ谷は思っていた。
 人に溢れるこの東京という場所で、一度離れた旧友とふたたび出会えるなんて奇蹟に近い。最後にふたりと会ったとき、きっともう会えないんだな、と、三ツ谷は直感した。フランスでの仕事が忙しくなってきたから、あっちで事務所兼住居にできるアパートメント借りるわ。三人で飲んでいた席で、八戒が、ちょっと旅行行ってきます、みたいなごくごく軽い具合で言ったせいで、三ツ谷は咄嗟に、その言葉の持つ本来の意味を理解できなかった。八戒の向こう側に座って、透きとおったカクテルを飲んでいた柚葉をちらと見やった。店を出て手をふって別れるまで、彼女はこちらを見なかった。
 あれから四年以上の年月が流れた。その間、八戒や柚葉と連絡を取り合うことはなかった。時期を同じくして、どちらも多忙を極めていたというのが主な理由だったけれど、でもそれにしたって四年のあいだにちょっとでも、LINEでひと言送るくらいできたんじゃないかと後悔するときがあった。元気か、とか、仕事どう?とか、こっちは毎日仕事に追われてる、とか。聞きたいことも話したいこともたくさんあるはずなのに、なぜかできなかった。もう会えないんだろうな、という気もちは、だから三ツ谷の中ではほとんど決定事項になっていた。
 八戒はスマホを開いて、今から予約できる店を探し始めた。まだ行くとは言っていない。三ツ谷は慌てて、「悪ぃ」と片手を顔の前に掲げた。
「行きてぇところなんだけど、ずっと徹夜だったから眠ぃんだわ」
 柚葉の眉がかすかに動いた。肌の白さを際立たせる深紅のくち紅を塗った唇が、ゆったりと動く。
「仕事、順調なんだ」
 うん、と三ツ谷は頷いた。「さっき打ち合わせ終わって。でもやっとラフがOK出ただけで、あとは孤独に制作作業だよ」
 そうなんだ。柚葉は満足そうにほほ笑んだ。ふうわり、かすかな花の香りがした。主張しすぎない上品な香水の香りが鼻腔を掠めた途端、三ツ谷の頭の中でふたつのシルエットが浮き上がった。制服姿の柚葉と、自分。高校生のころ、だった。
 将来の夢の話をしていた。オレ、デザイナーんなるよ、と三ツ谷が言い、いいと思う、と柚葉は頷いた。柚葉はどうすんの。問いかけに、柚葉は、アタシは八戒のそばにいるよ、とほほ笑んだ。アタシがいないと、ダメでしょ、あれ。おかしそうに、くすくすと笑う。そのきれいな横顔の輪郭を見つめて、三ツ谷は、大人になってもこうやって柚葉と話をしていたい、と強く思った。
 オレはデザイナーになって、八戒は売れっ子モデルとして成功して、柚葉はそのサポートをして。どんな関係になっても、どんなに時間が経っても、何度でも会って話がしたいと。
 柚葉の、満たされたようなほほ笑みがどうしようもなく好きだった。そうなんだ、よかったね。そう言うときの満足げな笑みは三ツ谷をいつも安心させた。その気もちを、忘れたことなどなかった。
「今度さ、改めて飯行こーぜ」
 三ツ谷はスマホを取り出して、カレンダーを立ち上げた。柚葉も同じように、自分のてのひらにあるスマホ画面に視線を落とした。
「直近で、来週の水曜とかは?」
 三ツ谷の提案に、OK、と柚葉は頷いた。
「じゃあ、とりあえずそれで」
「わかった。店はこっちでどっか予約するね」柚葉はてきぱきとした口調で言った。「また連絡する」
 スマホをバッグの中にしまい、柚葉は正面から三ツ谷を見た。かたちのよい唇を縁取る深い赤が、弧を描く。「もう、会えないかと思った」。
 また会えてよかった。彼女はそう言って、満ち足りたような笑みを浮かべた。
 柚葉の声が鼓膜をふるわせ、胸の奥に落ちていく。みずうみのようなそこに、音を立てて沈む。
 きっかけは、それだけで充分だった。宝箱の蓋がずれて、泡を吐き出したのを感じた。
「八戒、ほら行くよ」
 えータカちゃんも飲もーよーせっかく会えたのにー。子どものように駄々を捏ねる八戒の腕を引っ張って、柚葉は踵を返す。ヒールが軽い音を立てた。
 三ツ谷をふり返って、またね、と手をふる。それに、片手を挙げて答える。
 すらりとしたふたりの後ろ姿を、しばらくのあいだ茫然と見送っていた。シルエットになり、やがて人混みに紛れて見えなくなるまで、三ツ谷はそこに立っていた。胸の奥がじんわりとあたたかい。宝箱の蓋は大きな口を開けたようだった。
 また、と言った、彼女のそれがまるで鍵だったかのように。
 思いだす。思いだしてしまう。制服姿で笑っていた柚葉の姿や、不良上がりでなんにも知らないガキだった自分を。一度だけふれた、柚葉の唇のやわらかさや、体の深いふかいところにあるあの熱を。
 ぜんぶ、おぼえている。体に、心に、しみついている。知っている。わかっている。ほんとうは、ずっと彼女に会いたかったこと。
「……“また会えてよかった”」
 柚葉の放った言葉を、唇に乗せてみる。三ツ谷自身の本音でもある、その言葉を。

 *

 自宅アパートまではJRを使って帰った。タクシーを拾うという当初の予定を変更したのは、なんとなく、電車の揺れに身を任せて、一人でぼんやりしたかったからだ。運転手と社交辞令の会話をするより、中吊り広告の文字をぼうっと眺めた方が気もちが静まる気がした。
 電車内は空いていて、最寄り駅まで座って過ごすことができた。時間はかかったけれど、結果的にこれが正解だったと三ツ谷は結論づける。
 スケッチブックやノートPCの入ったトートバッグを肩に掛け直して、改札を抜ける。借りているアパートまでは駅からさらに数分歩く必要があったけれど、人混みがない分涼やかな風が通りを吹き抜け、四方からすずむしの鳴き声が聞こえる夜道を歩くのは、悪い気分じゃなかった。
 歩きながら、駅前で出会ったふたりの姿を思い浮かべた。電車の中でも、何度も、くり返し思い返した。八戒も柚葉も、ガキのころにつるんでいた当時の面影をちゃんと残していて、そのことにひどく安心をした。オレだって、と三ツ谷は思う。オレだって、あいつらから見たらガキのころとぜんぜん変わってねぇんだろうな。そうであればいいな、と付け足す。
 みんな不良を卒業していった。そうして、それぞれが真っ当な人生を歩み始めた。八戒も今や海外で活躍するトップモデルだ。よい変化ばかりだった。けれど、根本にあるものはすこしも変わっていない。あいかわらず犬みたいにじゃれてくるところや、人目を憚らない大袈裟な挙動。
 柚葉は、と思考が移動した瞬間、脚が止まった。リー、リー、とすずむしの鳴き声に取り囲まれて、先ほど見た柚葉の、すっかり大人びた顔を思い起こした。
 赤いくち紅も、ちいさなダイヤのピアスも、ワンピースも、カーディガンも、ヒールの靴も、彼女のまとうすべてが彼女のためにあるように、ひどく、とてもよく似合っていた。一人の大人の女性として真っすぐに立つ柚葉は、うつくしかった。
 しっかり者で世話焼きの彼女のことだから、頼りない八戒をしっかりサポートしてやってるんだろう。敏腕、という表現が、きっと合う。
 再び歩を進める。ローファーの底が砂を噛む音が響いた。
 思考を侵してゆくように、記憶がじわりと甦ってくる。
 彼女はもう、おぼえていないかもしれない。過去のことをいつまでも引きずるような女じゃないし、あれは柚葉にとっては、なんてことない若気の至り、ただのガキの戯れ、だったのかもしれないし。
 でも、それじゃあ、ずっと気にかけている自分は何なんだろう。蓋をして沈めていた記憶を後生大事に抱えて、なにをしているんだろう。なにを、したいんだろう。
 一度だけ、柚葉と、恋人どうしがするようなことをした。
 高校卒業を控えた年の、夏の、ある暑い日だった。
 鮮明すぎる記憶はあまりにも生々しくて、三ツ谷は慌てて首をふって浮かんでくる映像を打ち消した。
 空を見上げて、深いため息をつく。雲が全体を覆う、真っ暗な空だった。今にも雨が降り出しそうで、そういえば夜から雨予報だったっけ、とスマホのニュースで見た天気予報を思いだす。
 月も星も見えない重たげな空からすこし視線を下ろせば、自宅にしているアパートの窓が見えた。ほんとうはアトリエ――正確にいえば、知人から借りている空きテナントの屋根裏部屋なのだけれど、――の近くに住居も借りたかったのだけれど、金銭面を考えてやめたのだった。独立したとはいえ、まだまだ駆け出しだ。売れっ子になるためには、舞い込んでくる仕事を一件一件、誠実にこなしていくしかない。
 アパートの、明かりのついていない窓を見上げた瞬間、疲れがドッと押し寄せてきて、三ツ谷は当初持っていた欲求を思いだす。眠い、寝たい、でもそのまえにシャワーをしてさっぱりしたい、腹が減った、とりあえずなにか食いたい、食わなきゃ死ぬ、たぶん。
 重たい体を引きずるようにして階段を上ってゆく。古い階段は一歩踏むごとに軋んで、今にも壊れそうだ。
 鍵を取り出し、ドアを開ける。一人暮らしの暗くつめたい部屋が、三ツ谷を出迎えた。
 ドアに体を滑りこませて鍵を締めると、突然、かくんっと膝が折れ玄関に尻餅をついてしまった。まったく予想外の動きをした自分の体に、三ツ谷は驚いて目を瞬かせた。そしてすこしのあいだ玄関に座り、ぼうっと暗い天井を見つめていた。
「……腹、へった」
 くっ、と、喉の奥で笑いがこぼれた。睡眠よりもシャワーよりも、まずは腹を満たそう。あったかいものが食べたい。カップ麺のストックがあったはず、まだ。
 這うようにして玄関を抜けた。すぐそばにあるキッチンの照明だけつけて、袋麺やカップ麺の類を詰めこんでいるラックから、適当なものを取り出した。
 食って、すぐ寝よう。シャワーは明日、朝イチで。カップ麺の蓋をめくりながら、朦朧とした意識の中で三ツ谷はそう計画を立てた。