子を育てているような気分になる、と、フーゴは思う。やすらいだ表情でねむるナランチャの長い睫毛には、つい先程まで流れていた涙が痕となって残っている。湿った目もとと頬はわずかに紅く、触れれば熱ささえ指先に移るだろう。
 今はとざされ見えない彼の瞳がうるみ、間もなく熱いしずくが毀れた時、フーゴの胸に痛みが走った。怒りや、憎しみといった感情よりも、激しいかなしみで胸が満ちた。そんな自分を、不思議な生き物のように感じる。すこし前の自分であれば、何の躊躇もなく拳を振り上げ言葉で罵倒していた、はずだった。怒りと憎しみと、殺してやりたいという気持ちで抑制などまるで利かず、ただ本能の赴くまま相手を打ちのめしていた、そのはずだったのに。
 頭の奥が冷えてゆくように白んで、何事かを呶鳴るナランチャの、荒れた唇をただ、みていた。怒りを剥き出しにした黒くまるい瞳も、すっかり紅く高揚した頬も。
「……ごめん」
 ひとしきり叫び喚いたのち、ナランチャは俯いて呟いた。その言葉で我に帰ったのはフーゴのほうで、いや、と言ってから、それからまたしばらく、黙した。
 つめたいへやに、つめたい沈黙が満ちてゆくのを、全身で感じる。ナランチャがフーゴの手首を掴んだことでその一抹のしずけさは打ち破られたけれど、涙の膜で蓋われたナランチャの瞳を見ると言葉など、一つも出てはこなかった。
「ねぇなんかいって」
 懇願するようにナランチャはそう言った。「ごめん、フーゴごめん、ごめんなさいおれ謝るから、なんか言っておくれよ」。
 彼はフーゴの言葉を求めていた。それは罵声でも、慰めでも、何でもよかったのだ、と、今ならわかる。理解ができる。たとえ罵りの言葉しか出てこなくとも、それでもナランチャは幾分か満足しただろう。言葉を放ち、応酬し、結果くりかえされる言い争いにすらナランチャが何かしらの価値を見出しているらしいことを、賢いフーゴは気づいていたし、しかしだからといって喧嘩をするわけではなく、喧嘩をする場合は当然そんな冷静な判断や思考回路などぶった切られている。すべては結果論に過ぎないのだから、のちのちあれこれ考えたところで何かが解決するわけではなかった。
 けれど、きっとそうだった。彼は、自分のなにかしらの言葉を欲していた。罵りを、慰めを、或いはその両方を。引き結んだ唇など、見たくもなかったのだった。かなしみを湛えた瞳など。
「ごめん」
 それで、そう言った。しんとしたへやに言葉が、声が落ちる。それはへやの壁に天井に沁みこんで、ナランチャの皮膚に吸収される。
 手首を蓋う薄い皮膚が熱を失くして、フーゴはナランチャが、手を離したことを知った。
 途方に暮れたように立ち尽くすナランチャの、涙で濡れた頬から目を逸らすと、弾かれたように彼は背中を向けて寝室に向かった。狭い2Kだ。逃げる場所などない。出ていけばよいのだけれど、その気力もないのか、ドアは力なく閉まりやがてへやにはフーゴだけが取り残された。
(出ていけばいいのに)
 心中で呟く。くちには出さない。代わりに、浅いため息を一つ。
(こんなところ、出ていけばいい)
 一緒にいたくないのなら、彼の望むことがこの場所では叶わないのならば。
 ソファに深く沈みこみ、肘かけに凭れるようにして額を手のひらで支える。彼の望む言葉も、彼の求める行動も、何一つ起こせなかった自分を阿呆のように感じた。まるで自分が自分ではない、別の生き物に姿を変えて今を生きているような気がした。心もとなく、地に足が着いていない感じ。吹けば倒れそうだ。いっそう殴るなりすればよかったのか? 殴って呶鳴って殴られて呶鳴られればよかったのか?
 一緒に生活をすることを決めてすぐ、ナランチャは棲んでいたアパートを出てここへやって来た。最低限の着るもの、気に入りのマグカップ、玩具のたぐいなどを持ち込んでも、ナランチャの所有物はあまりにすくなくフーゴは当初、それをせつなく思った。そのくせフーゴの私物であるタオルや寝間着を勝手に借りわがもの顔をしているために、そんな甘い感傷は消え失せてしまい、けれどそうして自分の家に、へやに染まってゆく彼を、フーゴは愛おしいものに思えてならなかった。
 おおきな出窓に置かれた写真立ての中で、かつてまだ幼かった頃の彼が笑っている。むかし、仲間と一緒に撮ったものだった。彼は17歳で、自分は16歳だった。
 ずいぶんと時間が経った、と思う。
 あの頃と今の違いは、ただそれだけである。
 薄く目を綴じて、あすの仕事のことを考える。あすは自分は出番で、朝一で事務所に行かなければならない。ナランチャは非番だ。夜はいっしょにどこかで食事をするとして、昼の分は何かこしらえておいてやらなければ。
 子どもを持ったことなど当然いちどもないけれど、彼の食事のことを考えていると、若干の苛立ちと、僅かに甘い幸福感で胸が満ちる。
 毎朝、自分の淹れたエスプレッソと軽くトーストしたパンを、美味い美味いと食べる彼をみているのがすきだった。だらしがなく生活力に乏しいナランチャの身の周りの世話を請け負うのは、さほど苦痛ではなかった。こういう生活を、きっと自分は望んでいた。
 鼻を啜る音が聞こえる。静まり返った深夜に、それはみょうに耳につくものだった。
 立ち上がって寝室のドアを開くと、膨らんだ毛布にリビングの明かりが光の筋をこしらえた。たしょうは成長したものの、体格は、あの頃とあまり変わっていない。ちいさくまるまって眠る癖も。
 サイドテーブルの椅子に坐り、ほとんど隠れているナランチャの顔を覘きこんだ。泣き喚いたことがすぐにわかる紅い頬をして、瞼を下ろし、子どものような表情で彼は眠る。かたちのよい耳に唇を寄せ、軽くキスをする。触れるか触れないか程度のものだ。ごめん、と、唇を動かした。ナランチャが身じろぐ。睫毛が震える。
 この程度のことで目を醒まさないナランチャの寝つきのよさを、ありがたく思う。目を醒まし、目を合わせたところで、彼の望むことはきっと今はもう、何一つできない。
「ごめんなさい、ナランチャ。でもここにいてほしいんだ」
 きみはもう大人だし、きっとどこにでも行けるのだろうけれど。きみの望むものを、きっとぼくはもう提示してやれないのだろうけれど。
 テーブルに腕を伸ばし、頬を乗せて、指先で彼の髪に触れた。黒く硬い髪。あの頃とすこしも変わっていない髪形。わずかに襟足が伸びている。散髪に連れていかなきゃいけないかな。次の非番はいつだったろう。
 目を綴じ、薄く開いて、それからまたフーゴは目を綴じた。



(2015.01.10)