※大人になった菅原さんの、喫煙描写があります。
きのうまでの一週間の疲れが、脚のあたりにじっとりと沈んでいる。すこし痺れるような、脱力感をそこに感じると、菅原は、すわ、これがとしかな、と思う。実際は、まだ25歳なのだけれど。
キッチンの、流しの下からコーヒーの粉を取り出そうと身をかがめた時、澱のようにたまった疲労が重しとなってにわかに立ち上がることができなくなった。膝を抱えた態で蹲り、暗い、流しの下の収納棚の奥と、自分の裸足のつまさきとを交互になんども、見やり、たしかに自分のものであるはずの思考が千切れそうに細く引き延ばされ、意識の底の底に押しやられるのを感じた。
そうしてすこしのあいだ細く息を吸って吐いてして、ようやく、そうだ俺はコーヒーを淹れようとしていたんだっけと思いだし、立ち上がることができたのだった。
咄嗟に次のモーションに移れないほどにからだも、頭も、疲弊し消耗している自覚を、磨り硝子から差しこむ朝の光にあばかれた気持ちだった。
コーヒーメイカーに水を入れ、粉を注いだフィルターをセットしスウィッチを押せば、ほどなくして湯の湧く音が聞こえてくる。壁に備えられた戸棚から組み立て式の華奢なつくりの椅子を取りだし、そこに坐って煙草を銜えた。
しんとしたへやに、コーヒーメイカーと、換気扇の廻る音がごくささやかに漂い、ふいに、一人だ、と思う。
咳をしても独り、と詠った歌人がいたな、なんだっけ名前? 高校の現代文の教科書に載っていた。
煙を吸うと、空っぽの胃袋が掴まれたようにぎゅっと縮み、鈍い痛みが走った。きのうはたしか、夕がたに職場の先輩からもらったクッキーを食べて、それから、固形物は何もくちにしていなかった。銀色の包装紙に包まれたクッキーは、四角くて、表面に粒子の荒い塩をまぶしてあって、齧ると、バターのよい香りが鼻に抜けた。塩けと甘みのバランスが絶妙で、とても美味しかった。
玄関の入り口に投げ捨てられていた通勤用の鞄を引っ張って足もとに寄せ、中を探って、余計にもらったクッキーを取り出す。影山にも食べさせたいと思って持ち帰ったのだ。
銀色の包みを流し台に置く。英語で書かれたメーカーのロゴが、光の中で躍る。
日本代表に選出された彼が遠征のために留守にして、三週間が経っていた。帰ってくるのは来月の末である。2ヶ月ものあいだあえないなんて、お互いに社会人になってからはざらで、馴れたつもりでいたけれど、ふいに訪れる静けさや一人きりだという自覚に、ゾッとするようなさびしさを感じることもまた事実だった。
いつまで経っても、それは訪れる。つき合いが長くなればなるほど、関係が深くなればなるほど、きっともう離れられないだろう予感に足の竦む思いがするのだった。
きっともう離れられないし、俺はあいつを手放せない。
抽出されたコーヒーを自分のマグカップに注ぎ、ゆっくりと、熱く黒いその液体を啜った。咽の奥に苦味を流しこむと、濁っていた思考が次第に澄んでゆくような気がした。
影山が今いる場所のことを思う。次はどこに行くんだっけ遠征? と問うた時、彼のくちから「フランスです」という言葉を聞いて、驚いた。フランス。それがどこにあるどういう場所なのか、そういった最低限のことを当然だけれど影山は疾うに知っていて、コーチや監督やおなじチームでともに戦う人間からの情報であろうそれらを彼は彼なりの言葉で、ゆっくりと話してみせたのだった。
海外遠征自体は、影山にとって初めてのことではなかった。ヨーロッパ各地から南米、バレーボールのつよい選手の揃う世界の国々を巡るおおきな遠征が、年にいちどほど、影山を待っていた。それは日本が、世界が、『影山飛雄』という選手を両手を拡げて歓迎しているあかしでもあった。
今回はフランスを拠点にし、高名なナショナルチームとの合同練習と試合を行うのだという。「フランスは、はじめてっす」。緊張しているような、けれど昂奮を隠しきれない様子で影山は笑った。
次にゆくのはフランスだと、彼は言った。あまりにもさらりとくちをついて出たよその国の名前に、菅原の思考のほうが咄嗟には追いつかなくて、けれど、そうだこいつもうプロ選手なんだなと、まるで今さらのことを、改めて噛みしめたのだった。
「そうか、フランスかぁ。すげぇなぁ」
彼の頭を撫でて笑うと、影山は顎を引いて照れくさそうに視線を、落とした。
手のひらに伝う髪の感触も、かたちのよい頭も、鋭そうな目つきも、すこし瘠せて、けれどむかしの面影をひそめた頬の輪郭も、たしかに目の前にあって、それは今もむかしも『影山飛雄』に違いなく、彼は彼以外の何ものでも、なかった。
目の前にいれば頭を撫でてやりたくなったり、抱きついてからかって甘えて困らせたりをしたくなってしまうのは、今までずっとそういうふうにしてふたりで過ごしてきた、癖か、習い性のようなもの、があるからなのだろう。
知りあって10年近くが経ち、互いに互いの人生に深くつよく関わって、過去も未来も現在も共有していることに、信じられない気持ちにもなる。
「むかしはさ、――高校生の頃とかだったらさ、」
旅支度をしている影山の手もとを覘きこみながら、菅原は言った。
「おまえはきっと、俺に、フランスってどこですかとか訊いてたんだろうな」
あの頃の影山は、何も知らなくて、世の中のものごととか世界がどこまで拡がっているのかなどといったことにまるで無頓着で、ただ目の前につづく先だけをみつめて、生きていた。その瞳が自分を映す時、菅原は心を浚われるような心細さにひどく動揺したものだった。あまりに真っすぐにこちらをみつめるから、彼の目指す未来が、いつか彼の焦点から逸れるのではないかと、危惧した。
けれど、未来は、きちんとつづいた。
影山はみつめる先にまっすぐに歩いてゆき、自分の望むとおりに夢を叶え、今もこうして自分の側で生きている。
「おまえはもう、フランスがどこか、どういう場所かなんて知ってるんだな」
子どもに言い聞かすようなまるい声音が、我ながらおかしいと思う。けれど、どれだけからだがおおきくなろうが年をとろうが、菅原にとって影山はいつまでも可愛いとししたの男である。
きょとんと目をまるくさせ、首を傾げてみせる影山の瞳は澄んでいて、菅原にはそれがとても嬉しかった。
「頑張れよ」
と、菅原は言った。
「はい」
「さびしくなったらいつでも連絡しろよ? 時差とか、気にすんなよ」
「……はい」
孝支さんも、と、影山はくちの端をわずかに綻ばせた。
――あれから三週間が経つ。菅原はそれまでと変わらず会社に行き、次から次へと寄越されてくる仕事をこなし、上司に小言を言われ、雑務を片づけ、定時で上がることのまずない、じつにまっとうな社会人らしく生活を送っていた。
そのあいだに訪れた二度の土曜日に、あちらから電話をもらった。通話料金の問題で、携帯ではなく、ホテルに備えつけの公衆電話からかけられたものだった。
影山が海外遠征に行くことで知ったことだけれど、日本のスマートフォンから海外にいる相手のスマートフォンに電話をする時にも、それは国際電話であるから通話料金が高くなる。当り前と言えば当り前の話だけれど、かけるほうにも受けるほうにもそれなりの料金がかかってくるのならば、電話は折半して買ったテレホンカードを使って現地の公衆電話からかけることに、ふたりで決めたのだった。
電波に乗って耳に届く影山の声は、ひどく遠い場所から響いてくるようで、ふたりのあいだにある距離を実感せざるをえなかった。いちどめは菅原が疲れすぎていて、二度めは影山が慌しく、それぞれ長く話をすることができず、『元気か』『元気です』といった軽い挨拶程度の会話を交わして、終わってしまった。
半日以上の時差があるあちらは今、真夜中だ。影山は今頃、眠っている。
ぬるくなったコーヒーの残りを、菅原はがぶりと飲み干した。
夜。ベッドに放っていたスマートフォンがメールを受信した。風呂上がりの火照った指で画面をスライドさせれば、影山からのメールだった。
『今、ちょっとだけ、電話してもいいですか。』
律儀な文面に思わず笑ってしまいながら、OKの返事を打ちこむと、ほどなくして着信が入る。
「もしもし」
『もっ、もしもしっ』
すこしばかり上擦った影山の声が、スマートフォンを押しあてた右耳に流れこんだ。
「こんばんは――ちがう、“こんにちは”?」
棚の上に置いた腕時計を見やって、逆算する。あちらは、今、昼間だ。「今、休憩時間?」
『っす。あの、すみません、時間だいじょうぶですか』
「だいじょーぶ。こっちは今、夜の8時だから」
ひさしぶり、と、菅原は言った。おひさしぶりっす、と、電話の向こうで影山が応えた。
「一週間ぶりでも、なんか、懐かしいな」
『そうっすね……。孝支さん、今、何してたんすか」
「俺?」菅原はキッチンに行き、冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取りだした。「風呂入って、上がったとこ」
影山のいる場所はどこなのか、ひどく静かで、菅原には彼の声しか聞こえなかった。車の音や、人の気配がまるで伝わってこない。「今どこにいんの。すげえ静かだけど」。それで、そう訊いた。
『練習場所からちょっと離れた、電話ボックスの中っす』
「……なんで、わざわざ」
ペットボトルにくちをつけて飲みながら、フランスの、実際に見たことはないけれど映画などで知る限りの、洒落たつくりをした電話ボックスの中で、こちらに電話をかける影山の姿を想像した。
『だって、孝支さんとしゃべるのに、気が散るといけないから』
咽を通り過ぎる水のように、影山の言葉が、すっとからだに浸みこんでくる。何気ない、思ったことをくちにしただけに過ぎない言葉だ。それが、そういったすなおな言葉を聞くことが、ひどくひさしぶりな気がして、菅原はくちに含んだ水をごくりと飲みこんだ。
「……ねぇ。今いるとこってどんなとこ。面白い?」
フランスは、菅原にとっても行ったことのない、知らない場所だった。どんな景色があるのか、食べ物は美味しいのか、人は優しいのか、訊いてみたかった。
『ど、どんなとこ……?』
「たとえばほら、今のとこから何が見えんのかなって」
『今……あ、家? がみえます。屋根が赤くて三角の。そういうのがいっぱいあります』
「天気は? 晴れてる?」
『はい。空が青くてまぶしいです』
そうして影山は、きのう行った練習試合のこと、あちらの選手はやはりガタイがよくいるだけで迫力があること、泊まっているホテルで毎日遅くまでミーティングをしてまとまった時間が中々取れないこと、食事はパンが多いのだけれど腹にたまらないこと、魚料理が美味しいこと、くだものも美味しいこと、でも米が食べたくなってきたことなどをぽつぽつと話した。
「さすがにそっちじゃごはんはないよなあ」
『ないっす。こっちでの練習も試合もすげーたのしいんすけど、米が、っていうか、』
影山はいちど、そこで言葉を切ってから、言った。
『……孝支さんと飯、食べたくなってきました』
視線の先に、朝からそのままにしていたクッキーの銀色の包みがある。それを指先で玩びながら、耳のあたりがボッと熱を帯びるのが、わかった。
孝支さん、と、あちら側で影山が自分を呼ぶ。
『孝支さんは、一週間、何してたんですか』
俺? と、菅原は咽の奥で笑った。
「俺は、仕事行って、時々おまえのこと思いだして、何してんだろなーとか、今頃寝てるかなーとか、飯ちゃんと食ってるかなーとか、考えてたよ」
沈黙が落ちた。鼓膜に滲むような静けさの中、影山の呼吸の音がかすかに聞こえる。うわちょっとクサすぎたかなと思ったけれど、放ってしまった言葉は今さらとり返せない。
椅子に坐った態で膝を立て、手の甲に顎を乗せた。
あいたいと、つよく思った。けれどそれは言ってはいけない言葉であるとわかるから、くちにはしなかった。
は、と、影山の息づかいが耳を打った。
『あさって、また試合があるんです』
「うん」
『そのあと移動して、ちがう街に行って、そうしたらまた試合があって。それが終わったら休養日あるんで、その日、また電話していいですか』
もちろん、と菅原が笑うと、電話の向こうで影山もまたほほ笑んだ様子が伝わった。
『よかったっす、すこしでも、話せて』
「俺も。声聞けてよかった」
向こうの様子もちょっと知れたし。そう言うと影山はすこし間を置いてから、言った。
『俺、こういうの、孝支さんに話したくて。ずっと。練習のこととか、食べ物のこととか。だから、よかったっす』
俺の話ばかりで、すみません。影山があちら側で、すまなそうに頭を下げる姿が目に浮んだ。下げる頭が目の前にあるのだったら、今すぐ撫でてやるのに、手を伸ばしたところで今、触れたい人間がここにはいない。
出かかったため息を唾液と一緒に飲みこんで、菅原は唇の端を持ち上げた。
「じゃあ、次に電話する時は、俺の話聞いてよ」
俺の見たものとか、食べたものとか、当り前すぎてすこしも面白くはないだろうけれど。
影山が『はいっ』と威勢のよい返事をするものだから、堪え切れずにふきだしてしまった。
あちらの背景がにわかに動いたのを、菅原は気づいた。ドアの蝶番が軋む音、影山を呼ぶ誰かの声を電話が拾う。日本語の気配に、彼を探しにきたチームメイトだとすぐにわかる。
「そろそろ、切ろうか」
提案すると雑音に混じった影山の『すいません』という声が聞こえた。『あの、じゃあ、おやすみなさい』。
おやすみ、と、菅原が返したと同時に通話が切れた。あっという間の幕引きに、すこしのあいだ菅原は、茫然とスマートフォンを耳に押しあてたまま動けなかった。さっきまで聞こえていた影山の声が、余韻も残さず消えてしまった不思議に頭が追いつかないような、取り残されたような気持ちが胸に湧く。けれど、それは一瞬のことで、立てていた膝を崩して床に裸足の足をつけた時には、すべてがきちんと現実のものとして受けとめられた。
電話が終わると、再びしんとした静けさで部屋がみちる。蛍光灯を受けて光るクッキーの銀色が視界に入った。躍るロゴマークに指先で触れ、あいつが帰ってきたら食べさせてやらなきゃ、と記憶に刻みこんだ。こんなくだらないものごとでも、菅原の日常の切れ端にちがいはないのだ。
いつの間にか濡れた髪は乾いていて、火照っていたはずのからだはひえている。
一杯だけコーヒーを飲もうと、菅原は朝の残りの入ったサーバーをコーヒーメイカーにセットして、スウィッチを入れた。
(2014.07.09)