六畳の部屋に、ベッドと、テーブルと、本棚があって、それにちいさなキッチンがついている。風呂とトイレは一緒で、浴槽は狭く、けれど夕べはトイレに坐って、風呂に浸かる菅原さんをじっと見てた。俺がそうしたいと言ったから、彼は拒まなかった。
狭いユニットバスで、二人一緒には湯船に入れなくて、結局は立ったままセックスをした。歯ブラシと歯磨き粉とシャンプーとリンスとボディソープを何度も倒した。汗だくで、しがみつくように抱きしめて、きっとみっともないくらいに俺は餓えていた。クリーム色の床に精液が落ちて、そのにおいと菅原さんの体温に溶けてしまいそうだった。背中を抱いたまま俺が先に果てて、それからすぐに菅原さんがいって、二人してその場に坐り込んでしまった。彼が振り返って笑う。安っぽい蛍光灯の下で、大人みたいな顔で菅原さんは笑う。
「風呂、借りました」
浴室から部屋に戻ると、菅原はもうすっかり着替えをすませて、パックの牛乳を飲んでいた。その首筋に自分の咬んだ痕を見つけ、影山は思わず目を逸らした。
「ごめんなあ、狭いとこで」
髪を拭く影山に牛乳を差し出しながら、菅原はすまなそうに言った。
「ほんとはもっと広い風呂に入れてやりたいんだけど、今はかんべんな」
「全然いいっす。菅原さんチ、俺好きです」
本音を言っているのだと菅原にはわかっているようで、「ならいいけど」と笑顔を浮かべる。
前にもこの会話、した気がする。彼の手から牛乳を受け取って、前に菅原の家を訪ねた時のことを思いだした。彼が東京の大学に進学してすぐ、5月だった。土日を使って、俺はここに来たんだ。夜行バスと電車を使って、彼に会いに行ったんだ。
部活と彼を天秤にかけるのは苦しかったけれど、電話をしたらもっと苦しくなった。携帯のあちら側にある声を聞いてしまうともうたまらなくて、金曜日の部活帰りに仙台駅から夜行バスに飛び乗った。何度めかの休憩所で「今からそっちに行きます」と電話をしたら、彼は向こう側で息をのんでいた。「お前、俺があした学校だったらどうするつもりだったんだよー」と笑われた。
何も考えていなかった。
「今回はちゃんと前もって連絡くれたから、よかった」
「すんません、この前は突然」
「や、いーんだけどさ。お前そういうやつだって知ってるし。嬉しかったから」
最寄りの駅で、壁に背中を預けている菅原を見つけた時、どうしようもなくたまらない気持ちになった。会えていなかったのは少しのあいだのはず、だったのに、そのあいだに彼はどこか大人っぽくなっていて、けれど相変わらずの笑顔で影山を迎えた。初夏の朝の光が差す土曜日の駅で、「いらっしゃい」と彼は言った。「……はよざいます」と影山は言った。何人かのサラリーマンが二人の側を足早に通り過ぎていく。すぐに抱きしめたかったけれど、何の連絡もなしに衝動のまま訪ねてきてしまった自分のばかさ加減に脚が竦んだ。それに気づいているらしい菅原は彼の頭を撫で、お前ほんとばかだなあ、と笑った。
「こないだ帰る時、菅原さんがちゃんと連絡しろっていったから」
「……ふつうはそういうもんなんだからな?」
「ハイ。すんません」
パックに直接くちをつけて、牛乳を煽った。冷たい甘さが咽を滑り落ちていく。前回もこんなふうに牛乳をパックごと渡された。コップ洗うの億劫だから、とのことだったけれど、躊躇していたら、「俺しか飲まないんだから」と言われて断る理由をなくした。
菅原さんしか飲まない。
ここは彼の部屋で、家なのだから、あたりまえだ。そうは思うけれど、まだ地元にいた頃、彼の実家に遊びに行くと必ず誰かの気配がした。家族や、友達や、彼の過去とか想い出とか、そういうものに囲まれていて、彼は、一人ではなかった。見させてもらったちいさい頃の写真、幼稚園の頃に描いたらしい絵や、小学生の頃の作文、中学校の頃の賞状。夕飯は彼の母親が作ってくれ、彼の家のダイニングでそれを食べ、彼の家族も使っている風呂に入り、彼の母親が干したベッドでセックスしたり、していた。
それなのに、今、ここには彼しかいない。彼の気配とにおいしかしない。狭い部屋で、彼と向き合っていると、まるでほんとうに世界には、自分と彼しか存在しないような気分になってくる。くすぐったいような、せつないような、不思議な気分に陥ってしまう。菅原さんしか飲まない牛乳、菅原さんしか使わないシャンプーとリンスとボディソープ。菅原さんが洗濯したり干したりしているベッド。
夕べから今さっきまで散々抱き合ったあとの、爛れた甘い空気が部屋に充満していた。脳まで溶かされている、と危機感を感じるほどのものだったけれど、幸福は危機感などたやすく越え、抗えなかった。
ずっとこうしていたい、二人しかいない空間で好きなだけこの人に触れていたい。夕べの浴室で嗅いだシャンプーのにおいが自分からも漂い、ああ、ほんとに俺、この人の部屋でセックスしたんだ、と思った。この人の部屋で、この人しかいないこの場所で。
「影山、ヒゲついてる」
菅原の指が、唇の上についた牛乳を拭う。彼の指の腹の熱さにまた背中がぞくりとしてしまう。浴室での熱が再び這いあがり、触れたい、と痛いほどに強く思った。触れたい、触れられたい。もっと触っていてほしいのに、彼の腕はたやすく戻っていってしまう。
手首を掴んで、指と指を絡めると、菅原の肌は湿っていて、非道くいとしかった。その体温をほしいと、目だけで懇願した。求めすぎていることはよく理解していたけれど、泣きたいほどに彼がほしかった。
「だめだよ、影山。もう帰んなきゃ」
時計を指差して、落ち着いた声音で彼は言う。17時20分の新宿に向かう電車に乗れなければ、あすの朝、あちらにはいられない。
「……かえりたくない、です」
声が情けなく震える。いやだ、こんなの、ただの面倒なガキじゃないか。
手を握るちからを緩める。ゆっくり、指と指をほどいた。伏せていた目を持ち上げて、一度唾を飲み込んで、菅原の顔を見つめる。僅かに傾いた陽が彼の横顔を淡く濡らしていた。肌の白さや、髪のやわらかさや、瞳のまるさは地元にいた頃と少しも変わっていない。影山を抱きしめる強さも、触れる肌のあたたかさも。
「すんません」
目に見える変化は、きっとないはずなのに、唐突に心細くなるのはどうしてなんだろうか。「うん」と、頷く菅原がまとう雰囲気は、まるで大人のそれだった。
「また、来てもいいですか」
いつか、自分の言葉が拒絶されてしまうのではないかと、漠然とした不安が湧いてくる。彼が卒業してたかが4ヶ月、4ヶ月会わないだけで気が狂いそうになっている自分は病気なのではとさえ思った。俺にはあんたしかいないのに。そうくちにしてしまいたい。その言葉で、優しい彼を縛ってしまいたかった。
「また来いよ、ぜったい。待ってるから」
「はい」
「俺もお盆には帰るし」
「……はい」
待ってます、と低い声で言う影山の唇を、菅原の人差し指がそっとなぞった。
「よし、えらい。いい子だ」
「……俺そんなガキじゃないです」
溶けそうに甘い声に、また駄々を捏ねたくなったけれど、唇を咬んでこらえる。菅原は意地悪そうに笑って、「知ってる」と言った。
「ほんと、しばらく見ないあいだに大人になったよな、影山も。なんかちょっとドキッとしちゃうくらい」
え? と彼の目を覘くと、菅原もまた影山の瞳を見つめ返した。
「大人、すか」
「そう。大人になったよ」
自覚などなかったため、彼に言われてもピンとこなかった。4月の身体測定で、去年より身長も体重も増えていた。けれど、改めて誰かに、「大人になった」と言われたことは、この時が初めてだった。
「中々会えないってさ、今までなかったから結構きついんだ。ほんとは、できれば今だって影山のこと帰したくないけど、ちょっとずつ大人ンなってくお前見てっと、俺も大人になんなきゃなって思うんだよ」
あー、ピーターパン症候群……、とぼやくので、なんスかそれ、と問うたら、「お前は知らなくていいよ」と誤魔化されてしまった。
ガキではないけど、俺はもう大人なのかな。菅原さんのがよっぽど大人って感じがするのに。
しくしくと胸が痛む。けれど、不安は少しだけ薄れていることに安心する。
「……さて。そろそろ行くべし」
菅原が立ち上がったため、影山も慌ててさほど中身のない鞄を肩に提げた。
◇
◇
最寄りの駅までの路を、手を繋いで歩く。夏至を過ぎてから少しずつ、暮れの早くなった空は、それでもまだ充分にあかるく、二人の影を静かに伸ばす。
「お前はこれからまだまだ、でっかくなってくんだろなー」
前会った時に比べて、少しだけ低い位置に菅原の顔がある。それで、影山は、自分の背がまた伸びていることを知った。
「前回よりお前のこと見上げてる気がする」
むかつくなあ、と笑いながら、菅原は影山の背中をばしんと叩いた。
彼の横顔を見つめる。繋いだ手に、ほんの少しだけちからをこめる。それに応えるように菅原は影山の手を握り返し、そこに熱がぽっ、と燈った。
――ああ、帰りたくない。
やはりそう思ってしまうのを、きっと、これから何回も繰り返すのだろう。菅原に会いに行くたび、その想いに翻弄される未来をたやすく想像できた。だって、今、すでにこんなにも苦しい。あわよくば彼を連れ去ってしまいたい、もう一度彼とバレーをしたい。
帰宅ラッシュのために混雑し始めた駅の券売機で、切符を買う。時計を見上げて、どちらからともなく指をほどいた。ためらいがちに冷えていく熱が恋しかった。
「帰ります」
と、影山は言った。
「おー。気をつけて帰れよ」
と、菅原は言った。
改札を抜けようとして、「あっ」と影山はからだをこちらに向け直した。
「――あの、菅原さん」
「うん?」
何人かのサラリーマンや女子高生が、二人を邪魔くさそうに見やったけれど、影山の眼中には菅原しかなかった。あんたしか見えない、そんなのはもうむかしっから。
「俺、大人になったら、菅原さんといっしょに住みたいです」
将来はバレーで食べていくのだという展望は幼い頃から持ち合わせていたけれど、大人になった自分を想像したことは、今までなかった。黙っていても成長していく身体。知らないあいだに伸びる身長。それが大人になるということだと、漠然と思っていた。
大人になったら、という言葉の重みを、今初めて、感じている。胸がすくような、心細い気持ちになる。けれど菅原さんといっしょに暮らせたら、それはほんとうに夢みたいに幸せだと、思った。
「そしたら毎日菅原さんの顔見てられる。俺、そんなのがいいです」
――そんなんで、よろしくおなしゃす!
ぽかん、とくちを開けていた菅原の顔がみるみる崩れ、やがて爆発したようにまっ赤に染まった。
「かっ、げやま……」
「菅原さん?!」
両手で顔を蓋い、膝から崩れ落ちてしまった菅原の反応に動揺した。
なんだそれぇ、という菅原の呻き声が喧騒のあいだから聞こえる。
「えっ、あの、すんません俺へんなこといって、」
「もーほんとやだおまえ……かっこよすぎだべや……」
「ええぇ?」
駅員が、訝しげに二人の様子を窺っているのがわかった。おろおろとしている影山の両手首を支えにからだを引っ張り上げ、けれど赤い顔は下に向けたまま、菅原は、
「うわ、俺いますげー幸せ。さびしいけど。すっげー幸せ」
プロポーズされちった、と笑う。プロポーズ。何も考えずに、思ったことを言っただけ、だったのに、冷静になってみるとたいへんなことを言ってしまった気がした。燃えるように頬が熱くなる。同じように顔を染めている菅原を直視できなくて、影山もまた視線を自分の足もとに落とした。自分のスニーカーと、彼のサンダル。
「だな、俺もそれがいい」
ほんとうに、それがいい。
「お互いにちゃんと大人になったら、いっしょに暮らそうな」
「……はい」
「風呂が広いとこがいいよな。お前、きっともっとでかくなるし」
「はい」
影山の乗るべき電車が、ホームに雪崩れ込んでくる。菅原が彼の手を離し、ゆっくりと顔を上げた。朱に染めた顔に笑みを浮かべて、片手を上げる。
「またな」
知らないサラリーマンと肩がぶつかる。からだを返し、改札に切符を通す。はい、また。咽から掠れた声が出た。唾を飲んで、息を吸って、息を吐く。心臓が痛い。
「また、来ます」
ほんとうの大人になるまで、この痛みは何度も繰り返すのだろう。
改札と、流れてくる他人に邪魔をされて、彼の顔は次第に見えなくなってしまったけれど、握られた手首はまだ熱く、彼の体温を感じた。
鼓膜に貼りついている、またな、と言う菅原の声を逃がしたくなくて、影山はそっと、両手で耳を塞いだ。
(2014.07.09)