つまさきが冷たくて、菅原はベッドに放っていたブランケットを自らの足もとに掛けた。ラグに直接胡坐をかいて、ひどく熱いコーヒーを飲んでいる。点けっぱなしのテレビではかれこれ二時間、刑事ドラマが流れていて、主役らしき女刑事がいよいよ犯人に繋がる何かしらの証拠を発見したところだった。事件の内容や経緯などすこしも興味もないし頭に入ってなどいないのだけれど。
浴室のドアの開く音がして、影山が風呂から上がったことを知る。キッチンで水を飲む気配がする。インスタントコーヒーをちいさなスプンにふた匙、カップに入れて、ポットから湯を注ぐ音、冷蔵庫から牛乳を取り出し、レンジで温める音が澱みなくつづく。カフェオレを作っているのだ。彼は苦いコーヒーが飲めない。もう大人なのに、と菅原はおかしくなる。
ほどなくしてリビングに現れた影山は、自分用の紺色のマグカップを片手に持って、当り前のように菅原の隣に腰を下ろす。まだほかほかとする肌からボディソープとシャンプーのよい香りが漂い、暖房を入れていないへやで彼だけがひどく温かだった。
「犯人、わかったっぽい」
彼のほうは見ずに呟くと、カフェオレを一口飲んだ影山は一瞬、目を眇めて、菅原を見、テレビに視線を映し、それからまた菅原を見やって、「なんの事件の話すか」と、そもそもの原点的なことを言った。
「わかんね。ちゃんと観てないから」
心底どうでもよくて、リモコンを手に取る。てきとうにザッピングをして、けっきょく、国営放送の二十一時台のニュース番組に落ち着いた。何かを観たいわけでもないけれど、何もないのはすこし味気ない時、菅原はCMを挟まない国営放送を点ける。最低限の音楽と全国民から平坦な評価を受けられるように抑制されたアナウンサの声音と表情が、思考にも視界にも煩わしくはないのだった。
「寒くないすか」
またひとくち、カフェオレを咽に落としたあと、影山は言った。「暖房、入れないんすか」。
「んー……、いや、いい。影山、寒い?」
「俺は、べつに」
菅原さんが寒そうです、と、菅原の足もとを覆うブランケットに目を落として、影山はくちにする。
「これあったけーよ」
そう言って影山の膝にもブランケットを半分掛け、菅原は影山にからだを寄せる。コーヒーとカフェオレとシャンプーとボディソープのそれぞれの香りが、ほどよく混ざって菅原の鼻をくすぐった。
「影山は体温高いからなあ」
肩に頭を預けて笑うと、影山は唇を尖らせる。むかしからの、照れた時の彼の癖だ。ほんのすこしだけ眉を動かし、もの言いたげに視線を泳がせ、それで、けっきょくは何も言わない。その仕草を目にするたび菅原はたまらなくなった。もう大人なのに、いつまでもあの頃の面影を漂わせつづけている恋人が可愛くてせつなくて、苦しくなる。
影山も、自分も、もう大人なのだった。すくなくとも互いに働いていて、一人でも生きていかれる程度には。
それでも、あの頃からずっと、今もまだ、こうして二人でいっしょにいる。
なんかをしてやりたいなあ、と、菅原は漠然と考える。先輩と後輩だった頃みたいに、この子にたいして何かをしてやりたかった。指導をしたり、肉まんを奢ったり、仲間との仲をとりもったりといった何かをしてやりたくて、けれどそれがすでに自分の役目ではないこともまた知っていた。自分がそんなことをしなくても、影山はもう一人で肉まんを買えるし、チームメイトとも上手くやれている。
影山の、まだ湿っている前髪に触れると、彼はくすぐったそうに目を細めた。
「おまえももうすっかり大人だな」
へらっと笑うと、自分が思っていたよりもその事実に疵ついていることに気がつき、すくなからずショックを受ける。
「菅原さんも、大人じゃないすか」
「まーな。煙草も喫えるし酒も飲めるし」
会社に行って仕事して、上司に怒られて理不尽な残業して終電で帰ってくるくらいには。
「……ああ、なんか、」
息を吐くように言葉をこぼす。影山の瑠璃色の瞳が薄闇の中でにわかに光る。
「おまえに色々してやりたいけど、できることがなにもないな」
大人なのに、大人になったのに、大人になったからこそできなくなることがあるだなんて、あの頃はきっと考えていなかった。大人になれば大概のことは叶うと思いこんでいた当時の自分は、やはり紛れもなく子どもだったのだ。
「そんなことはないじゃないすか」
単純な影山は、菅原の言葉をただそのままに受けとめる。ばかだなあ、と、菅原は思う。けれど、ばかなところは今さらすぎるのでくちにはしない。
「……感傷」
ほんとうに、ただのばかげた感傷だ。浅く笑うと胸が痛んだ。この痛みをこいつは知らないんだよなあと思うと、憎たらしさで首でも絞めたくなってしまう。
菅原はすっかり冷めたコーヒーを飲み干すと、ベッドからタオルケットを引っ張って影山を頭から包みこんだ。アイボリーの布に包まれる透き間から、驚いて見開かれた影山の目が見えたけれど、構わなかった。
「わ、ちょ、っと、すがわらさん、」
カフェオレが僅かにこぼれて一点の染みをこしらえる。うわ洗濯めんどくさい、けどいいや、もう。
タオルケットの中にからだを潜り込ませ、影山のからだを抱きしめる。風呂上がりの温かさはもうずいぶんと消えていた。
「からだ冷えてる」
鍛えているからだが、たやすく風邪を引くわけもないことは知っていた。それにこいつは、ほんとうにばかだし。
「菅原さんのが、つめたいすよ」
菅原の指先に触れて影山は拗ねたようにいう。それを無視して、タオルケットの端と端を合わせテントのように外界から遮断する。
「あたためてやるよ」
薄暗がりの中、くぐもった声で菅原は言った。そこに微かに笑みが滲んだ。
「できることがないから、せめて」
あたためてやるよ
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