東京も梅雨に入ったらしいが、このところずっと晴天がつづいている。蒸し暑さは日に日に増して、何もしなくとも汗が滲む。鬱陶しさに苛つきながら、柄崎はベッドの上で寝返りをうった。目を開けるとカーテンのすき間から朝の光が洩れている。光は荒れ果てた部屋を侵すように浸みこんで、空中を浮遊する埃がきらきらときれいだ。あの人なら、眉を顰めるだろうけど。
低い呻き声を上げて、枕に顔を埋める。
また、同じ夢をみた。
これで何回めだろう。病気なのかもしれないと思ったが、それならそれでよかった。いっそう、あのまま目が醒めなければよいとすら思う。あの人の、うつくしいよこ顔の残影がまぶたに張りついて離れない。胸がくるしい、呼吸が浅くなって、息ができない。
枕に顔を押しつけた状態でふかく息をすう。しばらく洗濯のしていない枕カバーはじぶんの汗の匂いが染みこんでいて不快だった。なら早く洗濯をすればよいのだけど、掃除や料理と同じく、家事の一切を放棄して久しい。生活は会社と家の往復で、家はとうに、ただ寝るための場所と化していた。
あの人――丑嶋馨のいない世界が、あまりにも無価値で、色のないものであることに焦燥を感じていた。それでも、引き継いだ会社を社員と一緒になって回し、腹が減れば飯を食い、家に帰って眠る。その一連の生活を淡々とこなしているじぶんに不思議を感じてもいた。
丑嶋がいなくなった当初は、何もできなかった。うつ、に近い状態で、心配した高田やさゆりがずっと柄崎のめんどうを見てくれていた。自死を考えない日はなかった。生きている意味も、生きていく価値も、じぶんの生には無かった。
時間が経ち、会社を引き継いで社長になった。丑嶋の遺したものを絶やすわけにはいかなかった。それからは、空っぽの体を持て余しながら働いた。債務者を追いつづける毎日は、丑嶋のいたころを思い出せた。だから朝も夜もなく働いた。少しでもかれの存在を感じていたかった。虚しさはつねにつきまとっていたけれど、ばかみたいに金は稼げた。だからといって昔のように、ギャンブルや酒や女に金を遣う気にはならなかった。塵が積もるように、預金通帳に金が貯まっていった。でも、だからなンだ。なんの意味があるんだそんな紙くずごときに。金で社長の命を買えるならいくらでも稼いで差し出すが、そんなことはできないンだろ。稼げば稼ぐほど虚しかった。すべてをドロップアウトしてもよかったけれど、会社を手離すわけにはいかなかった。漫然と、生きてる。それが柄崎の今の生で、日常だった。
しゃちょう。知らず知らずのうちに声があふれた。
生きていた時と変わらない姿で、丑嶋が柄崎の夢に出てくるようになったのは、梅雨が始まったころと同時期だった。
冷房の風がむき出しの足を冷やす。足の指でシーツを掴み、枕に頬を預けて枕もとの時計を見る。朝の九時。休日も、このところは午前中に目がさめる。けれど起きるよりもベッドの上でスマホやタブレットをぼんやり見ていることの方が多い。日々の疲れもあるけれど、起き上がったとしてなにをして過ごせばよいのかわからなかった。
夢の中で、丑嶋はひんやりとした肌を柄崎に預けていた。柄崎の足のあいだに体を収めて、胸に背中を凭せ掛け、無表情でスマホを弄っていた。斜め下にあるあいかわらずのうつくしい顔のラインに、柄崎は見惚れていた。そしてさきほどまで重ねていた肌どうしが、徐々に冷えていくのを惜しく思う。
また、抱きたい。
夢の中で柄崎はそう思い、遠慮がちに指を丑嶋の腕に這わせる。ぴく、と反応するようすを伺いながら、耳朶にくちびるを寄せる。
「やめろ」
丑嶋の声は、けれどかすかに濡れていて、本気の拒絶ではなかった。柄崎は、だからいつもより強気でいられた。
「社長」
抱きしめて、耳を食む。舌打ちがきこえる。構わない。すき、すきです、すきなんです。譫言のように呟きながら、体を密着させていく。丑嶋の瞳が柄崎を捉える。――そこで、夢は弾けるようにして終わった。
現実の世界で、柄崎は一人だった。ベッドに横たわったまま、ズボンの中に手を入れる。硬く勃ちあがったものを手のひらに包み、生前、丑嶋がそうしてくれたようにやさしく上下に扱く。汗ばんだ手のひらはじぶんのもので、丑嶋のものではないけれど。かれの手に、もう一度ふれることなんてできないけれど。夢の中で、柄崎は丑嶋と会った。そして何度も体を重ね、泣きたいくらいの幸福を味わった。
ん、と声が洩れた。防音の施されたマンションの一室、誰の耳にも声は届かなくて、空に頼りなくたゆたう。
「しゃ、ちょ……!」
かれの中に入れている妄想をすること。もういないかれを想っての自慰に罪悪を感じるけれど、こうでもしないと正気を保っていられなかった。ほんとうに気が狂って、夢の世界に閉じこめられたなら。それはきっと今の柄崎にとって何よりの幸福で、死よりも死に近い状態なのだろうけれど。
手のひらに放った精をベッドサイドに置いてあるティッシュで拭い、柄崎はようやく体を起こした。ベッドの足元に散らばった、昨日着ていた洋服。上半身は裸、薄手のハーフパンツを履いた姿で、柄崎は荒れた部屋をあらためて見回す。
掃除をしなくなった部屋は、あちこちに埃が積もり、陽の光がその輪郭を浮き上がらせている。洗濯も億劫でいつの間にかやめてしまった。服は汚れたら捨て、新しいものを買う。かろうじて下着類は、量も多いので溜まったらまとめて洗っているけれど、それも頻繁ではない。
「|汚《きった》ねー部屋」
きっと、かれならそう言うだろうと思う。きれい好きなかれなら。
皮肉な笑みを浮かべて、社長のせいですよ、と柄崎は手の甲で目もとを覆った。
ぜんぶ、あんたのせいだ。あんたが勝手にいなくなるから、俺はすっかりだめになった。あんたがいたから生きていたようなもンで、あんたがいなくなったら俺は――。
そこまで考えて、思考を振り払う。生きてる意味や価値なんて、もう十分すぎるほど考えた。倦んでくるくらいに、考えた。そして結果、答えは出なかった。
「……また、会いたいですよ、社長」
両の手を包んで、膝のあいだに頭を埋める。会いたい。ただそれだけのことが、どうしてこんなにも叶わない。
「会いたい」
つぶやいたそのとき、ふ、と気配を感じた。目のまえでなにかの影が動いた――気がした。顔を上げ、咄嗟に身構える。命の危険がつねにつきまとう仕事だ。何かのときのためマットレスの下にナイフを隠している。
だれだ? 叫ぶより先に柄崎は息を呑んだ。
「|汚《きった》ねー部屋」
柄崎の目のまえに、かれは立っていた。無表情で、けれどほんの少しだけくちの端を曲げて、拗ねたような顔をして、丑嶋がいた。
「な、」
「少しは掃除くらいしろよ、柄崎」
散らばった服をぞんざいに足で蹴り、丑嶋は一歩、柄崎に近づく。「あと服着ろ」。
くちをぱくぱくさせている柄崎を無視して、少しずつ丑嶋は距離を縮めてくる。社長? 嘘だろ。夢のつづき?――それにしてはリアルすぎる。
「社長……?」
ア? と、丑嶋は聞き慣れた声でこたえる。
「なんで……」
生きてたんすか、とは、さすがに言えない。そこまでばかではないし、夢見がちでもない。燃えていく体を、拾った遺骨のことを、骨壷の熱さを、この目がこの手がちゃんとおぼえている。
いよいよ頭がおかしくなったのか。そう思うと柄崎は笑えてきた。そうか、おかしくなったのか。そうか。そうか、……そりゃいいや。
「なに笑ってやがる」
丑嶋はベッドに座り、――その重さでスプリングが軋んだ――、目を眇めた。ぜんぶしってる、と柄崎は思った。この目つきも、つめたそうな白い頬も、鋭い鼻筋も、ぜんぶ。
「社長!」
柄崎は丑嶋を抱きしめた。体温がある、感触がある。たしかにこの人は社長で、幽霊でもなくて、いやいっそ幽霊でもなんでもいい、なんでもいい、とにかく本物の丑嶋社長なんだ。
「うざ」
言葉は厳しいけれど抵抗をしない丑嶋に、柄崎はますます強い力でかれを抱く。
「待ってましたよ……ずっと」
俺の気が違ってしまったのだとしても、会えるのならもうなんでもよかった。
「ずっと夢でしか会えなかったから」
ずっとずっとほんとうに会いたかった。抱きしめて、くちづけて、体を重ねたかった。
「お前、こんなんでちゃんと仕事してンのかよ」
はは、と柄崎は笑った。
「仕事ばっかしてますよ、社長がいなくなってから」
「あ、そ」
ふいに丑嶋の顔が近づき、柄崎が反応するより早くくちびるがふれた。つめたさを先に感じた。そしてすぐに、芯にあるあたたかさに体がふるえた。社長の体温。ちょっとつめたくて、でもあたたかくて、ひどくなつかしい。
「しゃちょ、」
「ヤりてえ」
うそだろ、と柄崎は思った。丑嶋がそんなふうにストレートに欲求をくちにするなんて珍しかった。腕を掴まれ、角度を変えてくちづけを深められる。挿入された舌が熱い。躊躇いがちに舌を絡めると、唾液がくちびるの端からあふれた。
ふぅ、と、鼻から息が洩れる。とうに張りつめたものにズボン越しに丑嶋の手がふれた。熱を与えるような動きに、困惑する。どこか性急な動き。
「しゃちょう、……大丈夫っすか」
さっきまで確かだった現実味が、不明瞭になってくる。これはほんとうに、ほんとうの社長なのかという疑問が頭に浮かぶけれど、背骨を這う快楽に脳が麻痺してくる。
ズボンを下ろされ、勃ちあがったものがあらわになると柄崎は急激に恥ずかしくなった。
「あの、シャワーしてないんで、ちょっと、……!」
「いーよ、べつに、もう」
“もう”? 怪訝な表情の柄崎を上目で見やり、丑嶋は言った。「時間ねーンだから、早くしろ」。
噛みつくようなくちづけを、次第に深くふかく受け入れていく。熱い舌が歯列をなぞり、口蓋を舐めてくる。丑嶋の動きに躊躇はなくて、生前に一度見せたかどうかという積極的な愛撫に怯えつつも、歓びが胸にあふれてくるのを感じた。
「ん、ッ、ふぅ……ァ、しゃちょ」
「んー」
ちう、とくちびるを吸われ、丑嶋の目が柄崎を捉えた。「あンだよ」。平坦で、ぶっきらぼうな生前と口調は変わらない。くびすじを舌で舐め上げられた時、柄崎の目から勢いよく涙がこぼれた。
押しとどめようとするほど、涙はあとからあとからあふれてきた。一度決壊したらあとは惰性だった。大粒の涙をぼろぼろと流しながら柄崎は丑嶋の体をつよく抱いた。
「……もうぜったいに会えないと思ってました」
言いながら、でも、きっといまこの時が終わってしまえば、丑嶋とはほんとうに、もう二度と会えないだろうと柄崎は知っていた。これがほんとうの最後だ。だめになっちまった俺のために、社長は一瞬だけ、生きた姿で戻ってきてくれたンだ。まるでチープなSFか、少女漫画のようだけれど、それでよかった。いま、ふれている丑嶋はまちがいなくほんものの、ほんとうのかれなのだから。
つるりとした肌は何度ふれても心地好くて、くびすじに鼻を埋めて柄崎はおもいきり丑嶋の匂いを吸いこんだ。過去にいくたびもそうしてかれを愛撫したように、舌を動かし鎖骨に滑らせる。丑嶋のパーカーは脱がれ、むき出しになった皮ふに一瞬、見惚れる。わずかにつめを立てると、三日月のかたちに跡がついた。罪悪感が、なぜかひどく心地好い。
ん、と、丑嶋の喉が上下し、それを合図にしてのしかかられていた状態からかれを下にする。ずれた眼鏡を外し、ベッドサイドに置く。フレームが硝子のローテーブルにかちりと音を落とした。
「おい」
「は、はいッ」
上目で柄崎を睨み、丑嶋はベルトのバックルを自ら外していく。
「早くしろって」
「はいッ」
まるで仕事中だ、と、おかしくなる。仕事のときも、セックスのときも、社長はいつも社長だった。潔癖で超マイペース――だけど柄崎にふれる手は仕事のときに比べていつもとてもやさしかった。
ズボンと下着を下ろして、猛った丑嶋のものを見やる。手のひらで包みながら耳たぶを食めば、手の中でびくりと脈動した。
「すき、」
熱い息を洩らし、やわやわとゆびを動かす。前とうしろを、同時にほぐす。
「すきです、しゃちょう」
何度言っても足りないことはわかっていたけれど、言わずにはいられなかった。自身が抵抗なく丑嶋の中に入っていくようすは、かれに受け入れられている気持ちになれて快かった。ぐっ、と押しこむと中の熱さをより感じられてすぐにでも精を放ってしまいそうだった。快楽を得たり与えたりすることよりも、ずっとこうして丑嶋と交わっていたかった。どうせ消えてしまうのなら、柄崎もまた、かれについていきたいと思った。
殺してほしい、と願う。涙があふれ、丑嶋の頬に落ちた。かすかに眉を顰め、眼鏡を外したいつもより幼く見える顔で、かれはこちらを見ていた。
ゆっくりと丑嶋の両の手が伸び、柄崎の首へとかかる。喉ぼとけに親指を当て両手で蝶々結びのかたちがつくられ、ゆっくりと力がこめられてゆく。
ああ――やっと終われる。丑嶋の熱を感じながら柄崎は目を閉じた。射精のために腰を動かすわけでもなく、目を瞑り丑嶋の手が己を|縊《くび》るのを待つ。
「あッ」
その時は一瞬で、呆気なくやってきた。弾けた、と思った次の瞬間には柄崎は丑嶋の中に精を放っていた。
一瞬の快感が背筋を走り、脳の中心を痺れさせる。やがて訪れた余韻にしばらく動けず、知らず知らずのうちに丑嶋へ体重を預けていた。いつの間にか丑嶋の手は柄崎の首から剥がされ、シーツの上で天井を向いていた。
「……意地悪過ぎますよ、社長」
呟いて、柄崎は丑嶋の肩に額を載せた。こんなふうに事後も体を合わせたことなんて過去になかった。終わったらすぐに丑嶋は柄崎から離れ、さっさとシャワーを浴びに行った。珍しく見せた甘さを、けれど丑嶋の意地の悪さだとも思う。
殺してくれなかったことを、柄崎はこの先の人生でいくたびも思いだし、かれを憎むだろう。そしてその無言のやさしさをおもって、また泣くのだろう。
縮んだものを引き抜いて、柄崎は丑嶋を見つめた。ほんとうはかれにも達していてほしかったけれど、それは叶わなかった。あ、これ一生後悔する。そう柄崎は思った。
「ド下手くそ」
「……はい、すいません」
「あと早く|退《ど》け。重てーンだよ」
はい、と苦笑を浮かべながらかれの上から体を退ける。互いに汗と体液で体はじっとりと湿っている。丑嶋は慣れたようすでサイドテーブルからリモコンを取り、クーラーの設定温度を下げた。冷風が柄崎の頬を撫でた。
少しの沈黙が落ちた。かれはもう、消えるのだろうか。ほんとうにこれで消えてしまうのだろうか。
「おい柄崎」
丑嶋は額に浮かんだ汗をぬぐいながら、厳しい口調で言った。
「はい」思わず、居住まいを正す。丑嶋は目を眇めた。
「このこと一生覚えとけよ」
忘れたら殺すからな。
かれの言う“このこと”が、この出来事のことなのか、果たしてかれを満足させられなかったことなのか、柄崎にはわからなかった。けれど、柄崎は真面目な顔で強く頷いた。
「絶対に忘れません」
ふん、と丑嶋は鼻を鳴らした。そして立ち上がり、言った。「じゃァな」。
つめたい風が足の裏を撫でる。薄目を開けると、カーテンのすき間から光が洩れていた。首だけを動かし、枕もとのスマホの画面を見ると、朝の九時を少し過ぎたところだった。
思考がフリーズして、しばらくスマホ画面から目を離せなかった。そこには仏頂面の丑嶋と、笑顔でピースサインを作っている柄崎のツーショット写真があった。ずいぶん前に加納に撮らせたものだ。ふっ、と息を洩らして笑った。阿呆面すぎて恥ずかしかった。社長になにを言われても仕方がない。
ゆるゆると体を起こす。設定温度が二度下がっている冷房は、けれどじめじめと蒸す部屋にちょうど良かった。
ベッドの足もとに散らかった洋服の中で、いちばん汚れていなさそうなシャツを着る。はだしの足でフローリングを踏みカーテンを開けた。めまいがするような明るい光が部屋に雪崩れこんだ。ふりかえって部屋を見回すと、あらためて、荒れ狂ったさまが目に入ってひどく不快だった。
「……掃除、しよ」
フローリングをぺたぺたと歩いて、散らかった服たちをいちまいずつ拾ってゆく。
きのうと地続きの、変わらない日常が目の前にあった。きょう一日かけて掃除と洗濯をしよう、と柄崎は思った。きっとそれでいちにちが終わる。明日も、でも毎日はつづいていくから。明日もあさっても、その先もずっと。
丑嶋は忘れるなと言った。社長の言うことは絶対だから、俺は絶対に忘れない。殺してくれなかった憎しみも、わかりにくいやさしさも、下手くそ過ぎた最後のセックスのことも。
かれを夢に見ることはもうないとわかった。柄崎は、けれどそれでよかった。約束したから。最後の最後で約束を交わせたから。だからもう、それで充分だ。
洗濯機に洋服を放りこんで、スイッチを押す。水が勢いよく流れ出てくる。蓋を閉めて、あくびをした。
「腹へったなあ」
ひさしぶりにほんとうの空腹を感じた。なにもないからコンビニ飯だ。そうだ、コンビニ行こう。
あくびを何度もくりかえしながら、窓の向こうに拡がる青い空を見た。きのうと変わらない、当たり前の空があった。