せっかくひらいた瞼を再度閉じれば、昨夜の面影が記憶の底から浮かび上がってくる。記憶は海のようなもので、丑嶋はその浅瀬に足を浸らせて、寄せては引いていく波をゆったりと触覚する。波が臑を撫ぜるたびに連れてくるのは昨夜の体温と呼吸、そして執拗に、しかし飽くまで優しく触れてくる柄崎の指の動きだ。すべてが絡まり一つになって、丑嶋の全身をやわらかくつつむ。幸福という概念が存在しうるのなら、きっとこのことだ。そう、丑嶋は思い、またそろそろと瞼を持ち上げる。吐息が頬に触れる。文字通りの目と鼻の先で、柄崎が間の抜けた顔で眠っていた。
――狭ェな、
一人で眠るために購入したセミダブルのベッドは、体格のよい男ふたりが眠るにはだいぶと狭く、丑嶋は心中で舌打ちを洩らす。めのまえですうすうと寝息を立てている柄崎を蹴落としてやりたい衝動に駆られたが、実行はせず、横柄に頭を掻くと丑嶋はそっとベッドから脱け出た。ひどく咽が渇いている。唾を飲みこみ、床に脱ぎ捨てた下着を身につけてから、カーテンをほそく開ける。日曜の朝は静謐に沈んでいて、時折り、タクシーが通り過ぎていくだけで往来はまだ眠っている。きっとまだベッドにいても構わないのだろうが、朝寝を貪る習慣のない丑嶋にはそれができなかった。
くちびるにそっと指先を添わせてみても、そこはふだん通りの自分のくちびるがあり、自分一人だけの体温があり、昨夜、散々食んできた柄崎のぬくもりはすっかりと消え失せていることに僅かばかり躊躇った。そしてそんな自分に驚く。躊躇った自分にたいして、狼狽する。
馨さん――、耳の奥、鼓膜に響くのは昨夜の柄崎の声で、彼は呻くようになんどもなんども丑嶋を呼んだ。せつなげな声がくちから洩れるたびに肌はカッと熱を帯び、全身に血が駆け廻る。セックスをする時にはいつも、柄崎はふだんにも増して丑嶋を呼ぶ。まるで名を呼ばなければ丑嶋が消えてしまうとでも思っているかのようなせつじつさで、馨さん、と、こぼす。くちびるの輪郭を舌先でたどり、粘膜と粘膜を絡ませて、舌を咥内に忍ばせていく柄崎の動きは性急で、しかしその性急さが丑嶋にはみょうにいとしかった。
窓の向こうの空はうすい雲がかかっており、そのあわいから淡い光が街に落ちていた。雨は降りそうにないが、晴れることもなさそうな複雑な空模様だ。きょうは日曜日で、外出する予定もないから天気などどうだってよかったのだが、平日に降られる雨は鬱陶しくて丑嶋は嫌っていた。
あくびを一つ、洩らし、首をおおきく廻すと、丑嶋は寝室を出て洗面所へ向かう。シャワーを浴びるかどうか迷い、鏡に映った自分に視線を合わせてみると、首もとに散らばったいくつもの鬱血の赤が目に入った。なんどめかの舌打ちがこぼれる。指のひらでそこをなぞり、顔だけを洗って洗面所を出た。
ひんやりとした床を踏み、キッチンに入ると、まっ先に薬缶に水を入れてコンロの火にかけた。湯が湧くまでのあいだ、丑嶋はリビングからつづくヴェランダに出て煙草を一本、吸った。すこしずつ光度を増していく世界に目を眇め、煙で肺を満たせば、次第に昨夜の残り香が薄れていくのを感じた。ふいに焦燥をおぼえたが、それもやがては紫煙に紛れ、霧散する。
抱きあって寝て起きてしまえば、昨夜の何もかもが夢だったのではないかという錯覚に陥る。どれだけキスをし、セックスをしても、朝になれば待ちうけている現実に厭でも身を浸さなければならない。日常に戻りたくないなどと思ったことはないが、夕べの名残りを惜しむ程度には丑嶋もただの人である。
柄崎。煙とともに、くちびるから洩れ出た名前に痛みをおぼえて、丑嶋は煙草を灰皿に押しつけると、すう、と、おおきく息を吸いこんだ。
キッチンに戻れば薬缶からはしゅんしゅんと湯気が洩れ、あたたかな空気がへやに満ちていた。マグカップにインスタントのコーヒー粉を入れ、湯を注ぐ。出来上がった黒い液体をひとくち、啜った。今時はコンビニでも百円払えばドリップされたコーヒーが飲め、コーヒーメイカーなどできちんと抽出したもののほうが美味しいとわかっているのだが、自分の飲むもの、食べるものにそこまでこだわりのない丑嶋にとってはインスタントのコーヒーでもじゅうぶんに満たされる。それに、と、丑嶋は心中でぼそりと呟いた。家に常備しているメーカーのインスタントコーヒーは、柄崎がすきなのだ。
壁掛け時計を見あげると、まだ朝の六時前だ。からだの奥がじいんと痺れるような、あまい気だるさに目を閉じると、昨夜の出来事が淡い輪郭となって甦ってくる。手を伸ばせば掴めそうで、それはけっして掴めないもう過去のものだ。理解しているし、過去を振り返ったり懐かしむ行為を丑嶋は嫌悪しているため、すぐに目を開けて眼鏡越しの現実をみつめる。自宅のキッチン、薬缶を置いたコンロ、踏んでいるのはこの季節にしてはいくぶんつめたいフローリングの床。
カップを流しに置くと、丑嶋はキッチンを出、柄崎の寝ている寝室に戻る。彼はまるで子どものように邪気のない顔で眠りこけ、隣にいた丑嶋の姿を探すようにときおり手を伸ばしてはシーツを撫ぜる。薄暗いへやに、セミダブルのベッド。丑嶋の寝室は簡潔で、無駄なものがない。寝室は眠るためのへやで、ベッドと時計があればほかは必要がなかった。そんなへやに、今は他人が――柄崎がいて、床には脱ぎ捨てられた服や下着が散らばっている不思議を思う。丑嶋はそれらを踏みつけながら柄崎の隣に身を横たえた。
ギ、と、ベッドが軋む。すぐ側で、柄崎が咽を鳴らす気配を感じる。起きるな、と、思った次の瞬間には、「しゃちょう」、柄崎が掠れた声を放った。
「起きてたンすか」
彼のほうは見ず、丑嶋は無言で手を瞑る。
「寝てた」
「はは。……起きてたでしょう」
そうして、おおきな欠伸を洩らす。柄崎は目を擦って、タオルケットを引き上げると、手を伸ばし丑嶋の耳朶にそっと触れた。
「おはようございます」
とろんとした調子で言うのに、丑嶋はああ、と素っ気なく応えた。彼はまだ昨夜のつづきにいるのだと、声の調子でわかった。触れてくる指の動きも、こぼす声のトーンも、やわらかく優しく、いとしげで、それを振り払うことの出来ない自分もまた、昨夜の名残りにきっと脳が溶けている。煙草を吸い、コーヒーも飲んだというのに、まだ現実に戻りきれていない自分に嫌気をおぼえつつも、今のこの心地好さをもうすこしだけ味わっていたい気持ちもあるのだった。
視線を流せば、寝起きの無防備な表情を見せる柄崎の顔がそこにある。ぶすだな。丑嶋は思い、同時に、こそばゆさに胸が疼いた。
肘でからだを支えて上体を持ち上げると、柄崎のくちびるに触れるだけのくちづけを落とす。柄崎の咽が音を立てるのを聞いたが、構わずにくちづけを深めていけば、やがて柄崎の舌が丑嶋の咥内に這入りこみ、歯列をなぞっていく。
柄崎の手が丑嶋のシャツの裾をぎゅうと握り、からだのラインを辿りながらわき腹を撫でる。シャツ越しに、熱い手のひらを触覚する。昨夜の火照りを残したからだは従順に丑嶋を求め、肩甲骨に到達した指が丑嶋をつよく抱きよせてきた。
「かっ、馨さん、」
キスのあいまにこぼれた声は、湿っぽく熱を帯びており、丑嶋は顔を離すと柄崎の瞳をじいと見つめる。名を呼ぶのは、ふたりきりの時だけだ。雇い主と従業員という関係が崩れ意味を為さなくなった時、柄崎は丑嶋を下の名前で呼ぶ。その瞬間だけ、丑嶋はただの一人の男になる。裏社会で生きるウシジマではなく、丑嶋馨というただの人間に戻れる。
「……うぜぇよ、柄崎」
柄崎の頬を両手に挟み、そう放つと、彼はちからなく笑った。
「えぇえ……ここまできて……?」
だめっすか? だめ。どうしても? どうしても。唾液でぬらぬらと光る柄崎のくちびるを舐め、丑嶋は彼からからだを離した。ぱたりとシーツの上に落ちた柄崎の手を一瞥し、そうして、ベッドを出る。
まだ開けていないカーテンの向こうには、すでに朝が始まっている。
「……社長と朝にもっかいヤりたかった……」
ベッドの中でもぞもぞと呟く柄崎を無表情で見やり、丑嶋は散らばっていた服と下着を彼に向かって放った。
「腹減った」
「あ、……俺、何か作りますよ!」
柄崎はからだを起こし、下着を掴んだ態でふにゃと相貌を崩す。おー、と、丑嶋は返事をして、カーテンを開ける。うす曇りの空はあいかわらずだったが、いくぶんかあかるさを増した世界がそこにはあった。
「兎の様子見てくるわ」
「馨さんっ」
ドアに向かって歩きはじめた丑嶋の背中に、柄崎の声が投げられた。足が止まる。振り返ると、ベッドの上で、未だ上半身は裸のままの柄崎がこちらをじいと見つめていた。頬が赤い。表情はどこかくるしげに歪んでいて、しかし笑顔を隠しきれないといった様子の彼の表情は、ひどく複雑なものだった。
既になんどめになるかわからない舌打ちをして、丑嶋はへやを出た。鼓膜に残る柄崎の声が、その声が紡ぐ自分の名前が、ひどくあまったるく感覚を刺激して、気づけば頬から耳にかけて赤く染まっていた。