自宅に人を招くことをこのまない丑嶋が、ごく偶に――ほんとうにただの気まぐれだとわかる気やすさと唐突さで、――「うち、寄ってけば?」と柄崎を誘う時がある。社員同士で呑んだあとだとか、回収に手間取って夜更けに柄崎が彼を車で送った時など、気まぐれと、丑嶋なりの多少の労いの意をこめて、「寄ってけば?」と、極めて素っ気ない調子で柄崎を自宅に招き入れる。
その夜も、すべての回収が終わったのは日付けが疾うに変わった頃で、オフィスの鍵をかけてビルを降りたふたりは、並んで煙草を吸い、缶コーヒー片手に「お疲れ」を言い合った後、互いにそれぞれの車で帰路に就こうとしていた。すくなくとも柄崎はそのつもりで、じゃァそろそろ、と、缶に残ったコーヒーを咽に流しこんで丑嶋を見やった。
「柄崎、うち寄ってけば?」
「へっ?」
柄崎が目をまるくさせているのを無視して、丑嶋はハマーの鍵を放る。ちり、と音を立てて柄崎の手のひらに収まった車のキィと、夜闇に溶けそうな丑嶋の輪郭とを交互に見、数秒経ってからようやく、「いいんすか?」と柄崎は破顔した。
「いいから言ってんだろ」
相変わらず素っ気ない返事を残して一人で愛車を停めている駐車スペースに歩いていってしまう丑嶋の背中を、柄崎は嬉しさを抑えきれないだらしない顔で追いかけ、「じゃあ酒、酒買ってきましょ! 金曜の夜ですし!」などと勝手に提案をし始める。
「社長ンち久々っすねぇ、ウサギらは変わりないっすか?」
「まーな」
ハマーの運転を任せるのは、従業員の中でも柄崎だけだ。丑嶋が助手席に乗りこんだあとに運転席に体を滑りこませ、キィを差しこむと、軍用車両系の車特有の重苦しいエンジン音がシート越しに肌を撫でた。
車が走りだすと、丑嶋は体を完全にシートに預けきった。柄崎が横目で見やれば、シートに深く沈みこんだせいでいつもより低い位置に丑嶋の頭がある。
「社長、疲れてます?」
柄崎の声には純粋な労いと心配の気持ちが滲んでいる。なんだってこうすぐに感情を露わにできるのか、と、柄崎のすなおさに苦笑しながら、「べつに」と丑嶋は抑揚のない声音で応えた。
疲労はある、当り前だ。朝から今まで働き続けたのだ。それも一週間。しかしそれを普段、人に悟られることはない。たとえ長いつき合いのある人間にたいしても、自分が消耗している姿は見せたくないものだし、見せてはいけないと考えている。柄崎や加納は幼馴染みである前に従業員だから、雇い主である自分のそんな姿をみれば彼らのモチベーションに影響する。
深くシートに体を沈め、窓の外の流れていく街を眺めた。一晩じゅう消えることのないネオン、絶えることのないポン引きの影。――夜は、ずいぶんと更けている。
「……まあでも、就業時間はとっくに過ぎてっしな」
「なんか言いました?」
ひとりごちた声は、ハマーのエンジン音が消してくれた。柄崎がちらと送る視線に顔を背け、「いや」と丑嶋はこたえた。
幸せになるってこと。
丑嶋のへやに入るのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。相変わらず几帳面に片づいたへやに、若干の緊張を感じながら柄崎は「お邪魔します」と足を踏み入れる。そんな柄崎の様子を知ってか知らずか、丑嶋は「おう」と気のない返事をしてさっさとへやに上がっていってしまう。その背中を追いかけるようにして靴を脱ぎ、放られたスリッパを履いた。アイボリーの、無地のスリッパは素っ気なく、けれどいかにも丑嶋が選んだものらしくて、ひとりでに笑みがこみ上げてくる。
彼の家を訪ねる時は、だいたいいつも、こうだ。知らぬ間に緊張し、知らぬ間に笑みがこぼれる。それを、きっと丑嶋は気づいている。気づいていて、取り立てて何も言わない。黙ってへやに上がり、まるで一人の時と変わらぬ動きで自室に入って上着を脱ぎ、部屋着へと着替える。柄崎などそこにいないかのような態度に、けれど柄崎は不満には思わない。黙ってリビングのローテーブルに買ってきたビールやつまみを並べ、丑嶋が着替え終わるのを楚々と待つ。
床にしゃがみこんだ態で待っていると、「ソファ」、と、自室から出てきた丑嶋が声を投げてきた。
「はい?」
「ソファ。坐れば」
顎でしめされ、柄崎は「あっ、はいっ」と慌ててソファに腰をおろした。丑嶋が坐るまで待とうと思っていたのだけれど、彼から指示されれば従わないわけにはいかない。柄崎の従順さに丑嶋は苦笑して、自分もまたソファに深く沈んだ。柄崎と向かう合うかたちに坐り、あいだのローテーブルにはコンビニで購入した缶ビールと、ナッツやビーフジャーキーなどの乾きもののたぐい。けっきょく柄崎の誘いにのって酒を買ってきたはいいけれど、丑嶋自身はさほどアルコールを欲していたわけではなかった。欲していたのはむしろ、この時間、柄崎と向き合ってだらだらと、就業後の夜を過ごすこの時間である。
「柄崎」
缶ビールを手渡すと、柄崎はへこへこと頭を下げてそれを受けとり、「社長は?」と問うてくる。
「俺はいい」
「飲まないんすか」
「いーから、お前飲めよ」
飲みたかったンだろ、と、追求すれば、柄崎はすまなそうに首を竦めて、じゃあ、すんません、とプルタブを開けた。プシュッと小気味よい音が、広いリビングに響く。ついで、ビールが柄崎の咽を鳴かせる音。会話はない。時間だけが、しずかに流れていく。それを、ひどく心地好いと思う。そうして丑嶋は、自覚していたよりずっとひどく、疲労していたことに気づくのだった。
硝子の皿に開けられたナッツを摘み、くちに運んで噛み砕く。愛兎が一羽、足もとにすり寄ってきたので、抱き上げて膝に乗せてやる。顎の下を撫ぜてやると、気持ちよさそうに目をほそめ、丑嶋に体を預けてくるのが可愛かった。
「あ、そいつ、うー三郎っすね!」
柄崎が指を差して誇らしげに言う。増えに増えた丑嶋の愛兎の見分けができる人間は、世界じゅうで柄崎くらいのものだ。あの戌亥でさえ丑嶋のうさぎ達を網羅できていない。
正解、とも、不正解、とも答えず、うー三郎の顎の下を撫でながら、きょう取り立てに行った債務者についてのあれこれを柄崎が話すのを、丑嶋は黙って聞いていた。相槌を打っても打たなくとも、柄崎の話しは脈絡もなくつづき、それを聞いているのはけっして不快ではなかった。昼間、オフィスにいるあいだは素っ気ない態度を取りつづけるというのに、今夜はこの部下の――幼馴染みの声を聞いていたかった。体は疲れていて、このまま眠ってしまえそうなほどだというのに、不思議だった。否、だからこそ、なのか。自問するも答えは出ない。
ふと、脳裡に何かの影がちらついて、丑嶋はハッとした。影を捉えようと目を凝らせば、それは中学時代の自分と、金髪の少年――柄崎の姿で、おぼろだった輪郭は視覚がとらえた瞬間くっきりとしたかたちをもって丑嶋の記憶に浮かび上がった。
まだ幼い表情を残すふたりは、白いへやで対峙している。白いへや――中学校の保健室、だ。風に波うつカーテンが、床に緩やかな曲線を描いている。自分も柄崎も顔や腕に痣を作っていて、きっと誰かと喧嘩をしたあとだとわかった。あれは……、そう、自分が喧嘩を吹っ掛けられて、そこに柄崎が助けに入って、却って邪魔になった時のことだ。おまえがいなければもっとらくだった、などというようなことを、柄崎にぼやいた記憶がある。それを受けて、柄崎がすまなそうに肩を竦めたことも。
「怪我、痛ぇ? 丑嶋」
ベッドに腰掛けた丑嶋の頬をみつめ、柄崎がおずおずとくちを開く。べつに、と、丑嶋は答え、痣のくっきりと残された頬を手のひらで撫でた。さっきまで出血していた疵ぐちは、柄崎の下手くそなりの手当ての甲斐があってすっかりと処置され、血も止まっている。それでも心配そうに顔を覘きこんでくる柄崎の視線が煩わしく、ふいと顔をそむけて、窓の外に視線を送った。五月の、初夏の匂いを孕んだ風がカーテンをふうわりと膨らませ、グラウンドでは体育の授業をしているらしい歓声が聞こえてくる。
「丑嶋」
あくびがこぼれ、このままベッドで眠ってしまおうとした丑嶋の肩に、とうとつに柄崎の手が触れた。
「何」
目の前で柄崎は、思いつめたように顔を引きつらせ、何かを言おうと唇を震わせていた。
「何? 柄崎」
体に触れられていることが不快で、払い落とそうとした手がにわかに握られ、丑嶋はぎょっとした。汗ばんだ手が気持ち悪く、離せよ、キメェな、とくちばしれば、「丑嶋っ」と、大きな声が鼓膜を打った。
「あのさ、ごめん」
「何が? 喧嘩のことか?」
「違う。や、それもあっけど、……」
息を一つ吸って、意を決したように柄崎は、告げた。
「俺、おまえのことが、すきだ」
くるしそうに顔を歪ませて、柄崎がそう言ったのを、丑嶋は忘れたことがなかった。あの告白は、丑嶋が柄崎の手を払ったことでうやむやになってしまった。その後すぐに鰐戸三兄弟との一件が起こり、けっきょく、柄崎のくちからその先の話を聞くこともなく、月日は流れていった。
忘れたことはない。忘れたことはないけれど、どうして今になって、こんなにも鮮明に思いだすのか。美味そうにビールを飲み、だらだらと他愛のない話をつづける柄崎をみつめ、ふいに丑嶋は、自分の内側に籠もる熱を触覚した。
「なあ」
ソファに深く凭れ掛かり、柄崎を見据える。はい、と、従順に返事をする柄崎に、かつての面影を重ねる。自分は今、ひどく疲れているのだと自覚する。疲れていて、消耗していて、頭が、あまりよく廻っていない。
「なんですか、社長」
「おまえさ、まだ俺のことすきなの」
くちにした途端、柄崎の顔から笑みが消えた。ただでさえ音のないへやが水を打ったように静まり返り、彼の反応に丑嶋は目をほそめた。
「――えっ?」
ビールの缶を両手につつむようにして持ち、柄崎は上目遣いで丑嶋をみつめる。
「だから、」丑嶋は上体を起こして、柄崎に顔を近づけた。「おまえ、俺のことまだすきなのかって」
柄崎の答えは、疾うにわかっていた。彼は丑嶋のことを、好いている。上司や人として、以上に、恋慕の意味で、柄崎が自分を見ていることに、丑嶋は気づいていた。オフィスでの彼の態度にはそれが滲み出ているし、加納や戌亥も知っているはずだった。
丑嶋はソファから立ち上がると、柄崎の前に立ち、彼を見下ろした。俺、おまえのことが、すきだ。少年だった頃の柄崎の声が耳の奥で甦る。すき。すげー、すげーすき。すきだ、丑嶋。まだ幼い彼の唇から、あふれ出てとまらない声を聞いた。体の奥が疼く。あの、“すき”には、純粋な好意と、おとなが放つつよい欲求が含まれていて、それで、だから、気持ちが悪くて、おそろしくて、拒んだ。柄崎の欲求に応えるためには、あの時の丑嶋は幼すぎた。いくら喧嘩が強くとも、心は、まだおとなに頼るほかない子どもでしかなかった。当時は、おとなは憎しみの対象だった。その憎しみの対象が持つ欲は、気持ちの悪いもの、けがらわしいものとして丑嶋に植えつけられており、拒絶する以外に対処する術がなかったのだ。
今はどうだろう。見据えた先には、従業員でもあり幼馴染みもある柄崎の強張った顔がある。自分の体温が徐々に上がっていくのを感じる。疲れた、と、丑嶋は思った。この疲労を忘れさせる必要を感じた。丑嶋は身を屈めると、柄崎の顎を掴んで乱暴に唇を吸った。
「んっ、……しゃ、社長!」
はぁっ、と、息とともに吐き出された声に、頭がとろけた。無意識のうちに腹の下が疼き、こんなにも柄崎を求めている自分が厭になる。厭になるけれど、求めている、という事実は覆らない。顔を傾けて柄崎の唇により深くくちづけていく。奥のほうで固まっていた舌がやがてそろそろと動きだし、丑嶋の咥内に絡みつくまでそう時間はかからなかった。柄崎の舌が上顎を舐め、歯列をなぞり、丑嶋の奥を求めて進んでいく。流されろ、と、丑嶋は思った。このまま、とっとと流されて俺をすきに抱いちまえ。もの欲しそうに見るのはもうやめて、このまま、このまま。
「や、……めましょ、社長、」
荒い息のあいまに、柄崎が呟くのが聞こえて丑嶋は動きをとめた。
「あァ?」
顔を離せば、ふたりのあいだに銀色の糸が引かれる。照明を落としていないあかるいへやで、目の前の柄崎はひどくくるしげな表情を見せていた。
「ンだよ。……今さら」
ほとんど投げ棄てるような口調で丑嶋は言い放った。今さら。ほんとうに、今さら、だ。膝で柄崎の股間を押すと、疾うに硬度を増したそれが存在を主張している。んん、と、柄崎の咽奥から声が洩れ聞こえる。
「こんなにしといて、なンだよ」
「だって、」
「おまえ、中学ン時さんざん俺のことすきつってただろ。すきにさせてやるよ。いい機会だろ」
「そっ、それは、そう、っすけど! でも!」
違うんす、いや、違わなくないんすけど! ばたばたと首と両手を左右に振りながら弁解しようとする柄崎から、丑嶋はため息をついて体を離した。ンだよ、と、くちから毀れた声が、自分でもびっくりするほどに掠れて響いた。
すきだ、と、あの時、柄崎はたしかに言った。すげー、すき。おまえのことがすき。抱きてぇ、って思う。女にするみてーに。
あン時、ああ言ってたじゃねーか。舌打ちをして、いつもなら自分のいうことを従順に聞く部下が、珍しく命令に背いたことへの苛立ちが、丑嶋を覆っていた熱を上塗りしていく。
「もういーよ」
急速に冷めてしまった体温を持て余しながら、そう言い放つ。これ以上迫ったところで、もう柄崎は流されやしないと理解できた。
風呂入って寝る、と、ソファを降りた丑嶋の手首を、柄崎がぱっと掴んだ。見下ろしたさきに、相変わらずくるしそうに顔を歪める柄崎の顔がある。
「社長、違う、違うんす……」
「なにが」
まどろっこしいのは嫌いだった。厭なら厭で、そう言えばいい。その気がないのならそうだと、伝えればいい。さっきまでのことはなかったことにして、またあしたから普通の、従業員と雇い主のかたちに戻ればいい。柄崎は、ごくりと唾を飲みこみ、ことばを探すようにしながらくちを開く。
「俺、社長のことがすきです、」
「うん」知ってる、と、丑嶋は言った。「それで?」
「すきですきで、もう、ほんとうにすきで。……できれば、できることなら、抱きてぇって、」
意味がわからない、それならば今がまさに据え膳ではないか。丑嶋の頭にははてなマークと、柄崎の話す内容と行動の矛盾への苛立ちが湧き上がった。
「でも、俺なんかが社長のこと抱くとか、おこがましいっつーか……、社長は、俺なんかには手の届かないところにいる存在で、だから、こういうのは、やめたほうがいいンだって」
話しながら、柄崎は、己の知性のなさを呪った。支離滅裂で、何を言いたいのか、どう伝えれば伝わるのか、まるでわからない。ただ、今目の前にいるこの人のことを、けっして疵つけたくない、汚したくない、それだけの想いが柄崎のくちを動かさせていた。
「……社長には、幸せになってほしいンで」
言いながら、涙が出そうだった。俺が触れることでは、彼は幸せにはなれない。ずっとそんな気がしていた。すきですきでたまらなくて、想いを寄せながら、けれど自分の想いを叶えてしまうことが、この人の幸せとは結びつかないのだと。だから、キスもセックスも諦めようとしていた。なのに、先に動いたのは丑嶋のほうだった。キスをされた瞬間に、中学時代から燻っていた火種が再び燃え上がった。柄崎の内側はあつく、つよく、丑嶋をもとめていた。それを覚られまいとすればするほど、顔は歪み、笑顔は醜く崩れていく。見上げた先にある丑嶋はあくまで無表情を貫いていて、それがひどく、おそろしかった。
「柄崎」
しばらくの無言ののち、丑嶋はゆるゆるとくちを開いた。低く、フラットな調子で、
「幸せって何」
そう、問うた。
「考えたこともねーわ」
「……そう、っすか」
「ああ」
そうして、再び柄崎に顔を寄せる。互いの息が触れあうほどの距離で、掠めるように、唇を合わせた。二、三度、音を立ててキスをする。舌は、今度は入ってはこなかった。柄崎は丑嶋の手首から手を離し、武骨な手のひらをぎゅ、と握る。自分のものより大きく、ぶあつい手のひらだ。こうしてしっかりと触れた記憶は、これまでにない。
「すくなくとも俺は、社長とこうしてるのがすげぇ幸せっすよ」
「そうなの?」
「はい」
柄崎の笑みは、さきほどのくるしげなものとは打って代わり、穏やかにほどけている。幸せだ、とくちにする柄崎を、しんそこ不思議なものを見るようなまなざしで見つめ、
「俺にはよくわかんねぇけど」
ぶっきらぼうに、言った。本心からのものだった。
「社長は俺とこうしてるの、厭っすか」
手を握りあい、顔を近づけあった、まるで恋人同士のような状態を顧みて、丑嶋は唇を尖らせた。わからない、と、心の底から思った。ただ、厭ではないことは明らかだ。厭ではないから、キスをしたし、それ以上のことを強請った。柄崎の体温を欲した。否、それ以前に、柄崎との時間を求めたのではないか。
「幸せ……、とか」
遠慮がちに問われ、丑嶋の眉間にますます皺が寄る。
「わかんねーって」
「はは、……そっすね」
「でも、厭じゃねぇよ、べつに」
そうしてくちを寄せ、唇をぺろりと舐める。びくっと反応する柄崎がおかしくて、くちの端が持ち上がった。
「で――けっきょく、ヤんの、ヤんねーの、どっち?」
「えぇえ?」
「冗談だ、ばか。ヤんねーんだろ」
額を叩いて、柄崎から体を離した。解放した、という言い方がただしいのかもしれないと丑嶋は心中で思った。離してやらなかったのは自分のほうなのだから、と。
「社長」
「あ?」
バスルームに向かいかけた背中を声が追いかけ、丑嶋は振り返る。柄崎が、耳までまっ赤にさせて、じっとこちらをみつめていた。
「もし、俺といることで幸せだって思ってくれたら、そん時は、抱かせてくださいっ」
なんつう告白だ、と、丑嶋は若干呆れたけれど、今までの流れからすればそう言わざるを得ないのだろう。柄崎のことばに阿呆、とだけかえして、丑嶋はリビングを出た。
下腹部の熱はすっかりおさまっていたけれど、柄崎のあれは、やつは、どうするつもりなのか。バスルームのドアを閉めたあとに思い至り、すぐに面倒になって考えるのをやめた。もし抜くンであれば家の外でやらせることに決めて、丑嶋は横柄な動きで部屋着の裾を捲った。
*
夢をみた。風に波うつカーテン、その淡い墨色の影がゆるやかな曲線を描く床、糊のきいたシーツ、枕。衝立。デスク。丸椅子。書類のたくさん詰められた棚。どこもかしこも白く、奇妙な広さを感じさせるへや――中学校の保健室であると丑嶋が気づいたのは、これが夢で、自分は夢の中の世界にいると理解してから数秒が経ってからのことだった。
ベッドの淵に腰かけた自分をみつめる金髪の少年――柄崎、だ――を胡乱な目つきで見上げ、ああ俺は、あの時の夢をみている、と、ぼんやりとした頭で思い至る。ダウンを脱いだむきだしの肩に柄崎の手のひらが触れられている。その手のひらは汗ばんでいてじっとりと、あつく、気持ち悪ィな、と、やはりぼんやりと思った。
「丑嶋、ごめん」
柄崎が声を咽奥から絞りだすようにしてことばを紡ぐ。何が、と、丑嶋は彼を見あげてそう放つ。何を言いたいのか、丑嶋にはわかっていた。なぜならこれが夢の中の話で、現実の記憶をなぞらえているある種の物語であったから。わかっていて、敢えてくちにはしない。顔を歪めている柄崎の表情は、くるしそうで、切実さを孕んでいて、みつめているとこちらまで胸がぎゅうとつまった。すくなくともそう思うくらいには、柄崎には情があったし、保健室に来る原因となった喧嘩の件だって、おまえが来なけりゃもっとらくだった、とはぼやいたものの、感謝の念も当然、あった。
「ごめん。俺、おまえのこと、すきだ」
彼はやっとの思いでそう吐き出し、それから、丑嶋の肩をつよく、掴んだ。
――すきだ、すき、すっげーすき。おまえのこと。
「……なんだそれ」
柄崎の手を払おうとして、逡巡する。あの時――、そう、あの時、柄崎の手を払い落としたことで、この告白はうやむやになってしまったのだった。ならば、ここで手を払わなければ、もしかしたら、未来はすこし変わるかもしれない。丑嶋は、持ち上げた手をいちど下ろし、「なんだよそれ」と、再度、くちにした。
「おまえがすきだ。抱きてぇって思う、女にするみてーに」
ごめんな、気持ち悪くて。そう言う柄崎の声には今までに聞いたことのない色が帯びていて、それを、丑嶋はしんそこ“おそろしい”と、思った。おとなが持つ欲を、そこに感じた。
やめろよ、と、丑嶋は言った。やめろよ、おまえ、そーゆーの。
柄崎の目がまっすぐに丑嶋を捉え、その瞳に映る自分を丑嶋は睨みつける。こいつに、今、抱かれるなんて。そう考えると寒気がした。そういったものと自分は一生無縁で生きていくつもりだった。恋や愛なんて知らなくていい、そういうものはおそろしい。それ以外の感情が、今はない。
ため息を一つ、洩らして、丑嶋は柄崎の手を払い落とした。ぱしっと乾いた音が白いへやに響く。その、あまりのつめたさに鳥膚がたったけれど、そうすること以外に心に芽生えた“おそろしさ”を払拭する術が、なかった。
「教室戻る」
ベッドから降りて、柄崎に背を向ける。そのまま無言でドアに向かって歩きはじめる。柄崎は追ってはこなかった。
白い世界から意識が引き揚げられた時、丑嶋の目を叩いたのは淡い朝陽だった。自室のベッドの上、ほそく開いたカーテンの透き間から、そろそろと這入りこんだ朝の光が延びている。いつもより重たい体を持ち上げてあくびを一つ、こぼせば、さっきまでの夢と今の現実との境界は瞬く間に曖昧になり、あれが夢であったことを無言で彼に教えてくる。
けっきょく、夢の中での抵抗は何の意味も為さなかった。自分は柄崎の手を振り払ったし、柄崎も自分を追いかけてはこなかった。
当り前だ、と、自嘲して、ベッドから降りる。つめたい床が足の裏から体温を奪っていく。
昨夜、半ば強引に柄崎にキスをしたことは、鮮明に記憶に残っていた。頭がどうかしていたに違いない。でなければあんな醜態を晒すわけがない。思いだせば自然とため息がこぼれ、そういえばあいつはどうしたんだ、と、リビングに入れば柄崎は、ソファの上でデカい図体をまるめて眠っていた。
「おい、こら、柄崎」
頭を一つ叩くと、んん、と呻いて目を開ける。寝惚けまなこの彼はどこか幼くて、中学時代の面影を重ねてしまう。
「え、あれ、社長……?」
「起きろこら」
慌てて上体を起こした柄崎が、痛ぇっ! と叫んで背中をさする。一晩ソファで明かしたために、体を痛めたのだろう。
「ばか」
布団も何も用意しなかったのは自分だけれど、柄崎の慌て方がおかしくて思わず悪態をついてしまう。無表情は張りつけたまま、未だ頭の中に残る夢の残滓を掻き集めた。こいつはガキの頃からずっと自分のことしか見てないのだ、ずっと自分だけを見て、生きてきた。俺が年少に入っても、ずっと待ちつづけて、迎えにも来てくれた。ばかしょうじきで忠実で、鬱陶しいほどに。
「おはようございます、社長!」
背中をさすりながら笑顔を向ける柄崎から顔をそむけ、丑嶋はキッチンに向かった。昨夜のことがまるでなかったかのように、柄崎もまたいつもの様子に戻っている。
――否、つとめているだけ、か。
いくら酒が入っていたからとはいえ、忘れるわけがない。キスをされ、セックスを強請られたのだ。忘れられる内容ではないだろう。そう思うとすこしばかりおかしかった。
「すんません俺、夕べすっかり寝ちまって……」
コーヒーメイカーをセットした丑嶋の背中を柄崎の声が追いかけてくる。ちらと視線を送れば、服の乱れを直しながら近づいてくる柄崎と目が合った。ほそい目はいつもと変わらず、表情も、普段みせている彼とおなじものだ。
あまりの変わらなさに若干の肩透かしをおぼえながら、丑嶋は無言で彼の横をすりぬけ、うさぎ部屋へと向かう。コーヒーメイカーをセットする、うさぎの世話をする。それが丑嶋の日課である。
二LDKの今のへやを借りた時に、一へやはうさぎ部屋にすることに、最初から決めていた。棚に整列させたケージから、一羽ずつうさぎを出していく。餌をやり、水を替え、マッサージが必要な子にはしてやり、それが丑嶋の一つのストレス解消法でもあった。日課をなぞらえること。踏み外すことなく、日々を重ねていくこと。隣室にいる柄崎の気配を感じながら、無心でうさぎの世話をしていると、夢のことも、昨夜のことも、遠いいつかの日のことのように思えてくる。我ながら、手前勝手だと、丑嶋は思う。けれど、柄崎にも非がある。中学時代からずっと、心に引っ掛かっていたあの告白、普段から自分を見るまなざし。無視しつづけてきたそれらが、昨夜、にわかに噴出した。疲れていたのだ、と、弁解しようとして、らしくなさにため息が洩れた。
「あのー、社長……」
悶々と考えていると、ふいに柄崎がうさぎ部屋のドアから遠慮がちに顔を覘かせた。何、と、視線は向けずに応えれば、「朝飯、どっか食いに行きません?」と提案してくる。
「ああ」
「俺、奢ります」
そのことばに、丑嶋はぴくっと反応した。うさぎを床にそっと置くと、立ち上がる。
「なんで?」
「え? いやぁ……」
柄崎を睨むと、彼はくちをもごもごとさせて、どうにも落ち着かない。
「夕べのこと?」
追求すれば、うっとことばを詰まらせた。丑嶋はため息をついて、「ばかにしてンの?」と、凄んだ。
「す、すんません! 違いますそうじゃなくて!」
「いーよもう。っつーか、おまえ、帰ンねーの」
「え?」
柄崎は目をまるくさせ、「帰る……」と呟く。
「帰ったほうがいいンじゃねーの」
「……俺、いないほうがいいっすか」
あからさまに項垂れてみせる柄崎に鬱陶しさを感じながら、丑嶋は、べつに、と、素っ気なくかえして、再び床にしゃがみこむ。愛兎の一羽であるうー子の毛づくろいがまだ終わっていない。
奇妙な沈黙が落ち、ドアの前で唇を噛んでいる柄崎と、うさぎの世話をつづける丑嶋をつつんだ。なんだこれ、と、丑嶋は腹のそこからばかばかしさがこみ上げてくるのを感じた。
ばかばかしい。あまりにもばかばかしかった。自分もなんだって、とっとと帰れ、と言えないのか。柄崎もまた、従順に「じゃあ、帰ります」を言えないのか。ばかみてぇだな、ガキじゃあるまいし。昨夜のことを引きずっているのは、柄崎だけではない。丑嶋も、だった。
強引にキスをしてしまったことを後悔はしていない、ただ、後腐れのような、まるですっきりしない気持ちが昇華できなくて、ひどく歯痒い。セックスしたわけでもないのに、だ。
「社長」
ぼそりと、柄崎が呟いた。「俺、まだ帰ンなくていいっすか」。
キッチンからコーヒーメイカーが立てるかぽかぽという音が聞こえてくる。朝飯前に一服してぇ。丑嶋は漠然とそう思った。
「すきにしろよ」
問いかけにそう答えると、柄崎はしんそこ嬉しそうに破顔して、はいっ、と返事をした。
土曜日の朝は、そこここにどこか気の抜けた空気が漂っている。高くなりかけた陽の光が落ちる道路はすこしばかり湿っており、明け方に弱い雨が降ったことを知らせる。
徒歩で行ける距離にある飲食店は牛丼屋くらいしかなく、べつだん、何か特別なものを食べたいわけでもないから朝食はその牛丼屋にすることして、ふたりは一緒に自動ドアを潜った。
特盛り、つゆだく、卵付きのセットを頼み、カウンターに並んで坐ると、牛丼はすぐに出てきた。紅生姜を盛り、七味唐辛子を振りかけて、きちんと手を合わせてから丑嶋は牛丼を食べ始める。そのさまを横で見ていた柄崎も倣うようにして手を合わせ、箸を持った。
「美味いっすね!」
「ああ」
最初こそ所作は丁寧だったけれど、食べ始めると柄崎は牛丼を掻きこみ、もぐもぐと咀嚼して一気に飲みこむ。食い方汚ねぇな、と指摘すれば、すんません、そう言ってへらっと笑う。
土曜日の朝、こうしてふたりで牛丼を食べるなんて、いつぶりだろうか。独立して金融屋を始め、加納も交えた三人で仕事をこなす日々の中で、かつては一緒に暮らして一緒に飯を食っていた頃が遠い過去の話になっていた。今でこそ軌道に乗った仕事だったけれど、つい数年前までは三人は仕事に追われ、仕事を追う毎日だった。
「あーなんか、こうゆうの、懐かしいっすね」
柄崎もおなじことを考えていたのだろう、感慨深そうに天井を仰いで、丑嶋を見た。
「むかしよく朝まで回収に廻って、朝飯にって牛丼屋入って、社長とこーして食いましたよね」
「そうだっけ」
「そうでしたよ」
「柄崎、食いながらしゃべんないで」
社長、と、いつからか柄崎は自分をそう呼ぶようになっていた。それまでは“丑嶋”と呼んでいた彼が、「これからは“社長”って呼ばせてもらいます」、と、頭を下げてきたのは、会社を設立してすぐのことだった。その瞳には尊敬の色が滲み、恥ずかしげもなく、「一生社長についていきますっ」などと公言して憚らなかった。
ずっと、その目は丑嶋だけをみつめていた。
丑嶋に告白をし、拒まれてからも、変わらない純真さで彼は丑嶋だけを見ていた。彼以外の何ものも信じず、この十年間を生きてきた。――それを理解できたから、丑嶋もまた、柄崎を信用し、心から仲間だと思いつづけてきた。
がつがつと牛丼を掻きこむ柄崎と、並んでカウンターに坐っていること。けっして不快ではなく、むしろ居心地のよさを感じるのは、俺がすくなくともこいつを信用していて、仲間だと思っていて、こいつもまた俺を信用しきっているから。
「柄崎」
「はい?」
ごくり、と牛丼を飲みこんで、柄崎は顔を上げる。丑嶋はすこしのあいだ、黙って、やがてくちを開いた。
「夕べのこと、ちゃんと憶えてる?」
瞬間、柄崎の体に緊張が走ったのを察した。
「……はい。憶えてます」
「おまえさ、幸せがどうのとか言ってたろ」
「ああ……、はい」
もし、俺といることで幸せだって思ってくれたら、そん時は、抱かせてくださいっ――あの時、柄崎はたしかにそう言った。
幸せという概念がわからない丑嶋にとって、今のこの情況がはたして幸せかどうか、と、問われれば、答えは出ない。
「やっぱよくわかンねぇわ」
「あー……、ははは……」
「おまえはどーなの」
えっ、と、柄崎が目をまるくさせる。くちの端についたご飯粒が見苦しくて、紙ナフキンを渡してやる。くちの周りを拭って、柄崎は視線を泳がせた。
「……俺は、幸せ、です」
ぽつぽつと、ことばを探しながら、柄崎はくちを開く。
「社長とふたりきりでいる時が、俺は何よりも幸せで。だって今までずっと社長のことがすきで、すきですきで。きのうだって、ほんとは、社長とキスできて嬉しくって、セックスできたら、って思って。でも、やっぱり、ああいうのは、なんか違うっつうか」
柄崎の話はまとまりがなく、聞いていて苛々した。けれど、遮ることも、促すこともせず、丑嶋は黙って耳を傾ける。
「べつにセックスできなくてもいーンです。社長の側にいれるなら」
「ふーん」
最後の一くちをくちに運んで、咀嚼する。柄崎の声は、話していくごとにちいさく、か細くなってゆき、柄じゃねぇな、と、丑嶋は心中で評した。
丑嶋も柄崎も男だから、誰かをつよく抱きたいと思ったことはある。抱いて、自分のものにしたい。生物学的にただしい衝動なのだろう。丑嶋はこれまで、そういったたぐいの感情には無縁で生きてきた。抱きたいと思ったことも、ましてや抱かれたいと思ったこともない。そうした行為で、柄崎のいうところの“幸せ”が掴めるとはとうてい思えなかった。残るのは疲労感と、自分が自分ではなくなるような奇妙な離人感。
昨夜、柄崎に握られた手を見下ろしてみる。厚い皮膚の、ごつごつとした、男の手に握られて、それでも不思議と不快感はなかった。無理やり押しつけてみた唇も、かさついていたけれど、厭だとは思わなかった。
「悪かったよ、柄崎」
昨夜はどうかしていた、あんなこと、間違っても二度としねぇ。そういった意味をこめて言えば、柄崎もまた最後の一かけらのごはんを飲みこんで、「謝ンないでください」――ふにゃっと笑った。
丑嶋のマンションに戻って、柄崎は自分が散らかしたビールの缶やつまみなどをゴミ袋に詰めて片づけると、「じゃあ俺、帰ります」と丑嶋に笑いかけた。
「また明後日」
「ああ」
足もとにすり寄ってきたうさぎを抱き上げて、膝に載せ、丑嶋は柄崎を見ずに応じた。いつも通りの、見送りの挨拶。そこにはこれまでと何も変わらない、日常の延長しかなかった。明後日からまた業務が始まり、これまで通り従業員と雇い主の関係で、日々はつづいていく。
リビングのドアの前でつっ立った態で、柄崎はこちらを見ようとしない丑嶋をじっとみつめた。
昨夜から今までの出来事が、瞬きの間に反芻される。たった十数時間の出来事とは思えないほど、濃く、深い時間だった。
踵を返し、背中を向ける。「柄崎」。その背中に、丑嶋の声が掛かった。慌てて振り返ると、逸らされていた視線が真っすぐにこちらに向けられていた。
「はい?」
「俺、おまえと一緒にいるの、べつに厭じゃねーよ」
目をほそめて、丑嶋はそう言った。途端に、柄崎の内側がぼっと熱を持った。ゴミを詰めた袋が足もとに落ちる。足を数歩、前に出せば、あとは一気に丑嶋のもとへと止まらなかった。
体に縋りつき、乱暴に唇を寄せると、丑嶋の唇は呆気ないほどたやすく開き、舌が絡まる。そのまま、咥内の奥を求めて舌を滑りこませ、上顎を舐めて歯列をなぞる。は、と、息を吐けば、驚くほどにあつい。
「丑嶋、社長……」
名を耳もとで囁かれ、体温が上がるのを丑嶋は感じた。
「すき、すきです、すんません、すきです、」
うわ言のように呟かれ、キスをされる。すき、と、すんません、を、なんどもなんどもくりかえされる。耳朶を舐められ、首筋に舌が這う。ぞくっと体が震え、思わず柄崎の腕を掴むと、眉根を寄せた柄崎の顔で視界が覆われる。
「……すんません、俺、やっぱり、社長とヤりたいっす……」
ずる、と、柄崎の体が丑嶋の上体に圧し掛かり、額が鎖骨にすり寄せられる。
「セックスしなくてもいーンじゃなかったの」
「……は、い」
上目でみつめる柄崎の瞳に、口角を持ち上げた自分の意地悪な笑みが映しだされる。微かに潤んだ柄崎の瞳を手のひらで覆い、丑嶋は自ら柄崎の唇にキスを落とした。かさついた唇は、けれどやはり不快なものではなかった。
「ヤりてーの、そうじゃねーの、どっち」
債務者を取り立てるような語調で追及すれば、柄崎の震える唇が、「や、ヤりたいっす……」とことばを紡ぐ。
「そうかよ」
再びキスをすると、柄崎の手が丑嶋の服の裾から這入りこんだ。汗の滲んだ手のひらが、たしかめるように腹を撫でていく。腹筋の膨らみをさする感触がこそばゆく、思わず咽の奥を鳴らせば、柄崎の手がふ、と止まる。
「厭、っすか」
手のひらで覆っているために、柄崎の両目は見えない。見えないけれど、きっと手のひらの下の瞳は従順な犬のように潤んでいる。期待と不安の色を浮かべて。そう思うとおかしくて、丑嶋は無言で、柄崎の目を覆う己の手の甲にくちづける。どうせやつには見えやしない。今、自分がどれほど子どものような顔をしているのか、どれほどいとおしげに柄崎をみつめているのかなど。
手の動きが性急になるにつれ、皮膚の温度が上がっていく。柄崎に触れられている箇所からぼっと熱が生まれ、全身を巡る。手で、唇で、舌で、柄崎は縋りつくようにして丑嶋の体を探っていった。いつの間にか服の裾が捲られ、あらわになった乳首が外気に晒されている。
「んっ、……」
勃った突起に歯を立てられ、咽奥から声が洩れた。その声に反応したのか、舌で執拗に舐めてくる柄崎の顔を、両の手でつよく掴んだ。顔を見られたくなかったし、柄崎の顔も見たくはなかった。しだいにあつくなっていく体の奥が、昨夜の出来事を思いださせる。乱暴にくちづけて、呆気なく勃起した柄崎の下半身は、今も既に硬くなって丑嶋を求めていた。それなのに、しつこく乳首を舐めつづける柄崎に滑稽さを感じる。抱きたいのなら、とっとと抱け。そう言おうとした時だ、「社長」、柄崎が掠れた声で問うた。
「社長、……気持ちいいっすか?」
「ああ」と、やはりおなじく掠れ声でかえせば、しんそこほっとしたように「よかった」と、言う。その声があんまりにやすらいだものだったので、丑嶋は鼻で笑った。
「おい。ヤるなら、さっさとヤれよ」
「ええ? 俺もっと社長に気持ちよくなってもらいたいんすけど」
「そーゆーのいいから」
手のひらの下で柄崎は不服そうに唇を尖らせた。そうして、だめです、と、珍しく強い口調で放った。
「ちゃんと社長に気持ちよくなってもらわなきゃ、俺ヤれないっす」
「面倒くせぇンだよ、おまえ」
「それでもいいっす」
俺は、社長に幸せになってもらいたい。臆面もなく柄崎はそう言った。なんどもキスをし、肌を触れあわせる。柄崎の肌は、あつく、それ以上に、あたたかだった。抑えきれずに洩れる声と、ふたりの呼吸でへやが満ちていく。防音加工の施されたマンションでは、往来の音はまったく聞こえず、だから、自然とふたりの立てる物音だけが波のように押し寄せ、引かれ、幾重にも重なったそれはやがて一定のリズムとなった。
「丑嶋社長」
すきです、もう、すげーすき、すきです、ねぇどうか、頼むから、幸せになって。
繋がったまま、うわ言のように柄崎はなんどもそうくりかえした。幸せになって。そのことばを捉えるように、丑嶋は柄崎の頭を抱いた。ピストンの震動が心地好い、と、思った瞬間、柄崎が短く声を上げて、丑嶋の中に精を放った。その声を聞いたと同時に背筋を電気が走り抜けて丑嶋もまた射精し、ふたりはともにソファの上に体を沈ませた。
丑嶋に圧し掛かるようにくずおれた柄崎の頭をようやく解放してやると、柄崎ははあ、と息を吐き出して、真っすぐに丑嶋をみつめた。
「社長、」
「……重い」
「わ、あ、すんません!」
まともに体重を預けたかたちとなっていることに気づいた柄崎は慌てて上体を起こし、接合部を引き抜こうとした。それを、丑嶋が制す。
「……いい、も少し、このままでいろ」
「えっ、でも、社長気持ち悪いンじゃ、」
「いいつってンだろ」
柄崎はしばらく困惑の表情を浮かべたのち、やがて相貌を崩し、丑嶋の上半身に抱きついた。
「……あーっ、もう、社長っ」
「うぜぇ」
顔を背けてクッションに頭を預けた丑嶋は悪態をつきつつも、柄崎を引き剥がそうとはしなかった。吐精したばかりの気だるい頭で、最中に柄崎がなんども自分の名を呼んだこと、幸せになって、と呟いたことを思いかえしていた。幸せ。キスをして、セックスをすることでそれが掴めると思った。答えは、けれどけっきょくはよくわからないまま、オナニーと似た快感を残して終わってしまった。それでもオナニーと違ったのは、触れあわせる体温があったこと、それがひどく心地好かった、ということだ。
「あの、社長」
「あァ?」
顔を上げて、柄崎が遠慮がちにくちをひらいた。
「どう……でした?」
「どうって」
「だからその――」
幸せでしたか? 柄崎は、もごもごと唇を動かし、問うた。俺として、幸せでしたか。
「わかんねーよ、そんなの」
「俺は、すげー幸せでしたけど」
「そうかよ」
よかったな、と、丑嶋は言って、浅く目を閉じた。目を閉じてしまう瞬間、柄崎の今にも泣きそうな顔が見えて、丑嶋はその顔を手で覆った。「情けねェ面」。そう言い残し、気だるさに身を委ねてしまえば、あとは眠りの世界へと引きずりこまれるだけだった。
*
夢を、みた。風に波うつカーテン、その淡い墨色の影がゆるやかな曲線を描く床、糊のきいたシーツ、枕。衝立。デスク。丸椅子。書類のたくさん詰められた棚。どこもかしこも白く、奇妙な広さを感じさせるへや――中学校の保健室。自分はベッドの淵に坐り、金髪の少年と対峙している。金髪の少年――中学時代の柄崎は、耳の先までまっ赤にさせて、咽の奥から声を絞り出した。
「おまえのことが、すきだ」
もう、すげー、すきなんだ。抱きてぇ、って思う。女にするみてーに。
あふれそうな想いをやっとのことで吐き出した柄崎は、ふかくふかく息を吸って、息を吐いて、丑嶋が答えるのをじっと待っていた。――そうだ、この頃からこいつは、俺のことをただただ待っていた。俺のことばを、俺の答えを、俺の返事を、ずっとずっと待っていた。あの頃にそれがわかっていたのなら、自分たちの待つ未来は、もしかしたらすこし違っていたかもしれない。そう思うと、すこしばかり胸が痛んだ。夢の中で、中学時代の姿を借りた丑嶋には理解できても、過去の記憶の中の自分にそれを理解しろというのは、酷なことだった。過去は戻ってこない。だから、せめて夢の中の柄崎にたいして言ったやりたかった。
丑嶋は彼を見あげた。
「ありがとうな」
夢の中であることはわかっていた。過去は変えられない、未来は変わらない。わかっていつつも、伝えてくれたことにたいして礼を述べたかった。柄崎ははっとした表情を浮かべて、それから、両の目を乱暴に拭った。手の透き間からとうめいな涙が見える。なに、泣いてンだおめー。丑嶋は笑い、つられるようにして柄崎もまた、笑った。
くるしそうに顔を歪めて、けれどどこか安堵した様子で、彼もまた、笑ったのだった。