彼に初めて抱いた感想は、“なんかやわらかそうな人”だった。名前を呼ばれて振り返ると、坂の中腹で彼は手を振っていた。夏のはじまりを感じさせる陽差しが色素の薄い髪の毛に乱反射してきらきらと輝いてみえたのを、影山はいつだってまなうらに思い描ける。高校から家までの帰り道を、並んで歩いた。別れはすぐに来て、薄青に染まっていく空気の中で、「じゃあ、またあしたな」と彼は相変わらずの笑顔で言った。
なんかやわらかそうな人だ、と、その時も影山は思い、そうしてそのやわらかさに触れてみたいと、無意識的に指先が動いたのを、寸でのところで制したのは持ち前の反射神経だった。胸の奥が軋むように疼いた。
・
影山は彼を菅原さんと呼び、彼は影山を苗字で呼ぶ。それは初めて逢った時から今でも変わっていない。菅原はあくまで影山の名をフラットな調子で呼びつづけ、そこには彼の形容詞ともいえるやわらかさ以外の何ものも含まれていない。知ってるわかってる、と、それを確認するたび影山は咽を鳴らして唾を飲みこむ。彼に自分が抱く感情をおなじものを求めるのは間違っていると、すべてはこちらの勝手な気持ちなのだと、言い聞かす。そうして、息を吸って、息を吐いて、すこしばかり気持ちが落ち着いた頃、ようやく「晩めし、何にします?」などの日常的な会話に継げるのだった。
菅原さん、と唇にのせると、のせた途端に気恥ずかしくなって顔を伏せてしまう癖も、リビングのソファで並んで坐って寛いでいる時に咄嗟に手を伸ばしてしまいたくなる衝動も、いつの間にか体に馴染んで消えてくれない。触れたらいけない、と思えば思うほど、子どものように、反抗心が湧く。
テレビから流れてくる笑い声につられて菅原が笑い、ソファに微弱な振動が伝った。おなじへやにいて、二人掛けのソファに並んで坐り、隣にいる気配は機嫌よく笑っている。風呂上がりのラフな恰好をして、乾ききれていない髪の毛先が無防備にゆれる。目の端々に映るすべてが、長いあいだ恋うている人間のものであるなど嘘のようで、現実味があまりになかった。ほんとうに彼がここに、自分の隣にいるのだろうか。この人はほんとうにあの菅原さんなんだろうか。
「……すが、わらさん?」
あまりの現実感のなさに、そっと手を伸ばしてみる。指先が彼の、すこし湿ったすべらかな頬を触角する。うん? と、透明な瞳がこちらに向けられ、その瞳に自分の顔が映っていることも認識する。現実だ、と、影山は阿呆のように思い知り、それと同時に打ちのめされる。
「どーした?」
「いえ、……」
伸ばした手を引っ込めて、項垂れる。菅原はまたテレビに視線を戻してしまう。自然な動作を装ったつもりで、彼の顔に一瞬だけ走った緊張を、影山は感じとっていた。「すみません」。くちをついて出たことばに、菅原は刻んでいた笑みをにわかに薄め、胡坐を掻いた足の膝に肘を載せ、頬杖をついて影山をみつめた。
「謝らなくてもいいけどさ。……っていうか謝られたら、なんか、なんてゆうか、逆にしんどい」
しんどい。影山は唇を動かして菅原のことばを反芻させる。しんどい。
「しんどい、すか」
「うん」
ごめん、と、菅原は顔を両の手で覆う。そうしてふかく、息を吐き出して、ソファの背凭れにからだを預ける。
影山ァ、と、くぐもった声が彼の手の中から影山の耳に届いた。
「なんか、ごめんなぁ、すきになってやれなくて」
過剰な演出と音楽を垂れ流すテレビがうるさくて、皮膚じゅうに突き刺さるようだった。鋭い針のようにも、つめたい雨のようにも感じられるそれらを、けれど消すことすらできずに垂れ流しにしている。
しくしくと胸が痛んで、痛みの中で「ほしい」と叫ぶ自分を発見する。手を伸ばせば触れられる位置にいるこの人がほしくて、ほしくてほしくてたまらなくて、けれどそれが一生叶わないだろうことを影山は知っていた。
「影山、おれはね」
「はい」
感情を抑えた声音で菅原が言うのに、思わず居住まいをただして耳を傾ける。かつて部活の先輩と後輩であった頃の名残りである。
「おれはね、おまえのことがすきだよ」
「……はい」
「でもそれは、おまえがおれに言ってくれるすきとはぜんぜん違うんだよ」
「……わかってます」
わかっていて、それでもいいから一緒にいたいと望んだのは影山のほうだった。理性が飛んだ状態で提案をした時に、菅原はかなしそうに笑って「やめよう」と言った。「そんなのは、お互いにしんどくなるだけだぞ」と。けれど、結局は流されて一緒に暮らすようになったのは、菅原もまた影山とおなじくさびしかったからなのだろう。
「おれが他人に恋愛感情を抱けないって、話せたのは影山だけだったよ」
語り口はあくまでしずかで、ひららかで、感情がまるでみえない。孕んでいるのがさびしさなのか、諦観なのかも掴めず、影山は教師に教えを請う生徒のようにただじっと菅原の声を聞くばかりだった。
抱くことはもちろん、触れることすらできない自分にできることといえば、たぶんそれだけだと影山は知っていた。
「ごめんな」
眉を寄せて、くたっと笑う菅原の表情が痛々しくて、それでも目を逸らせないまま影山は、いつの間にか握りしめていた手のちからを僅かに弛め、俺のほうこそ、と、ことばを接いだ。
「俺のほうこそ、すんません。触れないって、約束したのに」
一方的な愛情は暴力とおなじで、菅原はだから、真っすぐに与えられる影山の愛情をおそれていた。触れられることに過敏に反応し、身を強張らせる。同居をする時に決めた、互いのからだに触れない、というルールを、影山は頑なに守りつづけていた。それが、先だってテレビを観ている菅原の存在を意識した時、初めて破ってしまった。ほんとうにここにいるのか、という確認作業のつもりで、けれど指先が肌に触れた事実は事実として変わりはない。
息を洩らすように浅く笑って、菅原は、「影山は律儀だからなあ」と胡坐を掻いていた脚を崩し体育坐りのかたちに坐りなおした。微かに、共同で使っているシャンプーの匂いがした。
「もう、ぜったい、触りませんから」
だから嫌いにならないで、出ていかないで、すきになってくれなくてもいいから、ずっとここにいてほしい。切実な表情で懇願すると、菅原は「出てかないよ」と言った。
「だっておれが出てったら、影山さびしいべ?」
髪の毛とおなじく、色素の薄い茶色の瞳が悪戯っこの輝きを湛えて影山を覘きこんだ。こくこくと頷き、
「さびしい、っつーか、イヤです」
「我が儘だなあ」
「知ってます」
知っていて、ここにいるんでしょう。言いかけて、飲みこむ。我が儘なのは、お互い様であることを、影山はもちろん菅原も自覚していた。さびしいから、一緒に、ここにいる。影山は届かない想いを抱えつづけ、菅原は与えられる愛情を受けとめられない。どん詰まりだ、と、菅原は空虚な心の中につめたい風が通りぬけていくような心地をおぼえた。
いっそう無理やりにでも抱いてくれればあるいは、何かしらの感情が生まれるかもしれない。それがただのなさけであっても、無いよりはましな気がする。影山がそれを望んではおらず、菅原もまた、そうした行為のあとに残るであろう侘しさを想像すれば、結局は何も発展しないまま、今のように互いに寄り添っているほうが安全であるとも思えた。
――ねぇ影山、おれたちほんとに、どうしようか。
堂々巡りの思考を払拭すべく菅原は再度天井を仰いで、ふかいため息をついた。
テレビでは相変わらず、何度か見たことのあるタレントが手を叩いて笑っている。テレビのこちら側で男ふたりが、どうしようもなさに途方に暮れているというのに、人の気も知らないで。理不尽な怒りが湧いてきて、菅原はテレビのリモコンを手繰り寄せてスウィッチを切った。途端にへやに静寂が満ちる。静寂の中に影山の浅い息遣いが混ざり、聞こえる。
影山、と、菅原は呼びかけた。むかしから変わらない、いつもの調子で。
「はい」
「ちゅーでも、する?」
「はい?」
ごめん嘘だよ、と、菅原はへらっと笑い、同時に自分がどうしようもなくひどい人間に思えて、死にたくなる。
「……そういう嘘は、やめてください」
「はは、ごめん」
「俺ほんとに、菅原さんのことがすきなんで」
「うん」
「菅原さんがそうじゃなくても、俺はすきなんで」
「うん、ありがとう」
残酷なことばかり言っているのに、影山はすこしも引かない。律儀にルールを護り、自分の感情を抑えて、自分に向き合ってくれる。
「あー、もうほんとに、」
抱えた膝に顔を埋めて、呻く。「おまえのことすきになりたい」。
声に涙が滲むのを隠せず、そうするとあとは惰性でぼろぼろと崩れ、目のふちから涙があふれ出た。拭っても拭っても止まらない、こんなに泣いたのはいつぶりだろうか。すぐ側で影山が狼狽している気配を感じるが、そちらをフォローする余裕などない。
「おまえのことほんとうに、すきになりたいんだよ」
誰のこともすきになれないことは、孤独と生きる、ということだ。それに気がつき、茫然と途方に暮れていた時に影山が押しつけた愛情に怯えながら、寄りかかった。都合がよいと自覚しながら、それでも寄り掛からずにはいられなかった。
ふいに寝間着にしているスウェットの裾を引っ張られて顔を上げると、影山が躊躇いがちに目を伏せ、ことばを探すように瞳を動かしているのがみえた。
裾をぎゅうと握る影山の手の甲の筋、すこし日に灼けた肌。自分を求めてやまないけなげな手。
影山はついぞ何も言わず、くたびれたスウェットの裾を握ってじっと目を伏せていた。従順な犬のように、おとなしく、菅原が泣くのを側で見ていた。
無音の中で耳に入るのは、菅原の嗚咽と影山の呼吸だけで、ここにあるのは、ただそれだけだった。
その骨は透明
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