額に浮かんだ汗が、粒となって頬を滑り落ちていく。見あげると広大な夏の青がひろがっていて、遠くの木立ちからは生まれたばかりの蝉の鳴き声が響いてくる。夏だ、と、影山は漠然と思い知る。太陽の光を吸いこんだアスファルトが熱を放出し、道路のむこうにかげろうを作る。
「夏、だなー」
 隣を歩く菅原が、シャツの胸もとを手のひらでぱたぱたと煽ぎながら、影山に倣うように空を見あげた。あっちぃなあ。誰に聞かせるつもりもない、おそらくはひとり言を呟く。これで五度めだ。校舎を出てから、菅原のこの科白を聞くのは。短い帰路のさなか、五回、菅原は“暑い”をくちにした。
「菅原さん、五回めです」
 渇いた咽に唾を押しこんでから、影山は言った。
「何が?」
「菅原さんが“暑い”って言うの」
「おまえ数えてたの?!」
 菅原は目をまるくさせて立ち止まり、影山を見あげた。半歩先で影山もまた立ち止まり、「だめでしたか」と不安そうに眉根を寄せる。
「いやだめでないけども、べつに」
 歩みを再開させ、菅原はくちの端をゆるめた。「おまえ、なんかそーゆーとこあるよな」。そうして、まぶしそうに目をほそめる。
「そーゆーとこ、って」
「やーなんか、なんかさあ、俺にはわかんねぇような変なとこ気にするみたいな、さ」
「気にしてるわけじゃないっすけど」
 ジワジワジワジワ、と、天を滑る蝉の声が、耳に遠ざかっては近づき、近づいては遠ざかる。部活のない日の帰り道は、ふだんの部活終わりの帰り道とは景色が違ってみえた。日が高く、ずい分とまぶしいものに感じられ、目を開けているのがつらいほどだ。互いに制服を着、シャツの袖からのびる菅原の腕がいつも以上に白く見えるのもふしぎだった。部活中の体育館で、すれ違う廊下で、見馴れているはずなのに。
「くち癖みたいになってるなって、おかしくって」
 影山のことばに菅原はにやりと笑い、
「それが俺のこと気にしてるってことだべーばかだなーかわいー」
 自分より高い位置にある影山の鼻頭を親指と人差し指で摘んだ。とうとつの出来事に、ふが、とみっともない声が出る。
「おまえ汗掻きすぎじゃね」
 鼻の下に浮かんだ汗を拭われ、それがみょうに恥ずかしくて俯けば、「健康だなあ」と菅原は笑った。
 ――菅原さんは、よく笑う。
 脳内にインプットされていた情報が、意識の底からふいに掬いあげられる。
 春に出逢い、新緑の季節を越えて、梅雨を抜け、夏が来た今、菅原という人間の一つひとつは影山の脳にしっかりと刻まれ、数えきれないほどになっていた。
 辛いものがすき、坂ノ下の肉まんが――それも、部のみんなで食べるやつが特に――すき、まじめで練習熱心、購買で売っているへんなかたちのパンがすき、でも昼は母親が作ってくれた弁当をうまそうに食べる、勉強も頑張ってる、怒るとこわい、笑うと眉が下がってひどく、ひどく可愛い。
 そこに、新しい情報が無意識のうちにアップデートされる。きょうみたいに暑い夏の日には、“暑い”がくち癖になるということ。
「あー……、暑い」
 すんなりとした白い腕を額に翳し、目をほそめて天を仰ぐ。六回め。菅原は悪戯っこのような表情をこしらえ、「ほんとくち癖ンなるな」と、影山を見やった。ほんとっすね、と、影山は低い声で言った。
「夏だし、夏だからな。不可抗力」
「フカコウリョク、ってなんすか」
「“しゃあない”ってこと」
 梅雨も明けたし、な。菅原の見あげる先には、まだ成長しきらないちいさな入道雲が立ち昇っていて、瑞々しい青がそこにあった。これから先、一か月は、この青と生活を共にするのだ。長いのか短いのかはわからない、でもきっと、終わった頃には“一瞬だった”とせつなく思う、瞬く間に過ぎ去るはかない季節。部活がある、秋に向けての厳しい練習も待っている。そして、バレーとおなじくらいだいじな人といっしょに過ごせる日々も、きっと一瞬だ。
 一つひとつはあっという間で、だからつよく灼きつけなければならないと影山は思う。一日を、一時間を、一分一秒を、無駄にすることは出来ない。夏は駆け足で死んでいってしまうから。

 並んで歩くふたりのあいだは、学校を出た時よりもわずかに縮まっていた。触れるか触れないかの距離で感じる菅原の気配と体温に、心臓が軋むように痛む。一緒に帰んべ、と菅原が言ってくれた時の高揚が、未だに影山のうちがわを熱くさせた。影山のクラスを訪ね、まるで当り前のようにそう言った菅原の、首筋に浮いた汗。背後にした窓から見えた、中庭に植わった紫陽花のむらさき。夏に浮かれたクラスメイト達のざわめき。
「え、なに、恥ずかしーの」
 思わず俯いてしまった影山の顔を覘きこみ、菅原は言った。「べつにおかしくねーべ。つき合ってんだから、俺たち」。
 事実をつきつけられると、途端に顔が熱くなる。耳までまっ赤に染めた影山の背中をバシンッと叩いて、
「影山くんたら、うぶなんだからー」
 そう言った菅原の頬もまた、かすかに紅潮していたのを影山は見逃さなかった。
 ――菅原さんは、おれにはわからないことばをつかって、おれをからかう。
 またあたらしく刻まれた菅原孝支の一つを、影山は噛みしめて、飲みこんだのだった。

 一瞬、何かが触れた、と認識したつぎの瞬間には、菅原の汗ばんだ手のひらが影山の指を掴み、手のひらの肌どうしが密着していた。あ、と、声を洩らす。菅原の視線が瞳を射抜く。
「……せっかくだし、手ぇ繋ぐべ」
 触れあったところから熱が生まれ、じわりじわりと体温を上げる。腕が、半身が、あつい。背中から汗が滲み出、シャツを濡らしていくのがわかった。
「暑く、ないっすか」
「じゃー、やめる?」
「えっ、それは、いやっす! だめっす!」
 手をつよく握りかえすと、心底おかしそうに菅原は笑った。
「おまえ、ほんとすなおだなあ」
 握りしめた手のひらは、やわらかく、汗に湿っていて、はじめての感触に心臓がざわついた。部活中、ドリンクボトルを手渡す時などに指先が触れることはあったが、こんなふうに意図的に、肌と肌とを重ねあわせたことは、なかった。菅原さんの手、って、こんな感じなのか。あったかくてやわらかくて、なんか、すげえ気持ちいい。ただ繋いでるだけなのに、触ってるだけなのに、汗掻いてんのに、暑いのに。
 つと視線を落とした時、第三ボタンまで外したシャツの透き間から覘いた菅原の白い鎖骨が目に入った。彼が色白であることはわかっていたつもりだったが、光を受けて暴かれた白さに、目が離せなくなる。
 そうして、辿り着いた箇所に思わず「あ」と声を上げてしまった。
「なに?」
 あっ、いや、ナンデモ、……。視線を逸らし、しどろもどろにことばを濁す影山の腕を引っ張り、菅原は「なにー?」と顔を近づけてくる。
「なになに、どした。なんかあった? 何した?」
「や、ちが、――ってか、どうでもいいっことっつぅか」
「よくない。気になる。言いなさい」
 歩みをとめて、菅原は影山の瞳をみつめる。先ほどよりもつよく手を握りしめられ、影山は観念して視線を明後日の方向に向けつつ、言った。
「……ほくろ」
「は?」
「菅原さん、の、ここ、に」
 自分の胸もと――鎖骨から数センチ離れた、ほとんど腋に近い箇所を人差し指で指し示しつつ、ひどく言いにくそうに影山はくちを動かした。「ほくろ、が」。低く、ちいさな声だった。
 一瞬だけ見えた、白い肌にぽつんと、墨を落としたような淡い色のほくろ。ほくろだ、と、影山の単純な頭はそれを事実として認識した。菅原さんの鎖骨の横のほうには、ちいさなほくろがある。
「……あー……、まあ、そうな、うん」
 菅原は襟をくつろげ、影山に指摘された箇所に視線を落とした。自分でも忘れるほどのちいさな点は、けれどたしかにそこに存在している。
「すっ、すんません! 変なとこ見て!」
 自由の効くほうの手をばたばたと左右に動かして、熱くなっていく顔を菅原から逸らして、申し訳なさと居た堪れなさで泣きたい気持ちになった。
 いくらつき合っているとはいえ、いけないものを見てしまった気分だった。着替えの時でさえ、菅原の肌をまじまじと見ることはない。ましてや鎖骨や胸もとなど、目を逸らしてしまいたくなるしろものである。うっかり目に入ってしまったそこは、すべすべとしていて、触れたらきっとなめらかな感触がする。それを想像をするだけで頭に血がのぼっていった。
「影山、焦りすぎ。ウケる」
 菅原はころころと笑い、そうして、ふたりの距離をさらに縮めた。
「なに? 俺のここ見てドキドキしちゃった?」
 くつろげた胸もとを見せつけるように近づけ、菅原はくちの端を持ち上げた。いつもの、影山をからかう時に見せる悪戯っ子のようなほほ笑みで。
「いやっ、その、なんてゆうか、」
「すけべだなあ」
「すけべじゃないです! ってゆーか、しまってください!」
 菅原の胸を押し、顔を背けたていで影山は言った。
「べつにいーべや、今さら」
 何でもないといったふうに菅原は笑う。
「だめです!」
「ちぇー」
 唇を尖らせて、シャツの襟もとを合わせた菅原は、けれど笑みを貼りつかせたまま影山から目を離さない。面白がられている、と、影山はくやしく思う。おれをからかうのは、いつものことだけど。でも、今回のはなんか、なんかずるい。おれはほんとに、見ちゃいけないものを見た気がして焦ったのに。今まで知らなかった菅原さんのほくろを知って、めちゃくちゃ焦ったのに。
「……菅原さんのそこにほくろがあるって、おれ知りませんでした」
 おおきく息を吸い、菅原と視線を合わせ神妙な面持ちで影山は言った。「ぜんぜん、知りませんでした」。
 知らなかった、そんな、あるかなきかのちいさな存在なんて。
「そう」
 菅原はおかしそうに頷いた。「いっこ、知られちゃったな、俺のこと」。
 出逢ってからきょうまで、数えきれないくらいに菅原という人間を知っていった。瑣末すぎるちいさなことから、誰でも――つき合いの長い三年生たちなどは、――知っているようなおおきな癖まで。一つひとつを知っていくうちに、菅原さんがすきだ、という気持ちは膨らみつづけ、今にも破裂してしまいそうなほど成長をしていった。これが萎んでしまうことなんて、きっとないだろうことを影山は確信している。膨張し、それでもなお膨らみつづける菅原への執着と好奇心が、いまの影山の思考のほとんどを占めていた。
「俺も、」
 すこしばかりの沈黙ののち、菅原がくちをひらいた。みつめる先には淡い焦げ茶の瞳が、真っすぐにこちらに向けられている。
「影山があんがいすけべだってこと、はじめて知った」
 すけべじゃないです……、もそもそと呟く影山の頭に手を伸ばし、おおきく髪の毛を撫でつける。「健全でよろしい」。白い歯を見せて笑う菅原の表情には、いとしい存在をからかう余裕と、僅かな照れが混在しており、それを見極めることは影山には至難の業だった。ただ、菅原の笑顔がいつもよりまぶしくて、目がくらみそうなほどに見えた。夏の日差しのせいだろうか、それとも、おれの目がいよいよおかしくなった? わからない、わからないけど、こうして笑顔をおれに向けてくれることが、ほんとにほんとに、嬉しい。この人の笑顔を一人占めしてる、罰があたっちまいそうなくらい贅沢なこと。
「なんかさ、たぶんこーして、お互いの知らなかったこと、どんどん知っていくんだよ」
 ふたり一緒にいることで、知らなかったことをどんどんさ。菅原は声のトーンを落として、ひとり言のように言う。咽の奥に唾を押しこみ、「はい」と影山はこたえた。
「俺だって、俺の知らない影山のこと、もっと知りてぇし」
「はい」
「俺の思うよりずっとたくさん、あるんだろーし」
「……はい、たぶん」
「はは、たぶんて」
 頭から手を離すと、そのまま両の手のひらを影山の耳に滑らせ、頬を挟みこむ。じっとりと汗にしめった手のひらは、けれどつめたくて、火照った頬を心地好く冷ます。
 唇と唇が触れたのは、ほんのごく一瞬のことだった。
 あ、と、影山が思った時には、菅原の顔は離れていて、わずかに赤く染まった菅原の頬が視界に映りこんでいた。
「おまえの唇、思ったよりずっとつめたくてやわらけーのな」
 自分の唇に指さきを添わせ、菅原は笑う。「知らなかった、ぜんぜん」。
 触れあった一瞬の出来事が信じられず目を白黒させている影山は、茫然としてくちをぱくぱくとさせるばかりだった。あ、とか、う、とか、ことばにならない声だけが咽奥からこぼれ落ちてくる。
 キス、をした。そう認識した時には、菅原はからだを離して、歩きはじめていた。慌てて追いかけ肩を並べたところで、ようやく、「……びっくりしました」と絞り出す。
「ごめん、たぶん、ファーストキス、だよな?」
「は、はい」
「なんか、見てたら、したくなって」
 俯いた菅原の表情はよく見えない。覘きこむように首を曲げると、顔を逸らされる。
「ばか、見んな」
「どしたんすか」
「いやー、なんか、今さらハズくなってきた」
「ええ……」
 菅原のことばに、今までさんざんからかってきたのに、と、影山はおかしくなってしまう。菅原は顔を明後日の方向に向けた態で、ああ、と息を洩らした。そうして、影山の手首をふいに掴む。さきほどよりも僅かに体温が上がっている。
「……菅原さん、耳まっ赤です」
「いちいち言わなくていーから、そーゆーこと!」
「すっすみません!」
 耳からうなじにかけて赤く染めた菅原の、今は見えない表情を想像して影山もまた、頬が熱くなるのを自覚した。自分のために、感情を動かす菅原のことが、いとしくてたまらなかった。笑ったり、からかったり、恥ずかしがったり、菅原の感情はこの短い帰り道のあいだでころころと変化する。そのすべてが自分のせいであることに、優越感さえおぼえる。
「……すきです」
 影山は呟く。それ以外のことばでは、この感情を伝えるすべがないと思った。すきです。菅原さん、大すきです。
「俺もだよ」
 すこししてから菅原も、囁くようにくちにする。顔は背けられたままだったが、声のトーンでどこかあまったるく、影山の耳をやわらかくくすぐった。
 どうしようもないこそばゆさで破裂しそうな胸を、影山は握られていない左手でぎゅうと掴んだ。


summer
17,0808