「ほんとにいいのかよ?」
「いいから早くやれよ」
 これで何度目になるかわからない柄崎の問いに、いい加減に呆れて横を向いていた顔を彼に向けた。じろりと睨みつけた先には、安全ピンを摘んだ指先を中途半端に空に浮かせて怯えた目で丑嶋を見つめる柄崎がいる。その指先が震え、針の先が小刻みに揺れているのを見て、丑嶋は、
「やんねェんだったらいい。自分でやる」
 安全ピンを奪おうと手を伸ばしたが、柄崎は、「いい、いい、俺がやっから!」とじつに俊敏な動きで手を引いた。
「……なンなんだよオメー」
 舌打ちをして、だがここで安全ピンの奪い合いなどをするのもばかばかしく思い、丑嶋はまた黙して顔を横に向け、自身の耳朶を柄崎に晒した。
「たかがピアスだろ、耳朶に穴開けるだけじゃねーか」
 何を今さら、そこまで怯えているのか丑嶋にはまるで理解できなかった。散々、人に殴る蹴るの暴行を加え、自身もまた殴られ蹴られ時には焼かれ、痛みには馴れきっているはずだろうに。
「でも俺だって、人にピアス開けンのなんて初めてだもんよ」
 しおらしく項垂れる柄崎に、だから自分でやると訴えようとしたが、また先程とおなじ押し問答になるだけだとわかっていたから丑嶋は黙っていた。
 街は日没が迫りつつあった。夕日の最後のひとしずくが、街に生える低い屋根々々を濡らし、柄崎と丑嶋が胡坐を掻いている廃車置き場にも注がれている。墨色と茜色の混ざったような色に染められていくわずかな時間、車も人もあまり通らない通りに面した廃車置き場は、社会から見棄てられた場所であり、丑嶋と柄崎の数少ない行く宛てだった。
 なあ丑嶋ァ、と、ぼうっと通りを眺めている丑嶋に柄崎が言った。
「ちょっと、ちょっと、休憩しよーぜ」
「はァ?」
「だーめだ俺、緊張して咽渇いちまった!」
 柄崎は安全ピンをポケットに仕舞うと、手のひらをごしごしとダウンに擦りつけた。手汗すげーわ、などと呟く柄崎に、殴っていいか? と思ったが、そういえば自分も確かに咽は渇いていた。ついでに腹も減っていることを自覚する。
「飲みモン買ってくっから待ってろ」
 立ち上がって、通りに向かって足早に歩いていく柄崎の丸っこい背中を見送りながら、丑嶋は深いため息を吐いた。坐っている場所に伸びる影が、僅かばかり濃く、長くなっていた。


 鰐戸兄弟との一件で鑑別所送りとなったものの、丑嶋は保護観察処分となり、彼自身諸々の覚悟をしていただけに言い渡された時はすこしばかり拍子抜けをした。殺したとばかり思っていた鰐戸三蔵は生きていたらしいし、鰐戸兄弟との悶着の一部始終、そして丑嶋の置かれていた劣悪な生活環境などを考慮しての判断、とのことだった。
 ――どうでもいい、
 大人の審判などどうでもいい、と、丑嶋は心底思っていた。端から大人には何の信頼もしていなかったし、自分のケツは自分で拭くつもりで事を起こした。鰐戸三蔵は殺そうと思っていた。けれど死ななかった。運がいいのだか悪いのだかわからないが、丑嶋にとっての事実はそれだけで、それ以上もそれ以下もない。
 保護観察処分になったとして、帰るところはあの血の繋がっていない父親のいる家しかなく、ならいっそう少年院送りになったほうがマシと思っていた。
 鑑別所を出る日、門を抜けた丑嶋が最初に見たのは、一緒に鰐戸たちに向かっていった時とおなじ恰好をした柄崎だった。
 電信柱に背中を預けて、ぽつん、という擬音が似合う態で柄崎は佇んでいた。丑嶋に気がつくと、駆け寄ってきて抱きついた。その衝撃がすこしばかり大きくて、痛ェーよと文句を言ったが、柄崎はわんわんと泣くばかりで体を離さなかった。
 泣きながら柄崎は、ごめん、丑嶋ごめん、と、繰り返した。ことばの意味がわからなくて立ち竦んでいると、一頻り泣いた柄崎は洟を啜り、やがて「おかえり」と、笑った。


 指先で自分の耳朶に触れてみる。つめたく、僅かに弾力のある肉。ここにあの細い針で穴を開ける。たかがそれだけのことを、けれど丑嶋はこれまでの人生においてまるで興味を持たなかった。地元の人間がじゃらじゃらと耳にぶら提げている金属に、どうして唐突に興味を抱いたのか。
 ピアスというファッションに魅力を感じたのはいいが、そのやり方がわからない。そう柄崎に洩らすと、彼は嬉々として、「じゃァ俺が開けてやるよ!」と申し出たのだ。
「……ここに穴開けるだけじゃんか」
 耳朶をこうしてじっくりと触れる機会などなかったため、思いがけないそこのやわらかさに丑嶋はすこしばかり驚きつつ、この程度の肉に針を刺したところでいったい何が変わるというのかと、半ば無意識的に湧いた“ピアスを開けたい”という欲求の出処を見失う。
「丑嶋ァ、コーラ買ってきたぞ!」
 耳朶を玩んでいると、背中に声が掛かり、柄崎が缶のコーラを片手に持って駆け寄ってくるのが見えた。淡い茜色に溶けかけた輪郭を、街燈のオレンジがぼんやりと照らす。
「奢るよ」
「いーよ。あとで払う」
「律儀だなお前」
 手渡されたコーラの缶は水滴が幾粒も張りついていて、ひどくつめたい。プルタブを開けて勢いよく飲む柄崎の咽仏が上下するのを一瞥してから、丑嶋も一口、くちに含んだ。甘ったるい味ときつい炭酸が咥内で混ざり合う。
「それ飲んだら早く開けろよ」
 早くしないと日が暮れてしまう、日が暮れたら柄崎の家では夕食の時間になる。柄崎の母親が毎日決まった時間に夕食をこしらえて息子の帰りを待っているのを、丑嶋は知っている。
 丑嶋の催促に一瞬、何のことかとでもいいたげに目をまるくさせた柄崎に、「耳」と、自身の左耳を指先して丑嶋は言った。
「ああ、ああ、そうだった」
 いそいそとその場に坐りこみ、ダウンのポケットから安全ピンを取り出すと、柄崎は「じゃ、開けっぞ」と丑嶋の耳朶にそっと触れた。ざらついた硬い指の皮膚を耳朶に触角する。柄崎の親指と人差し指が丑嶋の耳朶を優しく摘む。自分でも自分の耳朶に触ることなんて滅多にねぇけど、他人にならなおさらだな。缶の淵に唇を押しつけて、丑嶋、動くなよ、と柄崎がちいさな声で言うのに「ああ」と応える。
「……なあ、ホントにいいのかよ」
 最終確認をするように、柄崎は神妙な声色で問うた。
「しつけーなオメーは。いい加減はっ倒すぞ」
「悪ィ、お前がいンならいいンだけどよ、でも、」
「たかがピアスだろ。それ刺すだけじゃねーか」
 これだけのために何十分、ここに坐りこんでいたのか。その時間を思うと丑嶋の苛立ちはピークに達した。こっちはおめーンちの飯の時間まで気配ってやってるっつーのに。深いため息を吐いて、頭をがりがりと掻きながら「もーいいわ」と立ち上がりかけた丑嶋のパーカーの裾を、柄崎が引っ張ってとめた。
「悪かったって! 今やっから!」
 再び胡坐を掻いた丑嶋の耳朶を柄崎は摘み、「いくぞ」と一言呟いて安全ピンをそのやわらかな皮膚に突き刺した。あまりにあっという間の出来事で、痛みも何も感じなかった。
「……終わり?」
 予想以上の呆気なさに、いつ刺されたのかも気づかないほどだった。
「ああ。穴開いた」
「あっそ。サンキューな」
「待て待て待て、動くな。すぐに塞がっちまうから、もうピアス入れちまう」
 固定された顔が動かせない視界の端で、柄崎が銀色の粒状のピアスを開けたばかりのピアスホールにゆっくりと挿入させていくのが見えた。安全ピンよりも太いためか、ひりっとした痛みが僅かに走ったが、その痛みもあっという間に消えてしまう。
 こんなもんか、と、丑嶋は思った。何かを期待していたつもりだったけれど、ピアスを開けるなんて所詮、こんなもんか。
「……痛くねェ?」
 柄崎の指が離れたのをしおに、丑嶋は自身の指先を耳朶に滑らせてみた。硬いちいさな金属が一つ、やわらかな皮膚を護るように貼りついている。
「痛くねェ」
 親指の腹についた血を吸い、柄崎に向き直る。「サンキュー、柄崎」。
 丑嶋の血液の付いた安全ピンを指に摘んだまま、やはりどこか怯むようにこちらを見ている柄崎に、丑嶋は冗談半分で「お前にも開けてやろーか」と提案した。
「いい、いい、俺はいい!」
「何ブルってンだよ、怖ぇのかよ」
 挑発的な笑みを浮かべればその気になるかと思ったが、予想に反して柄崎の反応はおとなしかった。安全ピンをポケットに仕舞うと、もぞもぞと唇を動かしてことばを継いだ。
「怖ェーとかはねーけどよ……、でも、なんか、」
 丑嶋は無言で、いつもと変わらぬ感情の読めないまなざしを柄崎に向けている。その目を見るにつけ、柄崎は心をつめたい風がすっと撫でるのを感じるのだった。
「お前のからだに、穴、開けちまったな、って」
「……」
「俺が、開けちまったンだな、って」
 浅いため息が丑嶋のくちから洩れた。いつの間にか日は欠け、薄墨色の夜が足もとから背中へと這ってきていた。丑嶋は指を耳朶から離して、にわかに柄崎の耳を引っ張った。痛ぇっ、と、思いがけず大きな声に薄笑いを浮べながら、丑嶋は、「穴はいつか塞がンだろ」と、言った。
「でも、よ、」
「もったいねーから、塞がらねーよーにしといてやる」
 そうして、丑嶋は大儀そうな動作で立ち上がり、「帰ンぞ」と柄崎に背中を向ける。黒いパーカーにつつまれた、大きな背中。絶対に誰にも疵つけさせないとつよく誓った背中が、柄崎の目を捉えて離してはくれなかった。


 ・

 柄崎、と、畳の上に胡坐を掻いてあつさに喘いでいる柄崎に丑嶋は声をかけた。柄崎が慌てて振り返ると、丑嶋の姿を確認するより早くビニル袋が足もとに落とされた。
「……社長、おかえりなさい」
「おう」
 扇風機の廻るカラカラという乾いた音、真夏の、僅かに傾いた日差し。それらで充満した六畳一間のへやに、体格の良い男ふたりはあまりに狭く、それでも柄崎にとっては丑嶋と一緒にいられるという事実だけで充分に満たされた空間に違いはなかった。
「なんすかこれ」
 ガサッと音を鳴らして落とされた袋開けると、安全ピンと、二つ組のピアスが一ケース入っている。
「開けてくれ。あともうふたつ」
「……いま、っすか?」
「いまだよ」
 丑嶋はその場に胡坐を掻き、ほら、とでもいうように柄崎と向きあった。
 今、彼の耳には左右合わせて四つのピアスが付いている。それに二つ追加すれば、計六つのピアスホールが彼の耳朶に出来上がる。
 柄崎は一度ビニル袋の中を見、そうして、改めて丑嶋を見、微かに嬉しそうに、ほほ笑んだ。
「何笑ってンだ気持ち悪ィ」
「いえ……なんでもないです」
 あの日、まだふたりともが少年と呼ばれていた頃のあの日に開けたピアスホールは、一度も潰れることなく丑嶋の耳朶を穿っていた。四つのうちの二つが最初のもの、この仕事――闇金という、じつに丑嶋らしい仕事だ――をともに始めてすぐに開けたものが二つ、そしてこれから開ける新しいピアスの穴。
 事業は始めたばかりで、金も何もなかった。地元では顔を知られていたからすぐにケツ持ちのやくざがつき、元手もできたが、そう易々と手もとに金は入ってこない。ゆっくりと、確実に、未来が見えてきているという希望だけがあった。ずっとこの人の隣にいるのだという希望は柄崎にとっては生きる意味でさえあった。
 袋から取り出した安全ピンは、西日を反射して淡い橙に染まる。血液よりあかるく、先端が鈍くひかる。
「じゃ、開けちゃいますよ?」
「おー」
 躊躇はなかった。耳朶よりもすこし上、軟骨と軟骨のあいだの肉の部分に、先端を刺していく。一度めよりも、二度めよりも、わずかに硬く感じる。それでも躊躇わずちからをこめれば、針はたやすく肉を穿った。ぷつ、と、赤黒い血が膨らんで、柄崎の指先を染めた。
「痛くないっすか」
「うん」
「ファーストピアスも入れちゃいますよ?」
 まるい、銀色のピアスを、キャッチを外して穴に差しこむ。そこで、ようやく柄崎は丑嶋からからだを離した。
 ちゃんと消毒しとけ、と、手渡されたアルコール綿で手を拭きながら、「おお」と柄崎は思わず感嘆の声を洩らした。
「社長めちゃくちゃかっこいっす!」
「そーゆーのいいから。ダセーな」
「いーなー、やっぱ俺も開けようかなあ……」
「開けてやっか?」
 丑嶋はくちの端を持ち上げて安全ピンを手に取った。そのさまがまるで債務者を追いこむ際の顔だったため、柄崎は慌てて首を振り、「いい、いいっす、俺は開ける専門で!」と畳の上に坐り直す。
 新しく穿たれたピアスを、止血のために上からティッシュで抑えながら、ぼうっと畳の上をみつめる丑嶋に、柄崎は気持ちを抑えきれずに相貌を崩した。
「また、俺が開けちまった」
「なんだよ……」
 丑嶋は、オメーしかいねーンだから仕様がねーだろ、と、ぶっきらぼうに言う。
「そっすね。……ああ、あと社長がずっと、あン時のピアス付けっぱでいてくれてて、すげー嬉しいです」
 言おうか、言うまいか、迷っていたことばを、思いきって投げれば、案の定丑嶋は顔を背けて、うぜー、と、ぼやいた。「塞がっちまったら、面倒だろ」。
 左右で六つのピアスホールが開いた耳を見、柄崎は笑顔になるのを抑えようがなかった。嬉しい、と、すなおに思った。
 子どもの頃から丑嶋は変わらない。丑嶋自身も、あの頃のピアスホールも、そのままだ。それが、柄崎をひどく喜ばせた。
 丑嶋はにやにやとしている柄崎を鬱陶しそうに見やると、「腹減った」と、一言、呟いた。
「あっ、飯、作ります!」
 立ち上がった柄崎と反対に畳に寝転んだ丑嶋は、部屋の隅に置いていたうさぎのケージに手を伸ばして、金網越しに彼女を眺める。
「何、きょう。美味いもんにしろよ」
「カレーか、シチューか、どっちか……」
「どっちも変わんねーじゃんか」
 憎まれ口をたたきながら、腹ばいで愛兎の額を撫でる丑嶋は、体格の大きくなった少年、といった態で、柄崎を安堵させる。
 狭いキッチンに立ち、野菜籠の中を漁りながら柄崎は、どういうわけかほんの少し泣きそうになっている自分に気がついてすこしばかり躊躇った。
 手、洗えよ、ちゃんと。
 背後で声をかけられ、返事をする。
 泣きたい気持ちを、呼吸と一緒に飲みこんだ。