吐瀉物と排泄物の混ざり合った匂い、堆積した生ごみ、転がった酒の一升瓶、黴の浸みこんだ炬燵布団、それに足を突っこんで横たわり、鼾を掻いている寝ている老人。「臭ェーなおい」と吐き棄てるように言った丑嶋の顔を柄崎は横目で見た。鋭いまなざしが老人に注がれている。呆れと、憐みと、微かな慈悲の混ざった、複雑な視線。彼はぶら提げていたスーパーの袋を足もとに置いて、緩慢な動きでへやに入っていく。柄崎は無言のままそこに一人で立ち竦み、彼の、黒いダウンコートに包まれた背中を眺めていた。
ぶあつくて、たぶんワンサイズくらい大きなダウンコートは、今の彼のからだに合っていない。大きく見えるけれど、その実年齢相応に未成熟であることを柄崎は知っている。丑嶋に限らず、この年ごろの男子は皆んな一様に、自分のからだをすこしでも大きく見せようと、兄貴とか先輩からのお下がりを着て、擬態する。
「おいジィさん、起きろよ。炬燵で寝ンなつったろ」
丑嶋の手の甲が老人の頬を叩き、老人は煩わしそうにその手を払った。獣のような呻り声。あらゆる負の空気が沈殿したへや。
「悪い柄崎、起きねェや」
ジィさんいてもいいか? と、振り返って訊く丑嶋に、いーよべつに、おまえの親父だろと返すと、丑嶋は数秒のあいだ柄崎をみつめて、ちいさくため息をつく。
「お邪魔、します」
柄崎はスーパーの袋を持って、へやに上がった。靴下の裏に何か固いものを踏む感触があり、視線をやると硝子の破片だった。
「なんか色々落ちてっかもしんねーし、土足でいいよ」
「……そうか」
身を屈めて破片を拾う。かつてはコップか何かだったものの一部が、日あたりの悪いへやの、かろうじて差しこむ西日の茜に淡く染まった。
老人――丑嶋の父親――は、土気色の顔をして、もごもごとくちを動かし、時折り瞼を痙攣させて、けれど起きる気配はなかった。死んでるようなもの、と柄崎は心中で思う。死んでるようなもの、な人間なのに、でも人間なんだよな。息をする音がする、匂いがする、腐った果物みたいなへんな匂い。
「炬燵で寝っと死ぬみてーだけど、いつまでもくたばンねーのな」
悪態をつきながら、丑嶋は父親の上半身に押し入れから出したタオルケットをかけた。色々の浸みがついた炬燵布団とは違って、天日干しにしたばかりらしい清潔そうなタオルケットだ。
玄関から入ってすぐにある台所の流しにスーパーの袋を置くと、丑嶋は手際よく中身を取り出してそこに並べていく。豚のこま切れ肉、じゃが芋、人参、玉ねぎ、バナナ。
「いつもおまえが飯作ってンのか」
水道の蛇口を捻って、笊に入れた根菜類を洗い始める。「ああ」と気のない返事を彼はした。
「ほかにするヒトいねーから」
慣れた手つきで食事の支度をする。柄崎、飯炊いてくれと言われ、柄崎は彼の指示に従った。何合? 二……や、三合、かな。流しの下の米櫃から米を三合掬って釜に入れ、野菜を切る丑嶋の隣に並んで米を研ぐ。出の悪い水道から流れてくる水はひどくつめたい。米を研ぐなんて行為をしたのははじめてのことだった。柄崎の家では炊事洗濯などの家事はすべて母親がやってくれる。丑嶋の家には、しかし母親がいない。
「丑嶋、」
じゃがいもの芽を取る丑嶋の手もとを覘きこんで、ふいに柄崎はたずねたかった。「なんだよ」とこたえる丑嶋の、何の感情も含まれていない声。平らかで、目の前に横たわっている現実をただただ睨みつけて、すべてを認め、受け容れているのだとわかる声。
「や……、なんでもねぇ」
「なんだよ、言えよ、気になンだろ」
丑嶋が笑って柄崎の足の臑を小突く。柄崎も笑って、おどけたように身を捩った。
「悪ィ。なんでもねぇよ」
――さびしく、ねェの?
そうたずねようとして、たずねなかった己の精神に我ながら安堵をする。さすがにこの質問は、彼にとり不適切であり、まるで相応しくないと思った。
白く濁った水を、米粒を落としてしまわないよう気をつけながら棄てていく。丑嶋は既に野菜をすべて切り終わり、鍋に油を落として肉を炒め始めていた。上手いな、と感心していうと、カレーくれぇ誰だって作れんだろ、と彼らしい調子で言った。
「俺は作れねぇよ」
「ハァ? 嘘だろ」
「作れねぇよ、作ったことねーもん」
肉の炒められる音と香ばしい匂いが鼻先をくすぐる。米を炊飯器にセットしてしまうと、あとはもう柄崎の出番はなくなってしまった。どっか坐ってろよ、と言われたものの、居間には丑嶋の父親が鼾を掻いて寝ているし、どうにも居心地が悪くて、けっきょく、丑嶋の背後で野菜が煮えていくのをぼんやりとみつめることしかできなかった。
「木偶の坊だな」
「なンだと!」
丑嶋に鼻で笑われるも、事実なのだから仕方がない。そうしているうちに根菜類はやわらかく煮え、カレールーを割り入れてしまえば、やるべき支度はいよいよもって終わってしまった。
「飯、できたけど、夕飯にはまだ早ェな」
丑嶋はふりかえって柄崎を見やり、それから、居間でねむる父に視線を移した。柄崎もまた丑嶋の視線を追いかける。何事かを唸る父親のことばは聞きとることができないけれど、何か、汚い罵りの文句であることは柄崎にもわかった。それが丑嶋と、おそらくはその母に向けられたものであることも。
悪ィな、と、丑嶋がつぶやいた。その声には、柄崎を家に招いたことへの後悔の色が滲んでおり、柄崎は胸がぎゅうと痛むのを感じ慌ててかぶりを振る。
「そんなことねーよ」
食わしてもらうばっかじゃ悪ィから、と、丑嶋がにわかに柄崎を家に招んだのは、学校から帰る道すがらのことだった。きょうもうちで飯食ってけよ、と誘った柄崎に、丑嶋は逡巡したのち、「なあ。うち、来るか?」と提案したのだ。
鰐戸三蔵の一件が起こる前、柄崎はいちどだけ丑嶋の家に行ったことがあった。荒廃――ということばの似合う家で、丑嶋は父親を甲斐甲斐しく介護していた。「飯、俺が作るしかねーけど」。そうつづけた丑嶋に、柄崎は嬉しそうな顔で頷いて、ふたりは肩を並べて帰路をともにしたのだった。
丑嶋の家は、はじめて訪れた時と比べて何も変わってはいなかったけれど、はじめての時よりもショックを受けなかったのは、丑嶋が当り前に食事の支度をし、当り前に笑っていたからだった。こんな糞みてーな親父との生活、俺だったら堪えられねぇわ。心中で思ったことばはくちには出さず、でも、どんなに糞みてーでも、こいつにとっちゃ親父なんだよな。そう思いなおす。
「……狭ェけど、俺のへや、行くか」
すこしばかりの沈黙ののち、丑嶋はそう言った。へや? 柄崎が復唱するよりはやく、丑嶋は居間を通り抜けて、へやの片隅に備えつけられた木製のドアを押しあけた。
丑嶋の“へや”は、へやというより物置の様相を呈していた。広さは四畳半ほどだろうか、ベニヤの壁には透き間が目立ち、全体的に湿っぽく、灯りはない。段ボール箱ほどの大きさのちいさな机のようなものに、中学校で支給された教科書類が平積みにされている。それを開いた様子は窺えないけれど、教科書なんて柄崎もまた手に取った記憶はないから、お互い様である。
「狭ェだろ」
むきだしのつめたい床に腰を下ろした丑嶋が、ドアの前でつっ立ったままの柄崎を見あげてくちの端を持ち上げた。笑ってはいるけれど、それはけっして自嘲の笑みではなく、狭くって悪いな、という単純な苦笑いであることに柄崎も気づいていた。丑嶋は自らの境遇を自嘲したり、卑屈に思ったりするような人間ではない。現実をただただみつめて、そういうものとして受け容れている。
「ここ、おまえのへやなのか?」
柄崎はへやに足を踏み入れて、言った。
「使ってねェから、勝手にそうしてるだけ」
「狭いな」
「狭ェだろ」
そうして、ふっと笑う。照明のないへやの中はドアを開け放しても薄暗く、その表情は上手くは読みとれない。柄崎は上下左右を見廻して、へえ、とか、ほー、とか、感嘆の息を洩らした。
「ここで寝たりしてる。ジィさんといっしょには寝たくねェ」
「そうか」
カサッと音がして目をやると、“へや”の隅にはケージが置かれており、その中でうさぎが一羽、鼻をひくひくさせて突然の来訪者に怯えているようだった。
うーたん、と、丑嶋はケージの扉を開けて、うさぎを抱きかかえた。「かあさんが飼ってたうさぎ」。胡坐を掻いた膝の上に載せ、顎の下を撫でる。うーたんはほそい鳴き声を上げながら、丑嶋にゆったりと身を任せているようだった。
「おまえに懐いてンのな」
触っていいか? と、手を伸ばした柄崎に、丑嶋は、「だめ」と身を引いた。
「なンでだよ!」
「うさぎは怖がりなンだよ」
「ちょっとくれーいいだろが、ケチくせー」
「だめだっつの」
そう言う丑嶋の声はどこか弾んでいる。柄崎がこれまで聞いたことのない声だった。いつもは緊張で張りつめている丑嶋の雰囲気が、今は微かにゆるんでいる。自宅に友達を招く、という、年齢相応のことを、単純に楽しんでいるかのような彼の様子に、柄崎は胸の高鳴るのを感じた。
おそらく、丑嶋のこの“へや”に足を踏み入れたのは、自分がはじめてだ。そう思うと、多少なりとも丑嶋が自分に気を赦してくれているのだという歓びが胸に湧き、優越感でいっぱいになった。
まだ中学生とはいえ、そこそこに体格のよいふたりがへやに入れば、寝転がることもできないほどの狭さとなる。互いに胡坐を掻けば、肩の触れあう距離に丑嶋がいる。その肩に、柄崎の指先がふ、と、触れる。
「なンだよ」
うさぎを抱いたまま、視線を持ち上げた丑嶋の目は、とうめいで、ひどくきれいだった。薄暗さに慣れた目がはっきりとそれを捉え、我慢ができずに唇を寄せていた。びくんっと丑嶋の体が跳ねるのを察したけれど、やめようとは思えなかった。そのくらいには、この距離は近すぎたし、丑嶋の瞳はあまりにもうつくしかった。
触れあわせた唇は、互いにかさついていて、けれどじゅうぶんに熱を帯びており、柄崎は体の内側がカッと熱くなるのを感じた。
ん、と、咽奥で、声が洩れる。それが耳を刺激し、下半身が反応する。そンな、無防備な声、出すンじゃねーよ。ゆるく勃起した下半身を丑嶋のせいにする自分を矮小に思う。
顔を離すと、薄闇にもわかるほどに丑嶋の顔はまっ赤に染まり、驚きで目がまるくなっている。
「柄崎、テメ、」
何すンだ、と言いかけるくちを再度塞ぎ、舌で唇を舐めると、固く閉ざされていた唇は呆気なくひらき、口腔が舌を招き入れた。触れるだけではない、おとながするような深いくちづけは、丑嶋にとってはもちろん、柄崎にとってもはじめてのものだった。奥へ奥へと忍ばせれば、いつしか丑嶋の手が柄崎の二の腕を掴み、ぎゅうとちからがこめられる。それが、拒絶なのか強請りなのかはわからない。いずれにせよ、普段は感じられない丑嶋の唇の感触に昂奮を煽られていることだけはたしかだった。
唇を離す、至近距離に丑嶋の顔がある、生ぬるい吐息が頬を撫でる、丑嶋、と、掠れた声が咽の奥からこぼれる。
「……悪ィ」
「は?」
丑嶋の両肩を掴み、柄崎は顔を俯けた。なンで俺なんかをうちに招んだンだよ。こーいうことされるって、思わなかったのかよ。心中で渦まくことばと欲が、とまらない。丑嶋の腕の中にいるうさぎが、怯えた目で柄崎を見ていた。まるで責められているかのようで、柄崎は丑嶋から手を、離した。
ため息を一つ、吐き出す。
「何をしねぇつもりだったのに」
悪ィ、丑嶋。そう言って、くるしげに顔を歪める。
「なんかおまえ見てたら、やっぱ、だめだわ」
何もせずにはいられない、と、柄崎は欲と罪悪感とが入り混じる胸のうちから、ことばを吐き出す。
伝えた想いは、友情を疾うに越えた、恋慕からのものだった。すくなくとも、柄崎にとってはそうだった。こいつに一生を捧げたいと心から思った。それから、自分のものにしたい、と。
その時、丑嶋からのこたえはなかったけれど、今、こうして想い人が目の前にいる事実を柄崎は単純に歓び、自分を避けずにいてくれている丑嶋にたいして、真っすぐな愛情を伝えたかった。そのつもりだった。
「柄崎おまえ、俺とセックスしてぇの」
「え?!」
丑嶋があくまで平らかな口調で問うため、柄崎は驚いて顔を上げた。真っすぐにこちらを見やるまなざしは、情欲のかけらもなく、変わらずにきれいで、ああ、きれいだな、と、柄崎は沸騰している頭の片隅で、思う。
丑嶋は、きれいだ。心のそこからそう思う。彼が柄崎と加納を庇って鑑別所へ行くことになった時も、彼はその事実から目を背けることはせず、ただありのままの現実を睨みつけ、受け容れて、ただ一人罰を受けた。その心根のうつくしさに、柄崎は惚れたのだ。
「……や、てゆーか、なんか」
「なンだよ」
きゅう、と、丑嶋の腕の中でうさぎが鳴く。うさぎってきゅうきゅうって鳴くんだな、などとどうでもよいことを考えるのは、現実逃避をしたい時の柄崎の癖である。真っすぐに見つめてくる丑嶋にたいし、伝えたい気持ちを上手くことばにできず、現実逃避をする自分が、恥ずかしい存在に思える。柄崎はいちど、つよく目を瞑り、そうして、彼の瞳を見つめかえした。
「なんか、おまえ見てっと、おまえのために何かしてやりてーって、思うンだよ」
キスやセックスが、丑嶋のやすらぎになるのなら、いくらでもしてやりたかった。今、それをしてしまうのは、しかしけっして丑嶋のためではなく、柄崎本人の欲を満たしたいがためのもので、柄崎にはその自覚があった。だから、してーけど、しねぇ。できねぇ。
「……なンだ、それ」
鼻で笑い、丑嶋は唇を斜めにする。納得のいかないといいたげな、柄崎を小ばかにしているような、曖昧な表情だった。
「ってゆーか、丑嶋は、俺とヤりてぇの?」
「ヤりたくねぇな」
「即答かよ……」
わかっていたことではあるけれど、さすがにショックだった。柄崎は肩を下げ、丑嶋の腕に抱かれるうさぎに視線を落とした。こいつは丑嶋に抱かれて、いいよなあ。
その時、ふ、と右手の先が何かあたたかいものに触れ、柄崎はハッとして目を凝らした。丑嶋の右手が、柄崎の指先を掴んでいる。彼は視線を柄崎に向けたまま、緩慢な動きで指を絡めてきた。節ばった指だ、女のものとはまるでちがう。女と手を繋いだ経験などあまりないにも関わらず、靄のかかった頭でそんなことを思う。固い、つめたく湿った指が、そろそろと肌を這う、その感触が、ひどく気持ちよい。萎えることのない下半身が再び硬度を増す。
丑嶋は無言を貫いている。それを、ずるい、と、柄崎は思う。せめて、何事かを言ってほしかった。薄暗がりの中、探るようにして手を繋ぎ、これではまるでほんとうの恋人同士みたいだ。勃起させたていで矛盾しているけれど、顔が熱くてたまらない。見れば、丑嶋の耳の先もほんのりと赤く染まっている。
丑嶋の体が動き、うさぎを抱えたまま、彼は膝を立てるかたちに坐りなおした。立てた膝に額を載せ、顔が、柄崎の視線から逃れるように背けられる。
おい、ずりィよ、と、柄崎はふたたび、思った。どうしろってンだよ、俺は。このまま、おっ勃てたまま、どーしろってンだ。
繋いだ手を外すことは、しかし柄崎にはできなかった。逃げてトイレに駆けこむことも、おそらく丑嶋は赦してはくれない。
「……おい。俺、勃ってンだけど」
「きもい」
言いつつも、丑嶋もまた手を離すわけでもなく、薄く開いた瞼ごしに柄崎を睨みつけた。丑嶋の行動とことばが伴っていないことへの苛立ちをおぼえたけれど、だからといって何かが変わるわけでもなく、ふたりは手を繋いだまま、薄暗いへやの中で押し黙るしかなかった。
居間からは相変わらず、丑嶋の父親の汚い罵りの文句が漂い、腐敗臭は、ドアからにじり寄ってきていた。ドアを閉めたら――柄崎は思い、けれどそんなことをしたらいよいよもって自分が何をするかわかったものではなく、できなかった。
うしじま、と、柄崎はからからに渇いたくちを開いた。
「キスしちまって、ごめんな」
言いたかったことばを、吐き出す。
「やっぱり俺、おまえに何かしてやりたかったンだよ」
キスが、今の柄崎にでき得る唯一の愛情表現だった。それ以上のことは、もう、求められない。でもせめてキスだけ、それでおまえが癒されるなんて思っちゃいねぇけど。でも、殴らなかったのは、うさぎを抱いてるからってだけじゃなくて、そんなに、厭じゃなかったから、なんだって、思っていいか? そのくれー自惚れても、いいか? 今だってこうして、手を繋いでくれて、きもいとか言いながら、触れるのを赦してくれて。俺のこと、避けてはいないって思って、いいよな。
「べつに、なンも要らねェーよ」
丑嶋は感情のこもっていない調子でそう言い、柄崎の手を握る右手にちからをこめた。丑嶋のほうからこうして触れてきたのは、はじめてのことだ。柄崎は握られた手にちからをこめかえし、指先で遠慮がちに皮膚を撫でた。こちらを向こうとしない丑嶋の、赤くなった耳の先を見つめて、ああもう、何も要らねェ、と、柄崎は思った。